文字数 10,234文字

 私は、この程度の強引さで心動かされる人間だったろうか。結局OKしてしまった今日の約束。
 本当は嬉しいくせに、
「前からの約束がキャンセルになったから、しかたなく行くんですよ」
 と伝えることは、忘れなかった。日曜日、高木が誘ってきた。近所の小学生五、六人と公園で遊ぶ約束をしているけど、いつも来る相棒が怪我をしたと言う。代わりに私に手伝え、と。
 彼方、上野を経由して第一報を受けた時は、そんなにまでして私とコンタクトが取りたいのかと、気味が悪かった。改めて私から連絡をして、詳しい事情を聞く。
「ええ!」
 驚く。日曜日でも親が働いていて不在の小学生といつも広い公園で遊んでいるという。
「そういうのいいんですか? 副業として保育園にばれたら、どうするんですか?」
「え・・副業? お金なんてもらってないですよ」
 さらに、びっくり。お金ももらわず、せっかくの休日を子供たちと遊ぶなんて、どういう神経をしているのだ。
「本当は、彼方くんとかも呼びたいけれど、それこそ園に知られるとまずいから。特定の子をかわいがってはいけないという規則があるので」
「休まなくて保育園の仕事に支障出たら、どうするんですか?」
 高木は、電話の向こうで笑っているようで、
「だって、仕事じゃないですもん。僕にとっては遊びですから」
 そうは言っても、子供の安全に気をまわしたり、肉体的には疲れるだろう。
「私がもし行くとしたら、お金をもらわないと割が合いませんね。休日つぶして行くんですからね。あくまでも、もし行くとしたらですけど」
 こういう嫌味を言えば、たいていの人は嫌な気分になり、すべての提案を引っ込めるのが常。ところが。高木は。
「ははは」
 と声をあげて笑い、
「お金の代わりに愛をあげるから。無制限だよ」
 と早口で、告げた。
「今、なんて・・・」
 よく聞きとれなかったし、そもそもの意味も理解できなかった私は、消え入るような声で聞き返した。
「愛をあげるから。無制限だよ」 
 なんのてらいもなく、心持ち声を大きくした、寸分たがわぬ二回目の言葉たち。虚を突かれた私は、気の利いた嫌味の一つも返せず、それを肯定の返事と誤解した高木は、待ち合わせの場所、時間、持ち物などを早口でまくしたてて、一気に説明した。
 愛を、無制限。そんなことが、可能なのか。
 愛は、どのようにして無制限に作り出せるのか。そもそも愛は、作れるのか。もし本当に高木が私に愛をくれると言うのなら、私はそれをどのようにして受けとるべきなのか。愛に飢えているという自覚のある私の心は、たとえどんなに愛を注がれても、全く浸透せず雨水よけのコーティングを施した車のようにそれをはねかえしてしまうのではないか?
 それとも、愛というものを知らないもので、たとえもらっても、無用の長物として処理され、捨てられてしまうのではないか。
 動揺していた。
 ずっと考えてしまう。こんな事を、普通の人は思ったり感じたりして生きているのか。そのこと自体、全く受け入れられない。こんな満ちたりた温かい気持ちを持って、皆生きているのか。
 なんという差だ。しかしながら、少し浮かれた心のすぐ隣で、
「だめだめ、信じちゃ。また裏切られるよ、ただ日曜に来てほしくて、口から出まかせ言ってるだけなんだから」
 と、せっつくもう一つの声がする。
「それも、あんたが好きだからじゃあなくて頭数よ。本当は、誰でもいいんだから」
 声は、ますます反論できないような強い調子へとボルテージを上げていき、とうとうその悪魔のような声が勝利をおさめてしまう。
「そうだ、こんな私が好かれるわけないもんね。ぬか喜びになるから期待するのは、よせ」
 自分に、命令。だけど、その声は、涙声だった。

 行った。その日曜日は、少し風が強くて、用のない日なら家にいたいくらいの日和だった。けれども、気温は申し分なく、ふと風がやむと外にいるのが嬉しくなるような陽気だった。
 高木は、待ち合わせの場所にすでにいた。
 大ぶりのクーラーボックスの上に座り、きょろきょろしている。四方八方見ているので、私の方が先に気づいた。
 行きかうたくさんの人が垣根となり、私がかなり近くに行くまで、気づかなかった。私を認めると立ち上がり、軽く手を振った。
 私は。挨拶を、返さない。しかたなく来た感じを装い、精一杯不機嫌を演じる。
 高木は。全然気にしない。
「さ、行こ」
 クーラーボックスを引きずり、歩き出す。
「ずいぶん重そうだけど」
「ペットボトル二リットルの水が三本、あとは五百のが五本。こっちは、色々清涼飲料水系。重いぜ。それと氷と保冷剤」
 キャスターも、軋んでいる。こういう時、普通の女なら、
「一緒に持ちましょうか」
 とか言うんだろうか。持ったところで、大した戦力になりはしないから、労いの言葉を思い切りかけるのかもしれない。
 わからない。やったことがない。この年まで。こんな時はどうふるまうのが一番良いのかが。
「今日は、小学三年と四年の男子が五人来るんだ」
 男子。ビクッとする。その言葉のどこに棘があるのか。少し考えていくと、すぐに思い当たった。小・中学校時代の男子は、私の存在そのものを否定してかかった。
「う、こいつ臭い。風呂入ってんのか? 髪の毛なんて見ろよ、油塗ったみたいになってるぞ」
 誰かが言うと、ためしに他の数人が私の頭部に顔を近付ける。
「う、本当だ。臭すぎるぞ、ばい菌撒き散らすなよ」 
 夏でも水がもったいないとか言われて、週に一度しか入浴を許されていなかったから、本当に臭かったと思う。たわむれに身体をこすると汗に混じって、丸くなった垢が出てくるが、それは黒かった。あの女は、毎日シャワーを浴びていた、自分のためなら、水はもったいなくはないのだ。あの日、銭湯に行ったのは、きっとシャワーさえ故障していたのだろう、と思う。
 あの女からは「臭い」と言われたことは、ない。何故なら、臭いが届くような至近距離に入ったことなどないから。
 もしちゃんと清潔にしていたら、こんなひどいことを言われなかったかもしれない。いや、たとえ言われても、母親という人間がまともだったら、その胸に飛び込んで、慰めてもらえるのかも。
 つまり。私の周囲は、全てが機能していなかった、と言える。一つでも取り付く島があったなら。今考えただけでもひどすぎて、心が泡立ってしまう。どのくらい過去に引き戻されていたのか、気づくと高木は二メートルほど先を歩いていた。
「ちょっと待ってよ、早い」
「あ、ごめん」
 全く悪びれない。高木は、振り向いてニカッと笑った。
 その男子達は、元気一杯の五人だった。午前中は、塾に行っていたという。帰っても誰も家にいなくてつまらないので、こうして時々高木が遊んであげるのだというが、本当に不思議だが、高木の言葉、態度には「遊んでやっている」といったようなうがったところが、全くない。せっかく遊ぶのに自分は年を重ねた分だけ分別がついて悔しい、とでも言うかのように思い切り彼らと走り回っている。
 結局私は、クーラーボックスと彼らの荷物の見張りを頼まれたようなものだ。しかたなく、ベンチに座りながら番をする。三つのエリアに分かれる比較的広いこの公園は、樹木が多く、時折り皆の姿が全く見えなくなってしまうことがある。そんな時、ふと心配になり、目で彼らを探してしまう。何の心配だ。迷子になるような年齢じゃなし。変質者の出るような時刻でもなく。自分でもよくわからない感情だったけれど、自分ではない他の人に思いを馳せるというのは、こういう気持ちなのか、と思った。
 ザザザザーと音が背中からして、男の子五人が戻って来た。顔が、上気している。
「あー、みーやん暑かったでしょう。なんか飲んでればよかったのにー」
 面食らう。初対面のこの子たちにも、「みーやん」と呼ばれてしまう。高木が教えたのだろうか? 屈託なくそう言われても、気の利いた言葉が返せず沈黙を守っていると、他の子がクーラーボックスの蓋を開けて、その中に手を突っ込む。
「つめてー、気持ちいー」
「俺もやるー」
 先を争って、氷と氷の間に手を入れて、笑い合っている。
「お、今日はコーラある。高木くん、この前のこと忘れなかったんだな」 
 高木くん。その呼び方にも、戸惑ってしまう。慣れ慣れしすぎやしないか。私の「みーやん」は、あだ名のカテゴリーに入れても良いが、「高木くん」は、示しがつかないのでは。誰も、注意しないのだろうか。
 ペットボトルのコーラを取り出して、キャップをひねったところへ、高木が戻って来た。
「見つけたぞ、ほら」
 なくなったボールを探していて、遅くなったようだ。
 その時。褐色の液体が噴出し、あたりに泡を撒き散らした。ヒロキと呼ばれた子が、ペットボトルを持ち、とてつもない笑い声を上げている。ミサキという子が、こっそりボトルを振ってから、ヒロキに渡したらしい。その甲高い笑い声は聞いているだけで、こちらも楽しくなってしまうが、同時に私は、びくびくもしていた。あーあ。こんなことして、怒られるだろうな。私はまるで自分がやってしまったような気持ちになり、高木の叱り声を覚悟した。そして、全く無意識に言い訳を考えていた自分に驚く。
「私が悪いんじゃない。振ってあったなんて知らなかったんだから」 
 ヒロキの気持ちを代弁するような言い訳。少しでも自分に非がないように、防御しなければ、ぐいぐいと押されてしまう。何に? あの女に。
 あの女は、どんな小さな失敗も許してはくれないから、何かヘマをした時に真っ先に考えるのは、この場面をどうすればやり過ごせるかということ。たとえ百パーセント私が悪くなくても、どっちにしろ責められるのだけど。その事態を避けるためには、嘘をつくことなど、なんとも思わない。その嘘で、自分が傷つかなくて済むのなら、いくらでも嘘を考え、それをあたかも事実と思いこむ癖がついていた。
 ヒロキは変らず大声で笑っているので、私は高木の方を盗み見た。
 おかしい。高木は、周囲の茶色い泡など見えないかのように、全く普通の面持ちでベンチに座り、汗を拭いているだけだ。
 信じられないので、もう一度凝視すると、目が合ってしまう。すこしだけ目を大きく見開き、
「何?」
 というような表情をする。
 あわてて、目をそらす。どうして怒らないのか。聞きたいが、会話の糸口をつかむ口実に思われそうで、躊躇した。
 気にはなるが、高木と親しい会話をするつもりはない。しかし、今日の高木の物言いはまるで友達に対するかのように、カジュアル。
 私のことを、友達だとでも思っているのか。そのことが会った時から、ものすごく気になっている。
 今日は断るタイミングを逸したから、しかたなく来ただけ。二度と来ない。
 なんだか、急に周囲の温度が上がったようだ。暑い。子供達の熱気のせいだ。近い。彼らとの距離があまりにも狭く、呼吸をすると当然のごとく汗の匂いのおまけがついた。
 この日向を凝縮したような、匂い。そんなに嫌だろうか。嫌ではない。むしろ良い匂いの部類に入る。
けれども、次の瞬間、自嘲気味に笑ってしまう。
「この子達の匂いは、成長の証。夕べ、もしくは今朝にシャワーを浴びているだろう。だから、清潔。あの時の私の臭いとは、違うから」
 こうやって、一人何度でも過去に引き戻されるのだ。ある物、出来事が過去と厳重に紐付けされているかのようで、本当に辛い。
 時折り、強い風が吹き、近くにある砂場から細かい砂が舞い上がる。
「みーやん、はい」
 ヒロキが、ペットボトルを投げて来る。あわてて手を差し出し、かろうじて受け止める。振ったかもしれない。キャップを開けたら、先程の二の舞になるかも。
「いらない」
 断る。
「いーよー、遠慮するなってー。荷物番するだけでも喉渇くだろー」
 ヒロキがボトルを奪い返し、
「俺が開けてやるよ」
 と言った瞬間、再び茶色い噴水の出来上がり。
 この世のものとは思えない笑い声をあげた。喜ぶ。そんなに、おかしいことか。私には理解出来ない。どちらかと言えば、その笑い声の方が、面白い。
「はい、みーやん。大分減っちゃったけど」 
 そう言って、また笑い転げる。
「いらないです」
「またまた意地張っちゃってー、良いから飲め」
 仕方なく私は、コーラを少し飲む。それを見た五人は、満足げに頷き、少し離れた木陰で休憩しはじめた。
「雅さん、子供の部分がむき出しになっているから、子供達にこういう扱い受けるんですよ」 
 高木が隣りに座ってきて、紙コップに注いだ水を一気に飲んだ。
「むき出し?」
 どういう意味だろう。
「そうです。普通大人は、ひとしきり遊んで帰ってきた子供達の世話を焼こうと、タオルを出したり、わざわざ一人一人に飲み物を配ったりするんです」
 そうなのか。知らなかった。たとえ知っていても、そのような行動をしたかどうかは、自信がない。
「熱中症の心配をしたり、当たり前なのに楽しかった? とか聞いたりね」
「私親じゃないから、そんなことどうでもいい」
「親じゃなくてもなんですよ。人の子供でも、いちいち大人としてきちんとしなくちゃと、なんか張り切っちゃうんですよ」
 高木は、もう一度コップに水を注いで、そしてまたたくまに飲み干した。
「でも、そんなの子供は、望んでいない。さっきのコーラの噴水だって、普通の大人は怒りますよ、ふざけないで! とか」
 なんだ。気づいていたのか。
「僕は、人間として最低限のマナーは教えているつもりなので、普段彼らは、あんなことしない。食べ物無駄にするなって言ってあるから」 
 では、なぜ今日は。
「初めての人が来ると、よくボトルを振っているから、あれで信用出来る人かどうか測っているつもりなんじゃないかな。だから僕は、こういう時は怒らない」
 深い理由。驚く。
「つまり雅さん、試されたんですよ、あの子達に」
「どういうことですか」
「どういう理由かわからないけど、雅さんポーカーフェイスを決めてたでしょ。そしてボトルを渡された時も、真顔で断ったでしょ。あんなことする大人、いませんから」 
 私は、彼らの試験のようなものに、合格したという。子供にとって、殆どの大人は、口うるさく鼻持ちならない。やけににこやかに近づいてきて、大人の思うレールに乗せて、手なづけようとする。
 私には、それが全くないのだと。ないだろう。当然。私は誰にも期待していないから、手なづける必要もない。そういう諸々の事情が、かえって子供には心地良いらしい。不思議なものだ。
「雅さん、やっぱり職業間違えたんじゃないの?」
 唐突に、高木が言い出す。
「え・・・・」
「子供はみんな知ってるんですよ。彼方くんを迎えに初めて来た時から、すごい吸引力だなーって感じてた」
「ああ、突然知らない子に背中に乗っかられて」
「あんなこと、僕半年くらい経たないとやってもらえませんから」  
 そんなものなのか。
「雅さん、今からでも遅くないよ。保育士になりませんか。絶対に、向いてるから」
 何を言っているのだ、この男は。私のことをよく知りもしないで、おめでたい奴。
 私は、急激に高木に嫌悪感を抱いた。たしかに気づいたことはある。彼方をはじめ子供と言うのは、なんとなくかわいい。けれども子供といると、ちょっとしたことで幼い頃のことが蘇って、動けなくなるほど辛くなってしまうことも増えたのだ。
 さっきのコーラの時だって、自分をコントロールするのがひと苦労だった。そんな状況に日々なりやすい仕事なんて。出来るわけがないではないか。
「ふざけないでくださいよ。私一人で暮らしてるんですよ。転職して給料減ったら生活できませんから。そんなことありえない」
 高木は、動じない。賃金格差について皮肉ったつもりなのに、全く気を悪くした様子もない。
「雅さんねー、本当のお金より愛の貯金がないことの方が、深刻だよ。ま、それはこの間電話で話したように、僕が無制限であげるからもう大丈夫なんだけど」
 高木への嫌悪感の数値の目盛りが、止まる。そして、すーっと、ゼロに下がっていく。
「どういう意味でしょうか」
 高木は、私の目をものすごい目力を持って、覗きこみ、
「雅さんは、今砂漠の植物。間違ってそこで発芽しただけだから、もともとの種は、良い種。どうしても必要な水分が長い間もらえなかったから、息も絶え絶えだけど、大丈夫。それは僕が充分に差し上げられるからって、言ってる」
 たとえ話をする時、というのは、相手が理解力に乏しくて、ストレートに言ってもわからない時。やさしく噛み砕いて、本質をわかってもらおうとする時。何かの本に書いてあった。
 私は、高木の言葉を聞いて、ますますわからなくなってしまった。種って。水って。
「僕は今日雅さんが来てくれて、本当に嬉しい。子供達も同じ気持ちだと思うけど、多分僕が一番嬉しい」
 この人は。どうしてこう、何の気負いもなく、こんなことが言えるのか。危ない。ダメだ。絶対に信用しては、いけない。その気になって、はしごをはずされてしまったら、私は奈落の底に堕ちてしまう。腰を打って、立ち直れなくなってしまう。そんなこと、この年でできやしないのだから。
「おーい、みーやーん! ちょっと来てー」
 ミサキに、呼ばれた。砂場に水を流し込み、何か作っているようだ。
「いいなー雅さん、呼ばれてー」
 高木は、本気で悔しそうだ。そんなことって、あるのか。つい高木を睨みつけてしまう。私を喜ばせようと企んで、わざと言っているのか、と考える。そうだとしたら、あんまりにも見え透いていて、がっかりしてしまう。
「高木くんも、来い」
「おっ、呼ばれた! やった!」
 今度は、本気で喜んでいる。呆気に取られつつ、こんなに単純に感情の変化を、他人に見せつける高木を脅威に思う。
 子供達は、砂に飽き、幼児向けの遊具にまたがり、大きく揺らしたりしてスリルを楽しみ始めた。
「こんなことして明日疲れて、本業にさしさわり出たら、どうするんですか」
 高木は、子供達の動きを見つつ、
「出ないさ。まだそんな年じゃないから」
 全く動じない。意地悪のつもりで、聞いたのに。
 私の悪気が、通じない。
「さっき、初めての人にはコーラで試すとか言ってたけど、そんなに沢山人が来るなら、今日だって他の人に頼めたんじゃないですか」
 さらに皮肉めいた質問を加える。
「え? ああ、今まで来たことのある人ってのは、僕が頼んだわけじゃないのさ。たまたま休みだった誰かのお母さんとか、僕の後輩。保育の専門学校のね。そういう奴がぜひ実習の代わりにやらせてって何人か来たってこと。僕がお願いしたのは、雅さんが初めてだから」
 一気に言われ、高木の勢いにとらわれ、次の言葉が紡げなかった。それでも、どうしても言い負かしたくて、必死に考えを巡らす。
「でも、小学生相手じゃ、保育士としてのキャリアアップにもならない気がするけど。せめて保育園児探したら? 無駄でしょ」
 高木は、ニカっと笑い、わかってないなーと言うような表情をして、私の方に身体の向きを変えた。
雲が動いたのか、急に二人の間に日の光が差し込んでくる。そのまぶしさに、一瞬目をそらした高木は、次にはさらにまともに私の目を見つめてきた。
「僕には、夢がある。保育園と学童保育を一緒にした施設を作りたいんだ。雅さん、知ってる? 保育園の次は小学校だよね」 
 そんなこと、知っているに決まっている。
「低学年のうちは学童保育があるけど、高学年はないんだ。高学年といっても、十歳かそこらだぜ、親だってまだまだ心配なんだよ」
 そんなものか。私は、自分の小学校時代を思い出していた。あの女は、家にいたりいなかったりだったが、そもそも学童には入れてもくれなかった。学童代も、もったいなかったのかもしれない。
 留守の時は、いつ帰るかもわからないあの女を待ちわびて、心細い時間を過ごしたものだ。思い出したくもない。火事を出されると困るから、とガスを使うのは禁じられ、真冬でも使用が許されているのは、電気毛布のみ。電気ストーブは電気代がかさむから、と買ってもくれなかった。毛布に包まり、空腹感に苛まれ、動くのも一苦労だった冬の日々。
 そんな時、誰かが一緒にいてくれたなら、温かい飲み物で掌を温められたなら、どんなにか心強かっただろう。その誰かにあの女のひどさを訴えることができたら、もしかしたら、もしかしたら、助けてくれたかもしれない。高木が言っているのは、そういうことなのか。たしかに。誰かがいてくれたら、心細さは半減する。
「それに、雅さん知ってる? 高学年でインフルエンザになるとするでしょう。登校しちゃいけないんですよ。えーと解熱後五日間だっけな」
「そんな規則あるんですか、知らなかった。熱あって寝てるのも辛いけど、元気なのに学校休まないといけないってのも、厄介ですね」   
 私が言うと、高木はその通り、という表情をして大きく頷いた。
「さらに」
 今度は遠くにあるポプラの並木を見て、少し悲しげな声色になった。
「高熱でも、幼稚園児じゃないから親もなかなか仕事を休めない。そうすると一人で寝ていて、熱譫妄(せんもう)起きたらどうします?」
「熱譫妄・・・」
「インフルエンザの薬が一時期悪者になっていたけど、高熱が出るだけで幻想、幻覚が現れる子もいる。熱にうなされるって言うのも、そこから来てるんじゃないかな」
 さーっと風が流れていった。これから、気持ちの良い季節がやって来る、という印のような風だ。私は、それに身を任せ、少し乱れてしまった髪もそのままに、高木の説明に耳を傾ける。
時折り届く子供達の歓声は、安全に遊んでいる証として、私に安心感を与えていた。
「で、そんな子を置いて出かけるのは心配。子供も、心細い。何より・・・事故が起こったらもう取り返しがつかない」
「うわ。本当だ。私が子供の頃は、そこまで働いている母親はいなかったから。今は、大変」
 高木に具体的な私の幼少期について尋ねられたらたまらない、とあくまで一般論で押し通す。
「実際にそういうケースがあったのを、新聞で読んで、僕は新しい形態の施設を作ることを決心したんだ」
「そういうケース」
「一人で寝ていて、マンションの高層階から飛び降りて亡くなっちゃったっていう・・・」
 どうしたことだろう。なんだか見も知らないその子のことが、本気で気の毒になっている。最近、おかしい。前は、虐待が原因で保護された子のニュースなどを見ると、
「保護されただけまし。私なんか、今でも苦しんでるんだから」
 と必ず自分に引き寄せて、悪態をついていた。
もっとひどい時には町中で、ヒステリックな母親に怒鳴られてしゅんとなっている子供を見ると、
「ざまぁみろ。そんな親のもとに生まれた運命を呪うのね。私みたいに、苦しめばいい」
 と、せせら笑っていた。
 それで私の溜飲は、下がったか。全然。全く下がらなかった。
 それが、彼方や高木と関わるようになってからは、そういうねじくれた発想をしなくなった。その類のことを言うと、笑い飛ばされる。
「そんなこと言わないの」 
 と笑顔でたしなめられる。そうすると、それ以上言う気が失せる。
 この人達には、私の毒舌の矢が刺さるためのスペースがないのだ。生まれた時から、持ち合わせていないようだ。何故なら。不要だから。不安になったり、悲しんだり、時にはそういうこともあるかもしれない。けれども、都度誰かがそれを受けとめてくれたのだろう。
 不安や不満は、きっとネガティブの温床。誰も掃除をしなければ、どんどん消極的な感情が積もり、ぷくぷくと泡の浮く泥沼になっていくのだろう。その水面には、確かに矢はズブッと刺さりやすい。いつも誰かが、心を込めて掃除してくれている彼らの心には、そのような沼は、存在しない。そういうことが、段々とわかってきた。
 真弓には。次から次へとひどい罵りを投げつけていた。彼女が次第に気分を害し、それを隠そうと取りつくろうのが面白くてしかたがなく、ますます言葉のいが栗を投げつけたっけ。
 そうか。真弓は、それを上手に受けとれないから、あんな顔になったのだ。自分が仕掛けておいて大変に失礼だけど、彼方みたいに無邪気になるでなく、高木みたいにどこ吹く風で取り合わないでいるわけでなく。 
 申し訳なかった。今さら、遅い。上野は、少し真弓に似ていた。
「そんなこと言わないで、悲しいから」
 と言った時の瞳は、真弓を思い出させた。
 深く一人の世界に入り込んでしまったようで、気づけば子供達は、再び戻ってきて、健康的な汗と乾いた太陽が混ざった匂いを撒きちらしていた。それは、全然嫌な臭いではない。子供時代しかかもし出せない名香「子供香水」だった。 
 

ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み