文字数 553文字

 三田ヨシノリは、音楽室から一年B組に続く廊下を、半ば夢遊病者の様な虚ろな眼をして歩いていた。
 ヨシノリが今まで生きてきた中で、これほど惨めで屈辱的な気分を味わった事がない。
 それと云うのも、今し方行われた一学期末の笛吹きのテストで、最後まで吹けず、途中リタイヤした事にある。技術的にはさほど難しくはない。それもその筈、クラスの全員が上手下手はあっても皆難なく吹いたのだから。
 では何故ヨシノリだけが、最後まで吹けなかったのか。それは、ヨシノリにとっても思いがけず指が震える事に原因があった。
 ヨシノリも自分の順番が来るまで多少ドキドキしながらも、人並みに笛を吹けるとばかり思っていた。それがいざ本番になると、まるで自制が効かないアル中のオヤジの様にブルブル指が震え、その自分の震える指に動揺し、更に指が震える。それはまるで縦笛の上で指が狂い暴れているかの様だった。
 その姿を見ていた一部のクラスメートから忍び笑いが起き、その笑いに反応し、クラス中の目がヨシノリの震える指に集中した。顔を真っ赤にしながらヨシノリは最後まで吹こうとするが、もがけばもがくほど指が震え、皆の失笑を買い、途中で吹くのを諦めたのだ。
 

 昭和四十六年、梅雨がまだ明けきらず、陰気な湿度が身体に纏わりつく、気分の重い初夏の事であった。



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