第2話

文字数 3,485文字

 渡来(わたらい)の予言どおり、夕方近くになるとみるみるうちにあたりが暗くなり、突然、大粒の雨が降り出した。そのまえに乾いたシーツを取り込んでいたので、渡来の天気予報を聞いていてよかったと環はほっとした。せっかく干した大物が雨に降られるほど悲しいことはない。
 渡来は空模様が怪しくなるまえに帰っていった。環はそれからもうひと眠りして、仕事から帰ってくる母親と姉のために夕食の準備をはじめた。
 中学生の環は夏休みなので、勤め人の家族とは異なり時間の制約がない。それでもいちおう進学を控えた受験生ではあるのだが、本人も家族も、まるでその意識がない。至ってのんびりしている。
 どうやら母親は、環が元気で生きてさえいればあとはどうでもいいと考えているらしく、都は都で、衣食住を整えてくれて雑用に駆り出せる便利な弟が手許にいれば、進路などどうでもいいと思っているふしがある。環自身、未来に思いを馳せることが難しい。
 女手ひとつで都と環を育ててきた母親に代わり、小学生のころから家事をこなしてきた環は、学校で親しい友人などいたことがなく、ほとんど家のなかだけの小さな世界で生きている。家族以外では、渡来が唯一の近しい存在といえる。
 母親の仕事のために子ども服のモデルをしていたときの環はほとんど人形のようで、しゃべらないし笑わない、けれど妙にまっすぐにひとを見つめる癖のある、素直だが扱いにくい子どもだった。モデルをするのは好きでも嫌いでもなく、家で都に好き勝手に着せ替え人形にされるのと同じで、どうでもいいと思っていた。
 手を伸ばしたい未来がない。
 母親が気に病んでいる呪いなどは信じていないが、今より成長した自分の姿がまったく想像できなかった。

 *****

「ただいまー」
 先に帰宅したのは母親だった。
「すごい夕立ちだったわね。洗濯もの濡れなかった?」
「大丈夫。シーツも洗いたてだよ」
「あら嬉しい。持つべきものは気の利く息子ね」
 上機嫌で居間に入ってきた母親は、いったいなにが入っているのか、毎日やたらと大きな鞄を抱えて出勤していく。それをドサリと畳のうえに置くと、文字どおり肩の荷がおりたというように背伸びをした。
「今夜はカレーか。いいわね。毎日こうも暑いと、もういっそのこと、熱くて激辛のカレーでも食べて迎え撃つしかないわよね」
 母親のいうとおり、夕食はカレーである。このところさっぱりめの献立がつづいたので、たまにはと思ってカレーを煮込んだ。しかし、激辛ではない。
「わかってると思うけど、中辛だよ」
「あーもう、なんであんたたちは甘党なのよ」
 一ノ瀬家は母親だけが辛党で、都と環はどちらかといえば甘党だった。姉弟揃って辛いものは苦手なのだ。
「あ、食後に無花果(いちじく)があるよ。渡来さんが持ってきてくれた残りだけど」
「あら、初物ね。あんたまたお昼をご馳走になったの?」
「うん」
「いつも申し訳ないわね。ちゃんとお礼いった?」
「うん」
「あのひと、独特な雰囲気あるわよね。どんなに暑くても涼しい顔してしゅっとしてるし、なんていうか、ミステリアスで。都と同い年なんて信じられない」
 たしかに、渡来には不思議なところが多い。環が今までに見てきただれとも異なるし、うまくいえないけれど、まるで隙がない。隣で穏やかに笑っていても、その心の(うち)が少しもわからない。掴みどころがないと感じることがある。
「でも、やさしいよ」
環はつぶやく。
「わかってるわよ。べつに悪くいってるつもりはないわ。あんたのこと、よく気にかけてくれるし、ありがたいと思ってるのよ」
 とりなすようにいう母親に環はうなずく。以前から、母親は渡来に対して好意的だ。遠慮会釈(えんりょえしゃく)もない都とは違って。子どものころから友だちがいない環にとって、歳の離れたただひとりの同性の友人である。多少、風変わりなところがあろうと、環が懐いているならかまわないと考えているのだろう。
 そうこうするうちに都が帰ってきた。
「あーもう、暑い! なんなのこの暑さは。尋常じゃないわ」
 玄関のドアを開けた瞬間から賑やかな声が聞こえてくる。母親もよくしゃべるが、都はその比ではない。無口な環が黙っていてもふたりで勝手に盛りあがってくれるので気が楽だ。
 環は台所でとんかつを揚げていた。カレーの匂いにつられてやってきた都は呆れた声を出す。
「あんた、このくそ暑いのによく揚げものなんかする気になるわね」
「カツカレー、好きでしょ」
「好きだけど! 悪い?」
 暑い暑いとわめきながらもきっちりと化粧を施し、かっちりとしたスーツで完璧に武装した都は、弟の贔屓目(ひいきめ)を除いてもけっこうな美人である。
 母親は名を(かつら)というのだが、その名に(たが)わず、なかなかに長身ですらりとしている。母親の血を引く都にもその特徴ははっきりと現れており、一ノ瀬家の女性陣は、並の男たちよりは背が高い。いまだ成長期で小柄な環は常に見下ろされる立場にある。
 その体躯(たいく)で台所の入口に仁王立(におうだ)ちされては、背中越しでも落ち着かない。
「都ちゃん、先にお風呂入ってきなよ」
「なんでよ、あたしが臭いとでもいうわけ」
「汗臭くはないけど、香水つけすぎじゃない?」
「なんですって環のくせに!」
 突然背後から抱きつかれたあげく首を締めつけられる。
「ちょっと、危ないから」
「かわいくないわねあんた」
 とんかつを揚げながら格闘技に引きずりこまれてはたまらない。
「お母さん、都ちゃん連れていって」
 居間で涼んでいるはずの母親に助けを求める。呼ばれてやってきた母親は、帰宅早々、弟相手に技を決めている姉を見てため息をついた。
「なにやってるの都」
「だって環が生意気なんだもん」
「いいから離してあげなさい。ただでさえ暑いのに揚げものまでして、あげくあんたに抱きつかれたら環もう倒れるわよ」
「このくらいで倒れるなんてヤワな男じゃないでしょ」
 そういい返しながらも都は頭上から環の顔を覗き込んでくる。顔じゅう汗を流しながら鍋を見ている環の姿に、都はつかのま口を(つぐ)む。そうしておとなしく離れたと思ったら、なにを思ったのか冷凍庫を開けてアイスを持ってくる。都秘蔵のハーゲンダッツだ。
「あんたが倒れたらだれがあたしの世話をしてくれるのよ。とくべつに食べさせてあげるから、明日代わりのアイス買ってきてよ」
 いっていることがめちゃくちゃだ。
「今からご飯食べるのにアイスなんかいらないよ」
「そうよ、食後にしなさい。あ、デザートに無花果もあるそうよ。渡来さんからのいただきもので」
「はぁ? あいつまた来たの?」
 渡来の名前を聞いたとたん、都は戦闘態勢に入る。
「なに考えてんのあのロリコン野郎」
「都ちゃん」
「なんてこというの。それにロリコンって、小さい女の子を好きな人のことでしょ。環はこう見えて男だからロリコンじゃないわ」
 冷静に指摘する母親に、そもそもの問題はそこではないと環は思う。
「最初にあいつが環を見付けたとき、環ずっと女の子の格好してたじゃない。だからロリコンでいいのよ」
 よくはない。
「まえからずっといってるけど、渡来さん、いい人だよ」
 たまりかねて口を挟むと、鬼の形相(ぎょうそう)で睨みつけられる。
「なに呑気なこといってんの。あんたそのうちあいつに食われちゃうわよ!」
 まるで鬼か魔のような扱いである。どちらかといえば、今の都のほうがよっぽど鬼のようであるのだが。
「馬が合う合わないはあるにしても、都はちょっといい過ぎよ。渡来さんに失礼よ」
 母親の言葉に、都はぐっと拳を握る。
「あたしだって、理由もなくあいつを嫌ってるわけじゃない。あたしは逆に、なんでふたりとも平気であいつとつきあえるのかがわからない。あんなに……」
 はっきりしたものいいをする都には珍しく、そこで言葉を濁す。気になって、環は先をうながす。
「あんなに、なに?」
 そこでようやく気付く。
「都ちゃん、手」
「え」
 都の手のなかでハーゲンダッツが無残に潰れていた。破れた蓋の隙間から溶けたアイスがこぼれ落ちていく。
「あらやだ、もったいない」
 妙に現実的なことをいいながら母親はティッシュを持ってきて都に渡す。おとなしく受け取りながら、都は気を鎮めるようにゆっくりと息を吐いた。
「とにかく、あいつにはじゅうぶんに気を付けるのよ」
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