21 カラスと鳩とオリーブの葉

文字数 1,619文字

「なにはともあれ、よかったと言うべきね」
 秋晴れの空の下で、りべかは微笑した。
 あたしの親の裁判の結果についての感想を、彼女はさらりと、でも胸の深いところから出す声で、そのように語った。
 それは体育祭の日の朝で、あたしたちはなんとなく、いつもとは違う気分――平たく言えば、多少は浮かれた気持ち――で登校している最中だった。いまなら深刻にならずに話せるかもとあたしは思い、歩きながら、判決が出たことをりべかに伝えたのだった。
 薄青の空を彼女は見上げ、その横顔は、シットなんてする余地がないほどきれいだった。
 あたしは誇らしかった。
 この美しいりべかが、誰にも打ち明けられない悩みをあたしにだけは話してくれる。あたしは彼女の弱さを知っている。あたしは親友なんだ、と。

 判決で、母は彼女にとっての不都合な事実を受け入れざるを得なくなった。
 離婚は成立し、あたしの親権こそ母が持つことになったものの、養育費などの金銭的な条件は、裁判に至る前の調停で父の弁護士から提示されていたものより、はるかに低い額だった。
「それで、お母さんはどうしてる? だいじょうぶなの」
「さあ。あの人のことは、わかんないけど、でも今度のパート先は続いてる。自分でもまずいと思ったんでしょう、さすがに」
「容子は?」
「ん?」
「容子はだいじょうぶなの?」
 そんなふうに聞かれるなんて、思ってもみなかったから、あたしは一瞬、戸惑った。
「容子はいつも、人の心配ばかりして、自分は我慢しちゃうでしょ」
 りべかの口調はいつになく、恐いくらいに真剣だった。あたしはなんだか照れてしまって、「そうかな」と笑って見せた。
「ほら、そういうところだよ」
 なぜかりべかは、ちょっと怒ったように口元を引き締めた。そして、あたしの顔をのぞきこみ、念押しするように言ったのだ。
「もっと、ちゃんと、自分のことを大切にしていいんだからね」

 考えてみれば、あの日はそんなふうに、朝からおかしな歯車が回り始めていたのかもしれない。
 望月透が、りべかとはじめて聖書の話をしたのも、その日の、体育祭のどさくさのなかだった。
 望月は、クラスの応援席で、りべかの隣をキープしていた。
 騎馬戦の最中だったという。
 3人1組の馬が騎手役の1人を乗せ、それぞれに相手のチームの騎馬と帽子を取り合って、グラウンドは白熱していた。土埃が舞い、掛け声と歓声が巻き上がるその上を、一羽のくちばしの長い白い鳥が、悠然(ゆうぜん)と横切ったのだと、のちにりべかは話してくれた。
「その鳥はね、青空の低いあたりをゆっくりとはばたいて飛んでいったの。くちばしに、真っ赤な実のついた小枝をくわえていてね、空の青と、羽の白と、実の赤の3色が、それぞれ映えてとても美しかったのよ」と――。

 見惚(みほ)れていたりべかに、横で望月が言ったという。
「ノアの箱舟みたいだな」
 同じものを見ていたのかとりべかは驚き、半分はそれがうれしかった。だから、応えた。
「うん、鳩でオリーブの葉だったらカンペキね」
「そうなのか?」
 望月は食いついてきた。
「創世記で、ノアの洪水の話に出てくるのは、鳩よ。あ、ええと正確には、最初にノアが放したのはカラスで、2番目が鳩ね。それで、鳩も最初は手ぶらで帰ってきて、2回目にまた鳩を放した時に、くわえてきたのがオリーブの葉なの」
「へえ、赤い実じゃないんだな」
 間違いを指摘されたというのに、望月は楽しそうだった。
「そうだよ、けっこう勘違いされてるよね」
 りべかにとっても、なんとなく楽しいような、快さの残る会話だった。

 あたしたちにとって、聖書や教会は、もう特別なものではなくなっていた。8年も教会に通っていたのだから、むしろ身近なもののひとつだった。
 しかし望月はそのとき、りべかに近づく特別な手がかりをつかんだと、どうやら思ったようだった。
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