第25話 経済成長への出口戦略
文字数 2,324文字
(経済成長は生産性の問題です)
1)平均値の問題
アメリカの景気が落ち込んで、ビッグテックはレイオフをしています。レイオフは化学企業のダウにも及んでいます。
新聞は、アメリカはレイオフして大変のように記事をかきます。
如何にも、アメリカは悲惨で、日本はよいと言わんばかりです。
しかし、レイオフすれば、生産性は落ち込みません。
農村から都市へ人口移動があったときに、過疎問題があるといった人文的文化の研究者がいました。その人は、過疎問題は止めるべきだと思っていたのでしょう。
現在、日本では、レイオフを原則禁止しているので、レイオフ問題は表面化しません。
本来であれば、アメリカの企業と同じようにレイオフしたい経営者は日本にも多くいるはずです。
過去30年間、アメリカは、解雇と雇用を繰り返し、そのダイナミズムの中で生産性をあげてきました。
日本が、レイオフをしないことは生産性がさがり、給与が下がることを意味します。リスキリングしても、就職口がないことを意味します。
つまり、問題が多いのは、新聞には記事が載らないレイオフできない日本の方です。
なぜなら、生産性が低下し続けるのを、放置せざるを得ないのですから。
この状態を放置して、政府は賃金を上げるといっていますので、人文的文化の発想でしょう。
イギリスでは、1979年5月から 1990年11月まで、サッチャーが首相になり、民営化を進めます。人文的文化では、サッチャーの政策は、サッチャリズムと呼ばれる独自の主義であると評価されます。科学的文化では、平均生産性を上げるために、生産性の低い部門を廃止して、生産性の高い部門に切りかえることを意味します。これは、サッチャーの独創ではなく、単純な平均値の計算問題です。
日本でも、道路公団などの民営化が行われますが、体系的に生産性がモニタリングされてはいません。
民主党政権では、行政仕分けと言って無駄な事業は中止させるという魔女狩り裁判が行われました。大切なことは生産性のモニタリングでした。生産性の低い事業は、基本的に中止すべきです。しかし、生産性の低い事業でも、必要な事業はあります。そうした場合には、追加投資をする代わりに、人べらしをして生産性を上げなければなりません。生産性の値をどう使うかは、為政者の判断ですが、判断基準の値は必須で、これがなければ、説明責任は果たせません。民主党の政治家は、人文的文化で、科学的文化の生産性の数字が理解できなかったのです。
現在の政府は予算をばら撒きますが、予算の生産性への寄与はモニタリングしていません。
予算をばら撒いた結果、生産性の低い部門が経済から退出したという話は聞きませんので、恐らく、生産性への寄与はゼロに近いでしょう。
政府は、補助金を増やして、財源がなければ、増税する計画です。
野党は、増税せずに、補助金だけを増やせと言います。
あるいは、経済成長があれば問題はないはずだといいますが、経済成長をする方法は提示されません。
どちらも、同じ、人文的文化の発想で問題解決になりません。
これは、数学の問題です。生産性を上げるために、出来るだけ速く、労働者を生産性の低い部門から、生産性の高い部門に、移動させる以外に方法はありません。
過疎問題と同じような解雇問題は発生しますが、そのダメージは、日本社会の将来の所得、年金、医療が崩壊して、犯罪が多発する時に起こるダメージに比べれば、はるかに小さなものです。
裁判官は解雇は違法という判決を出します。しかし、解雇しないことが、日本の社会を破壊してしまうのであれば、合法か違法か以前に、必要であれば、法律を変えて、日本の将来を良い方向に導く倫理的な責任があります。倫理的な責任は、法律を変える原動力なので、合法性より優先するべきです。
2)デジタル社会の課題
デジタル社会の企業の生産性は、工業社会の企業の10倍近くあります。オーダーが違います。その差は、有効なソフトウェアの開発にあります。その内容については、次回に考えます。
高度成長期は、農業から、工業に、労働者が、人口移動することで、生産性があがりました。
同様に、デジタル社会では、工業から、デジタル企業に、労働者が人口移動することで、生産性が劇的に上がります。
GAFAMのエンジニアの給与が高いことは、このことを示しています。
問題は、日本には、デジタル企業が見当たらないことです。
人文科学のドキュメンタリズムは、雨ごいにその典型をみることができます。
雨が欲しい=>雨を作る組織を作ればよい
という発想が人文的文化のドキュメンタリズムです。
そこには、実現のための要素(変数、人、材料)と方法(アルゴリルム、加工法)がありません。
エンジニアは、材料を加工してモノをつくります。
ベンチャー育成の予算を増やしても、それは、ドキュメンタリズムでしかありません。
本当に優秀な人は、日本で補助金をもらいません。アメリカにいって、ベンチャーに参画するはずです。
日本には、ベンチャーのエコシステムがありませんので、お金で解決できる問題ではありません。
正しい方法は、わかりませんが、間違いはわかります。
1990年代に、数学を駆使した金融工学が立ち上がりました。その流れは現在のデータサイエンスに繋がっています。
スノーが言うように、「人文的文化と科学的文化の間にギャップがある。科学的文化をマスターしなければ生き残れない」と考えていたら、日本の銀行や証券会社にも、欧米並みの高給取りのデータサイエンティストが多数活躍していたはずです。そうならなかったのは、日本の銀行や証券会社には、人文的文化で、科学的文化の問題も扱えるというおごりがあったとしか思えません。
1)平均値の問題
アメリカの景気が落ち込んで、ビッグテックはレイオフをしています。レイオフは化学企業のダウにも及んでいます。
新聞は、アメリカはレイオフして大変のように記事をかきます。
如何にも、アメリカは悲惨で、日本はよいと言わんばかりです。
しかし、レイオフすれば、生産性は落ち込みません。
農村から都市へ人口移動があったときに、過疎問題があるといった人文的文化の研究者がいました。その人は、過疎問題は止めるべきだと思っていたのでしょう。
現在、日本では、レイオフを原則禁止しているので、レイオフ問題は表面化しません。
本来であれば、アメリカの企業と同じようにレイオフしたい経営者は日本にも多くいるはずです。
過去30年間、アメリカは、解雇と雇用を繰り返し、そのダイナミズムの中で生産性をあげてきました。
日本が、レイオフをしないことは生産性がさがり、給与が下がることを意味します。リスキリングしても、就職口がないことを意味します。
つまり、問題が多いのは、新聞には記事が載らないレイオフできない日本の方です。
なぜなら、生産性が低下し続けるのを、放置せざるを得ないのですから。
この状態を放置して、政府は賃金を上げるといっていますので、人文的文化の発想でしょう。
イギリスでは、1979年5月から 1990年11月まで、サッチャーが首相になり、民営化を進めます。人文的文化では、サッチャーの政策は、サッチャリズムと呼ばれる独自の主義であると評価されます。科学的文化では、平均生産性を上げるために、生産性の低い部門を廃止して、生産性の高い部門に切りかえることを意味します。これは、サッチャーの独創ではなく、単純な平均値の計算問題です。
日本でも、道路公団などの民営化が行われますが、体系的に生産性がモニタリングされてはいません。
民主党政権では、行政仕分けと言って無駄な事業は中止させるという魔女狩り裁判が行われました。大切なことは生産性のモニタリングでした。生産性の低い事業は、基本的に中止すべきです。しかし、生産性の低い事業でも、必要な事業はあります。そうした場合には、追加投資をする代わりに、人べらしをして生産性を上げなければなりません。生産性の値をどう使うかは、為政者の判断ですが、判断基準の値は必須で、これがなければ、説明責任は果たせません。民主党の政治家は、人文的文化で、科学的文化の生産性の数字が理解できなかったのです。
現在の政府は予算をばら撒きますが、予算の生産性への寄与はモニタリングしていません。
予算をばら撒いた結果、生産性の低い部門が経済から退出したという話は聞きませんので、恐らく、生産性への寄与はゼロに近いでしょう。
政府は、補助金を増やして、財源がなければ、増税する計画です。
野党は、増税せずに、補助金だけを増やせと言います。
あるいは、経済成長があれば問題はないはずだといいますが、経済成長をする方法は提示されません。
どちらも、同じ、人文的文化の発想で問題解決になりません。
これは、数学の問題です。生産性を上げるために、出来るだけ速く、労働者を生産性の低い部門から、生産性の高い部門に、移動させる以外に方法はありません。
過疎問題と同じような解雇問題は発生しますが、そのダメージは、日本社会の将来の所得、年金、医療が崩壊して、犯罪が多発する時に起こるダメージに比べれば、はるかに小さなものです。
裁判官は解雇は違法という判決を出します。しかし、解雇しないことが、日本の社会を破壊してしまうのであれば、合法か違法か以前に、必要であれば、法律を変えて、日本の将来を良い方向に導く倫理的な責任があります。倫理的な責任は、法律を変える原動力なので、合法性より優先するべきです。
2)デジタル社会の課題
デジタル社会の企業の生産性は、工業社会の企業の10倍近くあります。オーダーが違います。その差は、有効なソフトウェアの開発にあります。その内容については、次回に考えます。
高度成長期は、農業から、工業に、労働者が、人口移動することで、生産性があがりました。
同様に、デジタル社会では、工業から、デジタル企業に、労働者が人口移動することで、生産性が劇的に上がります。
GAFAMのエンジニアの給与が高いことは、このことを示しています。
問題は、日本には、デジタル企業が見当たらないことです。
人文科学のドキュメンタリズムは、雨ごいにその典型をみることができます。
雨が欲しい=>雨を作る組織を作ればよい
という発想が人文的文化のドキュメンタリズムです。
そこには、実現のための要素(変数、人、材料)と方法(アルゴリルム、加工法)がありません。
エンジニアは、材料を加工してモノをつくります。
ベンチャー育成の予算を増やしても、それは、ドキュメンタリズムでしかありません。
本当に優秀な人は、日本で補助金をもらいません。アメリカにいって、ベンチャーに参画するはずです。
日本には、ベンチャーのエコシステムがありませんので、お金で解決できる問題ではありません。
正しい方法は、わかりませんが、間違いはわかります。
1990年代に、数学を駆使した金融工学が立ち上がりました。その流れは現在のデータサイエンスに繋がっています。
スノーが言うように、「人文的文化と科学的文化の間にギャップがある。科学的文化をマスターしなければ生き残れない」と考えていたら、日本の銀行や証券会社にも、欧米並みの高給取りのデータサイエンティストが多数活躍していたはずです。そうならなかったのは、日本の銀行や証券会社には、人文的文化で、科学的文化の問題も扱えるというおごりがあったとしか思えません。