第2話
文字数 4,524文字
二
僕はその日の午後に大学のパソコンでロバート・ジョンソンについて調べ、いくつかの曲も実際に聴いてみた。古い録音だったが、たしかにテクニックは素晴らしかった。彼は一九一一年に生まれ、一九三八年に死んだ。二十七歳だった。正確な死因についてはいまだ明らかになっていない、ということだった。病死なのか、あるいは誰かに殺害されたのか。もちろん例の伝説を信じている人々にいわせれば、その命を奪ったのは悪魔だ、ということになるのだが。
その日アルバイトを終えて部屋に帰ったとき、僕は自分が少しだけ変化していることに気付いた。昨日までとは明らかに違っている。いや、正確にいえば彼に会う前と、会ったあととでは、何かが違っているのだ。それはあの話を聞いたせいだったのだろうか? おそらくそうだろう、という気はしたが、本当のところは僕にはよく分からない。それで簡単な夕食を作って食べ、歯を磨き、シャワーを浴びて寝た。久しぶりに夢は見なかった。僕は泥のように眠り、朝が来ると起きて、新しい一日を生き始めた。
彼はその後何度か僕の前に姿を現した。その様子からして、どうも授業に出ているわけではなさそうだった。たまにノートを見せることもあった。
「まったく。大学ってところは面倒くさいところだよな」と彼は言った。
僕は彼のことを「T」と呼ぶことにする。というのも呼び名がないと困るからだし、それが彼のファーストネームのイニシャルだったからだ。もちろんほかの意味もある。Time(タイム)のT。Timbukutu(ティンブクトゥ)のT・・・。
彼は携帯電話というものを憎んでいたため、こちらから連絡を取ることはできなかったにせよ、たまに大学で会ったときには少しずつ自分の情報を開示してくれた。その話によれば、実家は老舗 の菓子店か何かを経営していて、とても裕福だということだった。
「ガレージには外車が二台停まっていて、お手伝いさんだっていた」と彼は言った。「でもそんなことはどうでもいいんだ。金なんて。なあ、君は金のために生きているのか?」
「いや、たぶん違うと思うけど・・・」
「そうだろう。世の中には金よりも大事なものがあるんだ」
「でも君は東京の大学の経済学部に来て、カネの動きについて勉強している」
「まあ」
「それに親から仕送りをもらっているから、バイトしないで済んでいるんだろ?」
「まあな」
「それって矛盾してないか?」
「いいか」と彼は少しだけ生え始めた髪の毛を撫でながら言った(それは最初に会ってから二週間後くらいのことだった)。「世界は大いなる矛盾に満ちている。細かいことを気にしていたらそれこそ切りがない。しかし時間は有限だ。俺たちは限られた時間を生きなければならない。特に俺に関しては二十八までしか生きられないんだ。だとしたら使えるものはなんでも使っていくしかないだろう」
「親の金もその中に入っている」
「その通り」と彼は言って微笑 んだ。
これはあとで聞いて知ったことなのだが、彼は生意気にも車を持っていて、それで日本中を旅している、ということだった。その話を聞いたのは、さらに二週間ほど経った頃のことだった。突然大学の中庭に現れた彼の顔は、真っ黒に日焼けしていた。「一体どこに行ってたんだ?」と僕は訊いた。
「ちょっと四国に行ってたんだ」と彼は言った。「ほら、ちょうど四国っぽい季節だったから」
「なんだよその『四国っぽい季節』って」
「とにかく四国が俺を呼んでいたのさ。うどんも食いたかったしな。ところで」
「ところで?」
「ところで君を俺の車に招待しよう」。彼はそう言って職員用駐車場の方に僕を連れていった。あと少しで午後の講義が始まろうとしていたが、今は彼に付いていった方がいいような気がなぜかした。僕は久しぶりにワクワクし始めていた。
そこに停めてあったのは予想よりもいくぶん小さな車だった。
「フォルクスワーゲンビートルだ」と彼は言った。「ヒトラーが残したほとんど唯一のポジティブな遺産だ」
それは薄い水色のビートルで、型はかなり古そうだった。至るところにへこみがあった。僕は車についてはほとんど何も知らないが、おそらく燃費もかなり悪いだろう。しかしそこには何かがあった。人肌の温もりのような何かだ。
「死んだおじさんの形見なんだ」と彼は言った。「というか正確には大 叔父 なんだがな。じいちゃんの弟だ。その人がずっと乗っていた。俺は十六のときにこれを譲り受けて、それ以来ずっと乗っている」
「福井県では十六で免許が取れるのか?」
「細かいところは気にするなよ」と彼は言って、ウインクをした。
彼はその助手席に僕を乗せて、自分は運転席に乗り込んだ。当然ではあるが、ずいぶん狭い車だった。そのとき僕はあることに気付いた。「ねえ、ここは職員用駐車場だろ? 学生が停めてもいいのか?」
「これを見ろ」と彼は言って、ダッシュボードに載っていた白い紙を見せた。それは駐車許可証とか、そんな感じの書類だった。
「これを偽造したんだ。こんなの朝飯前だ。あとはサングラスをかけて、できるだけ堂々としてゲートを通る。そうすりゃ警備員のおじさんも止めたりはしない」
「なかなか度胸があるな」と僕は感心して言った。
「お褒めいただき光栄です」と彼は言った。
我々はゲートから外に出て――彼は偉そうに警備員のおじさんに手を上げた。僕は疑われないようにずっと頭を下に伏せていた――東京都郊外の街を一通り回った。正直なところ何の面白みもない風景だったが、窓の隙間から入り込む風がだいぶ気分を良くしてくれた。彼は途中で音楽をかけた。古い時代のシンプルなブルーズだった。素朴といえば素朴だが、そこには魂が宿っている。
「これはロバート・ジョンソン?」と僕は訊いた。
「いや、これは違う。もうちょっとあとの時代のものだ」
「あれから何か進展はあったのか? 悪魔は君に指令を送ってきた?」
「いや、今のところは何もない」と彼は言って、じっと前の車のテールランプを睨んでいた。トヨタの黒いワンボックスカーで、大音量で音楽を流していた。ただうるさいだけの音楽だ。
「なあ、あの人たちは本当は幸せなんじゃないか、と思うことがたまにある」
「あの人たち?」
「あの前の車に乗っているような奴らだよ」
「ああ」
「なんにも考えないで、ただ生きて、死んでいくんだ。それだけ。他人に迷惑をかけても知らん顔だ」
「まあいろんな人がいるからね」
そこで信号が青になり、車は前に進み出した。しかしまたすぐに赤信号になって、止まった。
「なあ、君は将来何になりたいんだ?」とそこで突然彼が訊いた。
「いや、まだ何も分からないよ」と少し考えていたあとで、僕は言った。「今を生きるだけで精一杯だ」
「そうか。君もそうなのか・・・」と彼は言って、しばらく何かを考え込んでいた。前の車の音楽はまだ鳴り続いている。
「それで、この間の話だけど」と僕は言った。
「うん」と彼は言った。
「君は自分の人生には意味がない、と言った。つまり最初のところで」
「そうだな」
「だからこそ神を試すことにしたのだ、と」
「うん」
「でも出てきたのは悪魔だった」
「そうだ」
「そして悪魔と契約した」
「結果的にな」
「それによって生き延びたわけだ」
「とりあえずな」
「それはどんな気分なんだ?」
「どんな気分って・・・正直まだよく分からない。なにしろまだ何も指令が来ていないからな」
「僕がいいたいのはだね、つまり君のことが結構羨 ましいということなんだよ」
「なぜ?」
「なぜって、僕にはどうしたってそんな度胸は出せそうにないからだ。夜中の交差点で寝転がって、神を試すとか。十六から車を運転してたりとか。君には何か・・・明らかに普通じゃないところがあるよな」
「どうもありがとう」
「それは生まれつきのものなのか?」
「それは・・・どうかな? たしかに昔から友達は少なかったが・・・。教師には大体見離されてた。でも俺はそれをいいことにして、ずっと好き勝手やってきたんだ。両親はもう慣れているだろう」
「ふうん」
「何だそのふうんってのは」
「つまりさ、僕には全然普通じゃないところなんかない、ってことなんだ。まともな反抗期すらなかった。従順で、真面目で、大人しくて、成績は悪くなかった。本を読むのが好きで、仲の良い友達も何人かはいた。でもそれだけだ。僕が僕である意味なんかどこにもない。どこかの誰かと交換したって、あるいは誰も気付かないんじゃないかと思えるくらい」
「そんなことはあるまい」
「いや、君は違う。でも僕に関してはあり得る。僕は本当に
「なあ、今からドーナッツを食いにいこう」とそれを聞いて突然彼が言った。
「なんだって?」
「だからドーナッツを食いにいくんだ。大量のドーナッツを。穴を埋めるために」
僕は呆 れて一度溜息をついた。「そんなことで精神の空虚さを埋められると思っているのか?」
「やらないよりはましだろう」
ということで僕らは方向を転換して駅前に向かい、コインパーキングに車を停めて、ドーナッツショップでたらふくドーナッツを食べることになった。大量の糖分と大量のコーヒー。店員のアルバイトの女の子は驚いたように我々を見ていた。Tと僕はほとんど一言もしゃべることなく食べ続けた。定番のものから、わけのわからないトッピングの付いたものまで、全種類。最初の一周が終わると、すぐに次の一周に取りかかった。我々はまるで競争するように食べ続けていた。隣の席に座った女子高生の二人組が、密かにスマートフォンで隠し撮りをしていた。でもそんなこともどうでもよかった。我々は穴を埋めるために、とにかく今はドーナッツを食べなければならなかったのだ。店のBGMではビートルズの曲が流れていた。この光景を見たらさすがのジョンも驚いたに違いない、と僕は思う。いつかリバプールに行かなくちゃな・・・。でもそう思っている間に、彼は僕の数個先のドーナッツを食べている。負けているわけにはいかない・・・。
もう胃に入り切らない、というくらいまで食べ切ったとき、世界は少し移動していた。褪 せて見えた。風が吹いて、我々二人の肌をそっと撫で、どこかへと消えた。夕方の気配が、あたりには漂 っていた。なんとか生きてみよう、と思ったのは、そのときのことだった。
僕はその日の午後に大学のパソコンでロバート・ジョンソンについて調べ、いくつかの曲も実際に聴いてみた。古い録音だったが、たしかにテクニックは素晴らしかった。彼は一九一一年に生まれ、一九三八年に死んだ。二十七歳だった。正確な死因についてはいまだ明らかになっていない、ということだった。病死なのか、あるいは誰かに殺害されたのか。もちろん例の伝説を信じている人々にいわせれば、その命を奪ったのは悪魔だ、ということになるのだが。
その日アルバイトを終えて部屋に帰ったとき、僕は自分が少しだけ変化していることに気付いた。昨日までとは明らかに違っている。いや、正確にいえば彼に会う前と、会ったあととでは、何かが違っているのだ。それはあの話を聞いたせいだったのだろうか? おそらくそうだろう、という気はしたが、本当のところは僕にはよく分からない。それで簡単な夕食を作って食べ、歯を磨き、シャワーを浴びて寝た。久しぶりに夢は見なかった。僕は泥のように眠り、朝が来ると起きて、新しい一日を生き始めた。
彼はその後何度か僕の前に姿を現した。その様子からして、どうも授業に出ているわけではなさそうだった。たまにノートを見せることもあった。
「まったく。大学ってところは面倒くさいところだよな」と彼は言った。
僕は彼のことを「T」と呼ぶことにする。というのも呼び名がないと困るからだし、それが彼のファーストネームのイニシャルだったからだ。もちろんほかの意味もある。Time(タイム)のT。Timbukutu(ティンブクトゥ)のT・・・。
彼は携帯電話というものを憎んでいたため、こちらから連絡を取ることはできなかったにせよ、たまに大学で会ったときには少しずつ自分の情報を開示してくれた。その話によれば、実家は
「ガレージには外車が二台停まっていて、お手伝いさんだっていた」と彼は言った。「でもそんなことはどうでもいいんだ。金なんて。なあ、君は金のために生きているのか?」
「いや、たぶん違うと思うけど・・・」
「そうだろう。世の中には金よりも大事なものがあるんだ」
「でも君は東京の大学の経済学部に来て、カネの動きについて勉強している」
「まあ」
「それに親から仕送りをもらっているから、バイトしないで済んでいるんだろ?」
「まあな」
「それって矛盾してないか?」
「いいか」と彼は少しだけ生え始めた髪の毛を撫でながら言った(それは最初に会ってから二週間後くらいのことだった)。「世界は大いなる矛盾に満ちている。細かいことを気にしていたらそれこそ切りがない。しかし時間は有限だ。俺たちは限られた時間を生きなければならない。特に俺に関しては二十八までしか生きられないんだ。だとしたら使えるものはなんでも使っていくしかないだろう」
「親の金もその中に入っている」
「その通り」と彼は言って
これはあとで聞いて知ったことなのだが、彼は生意気にも車を持っていて、それで日本中を旅している、ということだった。その話を聞いたのは、さらに二週間ほど経った頃のことだった。突然大学の中庭に現れた彼の顔は、真っ黒に日焼けしていた。「一体どこに行ってたんだ?」と僕は訊いた。
「ちょっと四国に行ってたんだ」と彼は言った。「ほら、ちょうど四国っぽい季節だったから」
「なんだよその『四国っぽい季節』って」
「とにかく四国が俺を呼んでいたのさ。うどんも食いたかったしな。ところで」
「ところで?」
「ところで君を俺の車に招待しよう」。彼はそう言って職員用駐車場の方に僕を連れていった。あと少しで午後の講義が始まろうとしていたが、今は彼に付いていった方がいいような気がなぜかした。僕は久しぶりにワクワクし始めていた。
そこに停めてあったのは予想よりもいくぶん小さな車だった。
「フォルクスワーゲンビートルだ」と彼は言った。「ヒトラーが残したほとんど唯一のポジティブな遺産だ」
それは薄い水色のビートルで、型はかなり古そうだった。至るところにへこみがあった。僕は車についてはほとんど何も知らないが、おそらく燃費もかなり悪いだろう。しかしそこには何かがあった。人肌の温もりのような何かだ。
「死んだおじさんの形見なんだ」と彼は言った。「というか正確には
「福井県では十六で免許が取れるのか?」
「細かいところは気にするなよ」と彼は言って、ウインクをした。
彼はその助手席に僕を乗せて、自分は運転席に乗り込んだ。当然ではあるが、ずいぶん狭い車だった。そのとき僕はあることに気付いた。「ねえ、ここは職員用駐車場だろ? 学生が停めてもいいのか?」
「これを見ろ」と彼は言って、ダッシュボードに載っていた白い紙を見せた。それは駐車許可証とか、そんな感じの書類だった。
「これを偽造したんだ。こんなの朝飯前だ。あとはサングラスをかけて、できるだけ堂々としてゲートを通る。そうすりゃ警備員のおじさんも止めたりはしない」
「なかなか度胸があるな」と僕は感心して言った。
「お褒めいただき光栄です」と彼は言った。
我々はゲートから外に出て――彼は偉そうに警備員のおじさんに手を上げた。僕は疑われないようにずっと頭を下に伏せていた――東京都郊外の街を一通り回った。正直なところ何の面白みもない風景だったが、窓の隙間から入り込む風がだいぶ気分を良くしてくれた。彼は途中で音楽をかけた。古い時代のシンプルなブルーズだった。素朴といえば素朴だが、そこには魂が宿っている。
「これはロバート・ジョンソン?」と僕は訊いた。
「いや、これは違う。もうちょっとあとの時代のものだ」
「あれから何か進展はあったのか? 悪魔は君に指令を送ってきた?」
「いや、今のところは何もない」と彼は言って、じっと前の車のテールランプを睨んでいた。トヨタの黒いワンボックスカーで、大音量で音楽を流していた。ただうるさいだけの音楽だ。
「なあ、あの人たちは本当は幸せなんじゃないか、と思うことがたまにある」
「あの人たち?」
「あの前の車に乗っているような奴らだよ」
「ああ」
「なんにも考えないで、ただ生きて、死んでいくんだ。それだけ。他人に迷惑をかけても知らん顔だ」
「まあいろんな人がいるからね」
そこで信号が青になり、車は前に進み出した。しかしまたすぐに赤信号になって、止まった。
「なあ、君は将来何になりたいんだ?」とそこで突然彼が訊いた。
「いや、まだ何も分からないよ」と少し考えていたあとで、僕は言った。「今を生きるだけで精一杯だ」
「そうか。君もそうなのか・・・」と彼は言って、しばらく何かを考え込んでいた。前の車の音楽はまだ鳴り続いている。
「それで、この間の話だけど」と僕は言った。
「うん」と彼は言った。
「君は自分の人生には意味がない、と言った。つまり最初のところで」
「そうだな」
「だからこそ神を試すことにしたのだ、と」
「うん」
「でも出てきたのは悪魔だった」
「そうだ」
「そして悪魔と契約した」
「結果的にな」
「それによって生き延びたわけだ」
「とりあえずな」
「それはどんな気分なんだ?」
「どんな気分って・・・正直まだよく分からない。なにしろまだ何も指令が来ていないからな」
「僕がいいたいのはだね、つまり君のことが結構
「なぜ?」
「なぜって、僕にはどうしたってそんな度胸は出せそうにないからだ。夜中の交差点で寝転がって、神を試すとか。十六から車を運転してたりとか。君には何か・・・明らかに普通じゃないところがあるよな」
「どうもありがとう」
「それは生まれつきのものなのか?」
「それは・・・どうかな? たしかに昔から友達は少なかったが・・・。教師には大体見離されてた。でも俺はそれをいいことにして、ずっと好き勝手やってきたんだ。両親はもう慣れているだろう」
「ふうん」
「何だそのふうんってのは」
「つまりさ、僕には全然普通じゃないところなんかない、ってことなんだ。まともな反抗期すらなかった。従順で、真面目で、大人しくて、成績は悪くなかった。本を読むのが好きで、仲の良い友達も何人かはいた。でもそれだけだ。僕が僕である意味なんかどこにもない。どこかの誰かと交換したって、あるいは誰も気付かないんじゃないかと思えるくらい」
「そんなことはあるまい」
「いや、君は違う。でも僕に関してはあり得る。僕は本当に
なんにもなし
なんだ。大学に入って、一年経って、ようやくそれに気付いた。僕は空っぽなんだよ。まるでドーナッツの穴みたいに」「なあ、今からドーナッツを食いにいこう」とそれを聞いて突然彼が言った。
「なんだって?」
「だからドーナッツを食いにいくんだ。大量のドーナッツを。穴を埋めるために」
僕は
「やらないよりはましだろう」
ということで僕らは方向を転換して駅前に向かい、コインパーキングに車を停めて、ドーナッツショップでたらふくドーナッツを食べることになった。大量の糖分と大量のコーヒー。店員のアルバイトの女の子は驚いたように我々を見ていた。Tと僕はほとんど一言もしゃべることなく食べ続けた。定番のものから、わけのわからないトッピングの付いたものまで、全種類。最初の一周が終わると、すぐに次の一周に取りかかった。我々はまるで競争するように食べ続けていた。隣の席に座った女子高生の二人組が、密かにスマートフォンで隠し撮りをしていた。でもそんなこともどうでもよかった。我々は穴を埋めるために、とにかく今はドーナッツを食べなければならなかったのだ。店のBGMではビートルズの曲が流れていた。この光景を見たらさすがのジョンも驚いたに違いない、と僕は思う。いつかリバプールに行かなくちゃな・・・。でもそう思っている間に、彼は僕の数個先のドーナッツを食べている。負けているわけにはいかない・・・。
もう胃に入り切らない、というくらいまで食べ切ったとき、世界は少し移動していた。
どちらの
方向に移動したのかは分からなかったが、店に入る前と確実に違っていることは明らかだった。我々は勘定を済ませ――彼が全額払った――店の外に出た。街を行く人々の姿はみな色