扉の先に居る者

文字数 5,835文字

 夏の酷暑。
 俺達はその日、クーラーをがんがんにつけ、俺こと笹垣洋平の部屋で呑んだくれていた。
 部屋はワンルームで、多少散らかってはいるが、男の一人暮らしなんてそんなものだろう。
 ユニットバスなのが難点だが、駅から電車で五分走れば都内という好立地で月四万五千円。
 築浅だし、近所にスーパーもコンビニもある。
 まぁ、駅からは少し歩くのだが。
 そんな我が家に集まっていたのは、大学時代の友人三人に自分の計四人だ。
 男だらけの、少々むさ苦しい集まりではあるが、俺達は楽しく呑んでいた。
 全員適当に就職して、それなりに忙しい日々を送っていたので、こうやって会うのは卒業式以来だ。
 久々に会った友人達は、なんだかたくましくなったような、しかし何も変わっていないような少しこそばゆい再会だった。

「どうよ、銀行は」
「いやぁ、一年目なんて完全に使いっぱしりやってるよー。出納機なんて触れやしない」
「金たんまりあんだろ、いいなー」
「会社の金なんて見続けると麻痺するっつの。一円でも合わないと帰れないっつーの本当なんだぜ?」
「マジか、それきっついなー」
「商社だってそうだろ? 伝票合わせとかあんじゃねーの」
「テキトー、テキトー」
「んな訳ねーだろっ!」

 ひとしきり笑いが起こる。
 俺達はすでにビールに日本酒、焼酎とちゃんぽんして呑んでいたので、かなりへべれけだった。
 しかし、その時だった。
 微かだが、確かにドアをノックする音が聞こえたのだ。

「誰だ、こんな時間に」
「ハァ? 空耳じゃねーの?」

 時計を見ると午前二時。
 宅配の類では無いだろう。
 そして。
 コン、コン。
 やはり聞こえる。

「やっべ、うるさくしすぎたかな。近所の人かも」
「はぁ、マジかよ」
「ちょっと静かにしてろよお前ら」
「へいへーい」

 酔っ払いにどれだけの効果があるのかは分からないが、一応言うだけ言って俺は立ち上がった。
 扉の前まで行くと、ドアガードと鍵を開ける。

「はい、どちら様ですかぁ」

 室温と外気温の差で扉が開く時、ヒュウっと生温い風が通った。
 そのせいか少し耳鳴りがした気がした。
 蒸し風呂のような外の空気に辟易する。
 しかし、肝心の人物は周囲を見回しても居なかった。

「あっれぇ?」
「おいおーい、寝たほうがいんじゃないの、洋平ちゃん!」
「やっぱ空耳だって。じゃなきゃ幻聴?」
「ぎゃははは! それマジねーわ!」

 サンダルを履いて一歩外に出ると、もう一度きょろきょろと辺りを見る。
 ぴしゃっと音がして、ふと気付き下を見ると玄関の目の前に水溜りがあった。
 サンダルを通った水が裸足の裏にへばりついて、妙な気味悪さを感じた。
 雨でも降ったのかと外の通りを見るが、地面は全く濡れていない。

「おい、どうした洋平?」
「うお、びびった」

 友人の一人である悟が急に後ろから出てきて、俺は後ずさった。

「なんか水溜りあんだけど」
「…ガキのいたずらじゃねーの?」
「この時間にか?」
「俺らが家に入ってからすぐとか?」
「だったら乾くだろ。この暑さだぞ」
「うーん」

 その時、携帯が鳴り出して俺は飛び上がる。
 慌てて扉を閉めてテーブルの方に向かった。
 携帯を手に取ると、非通知。
 とりあえず通話ボタンを押す。

「もしもし」

 すると、砂嵐のようなザァザァという音が流れてきた。

「なんっだよ、コレ…!」

 イラついた俺は、電話を切ろうとした。
 が。
 耳から携帯を離す瞬間、砂嵐の中でくぐもった声が聞こえた。

『開けてくれて、ありがとう』

 俺は反射的に通話を切る。
 どくどくと心臓が脈打ち、気分は最悪だった。
 聞きなれない子どもの声で、不明瞭な言葉。
 意味が分からない。

「おい、今の電話なんだったんだ? 汗だくだぜ」

 横から、心配そうに悟が言う。

「…イタズラ電話だ。呑みなおそうぜ」

 心配をかけないように、俺は敢えて笑って返した。
 その晩、三人が酔いつぶれるまで宴は続いたが、俺はすっかり醒めていた。



 次の日の昼頃、三人が帰路についた後一人の部屋で俺は携帯を手でこねくり回していた。
 昨日の子どもの声が耳にまとわりついて離れない。
 気味の悪さがどんどん増大して余程青い顔でもしていたのか、一人悟だけが帰り際心配してくれていた。
 おいおい、まさか自殺物件とかで安いんじゃないだろうな、とかろくでもない事を思ってしまう。

「あーやめやめ! 風呂でも入るか!」

 わざとらしく大声を上げて干したままのバスタオルを取り、風呂場へ向かった。
 ガシガシと頭と体を洗い、シャワーでざっと流す。
 上がってついでに髭を剃ろうとした瞬間、キインと耳鳴りがした。
 そして鏡を見ると。
 真後ろに青白い髪の長い少女が目に入り、俺は反射的に振り返った。
 しかし、勿論背後に誰かが居るわけ無かった。

「…ん、だよ…今の…」

 恐る恐る鏡をもう一度見ると、そこには当たり前だが俺しか居ない。
 汗を流したばかりだというのに、体から汗が噴き出るような感覚に陥る。
 俺は風呂場から脱出して、思わず携帯を手に取った。
 そして、はっとする。
 何を確認しようっていうんだ。
 管理会社に電話をしても、何も知らないのが当たり前だ。
 何か知ってたところで、ほいほい教えてくれるとも思わない。
 クレームとして言うなら、幽霊が出るんですってか?
 笑えないジョークだ。
 へたりこんだ俺は、そのまま携帯が手元からずり落ちるのをただ見つめていた。

「…寝よう…。徹夜なんかで呑んでるから妙な妄想引き起こすんだ…」

 ベッドに向かい、自分がろくに頭を拭いてないことに気付く。
 参ってるな、と思いながら俺は肩にかけていたバスタオルを手に取った。



 久方ぶりの徹夜が響いているのか、俺が目を覚ましたのは既に真っ暗になってからだった。
 今何時だ。
 そう思って、枕横にあるはずの携帯を取ろうと身を捩った。
 …つもりだった。
 しかし、体は全く動く気配をみせない。
 今度は金縛りってヤツか?
 金縛りなんてのは経験したことが無かったが、脳だけが起きている状態なのだと聞いた気がする。
 しかし、だったら目も動かないはず。
 その点俺の目は自由だった。
 体は全く動かないが、視線だけで辺りを窺う。
 そしてまた耳鳴り。
 甲高い音が耳の中で響く。
 直後、キシと軋みが聞こえた。
 誰かがそっと歩いているような。
 誰だ。
 音が少しずつ近づいてくる。
 キシ、キシ、ギシ。
 よせ、やめろ。
 こっちに来るな。
 視線の端に、あの青白い少女。
 少しずつ姿が近づいてきて、俺はぎゅっと目を瞑った。

『おかあさん…』

 そのくぐもった声に、俺が目を開けると少女の顔が見えた。
 ひっと声が出そうになったが口も喉も動かない。
 そして、泣いているその少女に俺は戸惑った。
 何で泣くんだよ。
 泣きたいのはこっちだ。

『おかあ…さん…』

 そのまま、少女は玄関のほうへ向かって去っていった。



「おい…!」

 ばっと身を起こした俺は、はっと息を吐いた。
 さっきのは夢か?
 それとも…。
 携帯を手に取ると、時刻は夜の七時過ぎだった。
 ふとして床を見ると、転々と汗のような…涙のような水滴の跡を発見した。
 シャツにこびりついた汗が気持ち悪い。
 俺は、管理会社に電話することにした。
 頭のおかしいヤツと思われても構うものか。
 今はこの現状をどうにかしなければ。
 何回かコールした後、電話が繋がる。
 コールスタッフの女性とお決まりの挨拶をした後、こう話を切り出した。

「あの、幽霊が出るんですけど、何か事件のあった物件なんですか?」
『はぁ?』
「何かそちらでご存じではないかと思いまして」
『…ちょっと担当者に代わります』
「はい」

 一分ほど保留音が鳴り、中年男性の声がした。

『あの…幽霊とはどういった?』
「少女の霊です。こう、髪の長い…。昨日から急にです」
『そうですか…やはり』
「やはり、とは?」

 聞き捨てならない言葉に俺は食らいついた。

『申し訳ありません! 実は…』

 そうして、彼は俺に向かって経緯を話し出した。



 電話を切ってから、俺は考え込んでいた。
 事の起こりは三年前の昨日。
 ずっと母親から虐待を受けていた少女が、真夏の炎天下の中家に入れてもらえずに熱中症で死亡したのだという。
 ほかの場所で涼を取ろうともせず、玄関でひたすら親の許しを待ち続けた少女。
 それからすぐにその家族は引っ越してしまったが、その日になると彼女は現れるのだという。
 そして、またすぐに入居者は居なくなり、三回目の入居者が俺らしい。
 怖いという気持ちが無くなったというと語弊があるが、親の愛情に飢え続けた彼女に同情にも似た感情を抱いていた。
 開けてくれてありがとう、彼女はそう言った。
 彼女はずっと親の許しを待ち続けているのだろう。
 なんとも悲しい話だ。
 扉を開けてしまったことが彼女と繋がる線だとしたら。
 不思議と後悔することはなかった。
 お母さん、と言って泣いた少女はあまりにも不憫で、俺は涙を流す。
 何の霊感も無かった俺と少女が出会ったのも、一つの縁というものなのだろう。
 悟が昔言っていた、幽霊とはもともと生きていた人間の魂だから怖がるものじゃないという言葉。
 それもそうなのかもしれないと思う。
 次に現れた時、俺は少女を拒めるだろうか。



 夕飯を冷蔵庫にあった賞味期限の過ぎた納豆と解凍ご飯、そして昨晩余ったつまみ、と侘しい食事で済ませてテレビをつける。
 今夜から明日にかけて雨が降るらしい。
 小さい頃は雨が好きで、泥だらけになって遊んで親に叱られていた。
 いつからだろう、こんなに雨が嫌いになったのは。
 …少女にはそんな経験はあるのだろうか。
 はっと自分の思考が彼女に囚われていることに気づく。
 これが所謂憑かれているということなのだろうか。

「はは…」

 自嘲気味に笑った瞬間、携帯が鳴りだして俺はびくっとした。
 画面を見ると悟だった。

「もしもし?」
『洋平?』
「おう、どうした?」
『いや…お前の様子が気になってな』
「はは。顔に出てたか? 参ったぜ、あれから幽霊が現れてよ」
『…ん…? 聞こ…い』
「なんか電波悪ぃ…?」

 俺はいったん耳から携帯を離してもう一度耳元に持ってくる。

『…おかあさん』
『おかあさん』
『おかあさん…』

 悟の声で聞こえたつぶやきは段々と少女のものに変わり、俺は戦慄した。
 思わず通話を切ってしまう。
 喘ぐように息をすると、自分を落ち着かせた。
 落ち着け。
 少女はまだ母親の許しを待っているのだ。
 次に現れたらもう大丈夫だと言ってやればいい…。
 亡霊にそんな説得が効くのかはわからないが。
 悟には悪いが、俺は携帯の電源を切って休むことにした。



 夜中に目を覚ましたのは胸騒ぎがしたからか、俺は目を開けた。
 体は重だるいが今度は動く。
 耳鳴りが、した。
 …来る。
 さすがに耳鳴りが彼女が出現する前の警告である事はわかっていた。
 ベッドサイドにゆっくりと腰かけて、少女を待つ。
 真っ暗な部屋で、床の軋みが聞こえてきた。
 不気味さは残っているが、大丈夫だ。
 キシ、ギシ、ギッ。
 少しずつ近づいてくる。
 落ち着け、大丈夫だ。
 俺は自分に言い聞かせる。
 青白い少女の周囲が、蛍でも飛んでいるかのように発光する。
 暗闇に浮かび上がった少女に、ぞわりとした感覚が駆け抜けていった。
 落ち着け、怖がるな。

『おかあ…さん…』

 少女のくぐもった声がうっすらと響く。
 うっすら見えた彼女の服は、ボロボロのTシャツとスカートでところどころに血のようなシミがあった。
 俺は少女のほうを見て、こう言った。

「おかあさんは、ここには…いない。けど、もう大丈夫だ。君は自由なんだ」
『おかあさ…ん?』

 顔は前髪で隠れて見えないが、俯いた彼女は怪訝そうな声を出す。
 そろそろと様子を伺いながら、言葉を紡いだ。

「もう怖いことは無いんだ。だから…君はもう成仏できる…」
『おかあさん…』

 一瞬のことだった。
 消えたように見失い、その直後俺の目の前に少女が凄まじい形相で立っていた。
 ドク、と心臓が跳ねる。

『おかあさん! おかあさん…!』
「待…!」

 そのまま俺の言葉も届かず、彼女の手は俺の首に伸びた。
 そしてぎゅうと力を込められた時、それは少女という名の怪物なのだと気づく。
 普通じゃ考えられない力に、俺は呻いた。

「ぐっ…」
『おかあさん…! おかあさん!!』

 窮鼠猫を噛む。
 そんな諺がぼうっとした頭に浮かんだ。
 そうか…。
 この少女は母親を想うあまり、殺そうとしていたのだと思う。
 鬼のような、般若のようなその顔は、狂気と、そして…悲しさを孕んでいた。

『おかあ…さん…!』
「っ…」

 やばい。
 意識が…落ち…る………。






「…い、洋平!」
「うわあああああああああ!」
「うお、びびった!」

 悟の声で俺はがばっと身を起こした。
 息が上がっている。
 ここは…俺の部屋。
 ワンルームの、少し散らかった。
 見回すと、大学時代の友人三人。

「夢…?」
「おいおーい、もう寝たほうがいんじゃないの、洋平ちゃん!」
「何酔いつぶれてうなされちゃってんだよ~」

 ひとしきり笑い声が起こる。

「や、なんか変な夢見てたみてー」
「どんな?」
「覚えて…ねぇ」
「何だそりゃ」

 何かとても恐ろしい夢を見たという気はするのだが、如何せん内容が思い出せない。

「さ、呑み直そうぜ」
「って、まだ呑むのかよ!」
「ぎゃははは!」

 すっかり出来上がった男四人で、笑い飛ばした。
 そうだ、変な夢のことなんて、忘れてしまえ。
 笑って忘れるんだ。

 その時。
 微かに、だが確かにノックの音が俺の耳に響いた。
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