ロッシュ限界を超えた夜
文字数 4,769文字
月が落ちていく。
猛スピードで地球へ近づく月を、誰かと2人、浮遊する身体で眺めている。
すぐ隣に居る金髪の女性が、僕には誰だかわからなかった。だけど何となく予想はつく。僕らを取り巻くバニラの匂いには、心当たりがあったから。
月が地球へ衝突する──恐ろしくも神秘的なその光景に、僕は思わず息を飲んだ。隣の君は瞳を輝かせてはしゃいでいる。
砕けて粉々になった月の破片。それらに飲まれる既の所で──僕はベッドから飛び起きた。
喉はからからに乾いている。汗でTシャツが貼りつき、身体がやけに怠く感じた。
硬直した身体をほぐすように、湿気のこもった生温い空気を、まずは胸いっぱいに吸い込む。脳に酸素が行き渡るのを感じると、今度はそれを残らず吐き出した。
スマホに手を伸ばし、その眩しさに思わず顔をしかめる。目を細めてなんとか確認すると、日を跨いで2時間ほどが経っていた。
──行かなきゃ。
温くなったミネラルウォーターを一気に飲み干し、僕はベランダへと赴く。
窓を開ければ、心地の良い夜風と一緒に嗅ぎ慣れた煙草の匂いが立ち込める。
「やぁ。今日はどんな夢を見たの」
非常の際は、ここを破って隣戸へ避難して下さい。
そんな注意書きが記された頼りない仕切りの向こうから、少年みたいにハスキーな女性の声が聞こえてきた。
「月が落ちる夢です」
そう答える僕に、「それはまたすごいね」なんて楽しげな声が返ってくる。
いつもと変わらない彼女の声色に拍子抜けしてしまった。今度こそ、もっと驚くと思ったのだけれど。
古くも新しくもない、そんなアパートの角部屋がひとり暮らしの僕の住まいだ。お隣さんは彼女しか居ない。
初めて彼女を認識したのは、眠れない夜のことだった。
夢見が悪く、もう1度眠ることができなかった僕は、ベランダでひとり缶ビールを空けていた。それがちょうど3本に達したところで聞こえてきた「煙草、けむたくないかい?」という突然の声。それが彼女と話すようになったきっかけだった。
彼女とは、このベランダでしか話したことはない。こんな日常が何ヶ月も続いているのに、互いに顔も名前も知らないままだった。いつでも知ることができたはずだけど、ただ単にきっかけがなかったんだと思う。
知っているのは、僕より3つ年上であること、キャバクラで働いていること、それから煙草の銘柄くらいだ。
僕は彼女のことを「お姉さん」と呼んでいた。
「ねぇねぇ、もっと詳しく教えてよ。落ちてどうなったの」
プレゼントをねだる子供のように、お姉さんは話の続きを催促する。
「月が地球にぶつかりました」
「え?ほんとにぶつかった?」
「粉々になってましたからね、月」
はぁー、という溜息と共に煙草の煙が漂ってくる。
「君、それはロッシュ限界ってやつだよ」
「なんですかそれ」
「まぁ、ざっくり言うと月が地球に近づける限界のことだね。それを超えると破壊されちゃうんだ」
「いい大学行っててそんなことも知らないのぉ?」とお姉さんは呆れているようだ。どんな顔かはわからなくとも、眉をひそめた表情が目に浮かぶような声だった。
「お姉さんこそ、そんな賢いのになんでキャバ嬢やってるんですか」
「賢いからキャバ嬢やってる、の間違いだ。それに人間観察にはもってこいの仕事だからね」
「今更だけど本当にキャバ嬢?全然ぽくないんだけど」
「仕事モードじゃないからね。勤務中はもっと可愛げのある話し方してるよ」
頭の中でお姉さんの姿を想像するが、煙草の煙で顔が隠されていく。
仕方ないので、そのまま綺羅びやかなドレスを着ている姿を想像してみた。
可愛げのある話し方……だめだ。僕を小馬鹿にしながら、ロッシュ限界について説明し始めるお姉さんしか想像できない。
「ところでさ、君はそれをどこで見てたの。まさかベランダ?」
「いや、それが……」
続きを話すのを躊躇ってしまった。だって、あまりにもありえないシチュエーションだったから。
まぁ月が落ちる、というのが既に現実離れした話なのだけれど。
僕の心の声に「どんな展開でも信じるさ」なんてお姉さんが言うものだから、彼女は頭が良い上に読心術でも習得しているのかと疑った。果たして顔も見ずに、そんなことができるのかは謎だ。
とりあえず1つ言えるのは、お姉さんはいつでも僕の話を真剣に聞いてくれるということだ。
「多分、ですけど。宇宙でそれを見てました。ふわふわ浮きながら」
「ほほぅ、なるほどね」
お姉さんは驚きもせずそう答える。
「月が地球に近づいたらさ、とてもじゃないけど人間が住める環境じゃなくなるはずだ。だから君は魂だけの存在になって眺めてたんだね」
「魂とか信じてるんですね」
「信じてるというか、それしか考えられないだろう」
やっぱりお姉さんの思考回路はよくわからない。普通なら変わった夢だと笑うところだが、彼女は至極真面目に僕のぶっとんだ話を聞いている。
そういえば、あの夜もこんな調子だったことを思い出す。
酔った勢いで明かしてしまった僕の秘密を、何の疑いもせず信じた人間なんて、彼女が初めてだった。
そんな彼女だから、他人と関わるのが億劫な僕でも、この時間は待ち遠しいなんて思ってしまうのだろう。柄にもなく「こんな日常が永遠に続けばいいのに」とか、少女漫画の主人公みたいなことを考えてしまう僕は、暑さに頭をやられたのかもしれない。
でも、それは無理な話だ。終わりなんてきっとすぐにやってくる。そのことは僕が1番よく理解していた。
「いいなぁ君は間近で見られて。私も見てみたかったよ、月が落ちるとこ」
「多分見れますよ、お姉さんも」
「え」
先程までの賢さなど見る影もない、気の抜けたような声に、思わず笑ってしまいそうになった。お姉さんの驚いた声を聞くのは久々だ。初めて彼女と会話をした、あの日の夜以来だと思う。
「僕の隣に誰か居たんです。顔を見たけど覚えがなかった。でもその人、宇宙で煙草を吸っていて。その煙がお姉さんの煙草の匂いと一緒だったんだ」
僕が言い終えると同時に、沈黙が訪れた。
室外機の音がしっかり聞き取れるくらい静かだった。
いくら待ってもお姉さんからの返事はない。彼女がこんなに黙るなんて、出会ってから初めてのことだ。
こちらから声をかけようか、どうしようかと数十秒間悩み続け──結局、静寂を破ったのはお姉さんの方だった。
「ねぇ、君。できるだけ遠くに離れてて」
──ガン!
鈍い音がして、隣室との仕切りに一筋のひびが入る。
呆気にとられて眺めていると、すぐにまた大きな音が何度か鳴り響いた。
何となく状況を察した僕は「そんなまさか」と思いつつも、後ろに一歩大きく飛び退く。
──パリンッ。
今度は鋭い音がした。
白い破片が床に散らばる。
僕らを隔てる仕切りの下半分には──見事に大きな穴が空いていた。
「防犯用の金属バット、役に立ったね」
ギザギザに空いた穴の向こう側から、煙草を咥えた金髪の女性が顔を出した。
地面すれすれまでさらりと長い髪を落とし、金属バットを杖のようにしてこちらを覗き込んでいる。
「ちょっと、何してるんですか!うるさい、近所迷惑!こんなん壊したら怒られますよ!」
我に返った僕は、そう次々とまくし立てる。この時の僕の声も十分近所迷惑になっていたと思う。
お姉さんはというと、僕の言葉など全く気にする様子もなく、穴の尖った部分を器用に避けながらこちら側へとやって来た。
「君、意外といい男だったんだなぁ」
「そんなことより、ばれたら弁償ですよ。つーか騒音で苦情来て速攻ばれる」
「どうだっていいよ。落ちるんでしょ、月」
「……いやそんなの夢の話だから」
「いいや、落ちるね」
お姉さんはにやりと笑って空を見上げる。
「君が満月の日に見る夢、外したことなんて1度もないじゃん」
目線の先、夜の空には煌々と輝く満月があった。
毎月僕はこの日に必ず夢を見る。記憶している限りこれは6歳の頃から続いていて、その夢は必ず現実になっていた。
予報外れの大雨、親友の突然の転校、電車の遅延、片想いしていた女の子の事故死──。
大小関わらず、的中率は百発百中だった。
「ニュースで言ってただろう、あらゆる所で水浸しだって。温暖化による海面上昇なんて言ってたけどさ、実際のところは月の接近によって──って聞いてる?」
「……今回ははずれだよ。現実離れしすぎてる」
「はずれないさ」
「何でそう思うの」
「だって満月とはいえ、やっぱり月が明るすぎる。……まぁ1番の理由は、私が君を信じてるってことなんだけどね」
お姉さんは優しく目を細めると、煙草をひと口吸い、白い煙をふーっと吐き出した。
バニラの匂いが漂ってくる。
「何でちょっと楽しそうなんだよ。現実になったら僕たち死ぬんだけど」
「私みたいな人間はさ、月の落下なんてわくわくしちゃうんだ。死ぬのは残念だけど避けようがないなら仕方ない」
「僕は死にたくなんてない。……どうしてお姉さんはそんな風に割り切れるんだ」
苛立つ気持ちを抑えられなかった。
少し前の僕は、死んでも生きていてもどっちでも良いなんて思っていたはずなんだ。
だけど今の僕にとって、彼女と過ごす時間は、僕の幸せの全てを詰め込んだようなものだった。そのひと時だけで、生きる理由になってしまうほどに。
でも、それは僕だけだ──そう改めて思い知らされる。
怒ったところでどうしようもない。頭では理解していても、この感情をどこへぶつけたら良いのかわからなかった。
お姉さんは短くなった煙草を地面に落とし、サンダルの底で踏みつけている。
「ところでさ」と口を開き、ショートパンツのポケットから潰れたパッケージを取り出した。慣れた手つきで新たに1本火をつけ始める。
何となく張り詰めた空気の中、次の言葉を待っていると、彼女の口から出てきたのは突拍子もない問いかけだった。
「私が満月の日に必ず休みをとる理由、君は知ってる?」
僕との直前のやりとりがすっぽり抜けてしまったのだろうか。やっぱり、お姉さんの頭の中は謎だらけだ。
「僕の質問の答えになってませんよ」
「いいや。なるんだなぁ、これが。いいから当ててみなよ」
「……夢の内容をすぐに聞くため?」
訳もわからず、半信半疑で僕は答える。
「まぁそれも正解。でも1番の理由はね──満月の夜、君が必ずここへ来てくれるのが嬉しかったからなんだ」
お姉さんは、吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出した。
「魂になった後も、私は君の隣に居るんだろう。だったら死んでも良いかなって思ったんだよ」
そう言い終えると煙草の灰を落とし、お姉さんは満月を見上げた。穏やかに微笑む横顔が、月の明かりに照らされている。
──僕は咄嗟に顔を背けた。急いで口元を手で覆う。
見られるわけにはいかなかったのだ。
不機嫌そうに強張っていた僕の表情は、一瞬にして腑抜けた顔に変わってしまった。
こんな顔を見られたら、何と言ってからかわれるか、わかったもんじゃない。
声だけで僕の心が読める彼女は、表情なんて見たら一瞬のはずだ。
恐る恐る横目で確認してみる。案の定、お姉さんは僕をじっと見つめ、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
彼女のひと言で、今は僕も「死んでもいいかな」と思ってしまっている。なんなら今すぐ死んだっていい。
結局僕は生きるも死ぬも、隣りに居るたった1人の女性次第なのだ。
降参した僕は、諦めて彼女へと向き合った。それに満足したのか、お姉さんは再び煙草を咥え始める。
甘い煙が僕ら2人を包んでいた。
冷たい夜風が煙を散らし、バニラの匂いがさらに広がった。
お姉さんの長い髪も、風に吹かれてぶわっと広がる。
ふわりと舞った金色の髪は、今夜の月より眩しくて、世界の終わりみたいに美しかった。
猛スピードで地球へ近づく月を、誰かと2人、浮遊する身体で眺めている。
すぐ隣に居る金髪の女性が、僕には誰だかわからなかった。だけど何となく予想はつく。僕らを取り巻くバニラの匂いには、心当たりがあったから。
月が地球へ衝突する──恐ろしくも神秘的なその光景に、僕は思わず息を飲んだ。隣の君は瞳を輝かせてはしゃいでいる。
砕けて粉々になった月の破片。それらに飲まれる既の所で──僕はベッドから飛び起きた。
喉はからからに乾いている。汗でTシャツが貼りつき、身体がやけに怠く感じた。
硬直した身体をほぐすように、湿気のこもった生温い空気を、まずは胸いっぱいに吸い込む。脳に酸素が行き渡るのを感じると、今度はそれを残らず吐き出した。
スマホに手を伸ばし、その眩しさに思わず顔をしかめる。目を細めてなんとか確認すると、日を跨いで2時間ほどが経っていた。
──行かなきゃ。
温くなったミネラルウォーターを一気に飲み干し、僕はベランダへと赴く。
窓を開ければ、心地の良い夜風と一緒に嗅ぎ慣れた煙草の匂いが立ち込める。
「やぁ。今日はどんな夢を見たの」
非常の際は、ここを破って隣戸へ避難して下さい。
そんな注意書きが記された頼りない仕切りの向こうから、少年みたいにハスキーな女性の声が聞こえてきた。
「月が落ちる夢です」
そう答える僕に、「それはまたすごいね」なんて楽しげな声が返ってくる。
いつもと変わらない彼女の声色に拍子抜けしてしまった。今度こそ、もっと驚くと思ったのだけれど。
古くも新しくもない、そんなアパートの角部屋がひとり暮らしの僕の住まいだ。お隣さんは彼女しか居ない。
初めて彼女を認識したのは、眠れない夜のことだった。
夢見が悪く、もう1度眠ることができなかった僕は、ベランダでひとり缶ビールを空けていた。それがちょうど3本に達したところで聞こえてきた「煙草、けむたくないかい?」という突然の声。それが彼女と話すようになったきっかけだった。
彼女とは、このベランダでしか話したことはない。こんな日常が何ヶ月も続いているのに、互いに顔も名前も知らないままだった。いつでも知ることができたはずだけど、ただ単にきっかけがなかったんだと思う。
知っているのは、僕より3つ年上であること、キャバクラで働いていること、それから煙草の銘柄くらいだ。
僕は彼女のことを「お姉さん」と呼んでいた。
「ねぇねぇ、もっと詳しく教えてよ。落ちてどうなったの」
プレゼントをねだる子供のように、お姉さんは話の続きを催促する。
「月が地球にぶつかりました」
「え?ほんとにぶつかった?」
「粉々になってましたからね、月」
はぁー、という溜息と共に煙草の煙が漂ってくる。
「君、それはロッシュ限界ってやつだよ」
「なんですかそれ」
「まぁ、ざっくり言うと月が地球に近づける限界のことだね。それを超えると破壊されちゃうんだ」
「いい大学行っててそんなことも知らないのぉ?」とお姉さんは呆れているようだ。どんな顔かはわからなくとも、眉をひそめた表情が目に浮かぶような声だった。
「お姉さんこそ、そんな賢いのになんでキャバ嬢やってるんですか」
「賢いからキャバ嬢やってる、の間違いだ。それに人間観察にはもってこいの仕事だからね」
「今更だけど本当にキャバ嬢?全然ぽくないんだけど」
「仕事モードじゃないからね。勤務中はもっと可愛げのある話し方してるよ」
頭の中でお姉さんの姿を想像するが、煙草の煙で顔が隠されていく。
仕方ないので、そのまま綺羅びやかなドレスを着ている姿を想像してみた。
可愛げのある話し方……だめだ。僕を小馬鹿にしながら、ロッシュ限界について説明し始めるお姉さんしか想像できない。
「ところでさ、君はそれをどこで見てたの。まさかベランダ?」
「いや、それが……」
続きを話すのを躊躇ってしまった。だって、あまりにもありえないシチュエーションだったから。
まぁ月が落ちる、というのが既に現実離れした話なのだけれど。
僕の心の声に「どんな展開でも信じるさ」なんてお姉さんが言うものだから、彼女は頭が良い上に読心術でも習得しているのかと疑った。果たして顔も見ずに、そんなことができるのかは謎だ。
とりあえず1つ言えるのは、お姉さんはいつでも僕の話を真剣に聞いてくれるということだ。
「多分、ですけど。宇宙でそれを見てました。ふわふわ浮きながら」
「ほほぅ、なるほどね」
お姉さんは驚きもせずそう答える。
「月が地球に近づいたらさ、とてもじゃないけど人間が住める環境じゃなくなるはずだ。だから君は魂だけの存在になって眺めてたんだね」
「魂とか信じてるんですね」
「信じてるというか、それしか考えられないだろう」
やっぱりお姉さんの思考回路はよくわからない。普通なら変わった夢だと笑うところだが、彼女は至極真面目に僕のぶっとんだ話を聞いている。
そういえば、あの夜もこんな調子だったことを思い出す。
酔った勢いで明かしてしまった僕の秘密を、何の疑いもせず信じた人間なんて、彼女が初めてだった。
そんな彼女だから、他人と関わるのが億劫な僕でも、この時間は待ち遠しいなんて思ってしまうのだろう。柄にもなく「こんな日常が永遠に続けばいいのに」とか、少女漫画の主人公みたいなことを考えてしまう僕は、暑さに頭をやられたのかもしれない。
でも、それは無理な話だ。終わりなんてきっとすぐにやってくる。そのことは僕が1番よく理解していた。
「いいなぁ君は間近で見られて。私も見てみたかったよ、月が落ちるとこ」
「多分見れますよ、お姉さんも」
「え」
先程までの賢さなど見る影もない、気の抜けたような声に、思わず笑ってしまいそうになった。お姉さんの驚いた声を聞くのは久々だ。初めて彼女と会話をした、あの日の夜以来だと思う。
「僕の隣に誰か居たんです。顔を見たけど覚えがなかった。でもその人、宇宙で煙草を吸っていて。その煙がお姉さんの煙草の匂いと一緒だったんだ」
僕が言い終えると同時に、沈黙が訪れた。
室外機の音がしっかり聞き取れるくらい静かだった。
いくら待ってもお姉さんからの返事はない。彼女がこんなに黙るなんて、出会ってから初めてのことだ。
こちらから声をかけようか、どうしようかと数十秒間悩み続け──結局、静寂を破ったのはお姉さんの方だった。
「ねぇ、君。できるだけ遠くに離れてて」
──ガン!
鈍い音がして、隣室との仕切りに一筋のひびが入る。
呆気にとられて眺めていると、すぐにまた大きな音が何度か鳴り響いた。
何となく状況を察した僕は「そんなまさか」と思いつつも、後ろに一歩大きく飛び退く。
──パリンッ。
今度は鋭い音がした。
白い破片が床に散らばる。
僕らを隔てる仕切りの下半分には──見事に大きな穴が空いていた。
「防犯用の金属バット、役に立ったね」
ギザギザに空いた穴の向こう側から、煙草を咥えた金髪の女性が顔を出した。
地面すれすれまでさらりと長い髪を落とし、金属バットを杖のようにしてこちらを覗き込んでいる。
「ちょっと、何してるんですか!うるさい、近所迷惑!こんなん壊したら怒られますよ!」
我に返った僕は、そう次々とまくし立てる。この時の僕の声も十分近所迷惑になっていたと思う。
お姉さんはというと、僕の言葉など全く気にする様子もなく、穴の尖った部分を器用に避けながらこちら側へとやって来た。
「君、意外といい男だったんだなぁ」
「そんなことより、ばれたら弁償ですよ。つーか騒音で苦情来て速攻ばれる」
「どうだっていいよ。落ちるんでしょ、月」
「……いやそんなの夢の話だから」
「いいや、落ちるね」
お姉さんはにやりと笑って空を見上げる。
「君が満月の日に見る夢、外したことなんて1度もないじゃん」
目線の先、夜の空には煌々と輝く満月があった。
毎月僕はこの日に必ず夢を見る。記憶している限りこれは6歳の頃から続いていて、その夢は必ず現実になっていた。
予報外れの大雨、親友の突然の転校、電車の遅延、片想いしていた女の子の事故死──。
大小関わらず、的中率は百発百中だった。
「ニュースで言ってただろう、あらゆる所で水浸しだって。温暖化による海面上昇なんて言ってたけどさ、実際のところは月の接近によって──って聞いてる?」
「……今回ははずれだよ。現実離れしすぎてる」
「はずれないさ」
「何でそう思うの」
「だって満月とはいえ、やっぱり月が明るすぎる。……まぁ1番の理由は、私が君を信じてるってことなんだけどね」
お姉さんは優しく目を細めると、煙草をひと口吸い、白い煙をふーっと吐き出した。
バニラの匂いが漂ってくる。
「何でちょっと楽しそうなんだよ。現実になったら僕たち死ぬんだけど」
「私みたいな人間はさ、月の落下なんてわくわくしちゃうんだ。死ぬのは残念だけど避けようがないなら仕方ない」
「僕は死にたくなんてない。……どうしてお姉さんはそんな風に割り切れるんだ」
苛立つ気持ちを抑えられなかった。
少し前の僕は、死んでも生きていてもどっちでも良いなんて思っていたはずなんだ。
だけど今の僕にとって、彼女と過ごす時間は、僕の幸せの全てを詰め込んだようなものだった。そのひと時だけで、生きる理由になってしまうほどに。
でも、それは僕だけだ──そう改めて思い知らされる。
怒ったところでどうしようもない。頭では理解していても、この感情をどこへぶつけたら良いのかわからなかった。
お姉さんは短くなった煙草を地面に落とし、サンダルの底で踏みつけている。
「ところでさ」と口を開き、ショートパンツのポケットから潰れたパッケージを取り出した。慣れた手つきで新たに1本火をつけ始める。
何となく張り詰めた空気の中、次の言葉を待っていると、彼女の口から出てきたのは突拍子もない問いかけだった。
「私が満月の日に必ず休みをとる理由、君は知ってる?」
僕との直前のやりとりがすっぽり抜けてしまったのだろうか。やっぱり、お姉さんの頭の中は謎だらけだ。
「僕の質問の答えになってませんよ」
「いいや。なるんだなぁ、これが。いいから当ててみなよ」
「……夢の内容をすぐに聞くため?」
訳もわからず、半信半疑で僕は答える。
「まぁそれも正解。でも1番の理由はね──満月の夜、君が必ずここへ来てくれるのが嬉しかったからなんだ」
お姉さんは、吸い込んだ煙をゆっくりと吐き出した。
「魂になった後も、私は君の隣に居るんだろう。だったら死んでも良いかなって思ったんだよ」
そう言い終えると煙草の灰を落とし、お姉さんは満月を見上げた。穏やかに微笑む横顔が、月の明かりに照らされている。
──僕は咄嗟に顔を背けた。急いで口元を手で覆う。
見られるわけにはいかなかったのだ。
不機嫌そうに強張っていた僕の表情は、一瞬にして腑抜けた顔に変わってしまった。
こんな顔を見られたら、何と言ってからかわれるか、わかったもんじゃない。
声だけで僕の心が読める彼女は、表情なんて見たら一瞬のはずだ。
恐る恐る横目で確認してみる。案の定、お姉さんは僕をじっと見つめ、悪戯っぽい笑みを浮かべていた。
彼女のひと言で、今は僕も「死んでもいいかな」と思ってしまっている。なんなら今すぐ死んだっていい。
結局僕は生きるも死ぬも、隣りに居るたった1人の女性次第なのだ。
降参した僕は、諦めて彼女へと向き合った。それに満足したのか、お姉さんは再び煙草を咥え始める。
甘い煙が僕ら2人を包んでいた。
冷たい夜風が煙を散らし、バニラの匂いがさらに広がった。
お姉さんの長い髪も、風に吹かれてぶわっと広がる。
ふわりと舞った金色の髪は、今夜の月より眩しくて、世界の終わりみたいに美しかった。