理性の善意

文字数 1,426文字

桜が綺麗だ。辺りで踊り狂っている桜は満足そうに見えて、どこか悲しげな表情を浮かべている。それは正しく、死刑を言い渡され、それを理解しつつも受け入れきれない死刑囚の様子と酷似していた。
ゆっくりゆっくりとその体を動かしながら、ようやく天球へと辿り着こうとしている月は、ギラギラと私を照らしていた。いや、正確には雄大な月からすれば私のことなど眼中にないことは分かりきっていた。しかし、私にはあの月は私のみを照らしているように思えたのだ。
ここまで詩的な文を読んできた読者は私とは如何に高貴な人間だろうと思ったことだろう。しかし、その予想は全くもって間違っているのである。私は1ヶ月前、家を失った。職を失った。家族を失った。謂わば私はホームレスのようなものなのである。私の手には月光を反射して、灯りの点いていない街頭を照らしている一本の刃が握られている。そして私の目には至福の時を過ごす家族が映し出されている。私は今から彼らを殺すのだ。彼らを殺し、警察に捕まれば、私は間違いなく死刑になる。犯罪(特に殺人などの人命を奪う犯罪)の厳罰化が叫ばれるこの現代日本で5人もの命を奪えば私は確実に死刑となるだろう。
輪廻転生が存在するかなど仏にしかわからない。ただ、もし輪廻転生が存在するならば、何も知らない赤ん坊の状態で死にたいものだ。この世の穢れなど知らない、ただ産まれた時に見えた旭日だけが、産まれた時に聴こえた緑風の音だけが、産まれた時に嗅いだ病室の人工的な匂いと母の自然的な匂いが混ざり合った匂いだけが、来世の私の感じる感覚でありたい。それだけを見て、それだけを聴いて、それだけを嗅いで、何も考えぬままに死にたい。
標的の家族が床に就いた。私は決意を固めてグッと刃を標的に向ける。しかし、私の足はびくとも動かなかった。何故だ。私にはわからなかった。あの儚くその命を散らしていく桜のようになりたくないのか?否、私はもう死を望んでいる。希死念慮に取り憑かれた人間が、何故死を恐れる?死を望むのならば、死に向かって前進せねばなるまい。暫くして私は気づいた。これは善意というものか。私はほんの数時間だが、目の前の家族の幸せそうな団欒を目にしてしまった。もし私が彼らを殺せば、その団欒は永久に見れなくなるだろう。私の理性はどうやら死にたいという本能を雁字搦めにしているようだ。私の理性が私の決意を封じ込めている。私の決意はこのような理性如きに抑制されるほど弱いものだったのか?私は理性如きに行動を縛られる弱者だったのか?結局、数時間経っても私は行動を起こせなかった。
冷たい小夜風が私の頬を優しく撫でる。冷たい。なのに暖かい。私は自然と涙が溢れてきた。痛い。痛い。痛い。今まで感じたことのないような痛みだ。人間の痛覚はここまで敏感になれるのか。いや、私は嘘をついた。痛覚は全くの刺激を受けていない。なのに痛いのだ。私は胸をガッと掴んだ。気づけば力強く刃を握りしめていた手からは力がまるで魂が抜け落ちたかのように自然と奪われていた。私は声を上げて泣いた。もはやあの家族のことなど私にはどうでも良かった。とにかく泣いた。私は弱者だったのだ。僅かに聴こえていた風音も私の泣き声に掻き消される。気づいた時には私は近くにあった電話ボックスで警察へ自主していた。自主し終わった時、私はこれまで以上に泣いていた。太陽が昇る。東の果てから昇ってきたその光は世界全体を包み込むように照らしていた。
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