第1話

文字数 2,482文字

「皆さん、夏の大三角を知っていますか?はくちょう座α星のデネブ、わし座α星のアルタイル、こと座α星のベガの3つの星を結んで描かれる、細長い大きな三角形のことを言います。ベガは七夕の織姫、アルタイルは彦星であり、この二つの星の間を天の川が流れます……」

 コツコツコツ…
 チクタクチクタク…
 カツカツカツ…

 先生が歩き回る音、黒い黒板を白いチョークが滑る音、時計の秒針が走る音。

 ガタガタガタ…

 風が窓を叩く音。

「では冬の大三角はどのような星座でなっているでしょうか、みてみましょう」

 先生の低いがよく通る声が教室を通る。教室の一角にあるスクリーンには漆黒の中に星座の画像が映し出されているのを横目に僕は視線を何も書いていないノートへ落とす。ガシャコン、と映し出されたスライドが変更された音に再び視線をスクリーンへ向けた。そこには漆黒の中に無数の星が輝く中、輝く星が三つ。その中でも塗る色を間違えたんじゃないかと思うように一等に赤く輝く星が一つポツンと存在している。

「冬の大三角は、おおいぬ座のシリウス、こいぬ座のプロキオン、オリオン座のベテルギウスを結んでできる3角形です」
「先生、一等に赤く輝く星はなんですか?」
「ベテルギウスですね。ちなみに脇の下、という意味ですね」

 先生の声に周りがくすくすと声を上げる。先生は少し咳払いをして再び教科書へ目を落とした。
「このベテルギウスの持ち主であるオリオンですが、神話ではさそりに刺されて亡くなってしまいます。なので夏の星座であるさそり座が地平線から上ってくると、オリオン座が沈み反対にさそりが沈むとオリオンが上ってくるんです。愉快ですね…さて…」
 先生が息を吸い込んだ時、授業を終えるチャイムが鳴った。
「はい、今日の授業はこれで終いです。みなさん気をつけて帰ってください」

 ざわざわと様々な音が反響し生徒が我先に教室の扉を潜り抜け廊下を駆け抜ける。僕が立ち上がった時には教室はがらん、としており誰もいなかった。
さっきまであんなにも騒がしかった教室は今はなんの音もせず自分の心臓の音や呼吸の音がやけに大きく感じる。どくんどくん、と動脈が脈打つ音がする。息を吸うたびに自分の中の肺が膨れ上がり萎むのを忘れたのではないかと思うくらいに膨らんで、膨らんで膨らんでしまいには爆発してしまうんじゃないだろうか。

「あれ、まだいたのかい」

 不意に鼓膜を震わす音に我に帰る。そこには一人の人物が立っていた。彼はツカツカと教室内に歩みを進め、僕の前に立つと顔を覗き込むように身を屈める。
「そろそろ帰らないと、迷ってしまうよ?」
 鼻筋の通った綺麗な鼻、薄い唇、綺麗な漆黒の髪。誰だろうか。僕のクラスにこんな目立つ顔立ちの生徒はいないはずだ。それとも隣のクラスだろうか、だけれどこんな良い男をうちのクラスの女子が黙ってはいないだろう。
「聞いているかい、きみ」
 僕が反応を示さないのに幾分ムッとしたらしい。形の良い眉がかすかに吊り上がりタンザナイトの様に青紫の瞳が瞬きを繰り返す。小さくため息をつくと僕は立ち上がり通学指定のリュックを手に取った。
「聞いているよ、大丈夫。帰れる」
「へぇ、ちゃんと喋れるんじゃないか」
「五月蝿い」
「なんだい、人がせっかく心配してやったというのに」

 彼の声を無視するように扉から廊下へ出ると、普段はそこは誰もおらずがらんどうとした空間とひんやりとした空気だけが漂っていた。僕は鞄の持ち手を強く握り小走りに走り出した。そうでもしないと誰かが背後から心臓目掛けて包丁で刺してくるんじゃないかという不安が、足の先から心臓めがけて走り抜けたのだ。

 早く、はやく。

 はやく学校から出なければ。

 何から逃げるのか分からないけれど、はやく。
 
 下駄箱を無視し、上履きのまま外へと繋がる扉を開こうとした瞬間。僕の肩を強く掴む掌によって動きを止められてしまった。

「ねぇ、待ってよ」

 先ほど僕に声をかけた声色が耳の後ろから聞こえるその声は、感情のこもっていない声色だった。この間テレビでやっていた大々的なパレェドの先頭で笑顔を振りまいていたアンドロイドの様な、まるで機械鉛の様な無機質で冷たく触ったら指先が凍傷を起こすんじゃないか、そんな風に思えるくらい冷ややかったのだ。
 僕はあえて振り返らず俯き、自分の上履きを見つめる。そうすれば彼は呆れて去っていくんじゃないかという淡い期待を抱くも、僕の鼓膜を震わせたのは予想外の言葉だった。

「雨」
「え?」
「雨だよ、きみ、目が悪いのかい?」

 彼の言葉に顔をあげれば、外界と校内を隔てる透明な扉は水滴で彩られアスファルトにできた水たまりには沢山の波紋が広がっては消えていくのが見える。

「本当だ、さっきまで晴れていたのに」
「急に降り出したんだろうね。きみ、そのまま帰るつもりだったのかい」

 彼の言葉に自分の上履きへ視線を移す。どうやら背後から真横へ移動したらしい彼は肩を軽くすくめ、すぐにガラス越しに外へ向けられる。つられるように僕も再び外へ視線を移す、外はしとしとと雨音を奏でるように雨の雫が上から落ちては硬いアスファルトの上に落ちてくる。

「…傘は?」
「ないよ、今日の天気は晴れだと言っていたから」
「置き傘くらいしないのかい」
「……」
「まあ、かくいう僕も傘を持ち合わせていないからね。そこは強く君を責める事はできないっていうものだ」
「君、僕が傘を持っていたから便乗するつもりだったのかい?」
「さあ?ご想像にお任せるよ」

 いたずらが見つかった小さな子供の様な笑みを浮かべる。

「そんな事より、このままここで雨が止むのを待つのかい」
「え、あ、そ、そうだね…」
「よし、じゃあ特別室に行こうじゃないか。なぁに、この時間から教員の見回りもこないだろう」

 彼は僕の返事を待たず手首を掴むとズカズカと廊下を歩き出す。僕はそれを止める事もできず、ただ引っ張られるまま僕よりも少しばかり高い位置にある形の良い後頭部を見つめる。僕の腕を掴むその手はひんやりとしていて、本当にアンドロイドなんじゃないかと疑ってしまう位だった。
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