#5

文字数 1,596文字

 女にとっては小さな呟きで、そばに人がいたとしてもちゃんと聞き取れたかどうか。数十メートルは離れた場所で身を潜め、注意を向けていたのが異能を持つヌシの大蛇でなければ誰も耳にせず、問題にもならなかった言葉だ。
「女は死体をこんな所に運び、捨てながら、それが見つかるのを望むようなことを呟いているのです。死体を見つけて欲しければ、山に捨てるにしてももっと麓近くの山道上にすればいいはず。ここまで運んだとしても、山道に放置した方が発見の可能性は高くなります。山道も場所によっては沼を広く見下ろせる地点があるようですが、沼のそばを歩くだけでは死角になる水面もあり、発見されにくくなるのは確実です。この季節、キノコ狩りなどで山を登る者があると知っていたとしても、やはり腑に落ちません」
 ヌシの思考は筋が通っていた。岩永は豚汁を食べながら沼を、辺りを、怪火が照らす限りでうかがう。沼の水面は山道より低いので、のぞき込まないと見えない部分はあった。
 豚汁には厚めに切られたにんじんやごぼう、大根が入っており、よく味が染みている。昼に作ってしばらく寝かせていたからだろう。とはいえ、巨大な蛇に見下ろされながらなぜひとりで食べることになっているのだ、と岩永は腹立たしい。
 そうではあるが、自分がここに来た用件を疎かにはできない。
「一見すると犯人は不合理な行動を取っていますね」
 得たりとヌシは肯く。
「はい。まったくもって不可解です。ここまで人の足で上がってくるのは楽ではありません。死体を運んでいるのならなおいっそう。犯人は人間の女にしては大柄でしたが、それでもなぜわざわざこの沼に死体を捨てに来たか」
「時間も夜ですから、よほどの理由がなければここまで運んではこないでしょうね。犯人の女性の自供によると、工事現場などで廃材や土砂を運ぶのに使われる一輪車、猫車とも呼ばれるものに死体を載せて運んだそうですが、昼間の平地ならまだしも、夜の山道はかなり大変でしょう」
「ええ、女はそんな道具に灯火も載せて登ってきていましたな」
 犯人の自供がヌシによって正しいとまた裏づけられる。
 岩永はおにぎりを箸でつまんで上げた。
「ヌシ様の疑問はもっともですが、警察もそれを不審に思って犯人に尋ねています。なぜわざわざこの沼に死体を運んだのか、と。死体に重しをつけた形跡がなく、沼に沈めて隠す意図が見られないなら当然の追及です」
 警察もそれほど迂闊ではない。容疑者から自供が得られ、一定の証拠があったとしても事実関係に何か不審があれば確認を行うものだ。後々になってそれが重要な意味を持ち、裁判で検察側の不利に働くおそれもある。
 だから岩永はその警察の問いに犯人が答えたままをヌシに提示した。
「犯人、谷尾葵はこう答えたそうです。『あの沼には巨大な蛇が棲み、人を食べると聞いたことがあったので、死体を捨てればその大蛇が食べてくれると思った』と」
 ヌシは舌をちろりと振る。
 この自供は新聞にも取り上げられ、その非常識な死体遺棄の動機が世間を少しだけ騒がせたりしたのである。伝説の怪物に死体を処理してもらおうとは、と。
「この沼に水神の大蛇が棲むという話は地元に残っていますし、テレビで取り上げられたこともあるそうです。殺人を犯し、慌てた犯人は死体をなんとしても処理せねばとそんな異常な発想に至ったというわけです。ひょっとしたら犯人の谷尾葵は小さい頃にでも、ヌシ様の姿の一部でもどこかで見たのかもしれませんね。人食いの伝承も聞いていたんでしょう。そして藁にもすがる思いで死体を沼へ運んだ」
 この告白を聞いた警察は、なるほどと膝を打たなかったようだ。そんな伝説の大蛇を信じるわけもないだろう。ただ谷尾葵が本気でそう言っているようでもあり、精神鑑定は進めているらしい。裁判ともなればまず必要とされる手続きだ。
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登場人物紹介

岩永 琴子《いわながことこ》

西洋人形めいた美しい女性。だが、幼い顔立ちのため中学生くらいに見えることも。11歳のころに神隠しにあい、あやかし達に右眼と左足を奪われ一眼一足となることで、あやかし達の争いやもめ事の仲裁・解決、あらゆる相談を受ける『知恵の神』、人とあやかしの間をつなぐ巫女となった。15歳の時に九郎と出会い一目惚れし、強引に恋人関係となる。

桜川 九郎《さくらがわ くろう》

琴子同じ大学に通う大学院生。自らの命を懸けて未来を予言する「件《くだん》」と、食すと不死となる「人魚」の肉を、祖母によって食べさせられたため、未来をつかむ力と、死なない身体を持つ。あやかし達から見ると、九郎こそが怪異を超えた怪異であり恐れられている。恋人である琴子を冷たく扱っているように見えるが、彼なりに気遣っているのかもしれない。

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