第52話 野心

文字数 3,159文字

 だが、ドゼ将軍が、ドイツ軍右翼(旧ライン軍)の指揮官でいたのは、わずかな期間だった。

 ドゼ将軍がライン軍に合流した、6日後。
 イギリス軍(対英軍)が創設された。

 イギリス……。
 オーストリアがフランスと講和を結び、戦線を離脱した今、ただ一国、海の向こうからこちらを睨んでいる、無法者だ。

 イギリス軍の総司令官は、ボナパルト将軍。イタリアの勝者だ。
 そして、暫定第二指揮官として、ドゼ将軍が指名された。







 「行くのかよ、ドゼ」
訪ねてきたサン=シルは、露骨に不機嫌だった。
右翼(旧ライン軍)の指揮権は、君に譲った。あとは頼むぞ、サン=シル」

「後は頼む、じゃねえよ」
どすんと椅子に腰を下ろした。
「お前、ライン軍を見捨てるのか?」

「何を言う。この河の畔で、俺が、どれだけ、血を流してきたと思ってるんだ?」

「だって、お前は、ボナパルトを選んだんだろ? 彼が、お前を指名したんだ。それは、お前が、イタリアへ、彼に会いに行ったからだ」

 深いため息を、ドゼはついた。
「言ったろう。ボナパルトは、輝くようにできている、って。その輝きは、彼の部下まで、栄光の光で、明るく照らし出す」

「意外だったよ。お前が、栄光を求めるなんて」
サン=シルの声は、苦々し気だった。
「清廉で高潔なお前が。お前は、栄光なんて、そんなものには、まるで興味がないと思っていた」

「サン=シル」
 古くからの友人の名を、ドゼは呼んだ。
「俺を駆り立てるのは、野心、最大限の危険に身をさらす野心だ。新しい栄光を手に入れる為に、すでにある栄光を危険にさらすのも、野心ゆえだ」※

「野心? 金か? 充分な富が欲しいのか。兄弟が亡命して、お前の家は、財産を失ったものな」
冷たい声だった。サン=シルは、ロレーヌ地方の、皮なめし職人の息子だった。

「違う」
静かにドゼは、首を横に振った。
「今ある以上の財産は、欲しくない。財を求めないことこそが、俺の名誉だと思ってる。もちろん、今あるものを失うわけにはいかんが」※
一息に言ってから、ドゼは続けた。
「人は、充分な富を持つことはできる。だが、充分な名声というものは、決して、手に入れることは、できないものだ」※

「悪かった」
古くからの戦友は、項垂れた。
「お前の野心が、富や財産とは結び付いていないなんてことは、最初からわかってる。ただ、見ていて、危なっかしくてな」
「危なっかしい?」

 思ってもみない言葉を聞いたとでも言う風に、ドゼが首を傾げる。
 サン=シルは頷いた。

「俺は思うんだ。お前が求める、栄光や名声というものは……、なんというか……、うまく言えないけど……」
言い澱み、続けた。
「俺はな。お前が、自分の命で、栄光を贖おうとしているような気がしてならない。なあ。お前は、死んだっていいと思ってるだろ。お前の言う、『栄光』とやらを、手に入れる為なら」

「それほどのことじゃないよ」
弾かれたように、ドゼは笑い出した。
「そんな大層なことでは、全くない。ただ、俺は、ボナパルト将軍と、友情を結んだ。だから、彼は俺を呼んだ。新しくできた、自分の軍(イギリス軍)に」

「友情!」
サン=シルは目を剥いた。
「自分を表に出さず、用心深く、なかなか人を信じようとしないお前が? たった数回、会っただけの人間に、友情? お前、俺と親しくなるまでに、いったいどんだけかかったか、覚えているか?」

 元貴族の中には、士官学校から続く縁を大切にしている者が多い。しかし、ドゼには、そうした「友人」は、殆どいなかった。もちろん、戦友はたくさんいる。熱烈に彼を信奉している将校だっている。

 けれど。
 彼が本当に心を赦しているのは、自分と、レイニエくらいのものではないかと、サン=シルは疑っていた。
 それは、サン=シル自身も同じだったからだ。彼にとって、ドゼは、大切な戦友だった。ドゼがいるからこそ、彼は、負けを意識せずに、戦うことができた。


 朗らかに、ドゼは笑い出した。
「見限ってくれるなよ。俺だって、やろうと思えば、できる。気さくな人間にだって、


 真顔になった。
「ボナパルトは、偉大なことをなす人間だ。俺は、彼の元で、栄光を手に入れる」

 サン=シルは絶句した。
「そんなにしてまで、お前は……」


 「ボナパルトはダメだ」
ガラガラ声が割り込んだ。

「オージュロー司令官」
慌てて起立しようとする二人を、オージュローは手で制した。
「お前は俺を、冷たい人間だと思ったようだがな、ドゼ」
 執念深く、カルノー総裁へ宛てたクラーク(派遣議員)の報告書を蒸し返す。
「ボナパルトは、俺なんかメじゃないほど、冷酷だぞ。やつの勝利は、部下の血で贖われている」

「部下の、血?」
ドゼが鸚鵡返す。オージュローは頷いた。
「奴についていった、兵士どもの血だ。ドゼ。それに、サン=シル。お前らライン軍指揮官は、配下の兵士を死なせないように、戦いを導いてきたと聞かされた。他でもない、ライン軍の兵卒どもにな」


 さようなら(アデュー)(Adieu)
 じゃなくて、
 またな(オーヴォワール)(Au revoir)。
 兵士たちは、死を覚悟せずに、戦場へ赴くことができる……。

 無言で、ドゼとサン=シルは頷いた。作戦の遂行はもちろん大切だ。だが、一人でも多くの兵士を温存し、その血を流させないことを、ライン軍将校は、常に心掛けてきた。


「ボナパルトは違う。あいつは、自分の作戦を成功させる為なら、なんだってやる。兵士たちがどれだけ死んだって、構やしない。なぜって、やつは、兵士を、取り換え可能な部品だと考えているから」

「……」
「……」
 ドゼとサン=シルは絶句した。あり得ないことだからだ。
 だって、兵士は、共に戦う仲間ではないか。それ以前に、平等なフランスの市民だ。自分が指揮を執る以上、彼らの命を最大限守ろうとすることは、当たり前の責務といえた。

「アルプス越えで疲弊している歩兵どもを、電光石火のごとく戦闘に巻き込むことなど、普通は、考えない」

 イタリア軍の成功は、素早い移動と立ち回りに起因していた。
 しかし、兵士たちを疲れさせ、病気や怪我の元となったこともまた、事実だ。

「兵士だけじゃない。麾下の将校達もまた、ボナパルトにとっては、単なる楯だ。自分の身を護るための、弾除けに過ぎない」(*1)

「……」
「……」
 元ライン軍の将校2人は、顔を見合わせた。にわかには、信じられないことだった。

「なるほど、ボナパルトは、奇襲が得意だ。だがそれは、機を見るのに敏いだけだ。長引く消耗戦や包囲戦を、戦い抜くことはできない。言い換えれば、一瞬で敵を封じ込めることができなければ、それでおしまいだ。あいつは逃げる。兵士共の死骸を、山のように残して。それが、あいつの『栄光』の正体だ」

「けれど、彼は、あなたの上官ではありませんか」
 さすがに、サン=シルが口を挟んだ。
 ドゼは、無言を続けている。

 不意に、オージュローは笑い出した。
「なあ。俺は言ったよな。日和見は大切だって」
 言いながら、顎で、カーテンを指し示した。重たいダマスク織のカーテンの下から、泥だらけの長靴が覗いていた。







───・───・───・───・───・


実際のドゼの言葉です。一つ目の※で、私は彼に惹かれました。ので、ダヴーの話ですが、強引に割り込ませさせて頂きました


*1 弾除け
ナポレオンの息子、フランソワは、幼いころ、戦争に参加したがっていました。家庭教師のコリンが、戦争で君は、死ぬかもしれないんだよ、と教えると、兵士がいつも守ってくれるから大丈夫、と答えたといいます。
このシーン、チャットノベルにしてあります
「スウィート・フランツェン」17話「フランソワ皇帝に馬を」
https://novel.daysneo.com/works/episode/baeb79f2bbd9899755ada3376f3fa08c.html






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登場人物紹介

ルイ=ニコラ・ダヴー


後の帝国元帥。勇敢で正義感が強く、有能。

えーと、これでよろしいでしょうか、ダヴー様……。

ルイ・シャルル・アントワーヌ・ドゼ


ライン軍将校。前衛突撃型。少数の精鋭騎兵の先頭で馬を走らせ、敵に突っ込むタイプ。

高潔で下劣、複雑な二面性を併せ持つ。

アンベール


モーゼル軍右翼司令官から、ライン・モーゼル軍師団長へ。ダヴーの上官。

サン=シル


ドゼの戦友、ライバル。詰将棋のような、確実な戦闘をする。ドゼより4歳年上。

ボナパルニスト諸氏が言うほど、変人じゃない気が……。軍人として、むしろ、常識人。



ブログ「サン=シル」

サヴァリ


ドゼの副官。

ボナパルト時代の彼の失策を考えるに、単純な人柄だったんじゃないかな。それだけに、ドゼへの献身は本物だったと信じます。



*アンギャン公事件で、サヴァリは、憲兵隊長を務めていました。公の処刑決行を指揮したのは、サヴァリです。

 →ブログ「フランス革命からナポレオンの台頭へ1」

ラップ


ドゼの副官。勇敢だが、とにかく怪我が多いことで有名。



*ラップ視点の2000字歴史小説「勝利か死か Vaincre ou mourir

 ブログ「ラップ/ラサール」

ピシュグリュ


ライン・モーゼル軍司令官。前年のオランダ戦では、騎兵を率いて、オランダ艦隊を捕獲した戦歴を持つ。



ブログ「フランス革命戦争4-2」、参照

モロー


ライン・モーゼル軍司令官。ピシュグリュの後任。赤子が母の後追いをするように、ドゼに従う。



ブログ「ジュベール将軍/モロー将軍」

マルソー


サンブル=エ=ムーズ軍将軍。ヴァンデでダヴーと出会う。ダヴーは彼を、妹の夫にと、虎視眈々と狙っている。



ブログ「フランソワ・セブラン・マルソー」

オッシュ


ジュールダンの後を引き継ぎ、サンブル=エ=ムーズ軍司令官に。ドゼは彼を、蛇蝎のごとく嫌っている。



ブログ「ルイ=ラザール・オッシュ」

オージュロー


ボナパルトのイタリア(遠征)軍からドイツ軍(ライン方面軍)司令官に。

ボナパルト嫌いの余り、作者はこの人を、良く描きすぎました。ご注意ください。

【作者より】


純粋な史実は、チャットノベル

ダヴー、血まみれの獣、あるいはくそったれの愚か者」を、ご参照ください。

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