呪いの現場

文字数 14,357文字

「なんかさー、ピクルスのPVじゃなくて、スマちゃんお気に入りの奏音たんのPVじゃないか、これ?」
「社長、傷口に指突っ込んでいいですか?」
 社長の一言に須間男はついつっこみを入れてしまう。社長が計算づくで軽口を叩いたかどうかはわからないが、彼の中にあった緊張と混乱、そして不安もいくらか和らいだ。
「結局、鍵を握っているのは奏音たんか」
 映像の中では、ハンカチはあくまでもキーアイテムで、実際に呪いを退けたのは奏音の熱意ということになっている。
「ちょっとスマちゃん、奏音たんと連絡取ってくれる?」
「わかりました。ちょっと行ってきます」
「何処に?」
「社長……病室は通話禁止ですよ?」
 須間男はため息をつくと立ち上がり、病室を後にした。幸いなことに、通話が許可されている談話室には誰もいなかった。須間男は一番奥の席に座り、スマートホンを取り出した。するとホーム画面に、メール着信の通知が表示されていた。差出人は奏音だった。動画に集中していたため、メール着信のバイブに気づかなかったようだ。
 須間男は早速、奏音からのメールを開いた。題名、本文はなく、画像が一枚だけ添付されていた。画像はツイッターのフォロワーを表示した画面をスクリーンショットしたものだった。アカウントは奏音のもので、フォロワー一覧の最上段には、あのナンバー4のアカウントが表示されていた。
 須間男は画像を閉じるとすぐに、奏音の番号に電話した。
『……もしもし?』
 呼び出し音が鳴ってすぐに、奏音が応答した。しかし、声は明らかに沈んでいる。
「須間男です。メールに気づかなくてすいません」
『いえ……』
「フォローされているのに気づいたのはいつ?」
『メールを送る十分ほど前です』
 あのDVDの法則通りであれば、奏音に呪いが発動するまであと七日ある。須間男はそう考えたが、すぐに思い直した。手段が変わっている以上、猶予期間に変更があってもおかしくない。最悪、フォローされたその日のうちに発動する可能性も考慮に入れないとならない。正確な情報がない以上、「フォローされてから七日以内に死ぬ」という思い込みは捨てた方が賢明だろうと、須間男は判断した。時刻は既に午後四時を過ぎている。
 須間男は本題を切り出すことにした。
「例の動画サイトにアップされていた映像のマスターをようやく発見し、先程、確認しました」
『そう、でしたか』
「映像をなぞって呪いが発動しているのであれば、奏音さんなしでは呪いを解くことは出来ないと僕は思います。加藤さんの通夜の会場はどちらですか? すぐに迎えに伺いますので」
『……嫌です……』
「ですが……」
『映像での私は台本通りに演じただけです。現実にみんな死んでいて、あさ美さんまであんなことになって。私……出来ません』
「でも、君がいないと……」
『私、やっと思い出したんです。加藤さんが死んだ日、病院に来てた男の人がいましたよね。あの人、あの映像を撮影していた人ですよね? それに、鶴間さんも』
「あの、それは……」
『全部あの人たちが作った嘘から始まったんじゃないですか! 何で私たちがそのために死ななければならないんですか! ピクルスのみんなも、加藤さんも、あの人たちに殺されたのと同じです! 責任を取るべきなのはあの人たちの方で、私じゃない!』
「奏音さん……僕は、あなたを助けたいんです」
『……あなたも(・・・・)あの人たちと(・・・・・・)同類です(・・・・)
 奏音の言葉は須間男の心を深く抉った。反論のしようがない、認めたくない事実だった。
 電話が切られても尚、須間男はスマートホンを耳に当てたまま放心し続けた。

 うちひしがれたまま病室に戻った須間男は、奏音とのやり取りの全てを、社長と千美に伝えた。ふたりは須間男の報告を黙って聞き、聞き終えてからも沈黙が続いた。恐らく奏音の言葉が、須間男よりも重く鋭い刃として、ふたりを刺し貫いたに違いない。
「……確かに、身勝手な話だよな……」
 社長がぽつりとつぶやくが、続く言葉を誰も持ち合わせていなかった。
 正確に言えば、三人とも、別の手段があることに気づいていた。しかし、それを口にすることが出来ないからこそ、この重い沈黙が続いているのだ。
 恐らく確実な(・・・・・・)ただし(・・・)結末の見えない(・・・・・・・)手段が(・・・)たったひとつ(・・・・・・)
「社長」
 長い沈黙を打ち破ったのは、千美だった。
「社長はその傷を、自分への罰だと仰ってましたよね」
 千美の問いかけに、社長は答えられなかった。しかし千美は構わず、話を続けた。
「全ての発端は、私の罪です」
「チミちゃん、そんなことは」
「いいえ。私のせいで、私が描いた筋書きのせいで、多くの人が死んでしまった。これは事実です。ですから私は、罪を償わなければいけないんです」
 千美はまっすぐ社長を見つめ、続いて、須間男を見つめた。
 須間男が初めて見る、千美の笑顔だった。
「この呪いは、私にしか解くことが出来ません。鈴木さん、お願いです。私をあの場所へ連れて行ってくれませんか?」
 あの場所──千美が生まれ育ち、そして捨てられた場所。始まりの場所。
 六年前、彼女は過去を捨てるためにあの場所へ行った。
 そして今度は、捨てた過去を取り戻し、終わらせるために、あの場所へ向かう。
 千美自身が呪いの根源──過去の自分にハンカチを返す。それが残された唯一の手段。
 須間男には彼女の思いと覚悟を、否定することが出来なかった。
「……わかりました」
「最後まで迷惑をかけて、ごめんなさい」
 千美は深々と頭を下げた。
「……最後なんて、言わないでください」
「……はい……」
 千美は嬉しそうに微笑んだ。
「お前ら勝手に盛り上がるなよ。俺も一緒に……痛っ!」
 上半身を起こそうとした社長は、激痛にあえなく沈没した。
「社長は待っていてください。小埜沢さんも合流しますし、終わらせたら帰ってきますから」
「本当だろうな?」
「約束します。僕たちは役割ではなく、自分の成すべき事を成しに行ってくるだけです」
「言うようになったな、半人前」
「入社して何年経ったら一人前扱いしてくれるんですか……」
「そうだな、今回の件を『ガチ怖ファイナル』としてまとめ上げたら認めてやろう。それでフェイクドキュメンタリーとはおさらばだ! 卒業制作にはちょうどいいだろう?」
「社長……?」
「小埜沢から聞いてるよ。お前さんは卒業証書と小埜沢の紹介状を持って、大好きなカピバラやアルパカを撮って撮って撮りまくる職場に行ってこい!」
 社長は豪快に笑った。笑い終えて真顔になると、千美の方を向いた。
「お前さんには、いっぱい話したいことがあるんだ。千美、帰ってきたら、おっさんの長話に付き合ってくれないか?」
 社長は千美をあだ名ではなく、名前で呼んだ。
「……はい」
 千美は素直に頷いた。彼女が何処まで社長の──社長と自分の母親の過去を知っているのかはわからない。全く知らないのかもしれないし、全てを知っているのかもしれない。ひとつだけはっきりしていることは、どんな話であっても、彼女はすべてを受け入れる覚悟を決めている、ということだ。
「それじゃ、行ってこい!」
「行ってきます」
 社長に背中を押されたふたりは同時に挨拶をすると、病室を後にした。
「……絶対に帰って来いよ……」
 ひとり残された社長は、祈るようにつぶやいた。

 北品川の病院を出発したワゴンは、五反田のマンスリーマンションの前で止まった。
「……どうぞ」
 千美はそう言って、マンションの一室へ須間男を案内した。寄り道は彼女の希望だった。どうやらこのマンションが彼女の住まいらしい。彼女に帰る家──現実の拠り所があったことに、須間男は驚いていた。
「ちょっと待っていて下さい」
 千美はキッチンの丸椅子に須間男を座らせると、リビングの扉を閉めた。車の中で待っているのと大差がないと思いつつ、須間男は所在なげに辺りを見回した。家具類は元々備え付けのものらしく、やや型式が古い。
 調味料の類が大衆食堂のようにテーブルの上に乗っている以外は、装飾も生活臭もない。冷蔵庫の中が気になったが、流石に勝手に開ける訳にも行かない。
 彼が一番不思議に思ったのが部屋の臭いだ。てっきりあの洋モクの残り香が染みついているものとばかり思っていたが、何の臭いもしなかった。ただ、女性らしい化粧や芳香剤などの香りもなく、それはそれで千美らしいと須間男は思った。
 よく考えてみれば、車内でも取材先でも、喫煙可能なファミレスなどでの待ち時間でも、彼女が喫煙している姿を彼は見たことがない。やはり彼女は、事務所で編集作業をしているときだけ、煙草を吹かしていたということだ。
 ──まったく、誰の影響なんだか(・・・・・・・・)……。
 須間男は小埜沢の言葉を思い出す。正しくは影響ではなく遺伝なのだろう。千美の仕事姿を見続けて、小埜沢はどんな感情を抱いていたのだろうか。正確なところはわからないが、小埜沢が今も千美のために奔走しているのは紛れもない事実だ。
 自分に出来ることはないだろうかと、須間男は考えた。社長のように身を挺して千美を守ることが出来るだろうか。自分に出来たことと言えば、地の利を活かして笈川たちをなんとか退けた程度のことだ。怪我程度で済むと踏んだから出来たことだ。
 手持ちぶさたの須間男は機材バッグの中を確認した。
小埜沢の私物とは比べものにならないハンディカメラが二台、タブレット端末が一台、メモリカード十枚弱が入った収納ケース、六個の予備電源と充電キットにシガーソケット、二本の伸縮式三脚と折りたたみレフ板、簡易照明が二本、ガムテープやビニール紐、瞬間接着剤などの養生品。資料や台本がファイルとしてタブレットに収納できるようになった分だけ多少軽くはなっているが、それでもかなりの重量だ。
これだけ機材がぎっしり入ったバッグを、何故室内に持ってきてしまったのだろう。車を降りるとバッグを担ぐという習慣がすっかり身についてしまっていることに、彼は我ながら呆れ果てた。
 すっかり肩の力が抜けた須間男は、カメラの動作チェックをはじめた。二台目のカメラを録画モードにしてオートフォーカス機能を試していたとき、不意にアコーデオンカーテンが開き、彼はついカメラをリビングに向けた。そしてそのまま固まった。
 リビングには千美が立っていた。彼女はいつもの軽装ではなく、白地に水色のギンガムチェック模様の入った、ティアードスリーブのワンピースを来ていた。
「あの……どうでしょうか……?」
 千美は不安そうに俯きながら須間男に問いかけた。彼女が恥ずかしそうにもぞもぞと動くたびに、スカートの裾がふわりと揺れる。しかし須間男は彼女にカメラを向け──彼女を見つめたままぼんやりしていた。
「……へ、変、ですか?」
「あ、いや、いえ、全然変なんかじゃないです! ……似合っています」
 もう一度千美に問われて、須間男はしどろもどろに答えた。思わず「綺麗です」と言いそうになったのをどうにかこらえた。
「これ、初任給で買ったんです……母がよく着ていた服と、似たデザインなんです」
 千美の言葉に、須間男は何と返していいかわからなかった。あの廃屋へ向かうために、捨てた過去を取り戻すために、恐らく必要な服だろうということはわかる。しかし、彼女が自分を捨てた母親に対して、どんな思いを抱いていたのかまではわからないし、踏み込めない。
「髪の毛、いつの間に洗ったんですか?」
 言葉に窮したあげく、須間男の口から出てきたのは失礼な質問だった。
「これです」
 千美は肩から提げたシルバーのがま口ポーチから、スプレー缶を取り出した。
「……ドライシャンプー? そんなのがあるんですか?」
「ボディソープ替わりにも使えるので便利なんです」
 服装と違い、色気のない──別の意味で聞きたくない話だった。
「本当はメイクもしたかったんですが……全部乾燥してしまっていて……」
 更に残念な話が続く。メイク用品が全滅したことに今日気づいたと言うことは、かなり長期間、この家に帰宅していなかったということだ。更に、メイクそのものもずっとしてこなかったという驚愕の事実まで発覚してしまった。
「途中でコンビニに寄っていただければ、最低限必要なものは買えると思います」
 千美の言葉に須間男はいたたまれない気持ちになった。
「鶴間さん、やるなら徹底的にやりましょう!」
「やるって……何をですか?」

「どうでしょうか?」
 黒いスーツをぴしっと着こなした女性に促され、千美は瞼を開いた。眼前に置かれた鏡を見て、彼女はまるではじめて鏡を見る人のように、目を大きく開いて固まっていた。
「あの……どうなさいました?」
 スーツの女性が心配そうに尋ねると、千美はゆっくりと振り返り、後ろに立っていた須間男を見上げた。明るくなめらかな頬、整えられてラインがくっきりした眉と目元、そして鮮やかだが派手すぎず、潤いのあるピンクの唇。今まで見たことのない千美の顔が、そこにはあった。
「……綺麗……です……」
 須間男は思わずつぶやき、そして耳を真っ赤にした。須間男の言葉を受けて、千美は顔を伏せたが、彼女の耳もほんのり赤くなっていた。
「良かったですね奥様。ご主人もこんなに喜ばれてますよ」
 照れるふたりにスーツの女性が追い打ちをかける。女性はここ──駅ビルの化粧品店に勤めるビューティアドバイザーだ。化粧品を全滅させた千美にメイクの技術は期待できないと判断した須間男が、プロの手を借りる方法を選んだのだ。須間男はお喋り好きな母親に感謝した。
「奥様、せっかく化粧映えするお顔なんですから、フェイスケアを意識されるといいですよ。それだけでも化粧の乗りが違ってきますし、肌年齢を保てますから」
「は、はい」
「それに、喫煙量も減らした方がよろしいかと。コラーゲンの生成が抑えられてしまうので、角質層が荒れるだけではなく、たるみ、しわ、シミの原因になります」
「そうなんですか……」
 あの千美が気圧されている姿を、須間男は呆然と眺めていた。
「生活習慣の乱れやストレスも、肌に悪いんですよ。もちろん内臓などにも悪影響が出ます。ご主人も奥様をもっと気遣ってあげて下さらないと」
「は、はあ」
 思わぬ説教を受けて、須間男は「ご主人」ではないことを言い出せないまま頷いた。
「ちょっと失礼しますね」
 女性はすっと立ち上がると、千美の真後ろに立った。そして彼女のポニーテールを手に取ると、ゴムを下にずらした。次に髪の根元からゴムまでの間を左右に分けると、その分け目にポニーテールをすっと通した。分けた部分が内側に緩く巻かれた状態になる。最後にバランスを整えながらゴムをきゅっと持ち上げた。
「これでよし、っと。いかがでしょう?」
 女性に鏡を向けられて、千美は再び目を丸くした。ほんの少し前まで無造作ポニーテールだった彼女は消えて、鏡の中には大人びた彼女の姿があった。露わになった両耳から下がるティアドロップ型のイヤリングが、心なしか嬉しそうに輝いている。
「ハーフアップです。奥様はナチュラル系でも綺麗なヘアスタイルが似合うと思いまして。ヘアメイクは専門外なので、いつもはここまでしないのですが……」
 ビューティアドバイザーとしての血が疼いたのだろう。それほどの素質を千美が持っていると、以前の自分だったら絶対に考えもしなかっただろうと須間男は思った。
「ご主人、さっきから見とれてばかりですよ」
 女性にからかわれて、須間男はうろたえた。
「これからも奥様を大事にしてあげて下さいね」
「はい」
 須間男は迷いなく答えた。あまりにも真面目な彼の態度に、ビューティアドバイザーの女性がきょとんとするほどだった。

 ふたりを乗せたワゴンは西へと向かっていた。ナビに登録された目的地までの所要時間は一時間弱。日没前にはどうにか到着できそうだと、須間男は胸をなで下ろした。しかしこれも筋書き通りなのかも知れないという疑念が、彼の脳裏を過ぎる。
 いつもは後部座席で映像チェックや編集作業に集中している彼女が、今は助手席に座り、進行方向をじっと見つめていた。慣れない距離にいつもと違う彼女がいることに須間男は戸惑った。ワゴンの震動に合わせて、ティアドロップ型のイヤリングが揺れる。
 ──彼女が今、身に付けているイヤリングは、僕の父が彼女の母親に、初仕事の記念として贈った物なんだ。
 須間男は小埜沢の話を思い出す。母親が残していったイヤリングを、千美はどんな思いで身につけているのだろうか。あの映像でも、母親については「帰ってこなかった」とだけ表現されている。そして映像の中の少女は、母親の帰りをずっと待っていた。憎む、恨むといった表現はまったくなかった。
「あの……」
「は、はい?」
「いろいろと、ありがとうございます……」
「い、いえ……」
「何も……聞かないんですね」
 千美の言葉に、須間男はどきっとした。唯一の部外者である自分が、何故千美の言葉に疑問を抱かなかったのかを、彼女は尋ねてきたのだ。流石に聞いて知っている、とは答えづらい。まして、小埜沢から聞いた、などとは絶対に言えない。中には千美がまだ知らない話もあるかもしれない。須間男は答えに窮した。
「鈴木さんは、どうして映像の仕事を選んだんですか?」
 予想外の質問に、須間男は一瞬、頭の中が真っ白になった。普通であれば、同僚になって間もない頃に行われるやりとりだが、千美が来た当初から現在まで、そんなやりとりは一度もなかった。そういう空気を作らせない雰囲気を持つ千美に対し、須間男も一定の距離を置いて避け続けていたのだから仕方がない。
「大学時代に、姪っ子の七五三のカメラマンをさせられたんですよ。家のパソコンに映像編集ソフトが入ってたので、それを使って撮影した動画を編集したんですよ。そうしたら、ものすごく喜ばれて。それが嬉しくて、つい」
 映像関係の会社に絞ってエントリーしまくったものの全滅。沈んだ気持ちを癒すためにレンタルで借りた猫のDVDに感動し、製作会社を調べたらカオスエージェンシーだった、というのは余談である。
「……ごめんなさい。楽しくない仕事ばかり持ち込んでしまって……」
「え、いや、それは……」
 その通りではあった。だが、今の須間男には、これまでの仕事や千美に対する負の感情はひとかけらも残っていなかった。それどころか、もはや遠い過去の出来事のように思えるほどだった。心境の変化に、須間男自身が驚くほどだ。
「私、ずっと忘れていました。何でこの仕事を始めたのか。笑わないで、聞いてもらえますか?」
「は、はい」
 千美のらしくない言葉に戸惑いつつも、須間男はこくこくと頷いた。
「私、あの向こう側に行きたかったんです」
「向こう側、ですか」
「小さい頃からテレビが好きで、いろんなドラマを見て、あのドラマの世界に入れたらって、ずっと思っていたんです」
 千美が幼少時代の八十年代から九十年代初頭は、ドラマの黄金時代だった。二つ年下の須間男も同様にテレビを見て育ったので、良く覚えていた。当時のドラマで描かれた世界は、現実よりも大げさで華やかだった。千美の気持ちもよくわかる。
「成長すれば、さすがにドラマが虚構だということはわかります。それでもテレビの向こう側に対する憧れは、ずっと変わりませんでした。それでこの世界に入ったはずだったのに、どうして、忘れてしまっていたのか……」
「いいじゃないですか」
「え?」
 千美は驚いて須間男の方を見た。驚いているのは須間男も同じだった。考える前に、言葉がぽんと出てしまったのだ。そして、一度出てしまった言葉は止められなかった。
「思い出せたんですから、いいんですよ、きっと。その気持ち、もう忘れることはないですよ、きっと」
 断言してしまった。ものすごいキザなことを言ってしまった。偉そうなことを言ってしまった。須間男の顔からぶわっと汗が噴き出した。自分でも顔が火照っているのが嫌でもわかるほどだ。彼は慌てて汗を拭った。
「……そう、ですよね」
 千美の声は、心なしか嬉しそうに聞こえて、須間男は再び汗を拭った。その時、須間男のスマートホンが激しく揺れた。
「あ、着信です」
 須間男はワゴンを路肩に寄せて、ポケットからスマートホンを取り出した。液晶画面には、小埜沢の名が表示されている。須間男はすぐに応答した。
「もしもし、鈴木です」
『やあ。動画は観終えた?』
「はい。今、ふたりで例の廃屋に向かっているところです」
『……そうか。千美ちゃんが覚悟を決めたか……』
 小埜沢の声に、アナウンスが重なる。
「小埜沢さん、今、何処にいるんですか?」
『今? 駅のホームにいる。古巣に寄っていてね。確認したいことがある、って話したよね。大当たりだったよ』
「大当たりって、どういうことですか?」
『古巣の事務所に行って、僕はあのハンカチの所在を確認していた』
「どういう……ことですか?」
『あの映像で使う予定だった小道具は、ありふれたキーホルダーだったんだよ。それがあのハンカチにすり替わってしまった』
「鶴間さんからその話は聞いていますが、それがどうしたんですか?」
『いいかい。撮影に使った備品はきちんと備品庫で管理するようにしてあるんだよ。いつ続編や関連作品を撮影するかわからないからね。ハンカチもあるだろうと思って』
「でも今、ハンカチは寄藤が持っているんじゃ……」
『君も映像を見たならわかるだろ? 寄藤の持っていたハンカチは新しすぎる(・・・・・)
 確かに小埜沢の言う通りだった。久千木の映像にブロックノイズと共に映し出されたハンカチは、小埜沢のマスター映像に映っていたハンカチよりも色鮮やかで新しかった。貸しスタジオの暗視カメラの映像はモノクロだったが、寄藤が捨てようとして戻ってきたハンカチもまた、濃淡がはっきりしていた。
『あのハンカチ、今でもメーカーから発売されているんだよ。残念ながら、当時のハンカチは見つからなかった。出来れば実物を用意したかったんだけど……』
「気にしないでください。多分、なんとかなりますから」
 役割を果たすための小道具は用意されるはずだという確信が、須間男にはあった。今回の事件を追うことになった二つの映像、動画サイトの映像、めぐみのテープ、小埜沢の保管していた映像と、関係者が思い出していく記憶。最後の鍵となるハンカチは、きっとあの廃墟に辿り着けば手に入るに違いない。
『そうか……。とにかく、僕もすぐ追いかけるから。ハンカチは見つからなかったけど、他のもの(・・・・)はいろいろと発掘出来たよ。どうやら、踊らされているのは(・・・・・・・・・)僕たちだけらしい(・・・・・・・・)
「あの、それってどういう……?」
『詳しいことは合流時に報告するよ。くだらない呪い(・・・・・・・)を終わらせるためにも、時間を無駄には』
 その時、どさっ、という音がして、小埜沢の会話が途切れた。
「小埜沢さん、どうしたんですか?」
 須間男が呼びかけても応答がない。電話を切られた訳ではないらしく、ざわざわと人の声が聞こえている。『大丈夫かしら?』『しっかり! 早く戻って!』等の声は、どうやら小埜沢に向けられたものらしい。
『……そうか、やっぱり君か(・・・・・・)……』
 小埜沢のつぶやきに続いて、鈍い音が響いた。続いて金属同士が激しく擦りあわされたような音が入ったかと思うと、嫌な音を立てて通話は途切れた。須間男は慌ててリダイヤルをしたが、『おかけになった電話は電源が入っていないか~』とアナウンスが流れるだけだった。
 嫌な予感がして、須間男は後部座席のリュックからタブレットを取り出した。あの動画を再生し、小埜沢が顔を見せるシーンまで飛ばす。ナンバー4が入った廃屋の引き戸を開けようとしている場面が映し出された時、須間男は思わず声を上げた。
「……畜生っ!」
 小埜沢の顔に(・・・・・・)ひっかき傷のような(・・・・・・・・・)あのモザイクが(・・・・・・・)かかっていた(・・・・・・)
「……どうしたんですか?」
 問いかける千美に、須間男はタブレットの画面を見せた。画面を見た彼女は目を大きく見開き、わなわなと震えていた。須間男はスマートホンを開き、小埜沢のツイッターアカウントを表示した。フォロワー欄には、あのハンカチのアイコンが表示されていた。次に自分のアカウントと、カオスエージェンシー公式アカウントを確認した。ナンバー4は、どちらのアカウントもフォローしていた。
 千美がアカウントを持っていなかったのは、不幸中の幸いと言うべきか。いや、違う。須間男は大きくかぶりを振った。カオスエージェンシーの公式アカウントは会社の顔だ。ならば、社員全員が標的だと考えるべきだろう。
 須間男はナンバー4のアカウントを確認した。現在のフォロー数は5──奏音、須間男、小埜沢、会社のアカウント、そして……寄藤勇夫。
 全ては終局へと向かいつつある。ならば間違いなく、目的地で寄藤と会うことになるだろう。そう仕組まれていると、須間男は確信した。
「……行きましょう」
 千美の言葉に、須間男は黙って頷いた。

 一時間後、ワゴンは目的地の近くに辿り着いた。
「ここから先は徒歩になります」
 ハンディ片手に先導する千美に、機材バッグとリュックを背負った須間男が続く。奏音が彼らの状況を見たら再び罵詈雑言を浴びせそうだが、須間男はこれで正しいという確信があった。
 映像で産み出された呪いは、映像で終わらせるのが道理だ。一部始終を記録し、映像で決着を付けなければ恐らく終わらない。これは、そういう筋立ての呪いなのだから。
 雑草に隠れそうになっている獣道を、千美は迷うことなく進んでいく。履き慣れない白いミュールに足を取られて、何度もよろめきながら。六年前、そしてもっと以前には、ここは開けた道だったのだろうかと、須間男は思いを巡らせた。それは千美も同じだったらしい。
「六年前、ロケハンのついでに立ち寄ったとき、既にここは廃れていました」
 彼は以前インタビューした廃墟専門家から聞いた話を思い出した。専門家によると、再開発や地場産業の衰退よりも、交通の便が廃墟や廃村を産むのだそうだ。利便性を求めて村から離れる人が相次ぎ、最後には空っぽになるのだと。九十年代どころか二千年代に入っても尚、首都圏のあちこちに新たな廃墟・廃村・廃施設が産まれているらしい。
 彼女が生まれ育った村も、それらの廃墟と同様の道を辿ったのだろう。
「その時に、あの話を思いついたんです」
 捨て去られた村に千美が向かう。捨て去った自分を取り戻すために。
 そんなことを思いながら、須間男は千美の後ろ姿を撮影していた。日は若干傾いてきたが、まだ日没には間がありそうだ。日差しを遮る木々のおかげか、空気に嫌なぬるさもない。枝葉のこすれる音と、ふたりが枯れ枝や枯れ葉を踏みしめる音、そして蝉の鳴き声だけが響いていた。
 二十分ほど歩くと、急に視界が開けた。広場のように見える開けた土地は、恐らく田畑と大通りだったのだろう。今は雑草が生い茂っている。小高い山の斜面には、いくつもの主なき家屋が点在している。中には既に屋根が崩落し、倒壊しているものもあった。
 黄昏色に染まる廃れた風景の中心に、佇む男の姿があった。
「……久千木……さん?」
 しわの寄ったワイシャツにスラックス、ネクタイを緩めても尚けだるそうな表情の男。それは間違いなく久千木真人だった。久千木は須間男の問いかけに答えず、ぼーっと立ったまま、足下を見下ろしていた。須間男は彼が見下ろしている場所へとカメラを向けた。
 雑草の中に、大男が沈んでいた。
 周囲に飛び散った飛沫は、夕焼けに染まることを拒否するかのように、深紅に輝いていた。
「……終わらせてやったよ」
「……え?」
「終わらせてやったんだよ! ゆりみゅんが呪われる前に、僕がこのバイ菌を始末してやった! こいつのせいで酷い目にあった連中や、呪いで死んだアイドルたちの敵を、この僕が、この僕が! 始末してやったんだっ!」
 久千木は吠えながら、手にした金属バットを振り上げた。
鮮血に染まったバットが夕日に照らされる。
 そして彼は勢いよくバットを振り下ろした。鈍い音がして飛沫が雑草を、久千木自身のワイシャツを赤く染める。何処か遠くで流れる、六時を知らせる童謡のメロディが不協和音のようにこだまする中、久千木は何度も何度も、バットを大男──寄藤勇夫の後頭部へと振り下ろした。
 ……これが、久千木に与えられた本当の役割だったのか。
「もう……もう、やめるんだ!」
 須間男はどうにか声を絞り出した。これ以上は見ていられなかった。彼の懇願が届いたのか、久千木の動きが止まった。そして、須間男たちの方を向いた。
「……そういえば、彼女が(・・・)言っていたっけ(・・・・・・・)。あんたらも呪いに関係があるんだって? だったら……駆除しなくっちゃ……!」
 ゆらりと久千木が動いた。そして次の瞬間、彼は千美に向かって走り出した。千美は彼にカメラを向けたまま硬直している。須間男は咄嗟に千美の前に出ると、久千木を睨んだ。
「邪魔をするなあっ!」
 久千木がバットを振り下ろす。鈍い反響音が響き、彼は口元に笑みを浮かべた。しかし次の瞬間、彼は突き飛ばされ、地面に尻餅をついていた。
「なっ……!」
「映像屋を……なめるなっ!」
 久千木の上に馬乗りになった須間男は、機材がぎっしり詰まったバッグを久千木の顔の上に落とした。久千木がバットを振り下ろした瞬間、須間男はそのバッグを盾にしたのだ。大量の機材が詰まったバッグは、かなりの重量と剛性を誇る代物だ。そんなバッグを持ち歩いて撮影に明け暮れる日々を送った須間男と久千木では、体力差は明らかだった。
 だからこそ、須間男には信じられなかった。あれだけ悪名が高く力で正論をねじ伏せてきたはずの寄藤が、久千木のような男にあっさりと殺されてしまったという事実が。
 結局、寄藤という男はどういう人物だったのか。何を思いながらここへやって来たのか。何処まで知っていたのか。すべてわからないままに終わったことが、須間男は悔しかった。
 気絶した久千木の両手両足をビニール紐とガムテープで固定し終えると、須間男はスマートホンを取り出して警察に連絡をしようとした。しかし画面の左上には「圏外」の文字が表示されていた。まるで外部からの妨害を阻むかのようだ。
「……終わらせましょう」
 千美は黙ってうなずいた。

 須間男は恐る恐る寄藤の遺体に近づき、ズボンのポケットを探った。幸いなことに、あのハンカチは血に染まることなくポケットの中にあった。小埜沢が言っていた通り、ハンカチは新品同様だった。
 須間男は振り返り、千美を見た。千美はこくりと頷き、両手を差し出してきた。須間男は彼女の掌の上に、そっとハンカチを置いた。
「実物はこんなに綺麗じゃないんです。色あせてしまって、落ちない染みもあって、名前も刺繍されていて」
 ハンカチを見ながら千美がつぶやいた。
「鈴木さんはここで待っていてください」
「いえ、一緒に行った方が……」
 須間男の申し出に、千美は小さくかぶりを振った。
あの子(・・・)は寂しがり屋だから、あなたを連れて行ってしまうかもしれません」
 恥ずかしそうに俯きながら、千美はつぶやいた。
「私は必ず、あの子(・・・)を連れて帰ってきます。ですから、待っていてください」
 顔を上げて微笑むと、千美は歩き出した。須間男は彼女の後ろ姿にカメラを向けた。セピア色の風景の中を、千美は歩いて行く。今、彼女は間違いなく向こう側にいる。彼女が憧れていたテレビの向こう側に。そのことに、彼女は気づいているだろうか。
 先に向こう側に行った幼い頃の自分に、彼女は会いに行こうとしている。
 ものすごく遠回りで、ものすごく不器用な道のりの果てに、やっと過去と現在が繋がるのだ。雑草だらけの斜面を、千美は何度も足を取られながら歩いて行く。
 そしてついに彼女は、あの廃屋の前に立った。
 彼女が育った家。置き去りにされた家。彼女の心が死んだ家。
 様々な想いが残った家の前に立つ千美の姿は、恐らく彼女が幼い頃に……いや、恐らく今でも待ち続けていた姿そのもののように、須間男には見えた。
 須間男はズームで彼女の横顔を捉えた。彼女は引き戸に手をかけると、ゆっくりと開いた。そして何かをつぶやいた。
 ──ただいま。
 彼女はそうつぶやいたのだと、須間男は思った。
 須間男が見守る中、彼女はゆっくりと扉をくぐり、室内へと姿を消した。きっとその先には、あの映像のようなCGで作った化け物はいない。ただの寂しがり屋の少女がいるだけだ。少女はきっと、「おかえり」と言って千美を出迎えてくれるだろう。
 そんな彼の思いは、爆発音と共に砕け散った。
 いくつかの爆発音が発生し、廃屋の内外から火の手が上がった。須間男は慌てて廃屋を目指して駆け出した。
「鶴間さん、早くそこから逃げて!」
 叫びながら、雑草をかき分けながら、須間男は走る。自分ではありったけの力を振り絞っているつもりだが、望むスピードが出ないことに苛つく。火の手は廃屋をあっさりと包み込み、更に蹂躙していく。
「鶴間さん! 鶴間さん!」
 須間男は何度も千美の名を呼ぶ。ぜいぜいと息を切らしながら名を呼び続け、見苦しいほど喘ぎながら走る。嫌な汗を拭うことすら忘れて、ただ走った。そしてようやく廃屋の前に辿り着いた。
 しかし彼の眼前で、廃屋は音を立てて倒壊した。千美を、全てを飲み込んで。
 彼は絶叫した。もはや言葉ではなかった。あらゆる感情を吐き出した、魂の咆吼だった。
 涙と鼻水と汗でぐちゃぐちゃの顔を、沈んだ夕日の替わりに炎が照らす。やがて炎の勢いが衰えると共に、彼は全てを出し尽くし、放心した。
 束縛されて転がっていた久千木が、高らかに笑った。
「念のために仕掛けておいた罠が役に立った! ざまあみろ!」
 須間男は顔を拭い、尚も笑う久千木を見た。そして、ゆっくりと彼に近づいていく。
「やるのか? やれよ! 俺は@LINKを、ゆりみゅんを救った神だ! あんたは神殺しの汚名を背負って生きて行けよ! あんたの手で俺の名を時代に刻んでくれよ!」
 久千木の戯言はもう、須間男の耳には届いていない。彼は機材バッグの傍に転がっていた金属バットを拾い上げ、久千木に近づく。
「そうだ! いいぞ! もうちょっとだ! さあ! 早く来いよ!」
 挑発を続ける久千木の前に、須間男は立った。
 彼は無表情のまま、バットを振り上げた。
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登場人物紹介

鈴木須間男(32)


小さな映像製作会社に勤務。

弱腰で流され体質。溜め込むタイプ。

心霊映像の制作と、その仕事を始めるきっかけを作った千美に、かなりの苦手意識を持っている。

よくオタク系に勘違いされる風貌だが、動物以外のことは聞きかじった程度の知識しかない。

鶴間千美(34)


須間男の同僚。

須間男よりもあとに入社してきたが、業界でのキャリアは彼よりも長く、社長とは旧知の間柄。

服装は地味でシンプル、メイクもしていない。かなりのヘビースモーカー。

感情の起伏がほとんどない、ように見えるが……。

社長(年齢不詳)


須間男たちが勤める映像製作会社の社長。

ツンツンの金髪、青いアロハに短パン、サンダル履きと、「社長」という肩書きからはほど遠い見た目。

口を開けばつまらないダジャレや、やる気のなさダダ漏れの愚痴がこぼれる。

本名で呼ばれることが苦手なようなのだが……。

麻美奏音(24)


地下アイドル「ピクルス」の元メンバーで、メンバー唯一の生存者。

六年前の事件以降、人前に出ることはなかったが、今回の騒動で注目を集めてしまう。

肝心の「呪い」については、まったく覚えていないようなのだが……。

寄藤勇夫(42)


有名アイドルグループ「@LINK(アットリンク)」の厄介系トップオタ。

須間男たちの会社に送られてきたふたつの映像に映り込んでいた人物。

@LINKの所属事務所から出禁を喰らってから、消息が途絶えている。

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