第2話 可視光線
文字数 1,936文字
朝の憂鬱を映し出すように、数本に渡る電線が空のひっかき傷のように見えた。眺めながら、大学の正門に辿り着く。
門を潜り、円形の段々になった足場を抜けると、植樹された木々が私を迎えた。それらはケヤキやポプラの木だった。その内の一つに、私はもたれ掛かる。ヤマアラシの毛並みを思わせる樹皮だった。
芝の感触がお尻にある。中庭に人はいない。だけど隣には千影がいた。ショルダーバッグから文庫本を取り出し、講義が始まるまでの暇潰しを始める。
「なに読んでるの?」隣から声がする。もっとも視線を上げたところで、そこには誰もいない。
「『可視光線』だよ、少し前に流行ったでしょ」
「『蟹工船』だよね」
「可視光線みたいな見た目の癖に」
「誰が可視光線だって?」
彼女は本当に、床や壁に投影された光 のような存在だった。
「こうしていると、自然と一体化した気分になるよね」
半分芝に寝そべる私を見て、千影は言う。
「本当に一体化していると思う、あなたの場合」
芝の中に彼女の身体と思しき部分がある。服装は上下ともに白かった。それでも存在自体が希薄で、多分、私以外の誰にも見つけられない。
しばらくして立ち上り、私は講義に向かった。彼女と話してからだと、不思議と足が軽い。だけど、そんなことを彼女は知らない。
脇に生えた雑草が風に揺れる度、隣り合う葉と葉が合わさっていた。それはまるで、私に拍手を送っているかのような光景だった。「ちゃんと講義に行けて偉い」
それから私は講義を終え、同じアパートに住む友人の中間と食堂で食事を摂ることにした。彼は釣り用のフィッシングベストを羽織っていた。だけど、私の知る限りで、彼が釣りに行くことはない。気付きに押され、そのことを指摘した。
「釣りもしないのに、どうしてそんな恰好をしてるの?」
「別にゴルフウェアを着るのはゴルフに行く人間だけじゃないだろ」
彼はアルバイトの日々に疲れているのか、「二次元の世界に行きたい」が最近の口癖だった。その例がごく身近にいることを彼はまだ知らない。
それから、スプーンでビーンズカレーのビーンズの部分を取り除きながら、彼は更に言葉を重ねた。
「日本最古のカレーにはカエルが入っていたらしい」
「食事中なんだけど」
「その食事にカエルが入ってたんだよ、いいだろ、カエル」
食欲より眠気が勝るのか、彼はスプーンで口を塞ぐようにして欠伸 をした。
「いい加減、同居人の先輩と会わせてくれよ、家にはいるんだろ」
「それは無理」
彼を適当にあしらう。私はビーンズカレーを食べ終えると、先の中庭へ向かった。
中庭の一点で足を止める。千影は大学の一棟の外壁にへばりつき一体になっていた。
私が戻るまで、彼女がなにをしていたのか分からないけど、そのくす玉を割ろうという気にはならなかった。
「帰ろう」と彼女に向かって言う。それにしても、私はまだアパートへ越したばかりだったので、その言葉を口にすると、どこか身体が浮いたような感覚になる。特定の相手がいるとなれば、殊更に。
街には多くの雑居ビルが建ち並んでいた。階段や坂の多い作りのためか、それと同時に接骨院や整形外科も多い。
脇目を振り続けながら、歩き続ける。すると、千影が言った。
「私の散歩コースを通って帰りましょう、あんたに縦横無尽の本当の意味を教えてあげる」
「それは構わないけど、
「善処するわ」
「その言葉って、返事と呼んでいいの? 私には認められないけど」
「あんたが認めなくても、広辞苑が認めてるから」
そう吐き捨てると、彼女は近くの民家の外壁を伝って屋根に上った。水平移動しか行えない彼女は、しかし、すいすいと泳ぐように移動を行う。
「それのどこが、善処なの?」
「ほら、そこの塀を上ればいいのよ」
彼女の言葉に従い、私は同じ民家の前に備えられた塀を上った。庭に固まって薪が積まれている。その断面はどこかチャイニーズチェッカーを思わせた。
「ここは今、空き家だから問題ないの」
やがて、私も空き家の屋上に足を乗せた。私はすっかり腰が引けていた。別に高所が怖いわけじゃない。
人目は怖かった。
「腰 が引けてるわよ」彼女は言う。
「拳 は出そうだけど」私は答える。
そんな風に、屋根を伝ったり、壁を上り下りしながら、私達はアパートへ帰った。そのことに彼女が喜びを感じているかは分からないけど、少なくとも私にとっては結構悪くない瞬間だった。
アパートの駐車場を通り掛かった時、どうしてそんなことをしたのか、と千影に訊ねた。どうして普通の道を辿らなかったのだと。
すると、彼女はいつものように地面と同化しながら言った。
「よく分からない、ただ、あんたにも知ってもらいたかったの、私がいつも見ている景色を」
門を潜り、円形の段々になった足場を抜けると、植樹された木々が私を迎えた。それらはケヤキやポプラの木だった。その内の一つに、私はもたれ掛かる。ヤマアラシの毛並みを思わせる樹皮だった。
芝の感触がお尻にある。中庭に人はいない。だけど隣には千影がいた。ショルダーバッグから文庫本を取り出し、講義が始まるまでの暇潰しを始める。
「なに読んでるの?」隣から声がする。もっとも視線を上げたところで、そこには誰もいない。
「『可視光線』だよ、少し前に流行ったでしょ」
「『蟹工船』だよね」
「可視光線みたいな見た目の癖に」
「誰が可視光線だって?」
彼女は本当に、床や壁に投影された
「こうしていると、自然と一体化した気分になるよね」
半分芝に寝そべる私を見て、千影は言う。
「本当に一体化していると思う、あなたの場合」
芝の中に彼女の身体と思しき部分がある。服装は上下ともに白かった。それでも存在自体が希薄で、多分、私以外の誰にも見つけられない。
しばらくして立ち上り、私は講義に向かった。彼女と話してからだと、不思議と足が軽い。だけど、そんなことを彼女は知らない。
脇に生えた雑草が風に揺れる度、隣り合う葉と葉が合わさっていた。それはまるで、私に拍手を送っているかのような光景だった。「ちゃんと講義に行けて偉い」
それから私は講義を終え、同じアパートに住む友人の中間と食堂で食事を摂ることにした。彼は釣り用のフィッシングベストを羽織っていた。だけど、私の知る限りで、彼が釣りに行くことはない。気付きに押され、そのことを指摘した。
「釣りもしないのに、どうしてそんな恰好をしてるの?」
「別にゴルフウェアを着るのはゴルフに行く人間だけじゃないだろ」
彼はアルバイトの日々に疲れているのか、「二次元の世界に行きたい」が最近の口癖だった。その例がごく身近にいることを彼はまだ知らない。
それから、スプーンでビーンズカレーのビーンズの部分を取り除きながら、彼は更に言葉を重ねた。
「日本最古のカレーにはカエルが入っていたらしい」
「食事中なんだけど」
「その食事にカエルが入ってたんだよ、いいだろ、カエル」
食欲より眠気が勝るのか、彼はスプーンで口を塞ぐようにして
「いい加減、同居人の先輩と会わせてくれよ、家にはいるんだろ」
「それは無理」
彼を適当にあしらう。私はビーンズカレーを食べ終えると、先の中庭へ向かった。
中庭の一点で足を止める。千影は大学の一棟の外壁にへばりつき一体になっていた。
私が戻るまで、彼女がなにをしていたのか分からないけど、そのくす玉を割ろうという気にはならなかった。
「帰ろう」と彼女に向かって言う。それにしても、私はまだアパートへ越したばかりだったので、その言葉を口にすると、どこか身体が浮いたような感覚になる。特定の相手がいるとなれば、殊更に。
街には多くの雑居ビルが建ち並んでいた。階段や坂の多い作りのためか、それと同時に接骨院や整形外科も多い。
脇目を振り続けながら、歩き続ける。すると、千影が言った。
「私の散歩コースを通って帰りましょう、あんたに縦横無尽の本当の意味を教えてあげる」
「それは構わないけど、
常人
にも通れる道にしてね」「善処するわ」
「その言葉って、返事と呼んでいいの? 私には認められないけど」
「あんたが認めなくても、広辞苑が認めてるから」
そう吐き捨てると、彼女は近くの民家の外壁を伝って屋根に上った。水平移動しか行えない彼女は、しかし、すいすいと泳ぐように移動を行う。
「それのどこが、善処なの?」
「ほら、そこの塀を上ればいいのよ」
彼女の言葉に従い、私は同じ民家の前に備えられた塀を上った。庭に固まって薪が積まれている。その断面はどこかチャイニーズチェッカーを思わせた。
「ここは今、空き家だから問題ないの」
やがて、私も空き家の屋上に足を乗せた。私はすっかり腰が引けていた。別に高所が怖いわけじゃない。
人目は怖かった。
「
「
そんな風に、屋根を伝ったり、壁を上り下りしながら、私達はアパートへ帰った。そのことに彼女が喜びを感じているかは分からないけど、少なくとも私にとっては結構悪くない瞬間だった。
アパートの駐車場を通り掛かった時、どうしてそんなことをしたのか、と千影に訊ねた。どうして普通の道を辿らなかったのだと。
すると、彼女はいつものように地面と同化しながら言った。
「よく分からない、ただ、あんたにも知ってもらいたかったの、私がいつも見ている景色を」