プロローグ 零落の皇女

文字数 4,089文字

「ふっ……! ふっ……! ふぅ……! はぁ……!」

 陽の光も弱い、薄暗い裏路地をひたすらに駆け抜ける。自分の息遣いがうるさい。いや、息遣いだけではない。胸の奥の心臓が張り裂けそうな程に暴れ狂っている。

 脱走(・・)してからどれくらい経っただろうか。体感的にはもう何時間も走り回っているように思えたが、僅かに見える太陽の位置は殆ど変わっていない。恐らく正味は30分も経っていないのではないだろうか。

「……っ」

 たった30分未満。いくら逃走中(・・・)とはいえ、たったそれだけで自分の身体は音を上げ始めている。()は自分の体力の無さに絶望した。

 認めるのは癪だがあの男(・・・)の言う事は正しかった。私に足りないのは純粋な体力……つまりはスタミナだ。焦ってどれだけ戦闘技術(・・・・)だけを訓練してもそれだけでは戦えない。私はそれを痛感していた。


「――おい、居たか!?」「いや、見てない」
「……!」

 路地の先から男達の声が聞こえてきて、私は咄嗟に走りを止めて物陰に隠れる。荒い息遣いを必死に鎮めて身を潜める。見つかったら一巻の終わりだ。

「こっちにはいないのか?」

「……ったく! これで何度目だ? いい加減、処刑(・・)しちまえばいいんだよ、あんな女!」


「……っ」
 忌々しそうに吐き捨てる男の声に私はギュッと拳を握り締める。

 処刑だと? ふざけるな。どこの馬の骨とも知れない下賤な南方人の衛兵風情が! 私は唯一無二の高貴な存在なのだ。お前達クズとは存在そのもののレベルが異なっているのだ。身の程を弁えて私の前にひれ伏せ、下民共め!  

 ……今すぐ奴等の前に飛び出して、こう怒鳴り付けて私の威光を見せつけてやりたい衝動に駆られるが、寸での所でそれを堪える。流石に今の状況も解らない程私も愚かではない。

 それにこいつら南方人はまともな知能さえ持っているか怪しい下等民族なので、この私の高貴さと偉大さが解らないのも無理からぬ事だろう。


 路地の先では悪態を吐いた衛兵を、もう1人の衛兵が宥めている。早くどこかに行け、馬鹿どもが!

「まあ、そう言うなって。何と言ってもあの女のお陰で新しい闘技場(・・・)の評判も上々なんだ。民や貴族のいい圧抜きにもなってるらしいし、結果としてこの『ニューヘヴン』の発展にも寄与してる立役者(・・・)様だからな」

「……っ!」
 そいつの言葉に、私は顎が痛くなる程に歯軋りした。だがもう1人の衛兵は機嫌を直して暢気に笑っている。

「それもそうか。全く馬鹿で滑稽な女だぜ。それが解ってても自分で死ぬ事も出来ずに、こうして俺達の街や国を豊かにしてくれてるんだからなぁ」

「ああ、そして街が潤えば給金も上がって俺達の懐も温かくなるしな!」

「ははは! 全くだ!」

 おのれ、卑しい下民ごときが調子に乗りおって……! 大方、私を見つけられないので腹いせに愚痴を言っているのだろう。それが解っていても腸が煮えくり返る思いだった。

 今の内にそうやって笑っているがいい。今度こそこの忌まわしい『ニューヘヴン』という名の監獄を抜け出して見せる。私がガレノスに帰れさえすればお父様も本気で戦に臨める。今度は占領などと生ぬるい措置はなしだ! 私を嘲笑った下賤の者共は赤ん坊まで一人残さず皆殺しにしてやる!


 私が報復の計画を思い描いて何とか気持ちを落ち着けている内に、ようやく目障りな衛兵共が消えてくれた。

「…………」

 それでも念の為しばらく待ってから、ようやく私は隠れていた物陰から身を出した。とりあえず他に気配は感じられない。

 よし。後は夜まで待ってから馬屋の厩舎に忍び込んで、馬を奪って逃走すればいいだけだ。この街の外れに旅人や行商人用の馬を売っている馬屋があるのは確認済みだ。

 ここではいつ見つかるか解らない。このまま厩舎が見張れる場所まで進んでから身を潜めていよう。

 そう決めた私は、なるべく物音を立てないように再び走り出そうとして――


「……衛兵をやり過ごした後しばらく待ったのは良かったが、気配の読みがまだまだ甘いぞ。手練れの闘士ほど気配を消す術に長けていると先日教えたばかりのはずだな?」


「――っ!!?」

 足が地面に縫い付けられたように止まる。嫌というほど聞き覚えのある声に、私はぎこちなく振り返る。

 案の定そこには、色素という物が抜け落ちたような白い髪と肌、そしてそれに合わせたような真っ白い服と鎧を身に着けた怜悧な雰囲気の若い男が佇んでいた。

 私自身も高貴な北方人らしく肌の色が薄く、自慢の銀髪を束ねて背中に垂らしているが、この男の白さはそういった人種の違いによるものではなく、もっと病的な『漂白』とでもいうべき退廃的な色素の薄さであった。


「ジェ、ジェラール……!」

 私は剣を抜いてその男を睨み付ける。ジェラール・マルタン。それがこの男の名だ。

 この若さでこの肥溜め……エレシエル王国の左大臣にして、この『ニューヘヴン』にあるあの忌まわしい闘技場において10人に満たない数しかいない【マスター】クラスの剣闘士(・・・)でもある、まさに鬼才とでも形容すべき男。

 その才能、才覚は私といえども認めざるを得ない程だ。

 そして……百回殺しても飽き足らない、憎きあの女(・・・)の命令によって、現在私の教官(・・)を務めている男でもある。


 ジェラールが小さく溜息を吐く。

「ふぅ……お前を実地で鍛える目的とこの街の警備の『穴』を見つける目的で、定期的にお前の脱走を容認(・・)しているが、まだ【ノービス】に過ぎん、しかも目立つ外見をしているお前1人捕捉できないようでは、この街の警備体制を根本から見直す必要がありそうだな」

「……!」
 全てはこの男の掌の上だったという事か。私は歯噛みして剣を握る手に力を込める。ジェラールはフッと笑うと、私に対して無防備に両手を広げた。武器さえ抜いていない丸腰だ。

「さあ、お仕置き(・・・)の時間だ。万が一俺を殺せればお前の脱走を止めるなと兵達に言ってある。だから殺すつもりで掛かってこい」

「……っ!」
 丸腰で……素手で私の相手をするつもりか。その上でお仕置き(・・・)だと? 私を完全に舐め切っているのは明らかだ。私の剣を持つ手が震える。恐怖ではなく……屈辱と怒りによってだ。

「わ、私を……舐めるなぁぁぁっ!!」

 怒りを原動力に、全力を持って無手のジェラールに斬り掛かる。そして……




「う……ぐ、げぇ……!」

 数分後には地面に両膝を落として腹を押さえて無様に嘔吐する私の姿があった。ジェラールは最初とほぼ変わらない体勢で、相変わらず涼しい顔のまま佇んでいる。

 ジェラールの掌底をまともに腹に喰らった私は屈辱や悔しさを感じる余裕すら失って、腹の中を暴れ回る悪魔と懸命に戦っていた。

「……気が済んだか? では闘技場に戻るぞ、クリームヒルト」

 ジェラールがそんな私を冷徹な目で見下ろしたまま私の名を呼ばわる。先程の私の叫びを聞いて遅ればせながら駆け付けてきた数人の衛兵に引っ立てられて、私は今日も闘技場という名の牢獄に連れ戻されるのであった……




*****




 超大陸アルデバラン。この大陸では南北に分かれた二大国家が、長年に渡って泥沼の大戦を繰り広げてきた。即ち北の帝都ガレノスを首都とする至高のロマリオン帝国と、南の王都ハイランズを首都とする下賤なエレシエル王国の二つだ。

 他にも大陸中央部に卑しい小国家群が点在しているが、面従腹背しか能のない取るに足らない連中なのでここでは割愛する。

 しかし泥沼の大戦は1人の英雄の登場によって幕を下ろす事になる。即ち【竜殺し(ドラゴンスレイヤー)】シグルド・フォーゲルだ。

 ロマリオンに味方したシグルドは、その人間離れした強さと圧倒的なカリスマ性で瞬く間にロマリオン軍の中で頭角を現し、次々とエレシエル軍を撃ち破っていった。そして遂には奴等の王都ハイランズを陥落させて、帝国に逆らう国王と王妃をその手で処断し、エレシエル王国を滅亡させるという快挙を成し遂げた。


 そうして泥沼の大戦は終わり、世はシグルドの偉業によって平和がもたらされた……はずだった。


 しかしその平和は長くは続かなかった。至高の帝国が支配する完璧な統治体制を理解しない下賤の低能な猿共が、事もあろうに帝国の統治に不満を募らせて、裏で結託して反旗を翻したのだ。

 そして奴等は……奴等は……くそ! その名前を思い浮かべるのも忌まわしいが、滅亡したエレシエル王国の王族で唯一の生き残りとなっていた、カサンドラ・エレシエル王女を旗頭として団結し、遂には占領したハイランズを取り戻して、旧王国領から帝国軍を追い出す暴挙を成功させてしまったのだ。

 勿論お父様やお兄様、それに帝国の優秀な将軍たちが、みすみす王国軍の残党や小国家群の猿共に敗れたはずはない。奴等は恥知らずにも、ロマリオンの皇女たるこの私を人質として帝国軍を牽制したのだ。

 それでお父様達が猿共を攻撃できないのをいい事に、奴等は調子に乗ってどんどん旧王国領を取り戻していったのだ。

 それでもあの無敵の英雄シグルドさえ健在なら、必ずや私を救出して奴等を今度こそ完膚なきまでに討ち滅ぼす事が出来ていただろう。

 だがシグルドは死んだ。もういないのだ。今でも思い出すあのフォラビアでの悪夢の日に、カサンドラによって殺されたのだ。

 あの女は卑劣な策略によって満身創痍だったシグルドに襲い掛かり殺したのだ。断じて対等な条件とは言えない戦いだった。だがあの卑怯者はそれによって【英雄殺し】などと呼ばれるようになり、エレシエルの愚民共はこぞってあの女を賛美し、その『偉業』を声高に喧伝した。

 今やあの女はエレシエルの女王となり、事もあろうにこの私を奴隷扱いして、剣闘士として闘技場で戦う事を強要した。かつてフォラビアで自らが剣闘士の立場に落とされ、それを私が嘲笑ってきた事への意趣返しなのは間違いない。

 陰険極まりない毒女め。だがそうやって悦に入っていられるのも今の内だ。私は必ずやお前の思惑を飛び越えて、この街から生きて脱出してやる。そして私を生かしておいた事を必ず後悔させてやる。その為なら石に齧りついてでも生き延びてやる!
 
 その日を楽しみにしているがいい、カサンドラめ!
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