だらだらとした小説の意味

文字数 1,014文字

 漱石の「明暗」を読んだ時の印象は、なんてだらだらした小説だろうというものだった。それをもうちょっと精確に言うと、お芝居で重要な出演者が何か支障があって、なかなか来ないので間延びするのを承知で無内容な会話を続けている、それに気づいた観客は「登場人物ではなくて、ひょっとしてシナリオ・ライターがまだ書き終えてないのを待っているんじゃないか?」とひそひそ話を始めたという感じに近い。

 ベケットの「ゴドーを待ちながら」もだらだらしたお芝居で、何を待っているかと言うと学校の試験なら「神のようなもの」が正解かもしれないけれど、端的に「死」だろう。人間は死を本能的に恐れながら、どこかで待っている変な生き物だと思う。いい時に死にたい、もう死んでもいい、雲一つない秋空を見上げると「Today is a very good day to die.」とつぶやきたくなる。https://sutekibungei.com/novels/eb34abb9-bd86-4c80-a808-af5f34e8efac

 ここまで言えばピンと来た人もいるだろう。漱石は未完のまま死にたくてだらだら書いていたのだと。「明暗」=「生と死」、「則天去私」=「寂滅」と解するのは変だろうか。しかし、そうだとするとそれはそれでつらいかもしれない。緩慢な自死なのだから。ましてやそれ自体を作品化するというベケットよりも前衛的な試みをしていたとしたら。

 漱石の数多い弟子の中で今の若い人が読むとすると芥川龍之介と内田百閒しかないかもしれない(寺田寅彦はどうだろう)。全集を何回か読んだ百閒についてだけ述べよう。大ざっぱに言って戦後の百閒の作品に見るべきものはない。「特別阿房列車」があるではないかという反論があるだろうが、戦前の名品と比べるとさほどのものではないし、何より阿房列車シリーズをだらだら続けたのは彼の熱烈なファンを悲しませ、つらい気持ちにさせていると思う。元々彼は自己模倣が顕著で、「このエピソードの初出を挙げよ」というクイズは難問だろう。

 黒沢監督の遺作となった「まあだだよ」は彼と彼の学生(教え子という言い方を百閒は忌み嫌っていた)のホモセクシャリティに近いべたべたした関係を描いたもので、ぼくの第一印象は「山田洋次かよ」だった。でも、今ふと思ったのだけれど、あの映画に漂うぼんやりした気味の悪さはここまで書いたことすべてとつながっているのかもしれない。

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