第2話 中学生、チェリーとの別れ

文字数 2,265文字

 チェリーや他のぬいぐるみの顔を久しぶりに見たのは、中学生になってからだった。透明のプラスチックケースに仕舞っていたけど、みんな少し汚れていたし、埃っぽくなっていた。汚れていたのは、小学生の頃、わたしが遊び倒したせいだ。綿が寄ってしまった子や縫い目から糸が出ている子もいた。それでも、チェリーはまだきちんと原型をとどめていたし、可愛いとも思えた。でも小学生の頃みたいに、ままごと遊びをしたりすることはなくなっていた。もう中学生だし、当然と言えば当然だ。さすがのわたしでも、もうそういう遊びはしていなかった。その時期は、年相応の小説を読むことにはまっていた。
 チェリーを父方の田舎に連れて行って遊んでいたときの祖母の何とも言えない目を思い出す。あれは、従姉妹のお姉ちゃんたちと比べて、わたしがあまりに幼稚だったから心配していたのかもな、と、今なら思える。
 中学二年になる頃には、わたしの心と体は次第に女性になる準備を始めていて、何だか様々なことが慌ただしかったように記憶している。その頃くらいだったか。両親は度々、口喧嘩をするようになった。夜に目が覚めたら毎回、母が泣いていて、そのたびに心配になって不安に苛まれた。朝、父と目が合うとすぐに逸らされた。何か、わたしに隠しているような雰囲気だった。そんな日が続き、あるとき、母がわたしに言った。

「カイ。大事なものだけまとめておいて」
 このときにはもう、何となく察しがついていた。わたしとお母さんは、この家を出ていくのだ、と。
 思春期や様々なことが重なり、ちょうど父のことが大嫌いだったのもあって、両親が別れることには反対しなかった。それよりも、父と口喧嘩をして泣く母や、気まずそうに、わたしから目を逸らす父をもう見なくて済むことに少し安堵していた。そういうわけなので、わたしの荷造りは特に滞りはなく、着々と進んでいった。
 プラスチックケースに仕舞っていたチェリーたちを久々に取り出したのは、まさにその荷造りをしていた日のことだった。ぬいぐるみの一体一体に名前をつけていた幼き日が懐かしく思えた。どの子にも思い入れはあるが、もう中学生になってぬいぐるみ遊びもしなくなったし、新しく住むのは狭いアパートだと聞かされていたので、とにかく荷物を減らさなくてはならなかった。
 わたしは手始めに、イヌのぬいぐるみをゴミ袋に入れた。ちょっと躊躇いはしたが、新しい生活のためには致し方ないことだ。そう考えると、もう躊躇う気持ちは無いに等しくなった。イヌに続き、ネコ、イルカに鳥……ああ、もう遊ぶことも飾ることもないからいっか。そう思った。
チェリーの番がきた。他の子はみんなゴミ袋に入れられたのに、不思議なことに、彼女を手に取った瞬間、他のぬいぐるみには感じなかったものを感じたのだ。
 胸が、チクチク痛んだ。それに、押し潰されたように苦しかった。一緒に公園へ行って遊んだり、大好きなアニメや洋画を観たことを思い出した。可愛いポーズにするために縫いつけられた小さな手がだんだんと窮屈で可哀想に思えきて、母の糸切り挟みで縫いつけられた場所を切ったことまでも思い出してしまった。全部、わたしの一人遊びで自己満足に過ぎなかったのに。あの幼くてキラキラしていた日々を思い出してしまったのだ。

「……チェリー」
 何年ぶりか、古い親友の名前を呼んだ。これくらいの時期には、親友とまでは呼べずとも、学校で一緒に行動するくらいの仲の友達はいたし、チェリーが一番の親友だったことを思い出すことはほとんどなかった。それなのに、わたしは泣いていた。
 母が、わたしの声に気づいて近づいてきた。

「大事なものは持っていっていいから、無理しなくていいのよ」
 背中を撫でてくれる母の優しい声は、あの日を思い出させた。チェリーをプレゼントしてくれた日のことを。母はわたしの大事なものを捨てる必要はないと言ってくれたが、わたしは知っていたのだ。わたしとの新生活を始めるために、母は自分が大事にしていた時計を売ってしまったことを。だから、わたしだけがわがままを言うわけにはいかなかった。  
 この子たちを洗って売りに出したところで、こんなに古くてぼろぼろでは、値段どころか貰い手もつかないだろう。どれほど思い入れがあっても、他人にはわからないのだ。
 小学校でどんなに悲しい想いをしたって、家に帰ればチェリーがいた。周りにどんな反応をされたって、一緒に遊ぶと心が満たされた。いつもわたしを笑顔にしてくれたチェリーを、決してわたしを裏切らなかった親友を、わたしはゴミ袋に詰め込んだ。

「ごめんっ……」
 指先は小刻みに震え、ぼろぼろと涙が零れていた。両親の離婚を悲しんでいるのではなくて、チェリーとの別れが、悲しかったからだ。しばらく顔すら見ていなかったのに。もう、純粋で幼すぎるわたしはどこにもいないのに。
 中学二年生の途中から始まった、母と二人での新生活は、決して余裕はなかったが、母の笑顔が戻って、幸せだった。母は働いているし、ありがたいことに母方の祖父母からの支援、父も養育費は入れてくれているようだったので、食べることにだけは困らなかった。ただ、欲しいものが簡単に買えなくなったのは、仕方ないこととはいえ、苦しかった。裕福ではなくたって、チェリーがいた頃のように、「欲しいものが手に入る幸せ」が、欲しかった。でも、もっと苦しいのは母だったと思う。自分が父と別れることを決めたために、娘であるわたしに我慢をさせていると思い込んでいただろうから。
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