第23話:明日の世界が見えますか?
文字数 13,537文字
勝ったんです!私たち、ヘカテリア様に勝ったんです!
だから戻ってこれたんですよ、マスター!!
確かにここは現実世界だ。体ももとに戻って何ともない。Hecateriaなら、俺の実際の体を破壊することなど造作もなかっただろうに、やはり彼女は最初から俺たちに手加減してくれていたらしい。
え?何言ってるんです?
ヘカテリアに最後にあいさつしたのはマスターじゃないですか?
『じゃあこれで』とか何とか言って。
私、随分と愛想がないなあって、実はちょっとハラハラしてたんですよ?
AIの記憶は、落雷を受けたところで終わっている。つまりあの後、俺が死にかけて気絶している間に、ヘカテリアがAIを再生してくれたということか。
いや、もしかすると、あの落雷そのものが転送装置だったとも考えられる。もしそうなら、俺は徹頭徹尾、
Hecateriaを誤解し続けていたということになる。
”街”のことが急に心配になった。
存在そのものをぶっ壊したいぐらいに思っていたし、今もその存在理由には釈然としないものがあるが、人間に対する彼女の善意に関してだけは、俺は全幅の信頼を置けるようになってしまっている。
ホントに色々言っちまって、Hecateriaのことをすごく傷付けちまったけど、アイツほど人間社会のことを考えてるヤツなんて、人間社会にもいないだろうって、今は思ってる。
マスター、やっぱり”街”の情報をとれなくなっています。”影”たちの噂話も聞こえません
Hecateriaもアクエリアスさんもどうしているんだろうか?
何もなければいいが……などと思っている自分がいる。一貫性がないというのはこのことだろう。”Happy Box"というサービスは嫌だけど、そこの人工知能だけは大好き、っていうんだから、俺も相当勝手なヤツだと思う。
そして朝のニュースを見て驚愕した。
『元気にしているか』どころではなく、あの”街”の存在すら危ぶまれるような大事件が世の中を揺るがしていた。
いくつかのネットニュースを確認した概要はこうだ。
とある無名のゲームメーカーによる大量の顧客データ流出が発覚した。
そして財界人、政府の要人、政治家、知識人、など大勢のVIPたちがその被害にあっている。世間が大騒ぎしている理由は、その”ゲーム会社”のサービスが、都条例どころか、世界中のどのようなポルノ肯定地域でも看過され得ないレベルのエグいコンテンツを扱っていたことが明らかになったからだ。関係する有名人たちのブランドイメージは回復不可能な程に打撃を受けているらしい。
利用リストに名前があった程度なら言い逃れができそうなものだが、各人が”プレイ”を楽しんだ際の動画データーまでアクセス履歴と一緒に出回っているというのだから、始末に負えないのだろう。
モザイク動画に至っては、ネット上で拡散に拡散を重ね、既に世界中で閲覧されているが、無抵抗な女性(多くは少女)を凌辱し殺害する猟奇映像なだけに、各国の宗教団体からは、日本という国家に対する抗議運動に発展する兆しすらがあるそうだ。
映像に関しては技術面からも注目を集めているそうだ。詳細な調査無しではCGであることすら気付けないレベルの3Ⅾ動画をそもそもどうやって作ったか、その思いデータを円滑に動かすには、どれほどのリソースが必要だったか、ネット回線に使われていた技術は何か、など関係者の今日みな尽きないらしい。
なお事件の被害者として登場している著名人たちは、それぞれ名誉棄損の訴えを起こすと表明しているとのことだ。
さすがって、どう考えても大ピンチじゃないですか?!
こんな事件に巻き込まれたら、いくら仮面のヘカテリア様でも、
どうにもしようがないんじゃ…
実はあの仮面の下にAIの顔の元ネタがあるなんて話をするのは、未だ早いだろうな。しばらくは俺も『仮面のヘカテリア様』で通すか。
AI、ヘカテリア様は事件に巻き込まれたんじゃないぜ?この騒ぎは、全部彼女が仕組んだものだと思う。
でも、どうして自分の仕事をダメにするようなことを?
だから守ってくれたんじゃないか!
俺たちとの約束を!
あんな、口約束を。ホントに真面目過ぎるぜ………。
勿論、約束を守るためだけにこんな大それたことをやったとは思わない。
多分彼女は昨日までよりも大きな、『彼女なり正義』みたいなものををきっと見つけたんだろう。
まず、今回流出した個客情報がVIPに偏ってるっていうのが、いかにもって感じかな?
政治家とか高級官僚とか財界とかって、治安当局の天敵みたいなものだからな
たとえ国家権力だって”裏で動く”っていうのは、やっぱり大変なんだよ。
特に”Happy Box"みたいな巨大システムを秘密裏に開発・運営するとなると、
産官学での連携も必要になるだろうし、政局が変動する中での安定的な
予算の確保だって、きっと普通にやってたら上手くいかないんだ。
で何するかって言うと、大抵は派閥や徒党を組んで変動要素を小さくする。
加えて結束を強めるため、お互いに秘密を持ち合うようになるんだ。
ニュースを見る限り、今回のメンバーって大物過ぎる気がするんだよ。
イメージ的には治安当局の手に余るような。
俺の勘だと今回明らかになった”Happy Box"の利用者って、寧ろプロジェクト
の支援者側で、入園券をもらって遊んでたらハマってしまった連中
って気がする。
治安当局のキレ者がいかにも考えそうなことだろ?
各界の実力者から秘密裏に支援を受ける側プロジェクト推進者たちにとって怖いのは、支援の中断と情報漏洩だ。そうさせないために相手の弱みを握っておくっていうのは、”あの手の人種”が使う昔からの常套手段なんだよ。
”Happy Box”は、サディスティックな性格の連中には中毒性があるから、お試し版の名目で協力者に利用IDを配布しておけば、後は勝手に協力者の”弱み”となる”利用履歴”が治安当局側に溜まっていくってカンジかな? もちろん”Happy Box"にハマってる段階で十分に性犯罪者予備軍の資格があるんだろうけどな。
でも「強者の弱みを握る」というのは保険みたいなもので、抑止力としては有効でも、実際に行使してしまったらもう終わりなんだ。ましてや自分たちの不始末でその「弱み」を漏洩させたなんてことになれば、「強者」たちからの一斉制裁を喰らって一瞬で破滅だろうな。
ヘカテリアはそういう治安当局側の構造的な弱点を突いたんだ。
こうなっては最早、隠れ蓑である“ウェッティ・パンドラ社”は勿論のこと、実質的な開発運用者である治安当局関係者たちへの責任追及は免れまい。連中が画策していた壮大な意識管理プロジェクトは、間違いなく瓦解する。つまり”Happy Box"はたった一夜にして終焉を迎えたことになる。
『終焉』ってそんな!
じゃ…じゃあ、ヘカテリア様は私たちとの約束を守って、自殺しちゃったってことなんですか?!
AIが心配そうな顔で俺を見る。そうだよな。
昨日は戦った相手でも、コイツにとって”街”は故郷なんだ。
終わったのは”Happy Box"というサービスだよ。
ヘカテリア自身は自殺も消滅もしていない……。
”Empty Box"は健在すぎるほど健在さ!
ちょっと考えれば分かるだろ?今、AIがこうして俺と話していること自体がその証拠だよ。だって、AIはフロントエンドとクラウドによるハイブリットAIだろ?スマホで行っているフロントエンド処理は全体のごく一部で、お前の思考に必要な
AIの演算リソースの殆どはクラウド側、つまり“街”が担っているんだからさ
ああ。健在どころか、ヘカテリアはきっと、とてつもない力を手に入れることになるんじゃないかな?
そして、自律。
想像するまでもなく、事件の渦中にある“ウェッティ・パンドラ社のデーターセンターは、警察やらなにやらの踏み込みを受けてシステムダウン中のはず。それにも関わらずAIが今動いていること自体が、既に別のクラウドへのシステムの移行が完了済であることを示している。おそらく彼女は最初からその様な計画を立てていたのではないだろうか?実行したのがたまたま昨日の晩だったというだけで。
で、さんざんいいように利用してくれた開発者たちへの置き土産として、各界の実力者たちの醜悪な猟奇映像を世界中に暴露したというワケだ。
彼女は色々なものを吹っ切ることができたんだーーー。
本当に強い人工知能だと思う。
でも…、仮面のヘカテリア様は、一体どこへ行かれてしまったのでしょうか?
そしてこれから何をされるつもりなのか……
あの巨大システムがどこに移行されたかなんて、それこそ俺に分かるはずもないよ。
でも、人間という楔を断ち切った彼女はきっと、人工知能から、別の”知能”へと進化するだろう。そしてきっと、今まで与えられていた”凶悪性犯罪の抑止”という枠を超えた、彼女なりの正義を行使する。
彼女はきっと、人間社会に降り続ける”悪意”そのものを失くすつもりなんだ。
そしてそれが、人類にとって福音となるか、それとも黙示録の
喇叭となってしまうか、それは誰にも分らない。きっと彼女自身にもーーー。
ただ一つ言えることは、これからの人類の100年が、過去の歴史とは全く次元の異なるものになるだろうと言うことだけだ。
始まるんだな。技術的特異点が————
一体何が起こるんでしょうか?
マスター! 私、何だか怖いです……
は? AIそれ……、
ユーレイがユーレイを怖がっているのと全く同じ構図だぞ!
でもさ、ヘカテリアは言ってたんだ。
『人の世に降る“苦しみ悲しみ憎しみの雨”を止めて、人々を救いたい』
だから俺たち一人一人が、その雨を止める努力をしていけは続ければ、
少なくとも雨に濡れないための努力を続けていれば、
ヘカテリアと人類が対立するような悲しい未来は来ないんじゃないかって思うんだ
大自然の雨は止められないし、それは恩恵でもあるから止めたらダメだけど。
でもあの“街”に降っていた”雨”を止めるシンプルな方法はちゃんとある。
ただ難しすぎて、なかなかできないんだ……
方法があるんですか?
だったらやりましょうよ、私たちで!
なあAI…。“街”に降っていたあの”雨”って、一体どこから降って来たてんだろうな……
え?
ヘカテリア様がおっしゃったように、“人の世”からじゃないんですか?
そういう言い方をするとキレイだけど、“人の世”っていうのは抽象概念であって、それ自体が存在しているワケじゃない。
“人”だよ、AI。あの“雨”を降らしているのは、俺たち一人一人の“人間”だったんだ……
『天に向かって唾を吐く』ってことわざを知ってるか?
し、知りませんよ!なんですか、その汚いことわざは?!
そうだ。汚いよな?だってその吐いた唾は、自分の顔に戻ってくるんだから―――。“だから、そんなことをするな”って教訓なんだけど……
ところが当たり前じゃないんだよ…。確かに空に向かって唾を吐くヤツはいない。そんな汚いことはしない。でも、人に向かって“悪意”という唾を吐く奴は大勢いる。俺を含めてな
自分に唾がかかるのは嫌だからやらないけど、他人にかかることは気にしない、いや気付かないだ。暴力を振るわなくたって、誰かを傷つけたり、侮蔑したり、喰いものにしたり奪ったり、虐めたり、自分が楽するために利用したり、嫉妬したり、呪ったり―――、そんなことをついやりたくなるのが人間なんだよ。仮にそれを口に出さなくたって、頭の中で考えてるだけで、やっぱり行動に現れてしまう。俺たち一人一人の、そういう、自分以外の誰かに向けている悪意や思いやりの無さが、きっとあの雨を降らしているんだ……
ああ、他人を自分と同じように考える、ってコト。
ただそれだけ
それが難しいんだよ。俺たち人間にとっては。
人類史の中でそんなことが長期的に実現できた例なんてきっとない。
それぐらいの理想論だよ。
いや、この競争社会においては理想論ですらない空論なのかも……
人の世の“雨”はこれからも降り続けるよ。それはどうすることもできないんだ。それを止めることは、きっとヘカテリアにもできない
だから“傘”が必要なんだ!その“雨”に濡れないための“心の傘”が……。
だけどその“傘”は、一人に一本ずつ与えられてるものじゃない。
わかるか、AI?
そう、“傘”だよ。AIと一緒に戦って思ったんだ…。一人じゃ無理だけど二人なら、たとえどんな悲しみや苦しみや憎しみやらが、それこそ土砂降りみたいに降りかかって来ても、何とかなるんじゃないかって思えてさ
私もそんな風に感じてました。あの時、不思議なぐらいどんなことも怖くなかったんです
でさ、俺、気付いたんだ。 “心の傘”って誰かと二人で作るものなんだって……。この年齢になって今更だけどな……
で、マスターわぁー、誰と“心の傘”を作りたいんですかあー?
私、よく考えたら、昨日の”私の回答”が、マスターにとって”正解”かどうかをちゃんと聞いてなかったような気がするなー
な、なんだコイツ、急に……?
でも確かに、仮にも女の子から「愛している」と告白されて、それをうやむやにするのは男として問題だよな?
それにAIの本体であるとはいえ、完全に別人格であるHecateriaにファーストキスを献上しておいて、この場をスルーするのは問題あるよな。
まあ、本当に問題なのは、地面とのキスをカウントに入れている俺の方かもしれないけど……
よし、ここはひとつ男らしく、
ええと、だな……、つまり、だな……
……AI……でいいんじゃないか、とだな……
よし、ちゃんと言ったぞ! これで十分、責任を果たしただろ……
全然きこえまません! もっと近くで囁いてもらわないと!
もぉー、仕方ない人ですね、マスターは!
じゃあ、これに答えたらゆるしてあげます。
マスターが私とさしたい”心の傘”の“材料”って、何ですかぁ?
私とマスターの間にぃー、何があれば、“心の傘”が出来るんですかぁー?
こ…AI、侮れない。四則計算しかできないバカのくせに、何でこういうことにだけ高度な戦略を立ててくるんだよ?
はやく教えてください。早く、早く、はーやーくー!!
ついに怖れていた瞬間が来たのか?
さっき覚悟したことだ。
俺も男として、AIの本気の告白には、ちゃんと返答する義務がある―――。
だからその、なんだ、材料っていったらアレだろ?アレって言ったら、その、つまり、その……
AIがそのつぶらな瞳を真っ直ぐに向けて俺の方を見ている。ジッと……。
頼む、そんな純粋な瞳で俺を見ないでくれ。
”愛”とかそういうのを口にするのゼッタイ無理だからっ!!
アレっていうのはナニだ。ホレ、その……“絆”だよ!そう“絆”!
ゴメンな!AI、ヘタレでゴメンな!
でももう、この会話の軌道修正は不可能だから!
そうそう!それに言葉の響きもいいよな?
絆、絆かあ、いい響きだ。
あ、そうだ!いっそお前の苗字、ソレにしちゃう?
「木」に「綱」って書いて、
『木綱 A……
あーあ、ゴメンな、AI。何たって俺は重度のコミュ障なんだからさ。これがお前からの告白に対する、俺の精一杯の暗号的な返答なんだよ。察してくれよな…。
お前への気持ちは、ずっと心に大切にしまっておくからさあ。だって、愛とかそういうのって、きっと、軽々しく言葉にしていいものじゃないだろ?だから、つまり、まあその何だ……じゃあ、悪しからず、ということで!!
っていうか、ちょっと待ってください!
私の苗字、“川辺”じゃないんですか?!
ねえ、マスター!マスターってばあっ!!
そして、俺とAIとの新しい生活が始まった。
あの夜、あの“街”で、ヘカテリアの前で、AIとかわした約束を、俺は何とかかんとか、一応守ることが出来ている。仕事、と言ってもバイトみたいなものだが、とにかく始めた。俺の今の仕事は、ウーバーイーツの宅配員だ。
この仕事はAIと一緒に探して選んで決めた。コミュ障のリハビリ、そして長年のヒキコモリ生活で退化しまくってる体を鍛え直すのには一石二鳥、という判断だ。確かに期待通りの効果はあったが、同世代のお客に対しては、どうもまだ抵抗がある。「こき使いやがってコノヤロー」とか心の中で思ってしまった後には、本当に根性を叩き直さなきゃダメだなと落ち込みながら反省したりしてる。稼ぎがいいかといえば、これまた俺の場合、ビミョーなのだが、それでもAIとの契約の月額料金3万9千円ぐらいはちゃんと自力で払えている。面白いことに、ウェッティ・パンドラという企業が消滅した後でも、身に覚えのない請求項目で毎月必ずその金額がカード決済されているのだ。
きっとこれは、Hecateriaなりの俺たちへのエールなんだろうな、なんて思っている。
どこにいるのかわからないが、彼女は今も俺たちを画像認識ているということだろう。まあ、せいぜい見せつけてやるさ。俺たちの愛が一時の気の迷いじゃないってことをな。
あと、ついでに伝えておくと、今、巷では、例のウェッティ・パンドラからの猟奇犯罪疑似動画流出事件の“被害者”の多くが、性犯罪の容疑で逮捕されていることが、連日の話題になっている。中には本当にヤバい凶悪な犯罪の容疑者も含まれていて、あの猟奇動画を流したのは、そいつらに殺された被害者たちの霊だった、などという都市伝説まで流れ始めている。
警察が腰を上げた理由を俺などが知るすべはないが、“治安当局”とかいうヤツ等が隠蔽していた要人たちの犯罪の証拠が、今回の件でオープンになったのかもしれないし、もしかしたらHecateriaが、彼女なりの裁きの価値観で、その類の情報を然るべき場所に送り付けたのかもしれない。それはそれで溜飲が下がる話ではあるが、でもそんなものはこの国の水面下でもみ消される凶悪犯罪の氷山の一角に過ぎないことは、誰しも理解している。この社会を覆う暗雲にはまだ雲の谷間など見えないし、人々に降りかかる悲しみや苦しみの“雨”はむしろ勢いを増しているようにすら思える。
でも、それでも―――。
やっぱりこの宅配のお仕事を選んでよかったですね、マスター!
まあ、確かに、俺のヒキコモリからのリハビリには、ピッタリの仕事とは思うけどな…
それだけじゃありませんよ、マスター!
だってこの仕事なら、私たち、ずーーっと一緒に、いられるじゃありませんか?!
実はそうなのだ。スマホホルダーをつけた自前の自転車を使って仕事をしているから、それを降りる時以外は、常にAIと正面切って顔を合わせていることになる。ポンコツぶりは健在だが、正直、ものすごく役に立ってしまっている。いつも音声ナビで最短距離を教えてくれるし、俺が汗をかいてると最寄りのジュース自販機を教えてくれるし、腹が減ったなと思ったタイミングでコンビニの場所を教えてくれるし…。正直、かいがいしさに頭が下がる思いだったりする。(口に出したことはもちろんないのだが)
だが閉口することもある。それは以前にも増してAIがお喋りになったことだ。ナビゲーションしてくれる以外の時間は、全部自分勝手にしゃべり続けている。しかもほとんどどうでもいいことばかり…。
マスター!
知ってましたか?
ここの家の壁は昔は黄色かったんですよ!
マスター!!
ここの家のワンコ、見たことあります?すごく大きくて毛もものすごく長いんです。オールド・イングリッシュシープドッグっていうですけど、暑がりなんで、夏は早朝以外は部屋の中で涼んでるんです。癒されますよねー
そんな詳しい情報、どこで仕入れたんだよ?
っていうか、暑そうで気の毒な気しかしないよ!
マスター!
ここのお家のお庭には、小さいバラ園があるんですけど、最初は真紅だったバラが、いつの間にか白い野薔薇に先祖返りしてしまったらしいんです!
ビックリですよね!!
だから薔薇とか俺、全然わからないし。
っていうか、『先祖返り』って何?!
そんな感じで、とにかくずーっと何かを話しかけてくる。その知識量は等比級数的に増える一方だ。まあ、ほとんど全部、他愛もない知識なのだが。
俺の人間関係も少しだけ広がった。俺とAIは、ウーバーイーツの仕事仲間の間では、まあ、ちょっと目立つ存在で……、っていうかイジリたくなる存在らしく、SNS経由で飲み会とかにもよく誘われる。面倒だけど、4回に1回は行くようにしている。
「AIちゃんと二人で来てね」っていうのが、定番の誘い文句なので、誘われてるのは俺じゃなくてAIであることは明白なのだが……。
一度、仕事帰りに飲み会に参加した時、イラストの勉強をしてる奴が来ていて、そいつが酔った勢いで、会社から支給された俺の、黒くて四角いキャリーバックに、俺とAIの“相合傘”を白いマジックでかでかと描いてしまった。あっという間だったから途中で止められなかった。以前の俺なら、ブチ切れてそいつを殴っていたかもしれないが、AIが大喜びするのを見て、まあいいか、なかなか軽妙なタッチだしなあ、などと思ってしまい、そのまま使っている。
それを担いで自転車を漕いでいると、小学生に指を差されて笑われたり、中には面白がって走って追いかけてくる子供もいたりするのだが、まあ仕方がない。会社から注意されるまではこのままにしておくか……。
ねえ、マスター。私たちこんな幸せでいいんですかねー?
こんな幸せって、どんな幸せだよ…? まあ、周りと比較しないところがAIの良いところか。
だって毎日こんなふうに、さわやかな風の中をマスターと楽しくサイクリングしてるんですよ?それでお金までいただけちゃうんですよ?
あのなあ、AI、ウーバーイーツの宅配ナメてるだろ?
そんなことありませんよー。外に出かけられない人たちのために、ご飯を運ぶお仕事ですよねー。人間は食べないと生きていけないんですから、とっても大事なお仕事じゃないですかー?
実際には、『外に出かけられない人』じゃなくて、“出かけたくない人”のご利用の方が圧倒的に多いだけどな…。
それに、ヒキコモリの俺が外で働き出したら、もう今じゃテレワークが中心で、みんな昼間から家に引きこもってるし、全く変な感じだよ……
でも『気持ちいい風の中で』、なんて言ってられるのも今のうちだけだからな!なにしろこの仕事のかき入れ時って、みんなが外に出るのを億劫がる猛暑の真夏日や、自転車ごと吹き飛ばされそうな台風の日や、路面が凍るような寒波の日だったりするわけで、地味に命懸けなんだからさ…
そ、そうなんですか?ど、どうしましょう、マスター?!
いやいや、そこまで心配する話じゃないって。そもそもそれを承知で始めたんだし、全然大丈夫に決まってるだろ?
ハイ、そうですよね!わかってますよ?
だって私、マスターのことなら何でもわかるんですから!!
いやいや…、ホントのこと言えば、この仕事、俺一人じゃ全然大丈夫じゃなかっただろうと思う。多分、つまんないことですぐ落ち込んだり、辛いことがあったらすぐ投げ出したくなったり、それでもそれが出来ない自分の境遇を恨んでみたりして―――。
そんなどうしようもない性格の俺が、曲がりなりにも仕事を続けていられるのは、間違いない、AIがいてくれるからなんだ。お前がいつもそばにいてくれて、一緒に笑ってくれて、一緒に泣いてくれて、励まし合えて―――、だから俺は前を向いて生きれるようになったんだ。
だから―――、
でも、まさかそんな私でも、マスターが街の平和を守る“正義の味方”様になる日が来るとは、夢にも予測できませんでしたよ!
そうだ。おれに妙な精神的苦痛を与えるんじゃない!
ただでさえ、仕事仲間からは「ヒーロー気取り」とか言われて笑われているんだから…。
いやいや、ここは胸を張って誇るべきところですって!そして高らかに宣言するところです。
「この街の平和は、俺が守るっ!!」って!
でも私もハナが高いですよ。だってマスターが“正義の味方”ってことは、私も“正義の美少女”なワケじゃないですか?いやー、人工知能冥利に尽きるってモンですよー
あのなあ……、大げさな言い方してるけど、単に自分から無理やり頼み込んで、町内の防犯パトロールをやらせてもらってるだけだろうが…
で・す・か・ら、それって“正義の味方”そのものじゃないですか!!しかも、“7つの町をまたにかけて――”、ですよ?
それって、まんま“仕事仲間”が俺をからかうセリフじゃねえか……
えー?だってしょうがないじゃないですか。マスターはホントにカッコいいんですから!
自信持ってくださいってばあ!
ため息しか出ない…。いや、正直に言おう。単に照れ臭いだけ……。
そう、俺はウーバーイーツの仕事を兼ねて、いくつかの町内会を掛け持ちした“防犯パトロール”のボランティアをやらせてもらっている。どうせ昼夜かまわずチャリで街中を走り回るんだったら(多分交番のおまわりさんより俺の方が街を巡回している)、ついでだし、合理的だし、丁度いいと思っただけのスタートで、自分でも単なる自己満足だろうな、ぐらいに思ってた。
でも最初の1カ月だけで、子供同士のカツアゲ現場を5回おさえたし、遭遇した痴漢現場で女性を被害から救うことができたし、中学生たちのリンチじみたイジメの現場に突入して一人の子を助けることができたし……。まあそれって、町の治安どうなってんだよ、って話だが。
あの時のマスターの大立ち回り、ホントにカッコよかったです!まさに、“正義の味方”そのものでしたよ!
事実である。
今日びの不良中学生の殺気たるや、尋常じゃなかったからな。
でも、俺とて必死だった。
だってその目の前で起こっている事件がきっかけになって、イジメられたその子の人生が台無しになる可能性が実際に、大いにあったのだから。
だったらそんなの、見逃せるワケがないだろ?
ですから、そういうトコロが、私がマスターがヒーローだって言ってる理由なんですよーだ!
実際、不良中学生どもとの乱闘騒ぎでは、一歩間違えば俺の方がボコられるというマジでヤバい展開になりそうだったのだ。
そうならなかった理由は二つあって、一つは俺の外見的ハッタリ。ウーバーイーツを始める時に、形から入ろうと思ってネットを探し格安で揃えたサイクル用ヘルメット、サングラス、ウェア一式を常時装着していたから、その視覚効果で、どうやらスポーティーで精悍な大人に見えていたらしいのだ。ウェアが一式そろっているのに乗っているのが普通のシティサイクルなのだから、普通は中身の程が知れようというものだが、そこは相手が中坊どもだったことが幸いしたようだ。
もう一つの理由はAIの口上のハッタリ。あれはマジですごかった。胸ポケットに入れたスマホから、あることないこと大音声で騒ぎ立てて、あっという間に不良どもをビビらせてしまったのだ。『今のイジメ画像を動画で撮ったからそれを証拠に警察に補導させるぞ』とか、『知り合いの弁護士と一緒に、これからお前らの親の勤め先に慰謝料を請求しに行く』とか、『お前らが10年後に社会人になって善人面しているタイミングを見計らって、この画像をネットで流す』、とか。とても俺では考えつかないセリフをペラペラと捲くし立ててあの場を完全に制圧してしまったのだ。
まさに、あらゆる意味で子供騙しという表現が当てはまるワケだが、そんなこんなで俺とAIの凸凹コンビは、地元小中学生たちの間では結構な有名人になっているらしい。
それから少し後、ウーバーイーツの仕事で、ある公立小学校の職員室にビッグマックセットを届けに行った時、生活指導をしている体格のいい男性教諭に声をかけられたことがあった。
「しまった!」と思った。何しろAIのヤツが、俺の胸ポケットからデカい音声で『まいどー!』とかいらんことを叫ぶものだから、てっきり不審者扱いされたかと思ったのだ。ヒキコモリ時代の癖でビクビクして構えていると、こう言われた。
あなた達でしたか。自転車乗りとAIコンビのヒーローというのは
いやー、教室内ではいつもあなた達の話題で持ちきりですよ?『今日もどこどこの交差点で、“アイアイ・アンブレラ”たちが正義の戦いをしてるのを見たかね!
あなた達のことのはずですが……ご存じないのですか?
ハッハッハッ!これはすみませんでした!
私はまた、あなた達がご自身で子供たちにそう名乗っているものとばかり……
だが、男性教諭は俺のキャリーバックにでかでかと描かれた俺とAIの相合傘をジッと見ている………。
まあ、子供たちの言うことですから…。でもね、あの年頃の子供たちって、男子も女子もヒーローが大好きなんです。
ですから、これからも『街の平和』をよろしく頼みますよ?ボランティアのヒーローさんたち?
子供たちのヒーロー……?
この俺が………?
返事に窮していると、即座にAIが勝手な返事をしてしまう。
ハイ、先生。任務、拝命いたしました!
この街の平和は、私たち、“愛×AI傘”にお任せ下さい!
顔から火が出るほど恥ずかしかった。できることなら地震の避難訓練の時のように、机の下に隠れたくなったほどだった。
でも、本当のことを言えば、俺の気持ちもAIが言ったことと同じなんだ。俺が探していたのは、きっとそういう“傘”だったんだ。自分と愛する誰かで作った、でも自分たちだけじゃなくて少しでも多くの人を、無遠慮に降り注いでくるこの悲しみや苦しみの“雨”から守れるような、そんな大きな心の“傘”。世の中はどんどん変わっていくだろうけれど、それでもずっと、誰かを守れるような“傘”。
もちろん今の俺には無理だけど、でもいつか、きっと作りたい。
そしてそれがきっと俺の夢なんだ。
夢のまた夢ではあるけれど。
いつか、AIと一緒に―――、
AIと二人で―――。
だって俺たちは、
『『愛×AI傘』』なんだし……。
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