Bi-curious

文字数 2,000文字

「――あいつ、また浮気をしているな」
 冥界の王であるハデスが重々しい玉座に座りながら深く溜息を()いた。彼の眼前には永遠に燃え続ける青白い炎が揺らめいていたが、その火照るような光景でさえ彼の心を晴らすには至らない。
 地上から届いた噂話や様々な報告書には、ゼウスの名と共に美しい女性達の名前が散りばめられている。ハデスはそのリストを見ては隠蔽工作をすることの面倒臭さで、ぎしぎしと軋むような頭の痛みに襲われていた。
 それにしても、ヘラの苦労が目に浮かぶようだ。ハデスはゼウスの正妻であるヘラの怒りと嘆きに満ちた愚痴にいつも付き合わされていたので、末弟の悪行についてはこれでもかというくらい知っている。しかし、困っているのはヘラだけではないはずだ。彼に言い寄られている女性達も同様であろうし、その事実に自分自身も苛立ちが隠せなくなってくる。
 このような苛立ちを感じるようになったきっかけは分からない。始めは末弟のふざけた態度に怒りを抱いているだけかと思っていたのだが、どうやらそういうわけでもないらしい。ゼウスなんていうのは末弟にしては可愛くない性根の腐った浮気野郎で、自分も散々なほどに騙されてきた。なんだったら、今だって『冥界の王』という名前だけは無駄に恰好良い貧乏くじを引かされたままでいる。それなのに、何故なのか?
 冥界の王としての務めは山積みなのに、末弟への意識が彼の頭を支配していて、思考は乱れ続けていた。その内訳は意外なもので、嫉妬や羨望といった、似たようで違っている二つの感情によるものである。そこにはとっくに導き出されている『答え』があるはずなのだが、鈍感で奥手な彼には難しい問題だったのかもしれない。
 そんな彼の荒れた様子に気が付いた番犬のケルベロスがハデスのもとへと近寄って、彼の苦悩を理解しているかのようにその場に座り込んだ。
「ああ、ケルベロス。私はどうすればいい?」
 ハデスはケルベロスに向かって、彼だけが分かっていない問いを投げ付ける。しかし、ケルベロスは気を遣って『よく分かりません』と首を傾げるだけで、事を済ませるのであった。
 一方、当のゼウスはというと、兄に浮気を隠蔽させようとしたことを正妻にこっぴどく叱られて、ようやく反省部屋から出てきたところであった。
「貴方、お兄様に隠蔽工作をさせるとか、どういう育ち方をすればそんな発想になるのよ?」
「いやあ……悪いとは思ってるんだけど、兄さんなら優しいし行けるかなって……」
 顔を掻きながら小声で答えるゼウスの姿に、ヘラが頭を抱えてヒステリックに叫んだ。
「もうっ! いい加減にしなさいよ! お兄様がどんな気持ちで貴方と向き合っているのか知ろうともしないで!」
「うん? どんな気持ちって、どういうこと?」
「あっ……――」
 ヘラが咄嗟に口を押さえる。それを見たゼウスは『ふーん』と思わせぶりな態度を取って、ヘラに挑発を仕掛けた。
「ちょっと、今のお兄様には絶対に言っちゃ駄目だからね!」
「俺がどうするかは俺が決める。いつだってそうだっただろう?」
「何を偉そうに! 格好つけても浮気の証拠は無くならないわよ!」
 何とか止めようとするヘラの脅しを軽く(かわ)したゼウスは、正妻の漏らした言葉の真実が知りたくなって、面白半分な気持ちのまま冥界へと向かってゆくのであった。
「よう、ケルベロス。兄さんはいるか?」
 冥界の入り口に到着すると、ゼウスはケルベロスに軽く手を振って挨拶をする。ケルベロスはゼウスを認識すると『いますよ』と静かに頷き、道に通ずる門を開けて彼を通した。ゼウスが玉座の間に入ると、ハデスがその足音に気が付いて、持っていた書類から視線を持ち上げる。
「貴様、何をしにきた。隠蔽の追加だったら今度こそ許さんぞ!」
 ハデスが威嚇するように言葉を尖らせると、ゼウスは両手を上げて弁解を示した。
「違う違う! 今日はただ、ちょっとした確認をしたくて」
「……確認?」――ハデスがその言葉に怪訝な表情を浮かべる。
「そう。これは仮の話なんだけど……兄さんって、俺のことが〝好き〟なのか?」
 その言葉にハデスは完全に凍り付いた。自身のこの感情が『好意』とは、一体どういうことなのか。そして、どうしてそのことを末弟が聞いてくるのか。真相はさておき、今の状態のハデスではどう答えるべきかなど分かりようもなかった。
「ああ、やっぱり。まさか兄さんが

だったとはなあ」
 笑みを浮かべた整った顔立ちの青年がこちらに近付き、ぐいっとこちらの顎を持ち上げる。その姿を見て、ハデスはようやく自身の心を蝕む全てを理解した。
 なんという快感――これが被捕食者の感覚というものなのか。これから自分は何をされてしまうのだろうという期待に胸が膨らみ、気がおかしくなってしまいそうになる。
 ――今夜はおそらく、自分も彼の浮気癖による一人の被害者となってしまうに違いない。
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