第35話

文字数 1,046文字

「あっ、なんや、雨が降ってきたね」
 アスファルトを、叩く雨音が室内の流海達にもハッキリと聞き取れた。その音は瞬く間に大きく激しくなっていき、流海は施術中の手を止めて外の雨音に耳を傾けてた。
 
「これから初夏に掛けては、こないな天気が多くなるね。今からこんなんやったら今年の夏も暑くなりそうやわ」

 流海は、施術用のベットに背中を見せて横たわる香穂に話し掛けた。裸の身体の下半身だけ大きめの白いタオルで覆っていた、その艶やかな背中にはこの約一年で掘り進めた、二人の子供を抱いた『鬼子母神』の鮮やかで、そして、何処か、憂いの漂う彫りものが浮かび上がっていた。香穂は流海の声が届いてか届かずか反応を見せずに、痛みに顔を歪めていた。

「香穂さん、今日まで、よく我慢してくれたね。自分で言うのも何やけど、ええ絵が描けてと思います。こんな達成感久しぶりやわ、少し、休憩したら最後の彫りを入れるね」

 流海は、香穂の顔を見ながら呟くように言うと、煙草に火を付け肺の奥深くに吸い込み暫く肺の中に煙りを留めて、それからゆっくりとそして大きく吐き出した。流海が作品を完成させるときの一種のルーティーンだ。

「香穂さん、二人の子供に何か意味はあるの」

 休憩を終えた流海が香穂の背中の『鬼子母神』を見ながら問いかける。

「大切なもの」香穂が一言流海に返した。

「余程の事があるのね」

 香穂の答えには他人の侵入を許さない結界の様なものが感じられた、流海はそれっきり口を摘むんだ。

「これが、最後の針入れです。行きますね」

 言うと流海はゆっくりと電動針を降ろしていった。

 
「流海さん、ありがとう」

 黒いパンプスを履きながら香穂が流海に頭を下げる、その姿から流海は言いようのない胸騒ぎを感じた。

「香穂さん、本当に良かったの。これからは、街の銭湯にも入られへんのよ」

 流海は香穂の態度から感じた違和感の正体が知りたくて、帰ってくる返事が予想できる質問を故意にぶつけた。

「流海さんは、やはりお見通しなんやね」

 吹っ切れたように香穂が流海に微笑んで見せる。その笑みを見たとき、流海は以前から抱いていた自分の予感が正しい事を確信した。

「香穂さん、あんた、死ぬ気やの」

 流海は思わず口走った。そして、その言葉が出たことに自分でも驚いていた。

「・・・・・」その問いかけには、香穂は答えず、もう一度笑って見せた。そして、踵を返し流海に背を向けるとそのまま、店を出て雨の街へと消えて行った。その、後ろ姿に流海は何も言えずに、只、見送る他は無かった。
   
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