第1話

文字数 17,685文字


 頭に浮かぶのはいつもイエス・キリストの姿だ。もっとも彼は十字架に架けられているわけではなく、どこかの街を歩いている。服装だって現代的だ。ジーンズに濃い緑色のシャツ。コンバースのスニーカー。(ひげ)は生えていない。しかし、にもかかわらず、僕は彼がイエス・キリストだと知っている。神の子イエス。正直にいえば、その顔は日本人に近い。髪の毛だって黒いし、目は濃い茶色だ。彼は誰もいない街を歩いている。それは普段僕が通勤している、東京の街の一画だ。近代的なビルが立ち並び、ゴチャゴチャとした看板がそこかしこに見える。チェーンの牛丼屋。コンビニ。歯科医院。税理士事務所。車の販売店・・・。そういったもののすぐ脇を、彼は通り抜けていく。その目はどこまでも透明で、底というものがない。彼は何かを見ているようでいて、本当は何も見ていない。僕にはそれが分かる。

 彼が一体どこを目指しているのか、僕には見当もつかない。しかしそのように無人と化した街の中を、ただひたすら歩き続けていく。僕は――そのイメージにおいては、僕は単なる視点と化している――ピタリと彼の後方に付いて、少し高い場所からその姿を見下ろしている。そうやっていくつもの街を通り過ぎた。

 不思議なのは、どこにも人間の姿がない、ということだ。もちろん彼自身は例外だが――もっとも彼を「人間」の範疇(はんちゅう)に収めていいのかどうかは疑問だが――ほかには人っ子ひとりいない。彼は僕が実際には行ったことがないような場所にまで歩いていったが(たとえば海の近くなんかだ)、そこにも人の姿はなかった。荒涼として、色のない風が吹き抜けていくだけだ。ときどき鳥のような何かが上空を通り過ぎることはあったものの――それが何なのか、正確には僕には分からない――生き物の気配といえばそれくらいだ。犬や、猫さえ存在しない。そんな街を、彼はただ歩き続けている。

 勘違いしないでほしいのだが、僕はいつもいつもその姿に見惚(みと)れているわけではない。平日は仕事があるし、休日だって、基本的には本を読んで過ごしている。彼のことは(おり)に触れて思い出す、という程度だ。しかし、にもかかわらず、その存在は僕の中枢のような場所に位置している。僕にはそれを感じ取ることができる。意識しようとしまいと、彼はいつもそこにいる。そして歩き続けているのだ。どこかから、どこかへと。ずっと。


 僕は今年で二十八になった。自分がそんな歳になるなんて、数年前までは想像もできなかった。二十六くらいで死ぬのが正当な流れなんじゃないか、と思えたこともある。しかし僕は二十八で、それはつまりあと二年で三十になる、ということを意味している(もっとも僕の場合、これから述べるある特殊な理由によって三十を迎えることはない。そう決められているのだ。しかしまあ、それについてはまだあまり語らない方がいいだろう。もちろん。読者の楽しみのためにも)。でもそんな歳月もあっという間に過ぎ去ってしまうのだろう。そして思い返すのだ。あの頃は若かったな、とかなんとか。

 しかし、少なくとも今この瞬間は今を生きるしかない。それは考えてみれば不思議なことに思える。さまざまな年齢や、人種の人がこの世界には存在している。男もいれば、女もいる。その中間の人もいる。我々はそれぞれの時間性を生きている。たとえば五歳の少年の一分間と八十歳の老人の一分間とでは意味合いがかなり違ってくるはずだ。しかし、それでもなお我々は今この瞬間を共有している。過去に生きている人もいる。未来に生きている人もいる。それでも少なくともその肉体は、例外なく現在を生きている。

 僕は毎日電車に乗って会社に通う。幸い乗り換えはしなくてもいいし、距離もさほど遠いわけではないから――そういう場所をあえて探して部屋を借りたのだが――満員電車に揺られなければならない時間は短くて済む。それでも僕はいまだにこれに慣れることができない。世の中にはもっとひどい状況の中で生きなければならない人が大勢いる。食うや食わずで生活している貧困層の人も、世界にはたくさんいるだろう。それに比べればこんなのはなんだ? ただ電車に揺られていればいいだけじゃないか?

 それでもこの通勤時間は純粋な消耗だと思う。もっと自由になれたらな、といつも思っている。人間はそもそも自由になるために生まれてきたのだ、と僕は信じている。しかし現実は(残念ながら)そうはできていない。周囲の人々も――と、そこですぐ近くにあるサラリーマンたちの顔を眺める――さほどそのことを苦にはしていないように思える。もちろん満員電車が好きな人なんかいないだろう。あるいは会社なんか行きたくない、と思っている人が大半かもしれない。しかし彼らはそこから抜け出す実質的な努力をしていないように僕には思える。そして正直にいえば、僕もまたその一人だ。


 

。果たして自由とは何だろう、と駅から出て、清潔なオフィス街を歩きながら僕は思う。五月の始めの、気持ち良く晴れた朝だった。ビルとビルの隙間から、青い空が覗いている。(はと)が餌を探して街路樹の根元を歩き回っている。その近くには菓子パンやスナックの袋が散らばっている。こいつらは自由なんだろうか、と僕はその能天気そうな鳥を見て思う。でもよく分からないな。なにしろ(はと)になったことなんて、一度もないのだから。

 
 会社の入っているビルに着く。エレベーターに乗って、目的の階に向かう。何人かの同僚が一緒に乗っている。我々はおはようとか、昨日は何時に帰ったかとか、そういうくだらない話をして時間を潰す。チン、というベルの音が鳴って、ドアが(うやうや)しく両側に開く。僕は一度大きく息を吸い込み、肺に溜める。そしてゆっくりとそれを吐き出す。そのようにして一日の仕事が始まる。

 僕が勤めているのはあるIT系の企業だ。二年前に転職した。その前は大手の広告代理店に勤めていた。そこに入るのはかなり難しい、という話だったのだが、なぜか面接の印象が良かったらしく――特にたいした話はしなかったと思うのだが――運良く採用されることになった。両親にそのことを報告すると、彼らはとても喜んだ。というのもそこはかなり名の知れた企業だったからだ。「おめでとう」と彼らは言った。「ありがとう」と僕は言った。

 もっともその先にバラ色の生活が待っていると思っていたわけではない。フルタイムで働く人間になる、というのは、生半可(なまはんか)なことではないはずだ。毎日電車に揺られ、遅くまで残業をすることだってあるだろう。あるいは意に染まない仕事も、ある程度はやらなければならないかもしれない。そんなとき頭に浮かんでくるのは、街や電車の中で見る、疲弊したサラリーマンたちの姿だった。もちろん働くのが楽しくて楽しくて仕方がない、という人だっているのだろう。でも少なくとも僕はそういった人を一度も見かけなかった。これはやらなければならないことだから仕方なくやっているのだ、という人がほとんどだったように思う。

 そして今僕もその一人になろうとしていた。これは認めなければならないが、かつて僕は大人の世界に怒りのようなものを感じていた。順応主義。過剰労働。おかしいことがあっても目をつぶる。形式主義。本当のことを見ない人たち。そしてそのように年老いていくのだ・・・。

 もちろん今ではそれだけがすべてではないことを知っている。限られた状況の中で人々は――我々は――生き続けなければならないし、それはつまるところ「妥協する」ということを意味する。完璧に理想的な、歪みもなければ傷も付いていない社会など、この世界には存在しない。あるのは若者の未熟な頭の中だけだ。

 もっともそれでもなお、僕は当時感じていた怒りのようなものを、いまだに心に持ち続けている。もちろん表に出したりはしないものの――それはひっそりと奥の方に潜んでいる――(おり)に触れてかつての感覚が蘇ってくる。

使

、と若い頃の僕は思っている。どうして自分の人生が空虚であることに気付かないのだろう、と。それは火を見るよりも明らかじゃないか?

 実のところ、僕はいまだに同じことを考えている。要するに彼らは成長しようとしないのだ、というのが僕の出した結論だ。若い人々は狭い世界に生きている。年上の人々はそれとは別のまた狭い世界に生きている。誰も真実を見ない。真実を見ているのは、動物と太陽だけだ。

 ときどき動物になってしまいたいと思うことがある。たとえばカラスとか。やかましくカーカーと鳴き叫び、空を周遊し、下校途中の小学生たちを怯えさせ、大量の生ゴミを(あさ)るのだ。それはさぞや愉快な人生だろう・・・というのは冗談だが、それでも動物たちが持つ透明な瞳に、僕は心を惹かれないわけにはいかない。それはまるで何かを訴えかけているようにも見える。何か、非常に大事なことだ。しかしそれが何であるのかを知るには、我々の意識はすでに発達し過ぎてしまっている。

 話をもとに戻そう。僕は大学を卒業して、その会社に就職した。大学時代は本ばかり読んでいた。大体が外国の古典文学だったが、日本のものも少しは読んだ。それは僕が抱えていた心の空虚さのようなものを、多少は埋めてくれたようだった。友達はほとんど一人もいなかった。たまに話しかけてきてくれる人もいるにはいたが、僕は適当な返事をしてすぐに逃げた。そしてまた一人で本を読んだ。

 そういった生活が楽しかったわけがない。一応経済学部には入ったものの、大学が始まって一週間で自分が間違った学部に来たことを知った。かといってほかの学部に移ったところで、何かが変わるとも思えなかった。自分が本当に知りたいことは、大学の中では決して教えられることがないのだ、というのが、僕が本能的に導き出した結論だった。そしてそれは、その通り事実だった。

 何の意味もない生活だった。僕は東京の郊外のだだっ広い私立大学のキャンパスで、一人ぼっちで生きていた。一日は日によって長くなったり、短くなったりしたが、「意味がない」という点では一貫していた。同じ場所をグルグルと回り続けているようなものだった。延々と、休みなく、誰かに追いまくられるようにして。僕はしがみつくように毎日大学に出ていたが(実際四年間ほとんど一日も休まなかった)、すべては単なる徒労に過ぎない、ということを当時からすでに知っていた。俺は何のために生きているのだろう、と僕は思っていた。

 最初の学期が終わり、テストも無事済んで(単位は全部取った)、ようやくほっと一息つくことができた。長い休みの間何をしたらいいのか分からなかったので、とりあえず東北の実家に帰っていた。僕はそこでかつての同級生たちに会った。そして長い間ずっと一人で溜め込んできたことを、一気に吐き出そうとした。しかし誰一人として僕の考えていることを理解できなかったし、また理解しようともしなかった。彼らはそれなりに幸せそうに生きているようだった。僕は前よりももっと孤独になって、東京に帰ってきた。

 夜行バスの中で僕が思っていたのは、つまりこういうことだった。

、ということだ。もちろんずっと先には恋人や、友人もできるかもしれない。結婚して、子どもも生まれるかもしれない。しかし、にもかかわらず、自分は一生孤独なままだろう。僕には本能的にそれが分かった。そしてある意味ではそれは正しい状態でさえあるのだ、と僕は思った。そう思うとなぜか少しだけ肩の力が抜けた。

 後期に入って、アルバイトを始めることにした。奨学金はもらっていたものの、それだけでは十分ではなかったのだ。両親だって特に裕福であるというわけでもない。ごく普通の、田舎の勤め人だ。それに弟と妹もいる。働かなければならない、というのはむしろ必然的な流れだった。

 僕は近所のコンビニに応募し、めでたく採用された。最初は嫌々、というか必要に迫られて始めたバイトだったが、仕事に慣れてくると、自分が意外にもこの行為を必要としていたのだ、ということに気付いた。おそらく僕は社会との接点のようなものを欲していたのだと思う。一人で狭い部屋にこもっていることの危険性も、前期の経験から身に染みて理解していた。僕は週に三日働き、欠員が出たときには臨時で穴を埋めた。稼いだお金は、基本的には本を買うことに使った。

 そのようにして日々が過ぎた。大学に行って――熱意もなく――講義を聴き、ノートを取る。アルバイトがあれば夕方から働く。そして適度な疲労を感じて部屋に帰ってくる。

 それは一見中身がありそうな生活ではあったが、そんなのがただの見せかけに過ぎないことを僕はよく知っていた。自分は目的のない歯車なのだ、と当時よく思っていたものだ。一応社会の一員として機能はしているものの、その中心には何もない。だからどれだけ働いても、どれだけ一生懸命勉強しても、すべては徒労に過ぎないのだ、と。

 それでもなお生き続けていたのは、かろうじて希望のようなものがあったからなのだと思う。僕がそれを感じ取ったのは、本や、音楽の中だった。それは田舎から出てきた大学一年生の僕にとっては未知の領域だった。かつて何人かの――何人もの――作家や音楽家たちが、多大なエネルギーと時間を費やして、自らの作品を作った。そこにはたしかに何かがあった。何か、精神の中枢と結び付いたものだ。僕はその存在をひしひしと感じ取っていたし、もしそういうものがなかったとしたら、あるいは生き続けることはかなりきつい作業になっていたかもしれない。

 もっとも周囲に似たような趣味を持っている人がいなかったので、僕は一人で黙々と本を読み、音楽を聴き続けることになった。まあそれはそれでさほど悪いことでもなかったのだが。おそらく当時僕がやっていたのは、自分自身の世界観を築き上げることだったのだと思う。その主要な要素が古典文学であり、クラシック音楽であり、古いロックやブルーズなんかだった。正直なところ、誰かの退屈な意見など――もしかして退屈ではないかもしれないが――聞きたくなかったのだ。

があれば、それで十分だった。

 しかしそういった生活にも変化が訪れることになった。僕は混乱し、ときにうろたえながらもなお、その新たな展開を楽しんでいたのではないかと思う。あるいは一人きりでいることに、さすがに少々嫌気が差してきていたのかもしれない。

「なあ、ロバート・ジョンソンって知ってるか?」とその男は言った。

「ロバート・ジョンソン?」と僕は言った。たしかにその名前には聞き覚えがあったが、果たして何をした人物なのかは思い出せなかった。作家だったか、あるいはミュージシャンだったか。黒人のような気はするのだが・・・。

「それは・・・どのロバート・ジョンソン?」と僕は言った。

「どのって、あのギタリストのロバート・ジョンソンに決まっているじゃないか。十字路で悪魔と契約したやつだよ」

「ああ、あのロバート・ジョンソンか」

 僕はそこであらためてその男を見つめた。どこかで見たような気はするのだが、それが一体どこだったのか思い出せない。ここにいるからにはこの大学の学生には違いないのだが・・・。

 それはそれとして、彼の中で最も僕の目を引いたのは、その好奇心に満ちた目付きだった。ナイキのキャップの下で、その目はキョロキョロとあたりのものを見回していた。生命力に満ち溢れているといってもいい。正直なところ、僕のちょうど正反対のところに位置しているような男だな、と僕は思った。

 我々はそのときキャンパスの外れのベンチに並んで腰かけていた。そこは講義室からはかなり遠いのだが、人が少ないので、僕はいつもここでお昼を食べていた。季節は春で、二年生の新学期が始まったばかりのところだった。初々(ういうい)しい顔をした新入生が、何かを探しながら通り過ぎていった。僕はただそれを見ていた。と、そこに謎の人物が声をかけてきたわけだ。()き古したスニーカーに、色の()せたジーンズ、そして(しわ)の寄った白いシャツという格好だった。それにプラスして、紺色のナイキのキャップを(かぶ)っている。彼はあたかもそれが当たり前であるかのように、僕の隣に座った。そして例の質問をしたのだ。

「ねえ、君は何学部?」と僕は言った。「どうも何回か講義室で見たような気が・・・」

「俺も経済学部だ。というか同学年だよ。まったく。そんなことも知らなかったのか」

「でもあんまり顔を見てないぜ」

「そりゃほとんど大学に出てこないからな」

「何をしている?」

「何を、って、ただ生きているのさ。君と同じように」

 僕はそこで彼の顔を見た。彼もまた僕の顔を見ていた。しゃべったのはそのときが初めてであったにもかかわらず、この男とはうまが合うな、と僕は思った。なぜか本能的にそれを感じたのだ。この男ならあるいは僕が抱えている空虚さを理解できるかもしれない・・・。

「なあ、君はどこの生まれだ?」と彼は言った。

「僕? 僕は東北だよ」

「東北のどこだ?」

 僕は場所を教えた。彼はそこに行ったことがある、と言った。

「本当に?」と僕は驚いて言った。「だって本当に田舎だぜ?」

「あそこに山があるだろう。なんていったか名前は忘れたが・・・。バスに乗ってそこまで行ったんだ」

「ふうん。それで、君はどこ出身?」

「地球だよ。それで十分じゃないか」

「本当は?」

「本当は福井だ」と彼は言って、少し恥ずかしそうな顔をした。「残念ながら」

「なんで残念なんだよ」と僕は笑って言った。

「だって今この瞬間、一体どれくらいの人が福井のことを考えていると思う? もちろん福井県民を除いて、ということだが」

「少なくとも僕がいる」と僕は言った。「これから毎日一回ずつ福井のことを考えることにするよ」

「ありがたい」と彼は言った。

「それで、福井には何があるんだっけ?」

「海がある」と彼は言った。そして付け加えた。「原発も」

「しかたない。それが現実だ」

「まあな」と彼は言った。


「それで、ロバート・ジョンソンのことだけど・・・」と僕はさっきの話を思い出して言った。

「そうだった」と彼は言った。そして帽子を取った。「そもそもその話をしていたんだった」

「ちょっと待て」と僕は驚いて言った。「その頭・・・。どうしたんだ?」

「これか?」と彼は言って、そのツルツルの頭を撫でた。髪の毛を暗示させるものは一切生えていない。まるで磨き抜かれた鏡面のように。「いや、面倒くさいから自分で()ったんだ。なかなか気持ちいいぜ」

「結構極端な性格をしている、っていわれないか?」

「よく分かるな」と彼は驚いたように言った。

「まあね」と僕は言って、一度目をつぶった。彼の頭に反射した日光が(まぶ)しかったのだ。

「それで、ロバート・ジョンソンだ」と彼は言った。そして帽子を(かぶ)り直した(僕は薄目を開けてそれを見ていた)。

「うん」と僕は言った。

「彼は悪魔に魂を引き渡す代わりに、ギターのテクニックを身に付けた。ミシシッピの十字路でのことだ。おかげで彼は名声を獲得したが、二十七のときに死んだ。おそらくそれが悪魔との契約だったのだろう。なあ、君ならどうする? ものすごいギターのテクニックを得る代わりに、二十七で死ぬんだ。そういう契約を提示されたとしたら?」

 僕は少し考えていたあとで、言った。「まず第一に僕はギタリストじゃない。ブルーズシンガーでもない。そして将来ミュージシャンになることもまずないと思う。でもそうだな・・・。たしかに圧倒的なテクニックを得られるのであれば、結構魅力的な話ではあると思うんだが・・・」。そこで僕はふとある重要なことに気付いた。「なあ、もしかしたら君は

彼が悪魔と契約したと思っているのか? つまり努力してテクニックを身に付けたのではなく?」

「当たり前だろう」と彼は至極当然のような顔をして言った。「

彼は悪魔と契約したんだ。それはもう歴史的事実だ。俺の本能がそう告げている。それで、君はまだ質問に答えていない。君ならどうするんだ? 契約するのか、しないのか?」

「しないと思うな」と僕は正直に言った。「というのもやはりそれは本来間違ったことだからだ。相手が悪魔だろうと誰だろうとね。テクニックというのはきっと、本当は地道な努力の末身に付けるべきものなんだよ」

「ふうん」と彼は言った。「君はそう考えている」

「うん」と僕は言って頷いた。「まあそうだな。僕はそう考えている」

「それで」と彼は言ってじっと僕の目を覗き込んだ。僕は思わず居住まいを正した。

「なんだよ」と僕は言った。

「もし俺が、

悪魔と契約した、と言ったら信じるか?」

「実際に?」と僕は驚いて言った。「それはどういう・・・」

「いや、とにかく実際に契約したんだよ。俺は。これはついこの間の日曜日の夜のことだ。あるいはもう日付は変わっていたかもしれない。なああそこの交差点知ってるか?」。彼はそこでその場所の住所を言った。

「それは僕がバイトしているコンビニの目の前だよ」

「そうか。じゃあよく知っているんだ。それならいい。俺はあそこの交差点で、一分間(あお)向けに寝転んでいたんだ。夜中のことだけどな」

「どうしてそんなことを?」

「それはつまり、自分の運命を試すためだよ」

「まだ話が分からない」

「要するにだね、俺はふと思ったんだ。俺の人生なんて何の意味もないじゃないか、と。あるいはふざけているように見えるかもしれないが、これでいて結構内省的になることもあるんだ。それに夜中だと、たまに思考が変な方向に行き着くことがある」

「酔っていたのか?」

「いや、酒は飲んでいなかった。というかそのときに限っては俺は至極まともだったんだ。俺は至極まともに考えた結果、この人生は無意味だ、という結論に行き着いた」

「どんな意味合いにおいて?」

「どんな意味合いにおいて人生は無意味なのか? そうだな、

、だ。なあ、俺たちは今こんなくだらない大学の、くだらない学部に籍を置いている。くだらない講義を聴いて、くだらないノートを取る。そして卒業して、くだらない会社に就職する。あとはくだらない女と結婚して、くだらない子どもをつくる。そしてだな・・・」

「どうしてくだらない、って分かる?」

「まわりを見てたら分かるさ」と彼は言って、再び帽子を取った。太陽が明るくその頭皮を照らしていた。「まあたしかにその部分には説明が要るかもしれない。でも君は本当はよく分かっているんだろ? だからこそ俺は話しかけたんだ。こいつは言わずとも俺の思っていることが理解できるんだろう、と」

 僕は曖昧な返事をした。

「まあいいさ。とにかく俺が言いたいのは、

、ということなんだ。分かるか? 神だ。人々の生活には中心がない。手段にばかり目を取られて、目的というものを失っているんだ。俺はいつも思うんだ。どうしてこの人たちは自分の頭というものを使わないんだろう、とな。そうは思わないか」

 実は自分もいつもそう思っている、と僕は言った。

「はは。そうだろうと思っていたんだ。だとすると俺たちは同類だ。チンパンジーに紛れ込んだマントヒヒといったところかな」

「比喩の意味がよく分からない」

「ほかとは違っている、ということだよ。つまり。それにマントヒヒは頭が良いんだぜ」

「それはそれとして」と僕は言った。「君は『神』と言った。それは一神教的な神のことなのかな。つまりイエス・キリストみたいな」

「それはイエス・キリストのことではない」と彼は言った。そして少しの間何かを考えていた。「うーん。でもそうだな。たしかに『神々』ではない。俺がイメージしているのは、おそらく一神教的な神だといっていいと思う。でもまあ、そんなことはどうでもいいんだ。重要なのは神がどこにもいない、という事実なのだから」

「だから人生は無意味だと」

「そうだ」と彼は言って、深く頷いた。「俺はそういう結論に達したんだ。だからまあ、結局はどんな姿をしていても構わないのかもしれない。だってどこにもいないんだからな。『どこにもいない』ということだけを俺たちは知っている。あとのことは想像するほかない」

「そこに救いはないのだろうか?」

「救いか・・・。あるいはあるのかもしれないし、ないのかもしれない。いずれにせよ、そのときの俺が考えていたのも似たようなことだ。要するに俺は神を試してみたかったんだ。もしそんな奴がいるのだとしたら、きっと交差点に一分間寝転んでいたとしても車に()かれることはあるまい、と」

「もしいなかったら?」

「そのときは()き殺されるだけさ」

 僕はそこで例の交差点のことを思い返してみた。それは比較的交通量の多い交差点で、いくら夜中といえど、一分間一台も車が来ないとは考えにくかった。しかし、現にこうして彼は生きている。

「車は来なかったのか?」

「いや、来たよ。予想以上に来た。でも俺は(ひる)まなかった。なにしろ神様にお願いしていたからな。もしあなたがいるのだとしたら、俺を殺さないでください、と。もし生かしておいてくれたら、毎日一回ずつあなたのことを考えます、と」

「僕の福井と一緒だな」

「そうだ、君にとっての福井と一緒だ」

「それで、君は交差点の真ん中に寝転んでいた」

「そうだ」と彼は言って、頷いた。「俺はちょうど車の流れが途絶えたところで、その場所に寝転んだ。心は決まっていた。俺はなんとしてもこれをやり遂げなければならないんだ、と思った。目はつぶらなかった。おそらくその一分の間、一度も(まばた)きをしなかったんじゃないかと思う。なぜなら俺はその光景を見なければならなかったからだよ」

「神がやって来るところを?」

「いや、そういうんじゃない。なんというか・・・。そう、

だ。全体の光景を俺は欲していたんだ。なぜかは分からないが、俺はそこにあるすべてを見なければならないと感じた。それが今の自分には必要なのだ、と」

「それで、車はやって来た」

「うん。大型トラックなんかもやって来た。結構スピードを出してな。俺は微動だにしなかった。彼らは直前で俺に気付いて、急ブレーキをかけたり、慌ててハンドルを切ったりした。おかげで頭のすぐ横をでかいタイヤが通り過ぎていくことになった。あのゴムの匂いを俺はいまだに覚えている」

「君は一分間そうしていた」

「そう。ちょうど一分だ。一秒の狂いもない。というのもそのときの俺の鼓動(こどう)は、ちょうどテンポ六十に設定されていたからだ」

「テンポ六十?」と僕は驚いて言った。

「そう。そういう能力が俺にはあるんだ。俺は両目を開けて、一つ一つ自分の鼓動を数えていった。いち、にい、さん、しい・・・とな。正確さがなによりも重要なのだ、とそのときの俺は思っていた」

 僕は思わず一度溜息をついた。なんという男と僕は話をしているんだろう? そのときふとこれは僕を楽しませるための、一種の冗談なのではないか、という考えが頭に浮かんできた。いくらなんでも、実際にそんなことをできる度胸のある人間がいるものか。でも彼の目は真剣そのものだった。五歳の男の子みたいに純粋な目だ。決して幼い、というわけではないのだけれど、その奥にあるイノセンスは僕を強く惹き付けた。そしてそれと同時に、少し居心地の悪い気分にもさせた。なぜなら僕は今それを失いつつあったからだ。

 僕は疑ったことを恥じ、もう一度彼の話を聞く態勢に入った。

「それで、なんとか六十まで数え切ったんだ」と僕は言った。

「それがだね」と彼は言ってニヤリと笑った。「そううまくはいかなかったんだ。たしか五十六秒くらいまで行ったところで、誰かに呼び止められたんだ」

「それは・・・歩行者の人に?」

「いや、それは歩行者なんかじゃなかった。というのもそいつは人間じゃなかったからだ」

 僕は驚いて言葉が出ず、ただ彼の目を見つめていた。しかしその目は、やはり真剣そのものだった。嘘をついている目じゃない。

「それはつまり・・・」

「なあ、俺は最初にロバート・ジョンソンの話をしただろう?」

「そういえばそうだった」と僕は言った。「君は

悪魔と契約した、と言ったんだった」

「そう、そこにいたのは悪魔だったんだ。見た目こそ中年のおじさんみたいな格好をしていたが、あれは悪魔だ。なぜなら(つの)が生えていたから」

「どんな(つの)?」

「尖ったやつだ。褐色(かっしょく)で、耳のちょっと上くらいから生えていて・・・。でもまあそんなことはどうでもいい。そいつが来ると時間が止まった。俺にはそれを感じ取ることができた。というかまあすぐに分かったんだ。なぜなら鼓動(こどう)が止まったんだから」

「テンポ六十の鼓動が」

「そうだ。それまでずっと続いていたのに、急に止まったんだ。俺はずっと夜空を見上げていたんだが――その日は星が綺麗だったな――その視界の中に、突然その顔が飛び出てきたんだ。ぬっとな。そいつはこう言っていた。『ちょっと立ち上がりなさい』と。俺は驚いてじっとその顔を見ていた。身動き一つせずにな。だってまだ六十を数え切っていないんだ。どうして立ち上がることができる? そのときある一つの考えが(ひらめ)いた。俺はそれを口に出して言った。『あなたは神なのですか?』と。すると彼は笑いながら言った。『私は神ではない』と。『どちらかといえばその反対に位置するものだ』と」

「彼が自分でそう言ったのか?」

「うん。彼は自分でそう認めたんだ。それで俺は一旦立ち上がることにした。というのも鼓動がさっぱりやって来なかったからだし、それに周囲の音も消えていたからだ。何かがおかしい、と俺は思った。でもそれが一体何なのか、よく分からなかった。『もしかして時間が止まっているのですか?』と俺は訊いた。すると彼は言った。『そうだ、私がついさっき止めた』と。

 見るとごく普通の中年男だった。(つの)が生えていることを別にすれば、その辺を歩いているサラリーマンと何の変わりもない。黒い革靴に、上下黒いスーツを着ている。(かばん)まで持っている。おかしいところといえば、その目だけだった。深い奥行きを持っているんだ。この人はきっと俺の見えないものまで見ることができるんだろうな、と俺は思った。

『ちょっとあっちを見てみなさい』と突然彼は言って、俺の背後を指差した。見てみると、少し先の方に、小さな青いスポーツカーの姿が見えた。どうやらかなりスピードを出しているようだった。この間隔でいくと、おそらく俺がちょうど六十を数え切った頃にこの場所にやって来るに違いない。ドライバーが気付けばいいが、気付かなかったら俺は完全にタイヤの(した)()きだ。

『もしあのまま時間が進んでいたら、君はあの車に()き殺されていた』とその男は言った。

『あなたは俺を助けてくれたんですか?』と俺は言った。

『まあ、一時的にはそうだ。でもただで、というわけじゃない。君が何をしているのかは道路脇から全部見ていた。なかなか度胸のある若者じゃないか。神を試すなんて』

『俺にはなにもかもが無意味に思えたんです』と俺は言った。『だからこれは当然の帰結なんです。神がいないのだとしたら、生きることに価値なんてない』

『なあ、私は悪魔だ』とそこで彼は言った。『そうは見えないかもしれないが、実際にそうなんだ。君が求めていたのは神だったようだが』

 俺はただ黙っていた。

『まあいい。とにかく私はここにやって来た。というのもそういう指令を受けたからだ。この交差点に今夜頭のいかれた若者がやって来る。そいつに契約をもちかけてみてはどうか、とな』

『一体誰に指令を受けるんです?』と俺は訊いたが、彼はその質問には答えてくれなかった。夜の空気が動きを止めて、ただじっと我々を見つめていた。

『とにかくその契約だ。私には今君がここで死ぬのを阻止することができる。その代わり君は二十八で死ぬことになる』

『それはもう動かせないことなのですか?』

『まあ基本的にはな。しかしなんにせよこの契約をしなければ君は今ここで死ぬんだ。時間が止まっている間に逃げ出そうとしても無駄だよ。ためしに足を動かしてみるがいい』

 そこで俺はためしに足を前に一歩踏み出そうとした。しかし駄目だった。まるで足の裏が地面に貼り付いたように動けないんだ。別の方向に行こうとしても無駄だった。こいつは一体何者なんだろう、と俺は思った。

『ハッハ。だから悪魔だよ。正直なところ呼び方なんて何でもいいんだが、とりあえずそういう名前が君のイメージには合っているだろう。分かるかい? 私にはそういう力がある。君の動きを封じることくらいなんでもない。だから余計なことは考えない方がいい』

『僕にはもともと逃げるつもりなんてありませんでした』と俺は言った。

『そうだったな』と彼は言った。『それについては謝るよ。君の意志を疑ったりして。しかしだね。人間というのは精神だけでできているわけではないんだ。本当に死が迫ってきたときには、本能的に意志を曲げる。そういう例を私はいくつも目にしてきた』

 俺は何も言わなかった。

『まあいい。とにかく今のことだ。君が何を考えていたにせよ、君が死ぬことは避けられない運命だった。まあ長い目で見れば、誰だってそうなんだがな。しかし十九歳で死ぬのは少々早過ぎるし、それにこんな奇妙な熱意を持っているんだ。あるいは我々の役に立つかもしれない』

『役に立つ、とは?』

『まあそれについては追々(おいおい)話そう。それで、君はどうするんだ? 今ここで死にたいのか? それともとりあえず二十八までは生きていたいのか?』

『あなたの求めているものは何なんです?』と俺は言った。『命を救う代わりに、何が欲しいんですか?』

『我々の有能なアシスタントになってもらうことだ。というか実行部隊、というかな。君には理解できないかもしれないが、実は我々はここでは自由ではない。この世界では、ということだ。今はたまたまいろんなことがうまくいって、こうして君と話していられるが、それも(つか)の間だけだ。さっきみたいな能力も、真夜中の間しか使えない。こうして正直に話しているのは、君に協力してもらうためなんだよ。いいかい? 我々には我々の意思がある。それを成し遂げるために人間の力が必要なんだ』

『でもあなたは悪魔でしょう』

『一応そう名乗っているだけのことだ。古い時代の人々がそう名付けたんだ。恐怖心からな。でもきちんと光のもとで見れば、君たち人間とたいして変わりはない。我々はある意味ではスケープゴートのような役割を負わされてきたんだ。分かるかい? 正直にいえば、人間界に起こった災難や、事故なんかは、大抵彼ら自身の弱さのせいだ。それを俺たちのせいにされる。悪魔にそそのかされた、とかなんとかな。我々だって忙しいというのに』

『では実際にはそれほど悪い人々ではない、と』

『何が良くて、何が悪い、という判断は君たちに任されている。もっともどちらにしろ私には興味はないがな。私はある指令を受けて、それを実行に移す。それが仕事になっている。そしてそのために人の力が必要なんだ。ただそれだけのことさ』

『その目的は何なんです?』と俺はちょっと興味を惹かれて訊いた。『あなたは目的については考えないのですか? 勤勉な役人のように、ただ自分の仕事をこなすことだけを考えているのですか?』

『君はそういう考え方をするから面白いんだ。まあ、もちろん我々にも目的はある。しかしそれについて今言葉で説明することはできない。それは、つまりそういった種類のことなんだ。正直なところ私にもその全貌を理解できているわけではない。しかしそれが

と結び付いていることは分かる。つまり世界の流れだ』

『それはつまり・・・』

『つまりその流れを正しい方向に、自然な方向に導くために我々が存在しているといっても過言ではないと思う。まあ簡単にいえば、ということだが』

 俺には正直うまく理解できなかったものの、彼が嘘をついているわけではないことはその表情から感じ取れた。俺は言った。『それで、その契約のことですが』

『そうだった。その話をしていたんだった』と彼は言って、一度右側の(つの)を触った。どうやらそれが彼の(くせ)であるようだった。『時間を止めているのもそろそろ限界だ。これはこれで結構エネルギーを使うことなんだよ。いいか? 私は今日君にこの角を託すことにする。もちろん君が契約に同意すれば、ということだが。そのときには君は悪魔の資格を引き継ぐことになる。私は私でまた別の仕事をする。君は有能な実行部隊として、二十八までの間、それなりの充実感を持って生きることができる。なあ、悪くない話じゃないか?』

 それでも俺には心を決めることができなかった。俺が悪魔になる?

『心配しなくていい』とまるで俺の心を読んだように彼は言った。『人間に比べたら、悪魔なんて可愛いものだ』

 突然音が復活した。そういう感覚があった。俺は今までは立っていたのに、気付くと地面に(あお)向けに横たわっていた。どうやら時間が止まる前までの状態に戻ったようだった。五十七、と俺は自分に対して言っていた。ほんの少し遅れて、車がやって来るエンジン音が聞こえてきた。例の青いスポーツカーのものだ。五十八、と俺は言った。鼓動はテンポ六十で、しっかりと鳴り続けていた。五十九・・・。あと一秒でスポーツカーが俺の頭を踏み潰すだろう。俺は神を試すためにこの試みをしたのだった。しかし途中で時間が止まり、悪魔に奇妙な話を持ちかけられた。命を救う代わりに、自分たちの手先になれと言っている。

? あと一秒という時点になってもなお、俺には決めることができなかった。あの男は今でも近くにいるのだろうか?

 六十秒になったとき、俺は自動的に頭を引っ込めた。身体を丸めるようにして、横向きになったんだ。ちょうど胎児が取るような格好だ。その瞬間、頭のすぐ先を、車のタイヤがかすめるようにして通り過ぎていくのが分かった。大きなクラクションの音が鳴った。とっさにそちらを見ると、青いスポーツカーはバランスを崩しながらもなお、なんとかまっすぐ進み続けていた。明らかにスピード違反だったが、そんなことを気にする者はいない。俺は立ち上がり、自分の頭に手をやった。するとほんの少しだけ、耳の上のあたりが二カ所出っ張っていることが分かった。なあ、ここのところだ」

 彼はそこで実際に僕にツルツルの頭を見せた。触ってくれ、と言われたので触ってみたが、たしかにほんの少しだけ出っ張っている。でもそれもそう言われれば、という程度のもので、見た目にはほとんど分からない。

「これが例の(つの)か?」と僕は言った。

「そうだ」と彼は言って深く頷いた。「俺はおそらく知らぬ間に、その契約に同意していたんだろう。たしかに彼が予言していたように、俺の意志は最後の最後で曲げられたわけだ。六十秒数え切るまでは絶対に動きません、と誓っていたのにな。命の危険が本当にすぐそこにまで迫ってきたとき、俺は死ぬよりも生きることを選択したんだ。あるいは単なる肉体的な反射に過ぎなかったのかもしれない。『意志』なんて高尚なことではなかったのかもしれない。でもなんにせよ、俺は生き延びたのだし、生き延びた、ということは奴らの手先になった、ということだ」

「君は夢を見ていた、という可能性はないのか」と僕は言った。「本当は五十六秒のあたりで一瞬意識を失って、夢の世界をさまよっていただけなんじゃないのか?」

「そういう可能性はなくはないが、どちらにしろ俺には関係のないことだ」

「どういうことだよ。関係がない、というのは?」

「つまり俺はあの悪魔のおやじの話を信じたし、そして現にこうして(つの)が生えている、ということだ。それはまず間違いのないことだ。俺は二十八までは何があっても生きるだろう。そしてそれまでは悪魔の手先として仕えなければならない」

「何か指令は受け取ったのか?」

「いや、まだ何も来ていない。ただそうだな。髪の毛は伸ばそうと思っている。(つの)の存在がばれたらまずいからな。もう一年以上この髪型だったんだが」。彼はそこでまたツルツルの頭を撫でた。

「そして」と僕はその話の間中ずっと思っていたことを言った。「どうして僕にその話をしてくれたんだ? それはかなり重要な話ではないのか?」

「なんでかな・・・」と彼は言って、少し考え込んだ。でもどうやら結論は出なかったようだった。なんとなく顔つきからそれが分かった。「あるいはさすがに誰かに話したいと思っていたのかもしれない。俺だって生身の人間だからな。でも残念ながら俺には友達というものがいない。近所の公園の野良猫一家を除けば、ということだが。いつもあいつらと一緒に飯を食っているんだ」

「猫はいいとして・・・」

「そうだな。猫はいいとして。おそらく本能的に君はこの話の骨子を理解することができると思ったからなんだろう。なあ、いいか? 正直にいって、この大学の学生は全員ボンクラだ。教師もボンクラだ。社会にいるほとんどの人もボンクラだ。失礼ながら君の両親だってたぶんボンクラだ。みんなおとぎ話の中を生きているに過ぎないんだ。そしてそこに神はいない」

「でも自分たちは違う、と」

「いや、まあ俺たちだってボンクラだろう。それくらいのことは分かる。でもボンクラなのだとしたら、そこから抜け出す努力をしなければならないじゃないか。この世に生きている人間として、それくらいはやったっていいんじゃないのか? ということで今日から君は俺の仲間だ。なにしろあの話を共有したのだから」

「ちょっと待ってくれよ・・」と僕は言ったが、そのときにはすでに彼は立ち上がっていた。

「じゃあ、ちょっとやることがあるから今日はここで失礼するよ。もし何か指令があったら、君にも伝えることにする。じゃあな」

 僕はただ茫然としてその後ろ姿を見つめていた。ものすごい速足でどこかへと進んでいく・・・。と、急にUターンして戻ってきた。

「一つ訊き忘れていたことがった。君の名前はなんていうんだ?」

 という経緯で、僕らは友達になった。



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