「町」

文字数 3,386文字

 翌日も朝永は旧校舎の屋上に訪ねてきた。
 八月の白い光の中で、辛うじて見えた白衣の一切れは膨らんでいなかった。今日はLSDを持ってこなかったようだ。
 僕は滑空機の整備をする。その姿を朝永は立ち尽くしながら見ている。今日の朝永は話すことがないらしく、お互いに無言だった。
 何もかもが白い。一呼吸ごとに肺も焼かれていく。
 僕が主翼の角度を調整して、揚抗比を上げようとしていると、遠くから人々の怒声が聞こえてきた。
 僕はそちらの方に目を向けたが、風景が白く発光してたために、声だけがはっきりとして、形はぼんやりとしていた。しかし正門に築かれたバリケードを挟み、「学園」の生徒と「町」の人間が争っていることはわかった。僕はその喧噪を直感的に悟ったわけではなく、いつものことだから、経験的に知っていただけだ。
 僕と朝永は太陽に目を焼かれながら、正門の方に顔を向けていた。いくつもの黒い影が蠢いているのを認めたが、どちらの影が優勢なのかはわからなかった。しかし二つの陣営のどちらが勝とうとも、昨日見た夢のように僕にはどうでもよいことだった。
「学園」には「町」での生活に適応できないと判断された人間が送られてくる。「町」に適応できない人間とは、怪我の後遺症や病気によって満足に生活できない人間ではなく、人間として精神的に何かが欠落しているために社会的な行動が取れない人間のことだ。そして「学園」で矯正され、「町」に適応できると判断されるまで、ここから出ることはできない。
 僕も朝永も「学園」に閉じ込められている生徒だ。
 ところが「学園」の生徒が徒党を組み、不法に外へ出て、一人の女を連れ帰ってきた。その女は「町」にある教会の修道女だ。「学園」の生徒は女を人質に取り、ここに籠城を始めた。それが一週間前の話だ。
 教会の修道女が誘拐されたとき、「学園」には騒擾が巻き起こった。結果だけ言えば、教師は全員「町」に追い出され、「学園」には生徒だけが残った。そしてバリケードを築いて、女を取り返そうとする「町」の人間と角逐を続けている。
 実のところ、僕は女の誘拐から「学園」への籠城までの経緯を詳しくは知らない。僕は女を誘拐した一派には与していなかったし、「学園」に残ったのも滑空機の整備を続けるためだ。バリケードの警備は「学園」の生徒が三交代制で当たっていた。警備の報酬として、食料が配給されるのだが、僕は在野としての立場に固執しているために、食料は朝永から分け与えてもらっていた。
「「学園」の奴らはいつまで籠城を続ける気なのかね。この籠城が始まって、もう一週間か」
「あと十日も持たないだろう。実のところ食料はもう底を突いている。「町」の人間にバリケードを突破される前に、私たちは空腹によって音を上げる」
「僕たちが「町」に勝つ可能性は?」
「ない。「学園」はもうすぐ打ち負かされ、ここに残った生徒は全員、何かしらの懲罰を受ける」
「そもそもどうなれば、「学園」の勝ちなんだ? 実を言えば、「町」にいた女を誘拐した一派が何を目論んでいるのか僕は知らない。籠城戦を仕掛けるということは、何か要求があるはずだ」
「「学園」の非人道的な矯正政策が撤廃されればいいんじゃないか? はっきり言って、私たちの誰もが自分で何を求めているのかわかっていない。昨日、きみはカウンター・カルチャーは感情の激しい発露以上のものではないと言ったな。この籠城はまさにそれだ。「学園」全体の感情が何よりも優先しているだけで、そこには論理も技術もない。私たちは破れかぶれに行動しているだけだ」
「そう考えると、LSDが「学園」に流入してきたのは「町」の戦略の一つかもしれない。幻覚剤が蔓延すれば、僕たちは内部から崩壊するだろう。「学園」に残った生徒は統率が取れているわけではない。僕のように籠城に非協力的な人間もいれば、こっそりと「学園」の外にコンタクトを取って食料を受け取っている人間もいるだろう。「町」と繋がりのある人間を通じて、「学園」にLSDが流入してきたことは確かだからな」
「だったら「町」の作戦は成功だな。本校舎の方に行ってごらん。どいつもこいつもLSDでへべれけになっているから。「学園」の統率組織を名乗っている一派もすでに機能していない。バリケードの警備も惰性で続けているだけだ」
「誘拐してきた女は? もう「学園」の外に逃げ出したんじゃないのか?」
「ところが不思議なことに「学園」に残ったままだ。それどころか、LSDで悪酔いした生徒の介抱をするほどだ。その子、絹って名前なんだが、絹は「町」よりもむしろ「学園」の方に協力的だ」
「ストックホルム症候群というやつか? それにしても朝永は随分、本校舎の内情に詳しいじゃないか」
「知らなかったのか? 私は絹の監視役の一人だ。だからこそ、きみに食料を分けてやるだけの余裕もあったんだよ」
「知らなかった。お前も「学園」の統率組織とやらの一員なのか。誘拐にも関わったのか?」
「関わったよ。私は何人かの生徒と「学園」の外に出て、絹を連れ帰ってきた。ただ理解してほしいのは、私が本校舎に陣取っている奴らを仲間とは思っていないことだ。食料を貰う都合が良いから協力しているだけだ。私が仲間だと思っているのは、絹だけだ。絹は本当に可愛くて、何よりもいい子だ。きみにも会わせてあげようか? 明日は私が絹の監視をする番だから」
「誘拐してきた女に仲間意識を抱いているのか。奇妙な話だな。その理由は絹という女に会えばわかるのか? それほどに人間として魅力的ということか? どのみち、僕はその女に興味はない。ところで、僕のことは仲間と思っていないのか? 食料を分けてくれるほどなのに」
「きみのことは道具だと考えている。この「学園」で唯一、私に有用な道具だ。だから壊れると困る」
「道具か。もしかして、この滑空機に期待しているのか? いざ「学園」から脱出しなければならなくなったときのために。僕よりも力学に詳しい朝永のことだからわかっていると思うが、この滑空機は飛べないよ」
「そういう即物的な意味での道具ではない。言うなれば知性の道具だ。きみは私の思想にとって、重要な示唆を与えてくれる。きみの脳は私の脳の外部デバイスなのだよ」
「そうだろうか? 僕には朝永の言うことがよくわからないな。ところで、誘拐した女は「町」にとって、そんなに大事な存在なのか? 「学園」と「町」の対立の火種となった原因なわけだが」
「知らないのか? 「町」における二大権力は教会と労働組合だ。そして絹は労働組合の重役の一人娘だ。同時に教会に所属する修道女でもある。その女が誘拐されたとなったら、「町」だって黙ってはいられない。これがただの「町」の人間だったら、そもそも交渉自体が成り立たない。「町」はあっさりと人質を切り捨てるだろうから。そうならないためにも、私たちは絹を誘拐した。一つ、労働組合にまつわる面白い話をしてあげようか。明言はしなかったけど、絹がほのめかしたことだ。「町」に蔓延しているLSDの元を辿ると、どうやら労働組合に行きつくらしい。労働組合がLSDの流布の管理をしている。その一部が「学園」にも入り込んできたというわけだ」
「労働組合が幻覚剤を横流ししていると。その目的はやはり、「町」の支配のためだろうか? 知性のある人間は個人として独立して、知性のない人間は組織に飲み込まれる傾向がある。「町」を労働組合の支配下に置くには、人々を腑抜けにするのが最善手だ」
「ディストピアか。あるいはオーウェリアン。最も安定する社会の構造とはどのような形かわかるか? 知性的に優れた人間と劣った人間が二極化することだ。数学や解析学には変分法というものがある。ある函数の変数も函数になっている入れ子構造のものを汎函数と呼ぶのだけれど、この系を最大、もしくは最小となる函数を求めることが変分法だ。簡単に言えば数学と解析学において、ある汎函数の極値を取ると、最も安定する結果を得ることができる。この変分法を権力の構造に当てはめれば、知性のある人間と知性のない人間に二極化することが、完全な秩序を作る方法となる。きみは興味がなさそうだけど、明日、ここに絹を連れてくるよ」
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登場人物紹介

桑江英(くわえはなぶさ)

「町」から精神的に欠落していると判断され、「学園」に収容されている青年。
自分の存在を確認するために設計上飛ぶことのできない滑空機の組立と解体を繰り返す。
物事を唯心論的な方面から解釈する癖がある。

朝永夏子(ともながなつこ)

「学園」の生徒の一人。
現代物理学に精通している。
量子力学が専門で、相対性理論と散逸構造論にはそこまで言及しない。

砂川絹(すなかわきぬ)

「町」を支配する教会の修道女。
「町」に対抗を試みる「学園」に人質として誘拐される。
宗派はカトリックで、特にトマス・アクィナスに傾倒している。

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