第1話

文字数 25,301文字

   一

 南仏アヴィニョンの旧市街は、中世に築かれた石造りの城壁に周りを囲まれている。
 城壁には街中に入るための門が幾つか設けられていて、その一つであるレピュブリック門を潜り、北へと真っ直ぐに伸びる大通りを突き当りまで進むと、時計台(オルロージュ)広場に出る。広場の西側には市庁舎や歌劇場が建ち並び、東側には飲食店やそのテラス席が並ぶ。広場の中央にはメリー・ゴー・ラウンドが鎮座しているが、その南側に、年末を控えたこの時季には、物売り小屋の一群が列をなす。どの小屋も、電飾で縁取りし、軒下の三角形の額部分にはモミの枝葉や玉でクリスマスの飾りを施している。
 この広場は、まさにこの町の中心で、季節を問わず多くの人々が行き交い、昼や夕方の食事時は言うに及ばず、それ以外の時間も屋内外のテーブルを囲んで酒や会話を楽しむ人々で賑わう。
 時計台広場の北側からは、細い通路がさらに先へと延びており、左右を建物に挟まれたその通路を進むと、ほどなく視界が再び開け、また別の広場が現れる。
 宮殿(パレ)広場と呼ばれるその広場の東縁には、ゴシック様式の巨大な建造物が圧倒的な重量感をもって屹立していて、かつてこの地にカトリックの教皇庁が置かれていたことを現在に証している。
 教皇庁というとローマのヴァチカンにあるそれが頭に浮かぶが、歴史を振り返れば、それ以外の場所にも教皇庁は存在していた。
 歴史を学ぶことが好きな人ならば、あるいは学生時代に受けた歴史の授業がまだ脳裏から消え去っていない人ならば、「教皇のバビロン捕囚」又は「アヴィニョン捕囚」と名付けられている出来事をご存知であろう。
 遥か十四世紀の昔、ローマ教皇を自己の影響下に置くことを意図したフランス王フィリップ四世の意向を受け入れ、ボルドー大司教から即位したフランス人教皇のクレメンス五世は、その座所をここアヴィニョンの地に置いた。以降約七十年間、七代の教皇が、アヴィニョンの地からカトリック教世界に君臨した。
 教皇座が置かれた、それも七代に亘って、ということであれば、そこには当然に教皇の政庁兼住居である教皇宮殿が造営されたわけで、現在ここに在るのがそれである。
 もっとも、この教皇宮殿は、多くのひとが「宮殿」と言われて連想するに違いない、太陽王ルイ十四世がベルサイユに造営した豪華絢爛な宮殿とは程遠い外観をしている。宮殿正面の石造りの高壁には、一面に尖塔アーチが刻まれており、中央上部は二つの小さな尖塔で飾られているものの、煌びやかな金銀の装飾は一切無く、ここはかつて城塞もしくは牢獄だったのだと言われた方が頷ける。
 強勢なフランス王の意に従い、ローマに赴くのをやめてアヴィニョンの地に留まり続けた教皇クレメンス五世とその後継者たちは、フランス王の翼下に在っては自衛の手段を講じなければならないと考えたのであろう。アヴィニョンの町を城壁で取り囲み、その中核たる教皇宮殿も防御性を考慮した城塞の如くに整備したため、このような外観になった。
 教皇宮殿のへ入館口になっているシャンポー門も、広場からは少し高い位置に設けてあり、門前の露台へは、北からは斜路を、南からは石段を登って行かなければならない構造になっている。
 この地方特有の強い北風・ミストラルが吹き荒れなければ、南仏の冬は比較的暖かく、クリスマスから新年に至るまでの休暇を利用して訪れる観光客が絶えることはない。二〇一五年の暮れまであと数日に差し迫った今日も、教皇宮殿の内部を見学しようという観光客たちが途切れることなく列をなし、入館口に向かって石段や斜路を登っていた。
 その石段・斜路の横壁を背に、広場に向かって、黒い厚手のコートに身を包んだ初老の男がひとり直立している。長身でがっちりとした体格。頭頂部は禿げ上がり、側頭部に残った髪や、口周りから顎に繋がる髭も、半ば以上が白い。
 男は、腹部の前で両手を組み、朗々と歌い上げていた。
 男の口から放たれる豊量の美声は、驚くほど広い範囲に広がり、広場に居合わせた観光客たちは、少し距離を取った位置で、男を半円形に囲むように立ち止まり、その歌声に聴き入っている。中には、カメラや携帯端末を掲げて、写真や動画を撮っている者もいる。
 男の歌声は、力強く、大らかに、その場を占めていた。
 男が一曲歌い終わって、次の歌に取り掛かろうとしたとき、一群の観客の中から、一人の小柄な女性が小走りに近づいて来た。外見で判断して、東洋からの観光客のようだ。
 男は、時折、東洋人の観光客からサインを求められるという経験を有していた。フランス国内でも名を知られた存在ではなく、ましてや国際的には全く無名の歌い手である自分のサインを欲しがる人間がいることが男には理解しがたいのだが、それを横に置くとしても、今のこの曲間ではサインをしたくないと思い、男は右の掌を女性に向けて、その動きを制した。
 女はそれを見て足を止め、戸惑いの表情を浮かべた。東洋人女性は若く見えることが多く、その年齢を当てるのは難しいが、三十歳代前半といったところだろうか。もしかすると三十歳代後半かもしれない。
 立ちすくむ女性の右手の親指と人差し指の間にユーロ紙幣が挟まれているのが目に入ったとき、男は自分の早合点に気付いた。自分にサインを求めるために近づいて来たのではなく、どうやら、ささやかな報酬を恵んでくれようとしているらしい。
 男は破顔し、おどけた仕草で、意図的に肩を大げさにすくめ、右手を優雅な所作で回して、自分の足下に置いてある裏返しの帽子を指し示した。
 それをきっかけに女性は硬直を解いて笑顔になり、男の許に歩み寄って来て、帽子の中に紙幣を入れた。
 顔を上げた女性に対して男が恭しく礼を施すと、女性は恥ずかしそうな表情を浮かべて小さく頭を下げ、身を翻して、元いた場所に向かって小走りに戻って行く。戻って行く先には、女性の夫と思われる小柄な東洋人の男性が立っていて、苦笑を浮かべていた。
 他の観客にとって、一連の様子は見ていて微笑ましいものだったらしく、その場を包む空気が少し温まったようだった。
 まるでリスのようだ、という印象を男は持った。小走りに近づき、チップを入れると小さく頭を下げて去っていった女性の仕草が、リスのそれを連想させた。そして、その連想は、男に昔の記憶を蘇えらせた。
 男は、数舜の間、追憶に彼方に赴いたが、すぐに此方に戻って来ると、新たな歌をうたい始めた。

   二

 その日の夕刻、男は、毎日の習慣に従って、帰宅前の一杯を引っ掛けるため、サリュス通りに在る小さなカフェ・バーに足を向けた。この辺りまで来ると観光客の姿を見ることはほとんどない。男の幼馴染が営んでいるこの店も、もっぱら地元住民を相手に商売をしている。
 男は、店の前まで来ると、入り口の木製の扉を押した。扉の上部に取り付けてある呼び鈴がカランと鳴って、客の到来を店内に告げる。
 店は、間口は狭いが奥行きがあって思いのほか広いのだが、それでもL字型のカウンターと、四人掛けのテーブルが三つあるだけの小さな店である。
 夕食の時間にはまだ早いため、若い男女ふたりが一番奥のテーブル席を占めているだけで、他に客はいない。
 男は、入口脇の外套掛けに脱いだコートと中折れ帽を預け、L字の底辺の位置にあるカウンター席に腰かけた。
 この店では、カウンターでは立ったまま飲食する形式を採っているのだが、そこは男の指定席のようになっていて、一つだけ椅子が置いてあるのだった。
「やあジャン、いらっしゃい」
 調理中のマスターが、手を止めずに、顔だけを男に向けて――ジャンに向けて、挨拶を言った。
 マスターの年齢はジャンと同じくらい。前から後へと撫でつけた頭髪は、全体的に白く薄くはなってはいるが、ジャンのように頭頂部が禿げあがってはいない。痩身を糊のきいた白いシャツと黒のベストで包み、首元には赤い蝶ネクタイを飾っている。
「いつものやつを一杯」
 ジャンが注文すると、マスターは心得て、調理の手を一時的に停め、カウンターの上に細身の寸胴グラスに置くと、天井から吊ってあるボトルを手に取ってパスティスを注ぎ、それを冷えた水で割って、ジャンの前にすっと差し出した。
 この酒――水で割ると琥珀色から乳白色に白濁するパスティスは、ジャンのみならず地元民が愛してやまない酒だ。
「お疲れさま。今日はどうだったね」
 調理に手を戻しながら、マスター――ジルが訊いた。
その質問に特段の意味はない。毎日のように繰り返す、お決まりの問い掛けだ。
 訊かれたほうも、今の季節であれば、「今日は肺が凍るほど風が冷たかったよ」とか、ごく稀に雪でも舞った日には「聴衆が少なくて困るよ」などと適当に言葉を返すのが常なのだった。
 しかし、この日のジャンの返事は、いつものそれとは違っていた。
「リスに出逢ったよ」
 グラスの中の白濁した液体を一口含み、美味そうな表情を見せてから、ジャンは勿体ぶった口調でそう答えた。
「何だって?」
 思いもかけない返事に、ジルが驚いて訊き返す。
「リスに出逢ったよ」
 ジャンは繰り返した。
「リス? この季節に? どこで?」
「教皇宮殿前の広場だよ」
 ジャンが澄まして答えると、ジルの顔に疑わし気な表情が浮かぶ。
「そりゃ本当かい? 何かの見間違いじゃないのかい?」
「いや、見間違いなんかじゃない」
「しかし、この季節、リスは冬眠しているだろう。そうでなくたって、観光客でごった返す宮殿広場でリスを見たなんて話は聞いたことがないよ」
「それがいたのさ」
 ジャンは意味ありげに笑うと、言葉を継いだ。
「もっとも、リスと言っても、ジルが想像しているようなリスじゃないがな」
「と言うと?」
 ジルが当惑の表情を浮かべる。
「人間の『リス』さ」
「人間のリスだって? 誰かが、リスの着ぐるみでも着て立っていたのかい?」
 ジルは興味を引かれたらしい。
「どういうことだか、教えておくれよ」
「いいとも」
 ジャンは頷き、
「だが、その前に手を動かしな」
と注意した。
 ジルの調理の手は、いつの間にか停まっていた。
「マスター、料理はまだ?」
 まるで見計らっていたかのように、料理の注文主であるテーブル席の男性客から声が掛かる。
「いまやってるよ! もう少し待って!」
 ジルは、必要以上に大きな声で応えると、再び手を動かし始めた。
 ジルが調理に専念する間、ジャンはグラスの中の液体をちびちびと啜り、黙って時間の流れに心身を委ねている。
 ジルは出来上がった料理をテーブル席に運び、客と二言三言言葉を交わした後で、カウンターの奥に戻って来た。
 ボトルを手に取り、ちょうど空になったところのジャンのグラスに、パスティスの二杯目を注ぐ。水で割って白濁した液体から、アニスの種子の甘い香りが漂った。
 ジャンは、グラスを口許に持っていき、酒の香りを楽しみつつ、再び口を開いた。
「お前さん、うちの女房のことは覚えているだろう?」
「もちろんだとも」
 ジルは、当然だというように大きく頷き、
「オレリーは、美人で、賢くて、しかも夫想いで。こう言っちゃなんだが、お前さんには過ぎた奥さんだったよ」
「言ってくれるよ――まあ、否定はしないがね」
「否定できないがね、の間違いだろう」
 ジルの遠慮のない指摘に、ジャンは肩をすくめた。
 ジルは一瞬可笑しそうな顔をしたが、すぐに笑みを引っ込め、
「もう何年になるかね、亡くなってから」
と声と視線を少し落として訊いた。
「女房が死んだのは俺がちょうど六十歳の時だったから、八年と少しになる」
 頭の中で計算してジャンが答え、それを聞いたジルが溜息をつく。
「もうそんなになるのかい。早いものだね」
「ああ。早いもんだ」
 ジャンは同意した。実際、長いようでいて短い年月だったと感じる。
「女房の葬儀の日は、ちょうどサルコジの大統領就任式の日だった。何だか街中が騒がしかったのを覚えているよ」
「そうだったかな? 街中の様子は覚えていないなあ――でも、葬儀は厳かで、慎み深くて、愛情に満ちたものだった。オレリーを主の御許にきちんと送り出してあげられたと思う」
 気持ちのこもったジルの言葉に、ジャンは黙って頷いた。ありがたい言葉だった。 
 それからジャンとジルは口を閉じ、少しの間それぞれの感慨に浸っていたが、その沈黙を破って、ジルがぼそっと言った。
「オレリーがこの町に来て、俺たちと出逢ったのは、もう半世紀も前ということだな」
「そんなになるかな」
「一九六六年だったよ。その年の初めに――一月か、二月だったと思うんだが、ソ連の無人探査機が初めて月面に到達したっていうんで、当時そのニュースにわくわくした気落ちになったから覚えているよ」
 ジルが自信ありげに胸を張った。
「あったな、そんな出来事が……」
 ジャンの方は、言われてみればといったところだ。
「その年の夏さ、たぶん七月だったよ、俺たちがオレリーに初めて出逢ったのは。俺は十九歳の誕生日が来る直前で、まだ十八歳だった」
 ジルが遠くを見つめるような目で言った。
「ということは、俺は十九歳になったばかりだったわけだ」
「覚えていないのか?」
「覚えていないよ、そんな昔の細かいことまで」
 ジャンはそう返したが、それは照れからくる嘘で、本当はもちろん覚えている。亡き愛妻と出逢った頃の事を忘れる筈がなかった。
「出遇った場所は、ドム公園だったよな?」
「そう、ドム公園だった」
 ジャンは肯首し、
「オレリーは、サン・ベネゼ橋を見下ろす場所で、風景のデッサン画を描いていた」
と言葉を継いだ。
 サン・ベネゼ橋は、「アヴィニョンの橋の上で」という童謡で広く世に知られている石造りのアーチ橋で、十二世紀の建設当時は二十二のアーチを持ちアヴィニョンの町からローヌ川対岸の町まで架かっていたが、十七世紀の洪水で一部損壊してからは完全には修復されることなく、現在は四つのアーチのみを残し、中洲のバルトゥラス島の手前で途切れたままになっている。
 教皇庁の北側の高台にあるロシェ・デ・ドム公園の北縁からは、そのサン・ベネゼ橋やローヌ川、バルトゥラス島の左岸、そしてフィリップ美男王の塔が屹立する対岸の町を見晴らすことができる。風景をデッサンするには最適の場所と言えた。
「ちゃんと覚えているじゃないか」
 ジルは、ジャンの小さな嘘を咎め、その後やや逡巡してから、
「――そのときのことなんだが、前々から引っ掛かっていることがあってね。いつか、お前さんに訊こうと思っていたんだ」
「何をだい?」
「俺たちは暇潰しに公園にでも行こうということになって、そこでオレリーと初めて出逢ったわけだが――」
「うむ」
「本当にそうだったのか?」
「というと?」
「あのとき、俺は、彼女の美しい後ろ姿を見つけて、無意識のうちに声を掛けた」
 ジルの台詞に、ジャンは思わず苦笑した。
 ジルには、美しい女性を見ると手当たり次第に声を掛ける癖がある。いや、癖というよりも、もはや慣習と言った方が良いだろう。日々の挨拶のようなものだ。若い頃から現在に至るまで、ずっとそれは変わらない。
 だからと言って、ジルが浮気性で女癖が悪い男とかというと、そんなことはない。むしろ、ジルを知る者に言わせれば、ジルほどの愛妻家は稀なのだった。
 オレリーに声を掛けたとき、ジルはその前年に十七歳で初めてできたガールフレンドと付き合っており、彼女との恋を大切に育もうとしていた。残念ながらその恋は実ることなく、ジルが十九歳のときに青春の痛みを心に刻んで終わったが、翌年に新たにできたガールフレンドとの恋は見事に成就させ、のちに妻となった彼女と現在も仲睦まじく暮らしている。
 それなのになぜ声を掛けるのかというと、美しい女性に声を掛けるのは男たるものの礼儀であり、義務だと信じているからだった。まるでイタリア男のようだと友人たちに揶揄われても、ジルの信念が変わることはなかった。
 声を掛けられた女性の方も、ジルの口調や表情から本気で口説こうとしているのではないことが明白なので、彼女たちの心に余裕が有るときならば愉し気に、心に余裕が無ければ煩い蝿を追い払うかのように、適当に対応する。
 半世紀前のオレリーはというと、ジルの声掛けに、眉根を寄せた険しい表情で振り返ったものの、二人を認めると、表情を緩めて「こんにちは」と短く挨拶を返してくれた。そのときの照れくさそうな、あるいは恥ずかしそうな、控え目な笑顔を、ジャンは今も鮮明に思い出すことができる。
「オレリーは挨拶を返してくれたけれど、それは俺たち二人に対してだったのかな?」
「他に誰かいたかな?」
「そういうことじゃない。つまり、俺たち二人に対してではなく、お前さんに対して――だったように思うんだよ」
 ジルはそう言うと、探るような目でジャンの顔を見た。
 ジャンは、一瞬、白を切ろうかと考えたが、やはり無理だろうと考え直した。
 そこで敢えてにやりと笑い、
「なかなか鋭い観察力を持っているじゃないか」
とジルを褒めてやった。
「やはりな」
 ジルは納得したとばかりに頷いた。
「お前さんがオレリーと出逢ったのは、あのときが最初じゃなかったわけだ。お前さんと彼女は、それ以前からの知り合いだった。そういうことだったのだろう?」
 ジルの追撃を受けたジャンは、パスティスを一口含んでから、
「知り合いというほどのものではなかったんだ。顔を合わせたことがあったという程度さ」
「いつ、知り合った?」
「その前日さ。俺がオレリーと初めて顔を合わせたのは」
 ジルが黙って顎をしゃくり、ジャンに話の先を促す。
「その日、つまり公園で俺たちが二人揃って初めて彼女と出遇った日の前日のことだが、俺は、初めて教皇宮殿前の広場で歌をうたった。いま毎日やっているのと同じように、広場を訪れる人々の前で初めて歌をうたったんだ」
 ジャンは、そのときの緊張感を今も覚えている。ジャンの歌うたいとしての人生が始まった日だった。
「――だが、何しろ初めてのことだったものだから、緊張で身体が細かく震えていた。きっと、そのせいで声も硬くて、震えていたと思う。うまく歌えているとは、到底言えたものではなかった。当然のことながら、広場にいた人たちも俺の前を横目で見て素通りして行くばかりで、立ち止まって歌を聴いてくれたのは、ほんの二、三人だけという有り様だった」
「その二、三人のうちの一人が、彼女だったということか」
 ジルが勘良く指摘する。
「そうだ」
ジャン大きくは頷いた。
「そして、三十分ばかりかけて、どうにかその日に予定していた数曲を歌い終えたとき、彼女は俺の帽子にチップを入れてくれた。その日、チップをくれたのは彼女だけだったよ。つまり、彼女は、俺の最初のお客さんだったのさ。」
 ジャンの脳裏に、そのときの様子が鮮やかに蘇る。
 歌い終わって、聴いてくれていたわずかな数の客たちが、形ばかりの拍手をしてどこかへ去ったあとに、一人の若い女性が居残っていた。綿の半袖シャツにジーンズという装いのすらりとした躰。光沢のある明るい金髪に、澄んだ碧の瞳、細く形の良い鼻、白い頬に、薄紅色の小さな唇。
 彼女は、立ち残ったままで、何かを決断すべきかどうかを迷っている様子だったが、やがて小走りにジャンに近づいて来た。うつむき加減で、ジャンの顔を見ようとしない風だった。
 ジャンの足下に置いてある裏返しの帽子の中に少額の紙幣を入れると、一瞬だけ顔を上げ、その明眸でジャンを捉えると、
「素敵だったわ」
と消え入りそうな小声で一言告げ、身を翻して小走りに去って行った。
 ジャンの心臓の鼓動が大きく跳ねた。そして、止まない鼓動を自覚しながら、しばらく茫然として、去りゆく彼女の後ろ姿を見送っていた――。
「――ジャン?」
 ジルに呼びかけられ、過去から現世に魂を戻したジャンは、パスティスを一口舐めて話を続けた。
「なあ、リスに餌をやると、小走りに近づいて来て、手許の餌を取るやいなや、身を翻してまた小走りに逃げていくだろう?」
「ああ」
「チップをくれたときのオレリーの仕草は、それを連想させるものだった。そして、今日、それと似たような仕草で、俺にチップをくれた東洋人の女性がいたんだよ」
「なるほど。それで、今日、リスに出逢ったと言ったんだな」
「そうなんだ」
「その東洋人の女性はオレリーに似ていたのかい?」
 ジルの問いに、ジャンは首を横に振った。
「いや、容姿のことではなくて、あくまでも仕草の話だ。仕草が似ていて、オレリーのことを連想させたんだ」
「なるほど、リスのことは分かった」
 ジルは合点がいった顔で頷くと、話を戻した。
「それで、半世紀前のオレリーのことについてだが――」
「俺とお前さんの二人でオレリーに出遇ったのは、宮殿広場での出逢いの翌日のことだったから、俺の顔を覚えていてくれていたんだろうよ。それだけのことさ」
 ジャンは、ジルに皆まで言わせず、答えた。
「それだけのこと?」
「それだけのことさ」
「それだけじゃ、ないだろう?」
 ジルが意味ありげに言う。
「それだけのことだよ」
 とぼけ顔のジャンに対して、ジルはにやりとして、
「いや、それだけではない筈だ」
と断じた。
 ジルの目に、好奇の色が濃くなる。
「お前さん、そのときオレリーに一目惚れしたんじゃないのかい? 違うかい?」
 ジルは追及をやめない。探るようにジャンの顔を凝視する。
 追い詰められたジャンは、苦笑しながら頭をゆっくりと振り、降参とばかりに両手を上げた。
「やれやれ、お前さんとはガキの頃からの長い付き合いだが、お前さんがこんなにも鋭敏な男だったとは知らなかったよ」
 ジャンは、グラスに残ったパスティスを一気に呷ると、小さく息を吐いた。
「白状するよ。お前さんの言うとおりさ。俺は、広場でチップをくれた彼女に一目惚れした」
ぶっきら棒な口調であったが、それでも、いやそれが故に却って、ジャンの照れが顕かだった。
「やはりな」
 ジルは大きく頷くと、両手を広げて大仰な仕草で、
「見抜いていたのか〝愛(アモール)〟は わが無防備を、両眼から心臓へと突き抜ける大事な路が筒抜けと」
と詠い上げた。
 ジャンは、瞬時呆気にとられ、次いで可笑しみが込み上げてきて思わずパスティスを吹き出しそうになった。
「突然に、一体どうしたというんだ」
「ペトラルカの詩の一節だよ。お前さん、確か、学生時代に勉強していただろう?」
「ペトラルカの詩の一節だというのは分かっているよ。それを突然に詠ったりして、一体どうしたっていうんだ? お前さんは、ペトラルカにも、詩にも、全く興味なんてないだろう?」
「うちのカミさんが、いま凝っているんだよ、愛の詩とやらに」
 ジルは、うんざりとした表情と口調で言う。
「アール劇場前のペトラマル庭園に、毎週水曜日になるといそいそと出かけて行くんだ。そこで開かれる『愛の詩を詠む会』とやらに参加しているんだとさ」
「へえ、そうなのか」
 この町に教皇庁が置かれていた中世の昔に、桂冠詩人ペトラルカが運命の想い人であるラウラを見初めた場所が聖クレア教会であり、現在はその跡にアール劇場が建っている。それに因んで、詩を嗜む町の女性たちが定期的に集まって詩作や朗読に興じているという話は、ジャンも聞いたことがあった。
「高尚な趣味じゃないか」
 ジャンはジルの妻の趣味の良さを褒めたが、ジルの心はすでに元の地点に戻っていて、
「オレリーがお前さんの無防備な心を一発で射抜いたのは明らかだが……きっと、オレリーの方も、お前さんに一目惚れだったんだろうなあ」
としみじみと言った。
 その言葉に、ジャンは面食らった。そんなことは考えてみたこともなかったのだ。
「なぜ、そう思う?」
 驚き顔で問うジャンに対して、ジルは鈍い奴だなと言いたげな表情をした。
「なぜ? 単純な話さ」
 ジルは、謎解きを披露する名探偵のように、ジャンに対して説き始める。
「オレリーは、美人だったから自ずと周囲の視線を集めるようなところがあったけれど、本人は、人目に立つようなことは好まなかったし、誰とでも仲良くなるという風ではなかった。男どもがちやほやしても、まるで関心がなさそうで、無視していたというか、超然としていたというか……」
ジャンは頷いた。確かにその通りだった。
「それなのに、宮殿広場では、たった一人だけ、お前さんの許にチップに恵みに来たんだろう? そして、翌日のドム公園では、笑顔を見せてお前さんに挨拶を返した。わかりやすい話じゃないか」
「……」
 ジルの謎解きを聞いても、妻が自分に一目惚れしていたのかどうか、ジャンには判断がつかなかった。
 言われてみるとそうだったのかもしれないという気もするが、違っているような気もする。現在はもちろんのこと、若い頃も、自分が女性に一目惚れされるような容姿をしていたとは到底思えない。
「それにさ、オレリーはお前さんを選んだんだぜ。天才アベル・ヴィヴィエよりも!」
 ジルは、ジャンのかつての恋敵の名を挙げて、これぞ決定的証拠とばかりに宣った。
かつて、オレリーがアベル・ヴィヴィエを振ったという噂が、この町の若者たちの話題をさらったことがあった。当時は若者であったジルも、もちろんそれを耳にしていたのだった。
「……」
 ジャン何も言わずに空になったグラスを置き、それにジルが三杯目のパスティスを注ぐ。
「知っているかい? 天才――いや、今や巨匠といった方が良いかな。その巨匠アベル・ヴィヴィエは、来月、ウィーンの国立歌劇場で、自分が作曲した新作オペラを、自ら指揮して初演するらしいぜ」
 そのことは、フランスの音楽界において現在最も関心を集めている話題であり、ジャンも当然知っていた。
 余程の自信があるからこそ、ウィーン国立歌劇場で初演するのだろう。そしてウィーンでの成功を引っ提げて、次はパリで意気揚々と凱旋公演するつもりに違いないと噂されていた。
 ジャンはそれを耳にしたとき、素直に感嘆した。大したものだと思った。自分には辿りつけない場所だった。しかし、ジャンには、それを羨む気持ちは微塵もない。ジャンにはジャンの立つべき場所があるからだ。
「良い気分だろう? 当時から天才の誉れが高かったアベルではなく、お前さんを選んだんだぜ、オレリーは」
 揶揄うように、ジルが言う。
 ジャンは黙して答えない。答えようがなかったからだ。
 しばらく待ってもジャンが何も言わないので、ジルは、面白くなさ気に肩をすくめると、自分用のパスティスを作って一口含んだ。
「青春だったよなあ」
ジルが、香気を吐きながら、感慨深げに呟く。
「青春だった」
 ジャンも、寂しげな微笑みを浮かべて、同意する。
 今はもう遠い昔のことになってしまった。
 オレリー――愛する妻も、既に主の御許に召されている。
 ジャンとジルの間のやり取りが途切れ、テーブル席の若い男女の会話が流れてくる。あちらは、青春の真只中に生きている者たちの会話だ。活気と希望と可能性に満ちている。
「お前さんが、この年齢になっても、毎日欠かさず宮殿広場で歌い続けているのは、出逢いの時の思い出を大切にしているからなのかい?」
 ジルが遠慮がちに訊く。
「それもあるが……約束なんだよ、女房との」
 ジャンは答えた。
「毎日あの広場で歌うと、そう約束したんだ」
 その約束は、実は二度交わされたものだ。一度目は四十八年前で、二度目は八年前のことだ。
 ジルがさらに何か言おうと口を開きかけた時、 カランという音を響かせて、新来の客が店に入ってきた。それも二組も。
 テーブル席がすべて埋まった。
 そろそろ、この町の人々が夕食を摂る時間が来たようだ。
「今日はここまでだな」
 ジャンは、グラスを一気に空けると、カウンターに飲み代を置いて、腰を上げた。
「気を付けて帰りなよ」
 ジルが、いつものとおりに気遣ってくれる。
「ああ、ありがとうよ」
 ジャンは、コートを羽織ると、ジルに対して後ろ手に右手を振って別れを告げた。
店を出た途端に冷気が身体を襲ってきて、ジャンはコートの襟を立てた。
 ゆったりとした足取りで家路につく。
 路地の両脇に建ち並ぶ家々の隙間から覗く空は、もうすっかり暗闇に変じていた。

   三

 夏の夕刻。
 まだ高い位置にある太陽が、アヴィニョンの町を照りつけている。
 サン・ベネゼ橋の欄干に手を添え、ジャンとオレリーは肩を並べて佇んでいた。
 出逢って二年。徐々に、こうして二人で過ごす時間が増えていた。
 川面を吹き渡る風が、身体を撫でて行くのが心地良い。
「エクスでの生活に期待している?」
 去り行くローヌ川の水の流れから、オレリーの横顔に視線を移して、ジャンが訊いた。
 オレリーは、昨月末にこの町の美術学校を卒業した。来月からは、エクス・アン・プロヴァンスにある高等美術学校に進学することが決まっていた。
 そのことを聞いた日から、ジャンの心の中では寂寥感が広がっている。時には眠れない夜を過ごすこともあった。ただ、オレリーと会うときは、その寂しさが顔に出ることがないように抑え込んでいた。彼女に無用の気遣いをさせたくはなかった。
「ええ、もちろん」
 オレリーの返事は明るい。
「エクスにはこれまで行ったことがないから、どんな町か楽しみだし、そこで始まる新しい生活にも期待しているわ」
「エクスの高等美術学校で学べば、君の絵の才能もさらに開花するに違いないよ」
「そうかしら」
「そうとも。僕と違って、君は優秀なんだから」
 ジャンは、昨年、パリ国立高等音楽・舞踊学校を受験したが、合格することができなかった。そのことを引き合いに出してオレリーを褒めたジャンの口調や表情には、翳りや皮肉っぽさは微塵も無い。純粋に、オレリーを持ち上げている。
「私が優秀かどうかは疑問だわ。ただ絵を描くのが好きなだけ。エクスの学校に行くのは私の我儘」
 そう答えるオレリーの顔に、一瞬、申し訳なさそうな表情が浮かんだ。
 ジャンはそれに気付かずに続ける。
「新しい友達もできるよ」
「そうね。でも、私は人見知りだから……」
 オレリーは自嘲気味に笑い、
「とりあえず、女子寮で同じ部屋になる人たちと仲良くならないとね」
「寮は、一部屋に何人なの?」
「三人。三人で一部屋」
「一部屋に、うら若き女性が三人か……」
 ジャンは、その様子を想像した。
「賑やかそうだなあ」
「楽しい時間を過ごすことができれば良いなと願っているわ――でも、ジャン、女性は皆お喋りだ、と考えるのは女性に対する偏見ね」
 オレリーは、形のよい細い眉の片方を上げて、咎めるように言う。もちろん、本気で咎めているわけではない。
「これは失礼」
 ジャンは、両手を軽く上げて、すぐに降参の意を示した。
「これからは改めるように」
 教師が学生に対するように言って、オレリーはくすりと笑った。
 その笑顔を綺麗だと思い、愛おしいと思う。
 他愛のない、そして居心地の良い、ふたりの時間が、永遠に続けば良いのにと思う。
ジャンは胸が締め付けられるような痛みを覚えた。その所為であろうか――
「もうすぐ行ってしまうんだね」
 決して言うまいと思っていた言葉を、ジャンは思わず口にしてしまった。
「ごめん。つまらないことを言った。君の将来がさらに拓けようとしているときに」 
 自分が口にした言葉に狼狽し慌てて謝ったジャンを、オレリーは横目で見て、落ち着いた口調で訊く。
「……寂しいと思ってくれる?」
「もちろんだよ」
 ジャンは、強く肯定した。
「そう。ありがとう――でも、どうして寂しいと思ってくれるの?」
「え? どうしてって……」
 思いがけない問いかけに、ジャンは言葉に詰まった。
 仲の良い友人として当然のことじゃないかと言うべきであろうか。それとも――。
 オレリーは視線を正面に戻し、さらに川面に落として静かに言った。
「この前――一昨日の水曜日のことなのだけれど、私、告白されたの。付き合ってほしいって」
 ジャンは、絶句した。 思いもかけないことだった。
 一瞬立ち眩みがして、橋の欄干を強く握った。
 誰に告白されたのだろうか? 尋ねたかったが、あまりのことに声が出ない。
 それを察してか、オレリーが言葉を継いだ。
「相手はアベルよ。アベルから告白されたの」
 ジャンの脳裏に、アベル・ヴィヴィエの端正な顔立ちが浮かんだ。
 アベルは、この町の生まれ育ちで、ジャンとは同い年だ。それほど親しい付き合いはないが、一応は幼馴染の一人と言って良い。
 アベルも、ジャンと同様に、音楽の世界で生きることを志し――アベルは作曲、ジャンは声楽という分野の違いはあったが――昨年、パリ国立高等音楽・舞踊学校を受験した。
 結果はというと、不合格だったジャンとは対照的に、アベルは見事合格を果たした。その上、入学早々に担当教授から出された課題に応えて作曲した作品が高い評価を受け、入学して一年も経ないうちに、学校内だけでなく、パリの音楽界からも、将来の活躍を嘱望される存在になっているという噂を、ジャンは耳にしていた。この町アヴィニョンの出身で、パリ国立高等音楽・舞踊学校の作曲科教授に就任したばかりのオリヴィエ・メシアンには、特に目をかけられているという。
 前途洋々たるアベルと、最終的に地元の大学に入って文学を学んでいるジャンとでは、その境遇に大きな違いが生じていた。
「彼は、いまパリにいるのでは?」
 ジャンは、絞り出すようにしてようやく言葉を発した。
「夏期休校を利用して、この町に戻って来ているの」
 町に戻って来ているなら耳に入りそうなものだったが、ジャンは知らなかった。
「君は、アベルと以前から親しかったの?」
 訊かずにはいられなかった。これまで、オレリーの口からアベルの話が出たことはほとんど無かった。乾いた紙に落とされた水滴が黒く染みて拡がっていくように、ジャンの心中に不安と恐れが拡がっていく。
 オレリーは、ゆっくりと首を横に振った。
「近所に住んでいることもあって、比較的話をする機会があった相手ではあるけれど、それも挨拶程度のことよ――そうね、せいぜい顔見知りの一人といったところかしら」
 ジャンは、頭の中で町の地図を広げ、オレリーとアベルの双方の家の位置を確認した。言われてみれば、確かに両者の家は近い。
「もう少し詳しく話してくれないか」
 ジャンに請われて、オレリーが説明を始めた。
「さっきも言ったとおり、夏期休校を利用して、今週の初めに、アベルはパリから帰って来ていたらしいのだけれど、木曜日にタンチュリエ通りで、彼とばったり遇ったの」
 タンチュリエ通りは、水路沿いに延びている通りで、脇を流れる水路には水車が掛かり、昔ながらの石畳の路面にも風情があって、オレリーのお気に入りの場所だということは、ジャンも知っていた。その場所でデッサン画を描くことが度々あるらしい。
「アベルから誘われて、久しぶりだったし、時間に余裕もあったから、近くのカフェで会話をしたの。お互いの近況とか、他愛もない世間話よ」
 オレリーは、風で前に流れてきた金色の長い髪を、左手の指先で耳の後ろに掻き上げた。白い頬が露わになる。
「一時間ほど話をして、席を立とうとしたときに、突然、アベルが言ったの。付き合ってほしいって」
「アベルは、以前から君に好意を抱いていたということ?」
「そう言われたわ。以前から私に好意を持っていたって。付き合ってほしいって」
「――何と返事をしたの?」
 ジャンは、胸が張り裂けそうな気持で、恐る恐る訊いた。
 オレリーは、その問いに答えずに続けた。
「来年辺り、パリに来ないかとも言われたわ。パリの高等美術学校に来れば良いって。パリに来れば、将来の可能性も広がる。私ならきっと入学試験に合格するだろうし、自分もできる範囲で助けになるって」
「――何と返事をしたの?」
 ジャンは、不安と恐れによる胸中の染みが一層拡がるのを感じつつ重ねて尋ね、オレリーの表情を窺った。
 オレリーは、何も言わずに黙って川面を見つめている。
 ジャンは答えをただ待って、オレリーの横顔を見続けた。
 オレリーの横顔の向こうには、川の対岸に向かって延びているサン・ベネゼ橋と、その目指す先であるヴィルヌーヴ=レザヴィニョン(アヴィニョンの新しい町)の一角に直立するフィリップ美男王の塔が垣間見える。サン・ベネゼ橋の途切れた先端と、バルトゥラス島の左岸との間には、滔々と川水が流れている。
 ジャンには、それがオレリーと自分との絆が断ち切られる未来の象徴のように思えた。あるいはまた、現在はまだ繋がっていないオレリーの手が、今後アベルに向かって伸びていく未来を示しているように思えた。
 川水が流れ去って行く音だけがやけに大きく聴こえる時間がしばらく続いたあと、沈黙を破ってオレリーがジャンに再び問うた。
「どうして寂しいと思ってくれるの?」
 川面を見つめたまま、抑えた口調での静かな問いかけだった。
 ジャンはようやくオレリーの心情を理解した。そして直感的に悟った。
 ここは、羞恥も、見栄も、意地も、すべてを払いのけて、ありのままに自分の気持ちを吐露しなければならないときであると。
 愛を後回しにはできない。先送りにすれば愛は死んでしまう。
 ジャンは意を決した。深く息を吸い込むと、腹に力を込めて答える。
「それは、君に会えなくなるから――これまでのように君に会えなくなるから」
 オレリーは、川面を見つめたまま黙っている。風が彼女の髪を弄ぶ。
 ジャンは一呼吸おくと、胸中からせり上がってくる熱く烈しい想いを、言葉に載せて一気呵成に告げた。
「僕は君が好きだ。ずっと君が好きだった。きっと前から気付いてくれていたとは思うけれど――もしかすると気付いてくれていなかったのかもしれないけれど――初めて出逢ったときから、宮殿広場で君が僕の歌を褒めてくれたあの日から、ずっと好きだったんだ。僕と付き合ってくれないか」
 オレリーの白珠のような頬に朱が差し、口許がわずかに綻んだように見えた。
 しばらく間を置いてから、オレリーは口を開いた。
「私は空を飛びたいとは思わない――そう言ったわ。それがアベルへの返事」
 オレリーらしい言葉だった。オレリーらしい比喩であり、彼女の生き方がそこに顕れている。
 ジャンはその言葉に心から安堵した。素直に喜色を顔に浮かべたが、しかし、それはすぐに不安そうな表情に取って替わった。
「僕への返事は?」
 ジャンは、再び心が押し潰されていくような気持ちになりながら、恐る恐る訊いた。
 オレリーは、川面から視線を上げると、身体を半転させて、ジャンに向き直った。オレリーの碧い瞳が、ジャンの顔を正視する。オレリーの眼差しは優しかった。
「ジャンは、毎日、教皇宮殿前の広場で歌っているわよね」
「え?――うん、歌っているよ」
 告白への返事ではなく、またも質問が来たことに当惑しながら、ジャンが答える。
「毎日欠かさず?」
「正確に言うと、傘を差しながら歌うわけにはいかないから、雨や雪の日は歌っていない。もちろん、ミストラルが吹き荒れる日も」
「雨や雪やミストラルが吹く日以外は、毎日?」
「今の時季、夏の演劇祭のときも宮殿前の広場では歌ってない。広場が演劇祭の会場になってしまうから」
 ジャンの生真面目すぎる回答を、オレリーもまた生真面目に受け止め、
「それ以外は、毎日?」
と確かめるように重ねて訊く。
「毎日。それ以外は、毎日歌っているよ」
 ジャンは胸を張って明言した。
「暑くても、寒くても?」
「暑くても、寒くても――君と出逢ったあの日からずっと」
 オレリーの眼差しが一層優しくなった。
「それなら、これからも――雨や雪やミストラルが吹き荒れる日や、演劇祭のとき以外は――毎日歌い続けて」
 そう言うオレリーの右手が伸びて、ジャンの頬にそっと触れる。
「三年後、私がこの町に戻って来る日まで」
「……オレリー」
 ジャンは、自身の左頬に添えられたオレリーの右手の上に、自分の左手を重ねた。
「君は、エクスの学校を出たら、この町に戻って来るつもりでいるの?」
「戻って来るわ」
 オレリーは、静かに、だが力強く断言した。彼女の明眸には強い意志の光が宿っている。
それを認めたジャンも心を決めた。
「わかった。毎日歌い続けるよ。君が戻って来るその日まで」
「約束よ」
「約束する」
 それが、四十八年前に、ジャンがオレリーと交わした最初の約束だった。

   四

 家の中をざっと片付け、身支度を済ませると、食卓の上の写真立ての中で微笑む亡妻に「行ってくるよ」と声を掛けて、ジャンは家を出た。
昨日と同じく、黒い厚手のコートに身を包んでいる。
 路地に出て見上げると、両脇に建ち並ぶ家々の間から覗く空は、一点の雲もなく青く澄んでいて、そのぶん空気は冷たかった。
 コートの色に合わせた黒い中折れ帽を頭に乗せ、いつものとおり、いつもの時間に、いつもの場所で歌うために、ジャンは歩を進める。
 昨夜、帰宅してすぐに娘から連絡があり、今日は孫娘を連れて見に来るという。エクス・アン・プロヴァンスに住む娘一家は、二カ月に一度の頻度でやって来て、必ずその日の晩は泊まっていく。仕事の都合さえ付けば、娘の夫も一緒にやって来るのだが、今日は娘と孫娘の二人だけらしい。
 教皇庁前の宮殿広場に足を向けながら、ジャンは八年前の病院での妻との会話を思い出していた。
 病院のベッドに身体を横たえていたオレリーは、重ねた年齢の分だけ、髪は白くなり、肌も乾いていたが、美しさはまだ彼女の許を去っていなかった。
 ジャンは、ベッド横に置かれた丸椅子に座り、オレリーの手に自分の手を重ねていた。
 暇潰しに点けていた病室のテレビで音楽特別番組が始まり、パリのオペラ座の壮麗な建物が映し出された。続いて画面はオペラ座の内部へと移り、シャンパン・グラスを手に貴賓席に収まっている大統領夫妻や、着飾った夫人を同伴している各界の大人物たちを、ゆっくりと流し撮りに映していく。
 やがて、その中に知った顔を見つけ、ジャンはオレリーに告げた。
「ほら、アベル・ヴィヴィエだよ」
 オレリーは、テレビ画面のジャンが指さす所に、アベルの姿を認めて頷いた。
 黒のタキシードで正装したアベルは、その整った顔に年齢相応の風格を加え、まるでどこかの大貴族のように見えた。その隣の席を占めているアベルの妻と思われる女性も、髪を結い上げ、華美な衣装に身を包んで、貴婦人のごとく上品な笑みを浮かべている。
 テレビの音声は、アベルの作曲による室内楽の新曲が、まもなく開演するコンサートの中で披露される予定であることを告げていた。
「もしも、昔、君がアベルの求愛に応えていたら、今日アベルの横にいるのは君だったかもしれないよ」
 ジャンが揶揄い半分にそう言うと、オレリーは可笑しそうに笑った。
「そうならなくて良かったわ」
 そして肩を竦めて言う。
「コンサートに行くだけで、あんな風に着飾って、心にもない美辞麗句を交わさないといけないなんて、想像するだけでもぞっとするもの」
 オレリーは、穏やかに、しかしきっぱりとそう言い切ったあとで、逆にジャンに問い返した。
「あなたはどう? オペラ座の舞台に立ちたい? テレビの音楽番組で取り上げられてみたい? アベルのようになりたい?」
「いいや」
 自分を見つめるオレリーに向かって、ジャンは首を大きくゆっくりと横に振った。
「アベルのように、なんてとんでもない。君に振られてしまう!」
 ジャンは茶目っ気たっぷりにそう言って大笑いした。
 オレリーも、手を口許に当てて愉しそうに笑う。
 ひとしきり笑い合った後で、ジャンは真顔に戻って付け加えた。
「音楽番組に出たいとも思わないし、オペラ座で歌いたいとも思わないよ。私が立つべき舞台は、この町の教皇宮殿前の広場さ。昔も、今も、そしてこれからもね」
「そのとおりよ」
 オレリーは、夫と自分の意見の一致に満足げに頷いた。
「宮殿広場は、パリのオペラ座に勝る舞台よ。模造物なんかではない本物の歴史的遺産を背景に、あなたの歌声に心惹かれた人たちに向かって歌えるんだから。あなたが立つべき最高の舞台だわ」
 まもなく、テレビでコンサートの演奏が始まった。
 ちらりと映ったホール客席の様子から察するに、コンサートは仰々しく着飾った客たちで満席のようだ。
「まるで孔雀の群れだな」
 ジャンが冷徹に評した。
「アベルは可哀想ね。この中に、アベルの曲を聴きたいという、純粋にただそれだけの目的で来ている人が、何人いるのかしら……」
 オレリーは声を落としてそう言うと、リモコンを操作してテレビのチャンネルを変えた。
 やがて、夜が更け、面会人は病院から退出しなければならない時間が来たとき、オレリーは、ジャンに向かって毎日必ず口にする台詞を言った。
「気を付けて帰ってね。それから、明日もちゃんと歌ってね」
 ジャンは、オレリーが約束通り三年でエクス・アン・プロヴァンスからこの町に戻って来たのちも、ずっと宮殿広場で歌い続けていた。定年を迎える前のまだ町の信用金庫に勤めていた頃は、平日は昼休みに歌っていた。
 オレリーは、自分の看病のためにそれが中断することを望まず、これまで通り歌い続けることをジャンに求めていた。
「わかっている」
 ジャンは頷いた。
「昨日も歌ったし、今日も歌った。明日も歌うよ」
 オレリーは微笑んだ。そして、
「あれから四十年になるわね」
と独り言のように呟くと、さりげなく付け加えた。
「あと十年。あなたが七十歳になるまでは歌い続けてね」
 それが二度目の約束で、オレリーはその半月後に主の御許に旅立った。ジャン、娘のリゼットとその夫、まもなく二歳になろうとしていた孫娘アリスの家族四人が見守る中で、オレリーは安らかに逝った。
 この二度目の約束を果たすため、ジャンはあと二年ほど歌い続けなければならない。しかし、もしもこの約束がなかったら、自分はどうなっていただろうとジャンは自問することがある。
 最愛のオレリーが天に召されたとき、ジャンは、自分が自分ではなくなったような気がした。自分の魂も、半分天に召されたような気がした。
 朝ベッドの上でひとり目覚めた瞬間から、時間だけが以前と変わらず規則正しく粛々と刻まれていく。
 毎日歌をうたうというオレリーとの約束が無かったら、為すべきことが無かったら、自分の心はきっと、時間という名の鋭利なナイフに切り刻まれていたことだろう、とジャンは思う。
 宮殿広場に着いて所定の位置に立つと、ジャンは被っていた帽子を脱ぎ、裏返して足下に置いた。腹部の前で両手を組み、声の調子を整えてから、広場の空間に向かって深々と一礼すると、最初の曲を歌い始めた。
 広場に、艶のある朗々とした美声が広がっていく。ジャンの歌声が、空間に染みるように広がって行く。
 その歌声に惹かれ、広場を行き交う人々が、一人、また一人と立ち止まり、適度な距離を保って、ジャンの歌声に耳を傾け始める。その人数は、二曲目、三曲目へと進むにつれて増えていく。
 互いに感想を囁きあいながら聴き入る老婦人たち。
 ステッキに体重を預け、じっと耳を傾ける老人。
 目を閉じて歌声に感じ入っている若い男性。
 微笑みを浮かべ、見守るような眼差しを向ける貴婦人。
 外套のポケットに手を突っ込み、睨み付けるような表情で聴く中年男。
 肩を寄せ合って聴き入っている若い恋人たち。
 両親に手を繋がれて立っている、まだ足元が覚束ない小さな女の子。
 携帯端末で撮影する若者たち。
 胸の前で掌を合わせて潤んだ瞳を向けている女性。
 昨日の東洋人女性とその夫らしき男性の姿もある。
 ジャンを半円形に取り巻くように厚い人垣ができていた。年末の寒風が時折吹き抜ける広場で、その一団の辺りだけが暖かな空気に包まれているかのような――。
 ジャンは予定していた全ての曲を歌い終えると、右手を胸に添えて深々とお辞儀をした。
 観客たちから、拍手が起こり、称賛の声が上がり、口笛が鳴る。
 それがしばらく続いた後、人垣が崩れはじめ、一人、また一人と、ジャンの許に歩み寄って来ては、帽子の中に硬貨や紙幣を入れていく。ジャンは何度も礼を繰り返した。
 やがて観客たちが霧散すると、最後に、他の人々がいなくなるのを待ち構えていた十歳くらいの女の子が、ジャンの許に、跳ねるように走って近づいて来た。そして、帽子の中に二十ユーロ紙幣を一枚入れる。本日の最高額だ。
「今日も良くできましたって」
 顔を上げ、無垢な笑顔でそう言ったのは、ジャンの孫娘のアリスだ。
「ママがそう言ったのかい?」
「うん!」
 ジャンは、アリスの背後に視線を遣った。離れた場所に立っていた娘のリゼットがゆっくりと歩み寄って来るのが見える。
 亡きオレリーも、かつてはジャンの歌をしばしば聴きに来てくれていた。聴衆の人垣の後ろに控えめに立ち、歌い終わって他の人々が散り去ったあとに、優しく温かい微笑みを浮かべながら歩み寄って来たものだった。
 今、歩み来る娘リゼットが浮かべている微笑みは、亡き妻にそっくりだ。
 ジャンは、孫娘のアリスに視線を戻し、軽い口調で訊いてみた。
「アリスはどう思った? 今日の爺の歌はどうだった?」
「そうね――とても良かったと思うわ」
 アリスは、ちょっと首を傾けてみせてから、ませた口調で答えた。
「わたしはお爺ちゃんの歌が好き。ここで歌っているお爺ちゃんが大好き」
物怖じせず、心に思ったことを素直に口にする子だと知っているので、
「ありがとうよ。アリスにそう言ってもらえると、爺はとても嬉しいよ」
とジャンも自分の気持ちを素直に言葉にして返した。
 アリスは満足そうに大きく頷くと、
「お爺ちゃんは、毎日ここで歌っているんでしょう?」
「うん、そうだよ」
「これからも、ずっと歌い続けてね」
「もちろんだよ」
 何気なく返事を返したジャンに、アリスは念を押すように言う。
「ずっとよ?」
「え?」
 ジャンは、不意打ちを食らった気分で、思わず訊き返した。
「ずっと、かい?」
「そう、ずっとよ」
 アリスは平然として言う。
 これはまたオレリーのようなことを言うものだな、とジャンは苦笑した。
「ずっとっていうのは、いつまでのことなんだい?」
 二年後か、三年後か、あるいは五年後か――ジャンはその程度の返事を予想していたのだが、それは外れた。
「神様に召されるまでよ、もちろん」
 アリスは、事もなげにそう答えた。
ふたりのすぐ傍まで来ていたリゼットが、慌てて口を挟もうとした。リゼットは、父母の間の約束事を知っている。それもあって慌てて介入しようとしたのだが、ジャンは右手を上げて娘を制した。
 ジャンとしては、アリスの言葉に驚きはしたが、気分を害したわけではなかった。一時の驚きが去ると、むしろ愉快な気分が胸の奥から込み上げてきた。
 これはきっと、亡き妻オレリーが、孫娘の口を借りて自分に対して求めているに違いない、とジャンは思った。
 死ぬまで歌い続けて――オレリーはそれを希望している。
そう言って背中を押してくれている。
 いや、もしかすると、意外と我儘で強引なところがあるオレリーのことだから、死ぬまで歌い続けなさいと命じているのかもしれない。いや、きっとそれに違いない。
 ジャンは、そう思うと可笑しくなり、ついに堪え切れずに哄笑した。
 ややあって、どうにか笑いを収めたジャンは、その様子を不思議そうに見ている孫娘に対して、笑ったことを謝った上で、意識的に真剣な表情を作り、
「わかった。死ぬまでここで歌い続けるよ。約束する」
と力強く宣言した。これで三度目の約束だ。
 アリスが大満足の表情を浮かべた一方で、娘のリゼットは渋い顔をした。
「そんな約束をして……。お父さんも、もういい歳なのよ。歌っている最中に倒れでもしたらどうするつもりなの?」
 娘の心配は当然だし、有り難くもあったが、
「それも良いさ」
とジャンは軽快な口調で答えた。
 不意に、学生時代に学んだ詩人ペトラルカの詩片の一節が心に浮かんだ。

 わが〝魂(たま)〟よ 感謝しなければならぬ
 あの時 かかる栄誉に浴せしを。

 かのひとから生まれる 愛の想い、
 その想いに従えば 諸人の欲するものに
 目もくれず 至上の幸(さち)へと君招く

 女人より出(いず)る 高貴溢れる優美
 正しい細道(こみち)を通り行き 君を天上に導く、
 さればこそ希望に満ち われ誇らしげに歩む

 この広場で歌をうたうことで、オレリーに出逢い、愛を知り、かけがえのない家族を得た。
歌を聴いてくれた大勢の人たちに人生を支えてもらった。
 確かに、ここは終生立ち続けるべき最高の舞台だ。
 俺は幸せ者だ――ジャンはその思いを噛みしめながら、リゼットに言い聞かせるように反問した。
「仮に――仮にだが、ここで歌っている最中に倒れて、そのまま天に居ます主の許に召されたとして――オレリーが待っている場所に召されたとして――それが父さんにとって不幸なことだと思うかい?」
 リゼットは、しばらくじっと父親の顔を見つめていたが、やがて半ば呆れ、半ば諦めた表情で、大きな吐息をついた。
 理解してくれたことに、ジャンは安堵し、表情を緩めた。
「お爺ちゃん、お腹空いた!」
 アリスが、ジャンの顔を見上げて、元気よく言う。
 ジャンは、足下の帽子を回収すると、孫娘に向かってにっこりと笑った。
「よし! それじゃ、ジルの店に行って、何か美味しいものを食べよう!」
 夕食には少し早いが、店は開いている時間だ。リゼットやアリスのために、ジルは喜んで料理の腕を振るってくれるだろう。
「うん! 行こう!」
 アリスが嬉しそうに応え、ジャンとリゼットの手を取り、早く行こうとばかりに引っ張る。
「そんなに急がないの!」
 リゼットが注意しても、もうアリスの耳には入らない。アリスは二人の手を曳いて歩き出す。
楽し気な顔で孫娘に従いながら、ジャンは、広場の上の黄昏ゆく空を仰ぎ見た。
 美味いものを食べてまた明日だ、と心の中で告げる。
オレリーが笑顔で頷いているのが見えた気がした。





   余話

 私が、アベル・ヴィヴィエにそのインタビューをする機会を得たのは、二〇一六年六月のことだった。
 彼と私は仕事を通じて既に十年以上の親交があったが、その頃は互いに多忙で、年に一度会う機会が持てれば良いほうだった。
 その年の一月、彼は、ウィーン国立歌劇場で自分が作曲した新作オペラを自らの指揮で披露し、大好評を得た。その余勢を駆って、五月にはパリのオペラ・バスティーユで凱旋公演を行い、当然のことながらそこでも絶賛を以って迎えられた。
 その直後に行われたインタビューは、音楽業界誌からの依頼を受けて行ったもので、翌月に掲載された私の記事は読者諸氏の関心に十分に応えるものであったと自負している。
 今ここに記すのは、そのインタビューの終了後に、リッツ・パリのバーで一杯やりながら彼が語ってくれた話で、それは音楽評論家の私にではなく、長年の友である私に対して、友人間の話として語ってくれたことであったから、基本的に公表するつもりはなかった。その考えに今も変わりはなく、あと十年は活躍を見せてくれるに違いない彼の生前には、決して公表するつもりはない。
 しかし、彼といえども永遠の命を与えられているわけではない。彼が天に召されてのち、十何年あるいは何十年か経って、二十世紀から二十一世紀に跨る音楽界の巨人アベル・ヴィヴィエを研究する者が、幸運に恵まれてこの記録を発見するに至ったときに、ほんの少しばかり興味深い逸話を提供することは悪いことではあるまい。

 端緒は、アベル・ヴィヴィエが私に、二〇一五年の暮れにアヴィニョンに帰郷したのだと言ったことだった。翌月のウィーン公演を控えて、静かな時間を持ちたいと望んだ彼は、妻を先にウィーンに送り出し、周囲の誰にも知らせずに密かに帰郷したという。
 夫と死別した姉が一人で暮らす実家に帰り着き、何の知らせもなく弟が帰郷したことに驚く姉と再会を喜ぶ抱擁を交わし、必要最低限の荷物を詰めてきた手提げ鞄を部屋の隅に置くと、アベルは夕食の準備が整うまでの時間つぶしのために散歩に出た。
 勝手を知る故郷の町ことなので、どこをどう行こうと道に迷うことはない。気の向くままにそぞろ歩きをしているうちに、教皇宮殿前の広場に行き着いた。アベルは、そこで人垣が出来ているのを発見し、その一番後ろに立った。人垣のわずかな隙間から覗き込むと、宮殿入り口の露台の壁を背にして、黒いコートに身を包んだ初老の男が朗々たる歌声を響かせている。
「それが、乾地に雨が浸みるがごとく心に沁みてくる良い歌声でね。この思いがけない遭遇に、私は驚き、喜び、しばし彼の歌に聴き入ったよ――だが、本当の驚きは後からやって来た」
 アベルは、最初のうち、歌っている男が旧知の人物だとは分からなかったらしい。
「何しろ五十年振り……いやもっとかな。とにかくずっと以前に会ったきりだったんだ。分からなかったといって、誰も私を非難することはできないよ」
 アベルによると、そのうた歌いの男と最後に会ったのは、パリ国立高等音楽・舞踊学校を受験したときだという。作曲と声楽だから科目は違ったが、同じ年に受験したらしい。
「受験の直前に街中で彼を見かけたんだが、声を掛けても上の空でね。私に気付かない風だった。てっきり受験の重圧に圧し潰されそうになっているのだろうと思っていたんだが――」
 試験結果が発表された後に、再び街で見かけたときには、受験前とは打って変わって迷いが吹っ切れたような晴れ晴れとした表情をしていたという。そのときは分からなかったが、後年になってアベルはその理由に思い至った。
「彼は、このアヴィニョンの町を出てパリに行くことについて迷いを持っていたんだ」
 音楽の世界で生きることを目指す若者にとって、パリ国立高等音楽・舞踊学校への道を行くべきか否かを迷う必要なぞ無いはずだ。行くべきに決まっている。私がそう指摘すると、アベルは目をやや伏せ、それからゆっくりと首を横に振った。
「彼は、恋をしていたんだよ。パリに行くとなれば、恋の相手から離れることになる。ゆえに彼は悩み、受験に失敗したことで吹っ切れたわけだ――もしかすると、故意に失敗したのかもしれん」
 そう言ったアベルの口調には苦いものが混じっていた。
 それを感じ取った私は、そういうことかと合点した。彼もまた恋をしていたのだ。相手はおそらく同じ女性だろう。
「パリで現在(いま)につながる栄光の門が私の前で開いたとき、私は当時想っていた女性に愛を告白した。だが、彼女にはあっさりと拒絶されたよ。俺と一緒に空を飛ぶ気はないってね」
 アベルにとって、その失恋は生涯最大の、もしかすると生涯唯一の挫折なのかもしれない。そう考えていると、アベルは話を続けた。
「奴は――」
 代名詞が「彼」から「奴」に変わった。
「奴は、一片の苦も、一片の迷いも、一片の不満も無い、晴れやかな表情で歌っていた。奴は、すべてに恵まれ、満ち足りて、歌っていた」
 ここで一拍置いて、アベルは言葉を継いだ。
「足を止めて奴の歌を聴いている観光客たちも皆、幸せそうな顔をしていた。
互いに感想を囁きあいながら聴き入る老婦人たち。
ステッキに体重を預け、じっと耳を傾ける老男性。
目を閉じて感じ入っている若い男性。
微笑みを浮かべ、見守るような眼差しを向ける貴婦人風の女性。
睨み付けるような表情で真剣に聴く中年男。
肩を寄せ合って聴き入っている若い恋人たち。
両親に手を繋がれて立っている、まだ足元が覚束ない小さな女の子」
 ここまで一気に言うと、アベルは深いため息をついた。
「皆、奴の歌を嬉しそうに、楽しそうに、幸せそうに、聴いていた。自身の心を奴の歌で満たしていた」
 アベルの顔に濃い翳りが落ちていた。
 私は、心の裡で先程の考えを訂正した。アベルの挫折は、若き日の失恋だけでは済まなかったらしい……。
「そのうち、私は、人垣の後ろで、小さな娘と手を繋いで歌を聴いている若い女性がいることに気付いた。その横顔を見て、私ははっとしたよ。胸を突かれた。かつての彼女――私が愛を告白した彼女によく似た面差しがそこにあった。彼女がその場にいると一瞬思ったほどだ。その女性は、奴を慈しむような目で見て、奴の歌を幸せそうに聴いていたよ」
 男の歌のプログラムが終了する直前に、アベルは人垣からそっと離れたという。歌い終わった男への聴衆の賛美の拍手や歓声や口笛を背中に聞きながら……。

 私は、しばらく間、話し終えたアベルに対してかける言葉を見つけることができなかった。
 我が国の、いやヨーロッパ音楽界の頂点に君臨する帝王アベルも無敵ではなかったということか。
 恋に破れ、音楽の面でも……。
 いや――そうではあるまい。そんなことはあるまい。
 大地を踏みしめて歩む人生もあれば、天を舞う人生もある筈だ。
 大地から響く音楽もあれば、天から降り注ぐ音楽もある筈だ。
 私は、自らの気分を立て直し、灰色の脳細胞を強引に働かせることによってようやく生み出した提案をアベルにぶつけた。
 来年、アヴィニョン演劇祭で演(や)らないか――と。
 その年はもう夏が目前に迫っていて時間的に無理だが、翌年なら可能だと私は考えたのだ。
 次は、アヴィニョンの地に屹立する男に、天上の王アベルの実力を見せつけてやる番だと思ったのだ。
 アベルは、驚いて目を大きく見開いた。だが、すぐに真剣な顔で考え込み、やがて不敵な笑みを浮かべると、高らかに宣言したものだ。
「演(や)ろう。アヴィニョンで演(や)ろう――オペラだ! 新作オペラを書きおろすぞ!」

 翌年のアヴィニョン演劇祭で、中世の桂冠詩人ペトラルカとその永遠の想い人ラウラに題を採った新作オペラが上演されることに決まった。登場人物それぞれの性格と感情の起伏を音楽で完璧に表現したその作品は、アベルの代表作の一つに挙げられる。
 演劇祭の初日、作品はアベル自身の指揮で初披露された。アベルは楽しんでいた。あんなにも楽しそうに指揮棒を振るアベルを、私は初めて見た。彼の地の聴衆から万雷の拍手と歓声を以って称賛されたことは、周知のとおりである。
 そのときのアベルの嬉しそうな顔を、私は生涯忘れることができないだろう。

                               (了)



ペトラルカのソネットは、ペトラルカ「カンツォニエーレ ―俗事詩片―」(池田廉訳 名古屋大学出版会一九九二年)のソネット三及びソネット十三より引用

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