南方に配されし荼枳尼の法【第八話】
文字数 1,730文字
☆
警備配置について、数時間。僕はしばし休憩を取らせてもらい、銀行の外に出た。
暑い。
冷房がないところに来た途端、じめじめした暑さが襲ってくる。
コンビニ行くのもはばかれたので、自動販売機で缶入りのアイスコーヒーを買って、銀行の自動ドアの中にまた入り、冷房の効いた受付のある場所のソファに座る。
プルタブを開けたとき、猫魔も缶ジュースを持ってこっちにやってきた。
二人で並んでソファに座って、しばし無言で飲み物を飲む。
会話がないのも寂しいし、僕は猫魔に気になっていたことを尋ねてみた。
「今日、僕たちが守っている『胎蔵界曼荼羅掛け軸』ってあるよね」
「ああ? ああ、曼荼羅な」
「〈対〉になっている『金剛界曼荼羅』の方は紛失した、って話だけど」
「そうなんだよ、山茶花。この常陸松岡には、〈胎蔵界曼荼羅〉しか現存しない。対になっている〈金剛界曼荼羅〉はないんだ。故に、指定文化財になっているのは〈胎蔵界曼荼羅〉のみ。それがどうしたんだ、山茶花?」
「いやさ、曼荼羅って一体なんなの? 文化財ってことは、文化的に価値があるんだろ。しかも、対になっているもう片方がなくなってしまっていても、それでも価値があるような代物なのかい?」
「おれはそこから説明しなくちゃならないのか。ていうか山茶花。おまえ、なにも知らずに警備にあたっていたのか……。あきれるぜ」
「そう言われると、なにも言えないなぁ」
「曼荼羅ってのは、神仏の集会図 のひとつだ。サンスクリット語を漢字表記したものだな。だから、サンスクリット語でも、『マンダラ』と発音する。語源的には〈完成されたもの〉、〈本質を有するもの〉などの意味を持つ。西洋だと、フロイトと並ぶ偉大な精神分析医のユングが注目したことで、曼荼羅は有名だな」
「ユングも注目したのか、曼荼羅を……」
「ユング曰く『曼荼羅こそひとつの個としての人間の完成像であり、すべての道はそこに通じる』と」
「なんかすごいなぁ。言い過ぎじゃないの」
「いや、『ユングは密教をわかっているな』と言う印象だね」
「そういやその密教って、天台宗と真言宗があるじゃないか」
「そうだな。この銀行に保存してあるのは真言宗の寺にあったものだが。そうそう、天台と真言、このふたつは〈純粋密教〉、略して〈純密 〉と呼ばれる。大乗仏教の流れを汲むんだよ。〈純密〉は、もともとごちゃごちゃあった〈雑密 〉が体系的に整備され、成立したものなんだよ」
「ふーん」
「『大日経 』と『金剛頂経 』に集約される〈純密〉は、大日如来をその本尊としていて、〈即身成仏〉のために、〈三密〉っていう名前の全身的行法を確立して、曼荼羅を生み出した」
「三密……ねぇ」
「密教は神秘主義なんだが、その神秘主義の考え方を簡単にざっくり言うと、〈人間それぞれが小宇宙 として大宇宙 に包まれている。同時に自分という小宇宙のなかに大宇宙そのものが含まれている〉……となるな。密教の世界観は、こんな感じだ」
「ユングのさっきの話と繋がるじゃないか。なるほど」
「そこでその〈宇宙〉を描いたのが両曼荼羅さ。つまり、大宇宙である『金剛界曼荼羅』と、小宇宙である『胎蔵界曼荼羅』」
僕は缶コーヒーを飲み終える。
「文化財にもなるわけだ。大宇宙の方は紛失された、とは言えども」
「ああ。まあ、紛失されたとされる〈金剛界曼荼羅〉掛け軸なんだが、それはこの銀行の会長宅に代々大切にされて保管されている、というウワサもある」
「そうなのか?」
「さぁな。ウワサはウワサだ。それより今は午後十一時を回ったところだ。野中もやいだったら予告通りに、午前零時にやってくるだろうさ」
と、猫魔が言ったところで警報器が鳴る。
警備にあたっていたひとりがソファにいる僕たちに向けて叫ぶ。
「怪盗・野中もやいが現れた! 掛け軸は元の位置から消失した!」
目を見開くように驚いた僕と猫魔は、ソファから立ち上がる。
「野中もやいが来ただって! 予告時間じゃない時にあいつが現れたっていうのか!」
猫魔は走る。
僕も、そのうしろを追った。
野中もやいは予告通りの時間に現れるのが通例だった。
なので、予想外だ、と猫魔は驚いたのだ。
僕も、驚いた。
だが。
現れたのなら、仕方ない。捕まえるだけだ。
警備配置について、数時間。僕はしばし休憩を取らせてもらい、銀行の外に出た。
暑い。
冷房がないところに来た途端、じめじめした暑さが襲ってくる。
コンビニ行くのもはばかれたので、自動販売機で缶入りのアイスコーヒーを買って、銀行の自動ドアの中にまた入り、冷房の効いた受付のある場所のソファに座る。
プルタブを開けたとき、猫魔も缶ジュースを持ってこっちにやってきた。
二人で並んでソファに座って、しばし無言で飲み物を飲む。
会話がないのも寂しいし、僕は猫魔に気になっていたことを尋ねてみた。
「今日、僕たちが守っている『胎蔵界曼荼羅掛け軸』ってあるよね」
「ああ? ああ、曼荼羅な」
「〈対〉になっている『金剛界曼荼羅』の方は紛失した、って話だけど」
「そうなんだよ、山茶花。この常陸松岡には、〈胎蔵界曼荼羅〉しか現存しない。対になっている〈金剛界曼荼羅〉はないんだ。故に、指定文化財になっているのは〈胎蔵界曼荼羅〉のみ。それがどうしたんだ、山茶花?」
「いやさ、曼荼羅って一体なんなの? 文化財ってことは、文化的に価値があるんだろ。しかも、対になっているもう片方がなくなってしまっていても、それでも価値があるような代物なのかい?」
「おれはそこから説明しなくちゃならないのか。ていうか山茶花。おまえ、なにも知らずに警備にあたっていたのか……。あきれるぜ」
「そう言われると、なにも言えないなぁ」
「曼荼羅ってのは、神仏の
「ユングも注目したのか、曼荼羅を……」
「ユング曰く『曼荼羅こそひとつの個としての人間の完成像であり、すべての道はそこに通じる』と」
「なんかすごいなぁ。言い過ぎじゃないの」
「いや、『ユングは密教をわかっているな』と言う印象だね」
「そういやその密教って、天台宗と真言宗があるじゃないか」
「そうだな。この銀行に保存してあるのは真言宗の寺にあったものだが。そうそう、天台と真言、このふたつは〈純粋密教〉、略して〈
「ふーん」
「『
「三密……ねぇ」
「密教は神秘主義なんだが、その神秘主義の考え方を簡単にざっくり言うと、〈人間それぞれが
「ユングのさっきの話と繋がるじゃないか。なるほど」
「そこでその〈宇宙〉を描いたのが両曼荼羅さ。つまり、大宇宙である『金剛界曼荼羅』と、小宇宙である『胎蔵界曼荼羅』」
僕は缶コーヒーを飲み終える。
「文化財にもなるわけだ。大宇宙の方は紛失された、とは言えども」
「ああ。まあ、紛失されたとされる〈金剛界曼荼羅〉掛け軸なんだが、それはこの銀行の会長宅に代々大切にされて保管されている、というウワサもある」
「そうなのか?」
「さぁな。ウワサはウワサだ。それより今は午後十一時を回ったところだ。野中もやいだったら予告通りに、午前零時にやってくるだろうさ」
と、猫魔が言ったところで警報器が鳴る。
警備にあたっていたひとりがソファにいる僕たちに向けて叫ぶ。
「怪盗・野中もやいが現れた! 掛け軸は元の位置から消失した!」
目を見開くように驚いた僕と猫魔は、ソファから立ち上がる。
「野中もやいが来ただって! 予告時間じゃない時にあいつが現れたっていうのか!」
猫魔は走る。
僕も、そのうしろを追った。
野中もやいは予告通りの時間に現れるのが通例だった。
なので、予想外だ、と猫魔は驚いたのだ。
僕も、驚いた。
だが。
現れたのなら、仕方ない。捕まえるだけだ。