5-1 岬にて

文字数 8,436文字

 南西に突き出すような形状の岬は三方を断崖絶壁に囲まれて、周囲に広がる大海原を見渡すには絶好の景観を誇る。そんな絶景を独り占めするかのように、ちょっとした屋敷と呼んで良い建屋が、岬の突端を占有している。
 郊外の邸宅としてはありふれた広さの敷地内に、広々とした一階と、その上にこぢんまりとした二階をちょこんと乗せた程度の、シンプルな構え。装飾に乏しい無骨な外観と、俗世から隔絶したシチュエーションが相まって、童謡に出てくる魔女の棲家のように見えなくもない。夕刻の西日を受けて、遠くからも認めることの出来る建物のシルエットを視界に収めながら、カーロ・デッソは岬の突端に向かって車を走らせていた。
「全く、博物院にこもってくれればいいものを。なんだってこんな僻地に引っ込んでいるんだか」

 筋骨隆々とした恵まれた体躯を運転席に窮屈そうに押し込めて、空調の効いた車内でも褐色の肌にうっすらと汗が滲む。大きな手で車の操縦レバーを握り締めながら、カーロは思わずそうぼやいた。
 惑星スタージアの中心街区から二十キロほど離れたこの辺りは、まだ道路も整備されたばかりで、オートライドの運転可能範囲から大きく外れている。オートライドは三年前にようやく市街区全域で運用されるようになったばかりで、郊外までカバーするにはまだ数年かかるらしい。お陰でカーロは手動運転を強いられているのだが、彼は車の運転が苦手であった。
 ――あなたのお母様はドライブが大好きでね。久々に会うときは、彼女の運転する車で色んなところを走り回ったものよ――
 そう言って昔を懐かしむような女性の聞き慣れた声が、カーロの脳裏に蘇る。
 カーロ自身、母の運転する車に乗ってあちこち連れ回されたことは、よく覚えている。ただ母の運転はいささかアクティブかつスリリングで、彼にとってドライブの記憶とは、常に車酔いと抱き合わせだった。手動運転の車が苦手な理由のひとつは間違いなく母のせいだ、とカーロは思っている。
「宇宙船の操縦なら、飽きるほど繰り返してるんだがなあ」
 再びぼやきを口にしたカーロの胸中に、一抹の不安が灯る。
 このスタージアにおいて、宇宙船の操縦歴でカーロの右に出るものはいないだろう。ただそれも、スタージアという一星系内限定の話だ。彼に限らず、星系外への航行を果たした人物が存命していないという点が、カーロにとっては心配の種であった。
「開拓を成功させるためだ。なんとしても説得に応じてもらうぞ、ジューン」
 そう呟くとカーロは、操縦レバーを握り締める手に力を込める。
 いよいよ来月、スタージアは初の開拓団を宇宙へと送り出す手筈となっていた。
 行き先はスタージア星系から五つの星系を経た先にある、古代語にちなんでその向こうの星(エルトランザ)と名づけられた惑星だ。半世紀にわたる無人・有人調査の末についに見出された人類の新たな居住地へ向かう、およそ三百人の開拓団を率いるのが彼――岬の端に向かって慣れない車の操縦に悪戦苦闘する、カーロ・デッソであった。

 当代のスタージア博物院長ジューン・カーダは、穏やかな物腰が特徴的な、年配の女性だ。
 既に老境に差し掛かる年齢のはずだが、黒地のカーデガンを肩から羽織った下の、丈の長い濃緑のワンピースに包まれた痩身は背筋が真っ直ぐに伸び、黒目がちの瞳に宿る眼光からは深みのある知性が窺える。一本に三つ編みされて背中に垂らされた長い髪は、半分以上白いものが混じっているが、かつては美しい黒髪だったことをカーロはよく知っていた。目尻や首の周り、手の甲に浮かぶ皺はさすがに年相応だが、表情といい仕草といい、この女性(ひと)は昔から変わらない。
「よく来たわね、カーロ。手動運転は疲れたでしょう。さあ、中に入って」
 岬の端の屋敷の、一階の玄関の前に立って、ジューン・カーダはカーロの到着を出迎えた。アポイントもない彼の突然の訪問に、驚いた様子はない。彼女がカーロの来訪を知っているのは、むしろ当然のことであった。
「僕が来ることはわかっているっていうのに、どうしてこんな外れに引きこもっているのさ」
 挨拶もそこそこに苦情を漏らすカーロに、ジューンはくすりと微笑んでみせた。
「たまにはひとりになりたいときもあるのよ。ちゃんとあなたには居場所を知らせておいたでしょう?」
「せめてオートライドが走る範囲内にしてほしいものだね」
 カーロの口からなおも突いて出る不平を聞き流しながら、ジューンは彼を屋敷内へと案内した。
 玄関ホールの先にある大広間に通されると、カーロは瞳を思わず丸くした。十分な広さがあるはずのそのスペースには、様々な機械の群れが所狭しとひしめいている。卓上に収まりそうな小ぶりなものもあれば、高い天井に届きそうな巨大な機械まで、サイズから種類から千差万別だ。床や作業卓の上に設置された機械だけではない、壁際から天井まで、よくわからない配管が何本も張り巡らされている。機械たちはそれぞれが独特な稼働音を微かに唸らせて、広間の中には不思議な和音が充満していた。
「これ、もしかして全部現像機(プリンター)?」
 長身を折り畳んだり伸び上がったりしながら、カーロは目の前の機械をひとつひとつしげしげと眺めて回った。
 設計図(レシピ)と材料さえあればなんでも造り出すことが出来る現像機(プリンター)は、人々の生活に根ざしたありふれた機械である。だが、ここまで多種多様な現像機(プリンター)が一堂に会した光景を、カーロは見たことがない。中には明らかに特注品と思えるものまであるのだから、なおさらだ。
「そうよ。博物院長を引退後は、ここで現像技能の研究に専念するつもりだからね。色々と手を尽くして掻き集めてみたの」
現像機(プリンター)の見本市でも開けそうな勢いだな。でも研究なんて、それこそ博物院の方がやりやすそうなのに」
「あんまり人目につかないで、こっそりやりたいの」
 そう言って片目をつむるジューンからは、まるで少女のような悪戯っぽさが見て取れた。普段人前に出るときは厳かですらある彼女が、実は豊かな表情の持ち主であるということを知るのは、博物院生を覗けばもうカーロぐらいかもしれない。
「《繋がれし者》のくせして、こっそりもへったくれもないじゃないか」
「それはまた別よ」
 カーロの言葉に、ジューンは眉根を下げて苦笑を浮かべながら、手元の小ぶりな現像機(プリンター)の上に右手を乗せた。
「《繋がれし者》の中でも、現像技能に一番長けているのは私だからね。ここに研究施設を建てる話は、ちゃんと皆の了解を得ているわ」
「そりゃあそうだろうさ」
 主に博物院生で構成される《繋がれし者》は、複数の思念を精神感応的に共有する、数百名から成る集団だ。四六時中《繋がって》いるという彼らは、それぞれの思念を擦り合わせた上で意思を定めるというのだから、互いに意見の相違などあろうはずがない。
 およそ百年以上前、《星の彼方》から現れた《原始の民》は、長旅の末にこのスタージアに降り立った。荒野同然だったスタージアを人間が居住可能な環境を整えるのに、《星の彼方》から持ち寄った優れた知識と技術で《原始の民》を導いたのが、指導層だった彼ら《繋がれし者》たちである。
 彼らは《星の彼方》から持ち寄った知識と技術を駆使して、大気を調整し、海を生成し、大地を肥沃に作り替えた。宇宙船に積み込まれたコンピューターとも《繋がり》ながら、《星の彼方》の記憶を連綿と受け継ぎ続ける人々。カーロのように《繋がらぬ者》たちにも精神感応的に干渉出来る《繋がれし者》は、スタージアの住民たちの尊敬と同時に畏怖を集める存在だ。
 その頂点に立つとされるのが、スタージア博物院長のジューン・カーダである。そして彼女は、十代半ばの頃に父母を亡くしたカーロ・デッソの後見人でもあった。

「あなたたち開拓団が出発する前にね、ここで出来るだけ研究して、確かめておきたいことがあったのよ」
 大小様々な現像機(プリンター)の間をゆっくりと練り歩きながら、ジューンはそのひとつひとつにそっと手を触れたり、時たまスイッチを切り替えたりしてみせた。
「まだ確信は持てないけど、でもおそらくは大丈夫だわ」
「大丈夫って、何が?」
「開拓団が、植民先で《繋がって》しまう可能性を調べてたの」
 ジューンがさらりと口にした言葉は、カーロにとって聞き捨てならない内容であった。
「開拓団が? 《繋がる》って?」
「安心して。さらに検証を重ねる必要はあるけど、その可能性はほとんどゼロだと私は見込んでいる」
 球形に四本の足が生えたような機械と、飲食物の再現に特化した家庭用現像機(プリンター)の間で立ち止まったジューンは、そう言って振り返った。
「もちろん完全にゼロというわけではないけど。でも開拓団がエルトランザを植民した後、さらにまた別の星へと飛び立つことに、ほとんど障害はないと思うわ」
「ジューン」
「植民先で万が一突発的に《繋がって》しまったりしたら、せっかくの開拓も行き詰まってしまうからね。博物院はずっとその可能性を恐れていたんだけど、これでようやく心から送り出すことが――」
「そのことなんだけど」
 口を挟む暇を与えないつもりであろう、滑らかに紡ぎ出される博物院長の言葉を、カーロは強引に遮った。強い口調で発せられた彼の言葉に、ジューンが肩をすくめながら口をつぐむ。
 ――仕方ないわね。言うだけ言ってみなさい――
 濃緑の衣服の上から両手を腰に当てて、そう言いたげな顔でカーロを見据える老女の立ち姿は、彼が成人する前から何度となく目にした振る舞いであった。若かりし頃のカーロは、そんな彼女に対してもっともらしく反抗したものだ。
 ――僕の考えていることなんてお見通しのくせに、いちいち尋ね返す《繋がれし者》なんて、底意地の悪い連中ばかりだ――
 両親を亡くしばかりの頃の話だから、彼の精神は少なからず荒んでいた。周囲に対して、特に彼を引き取ったジューンには、何かにつけ歯向かってばかりだった。だがジューンはそんなときにも決して感情的にはならず、カーロの刺々しい言動を包み込むような眼差しで告げた。
 ――ヒトの意思は、言動に出さない限りは定まらないものなの。言葉や行動で表されて、思考は初めてはっきりと形を成す。私はあなたの頭の隅々まで読み取ることが出来るけど、それでもあなたは何を言いたいのか、言葉を使って訴えなければいけないわ――
 そのときのカーロが、彼女の言葉を素直に受け止めることが出来たわけではない。だがその後もことあるごとに繰り返し諭され続けるにつれて、気持ちを言動に表すことの重要性は、彼の行動規範に叩き込まれていった。
 だから今、彼女がそんな表情で彼の言葉を待ち構えているのだとしたら、カーロはしっかりと意思を伝えなければならない。例えそれが、既に何度も拒絶されている申し出だとしても、彼自身が諦めきれないのであれば、改めて口にするべきなのだ。
 室内に射し込む茜色の日差しを背に受けて、老齢の博物院長のかくしゃくとした人影に向かって、カーロは一言ずつはっきりと口にした。
「博物院長にお願い申し上げる。博物院に秘される《オーグ》の秘術を、是非とも開拓団に開示して欲しい」

 カーロの言葉はジューンにとって、彼の思念を読み解くまでもなく予想していたことだろう。彼女は穏やかな、ただ笑顔というには少々喜色に欠けた表情のまま、現像機(プリンター)の間の狭い通路で立ち尽くしていた。
 まさか彼の言葉を聞き逃したわけではない。無言のまま、どう言えばカーロを納得させることが出来るかを、考えを巡らせているのだ。
 だがカーロは、このまま沈黙に任せるつもりもなかった。
「門外不出ということはわかっている。でも、スタージアを切り拓くのに欠かせなかった技術は、今度の開拓団にもやはり必要だと、その全てを皆で共有すべきだと、僕は思うんだ」
「開拓に必要な技術も物資も、十分に提供しているはずよ」
 ジューンの冷静な指摘に対して、カーロは頭を振った。
「確かに計画上では問題ないよ。だけどこの開拓計画に失敗は許されない。半世紀近くかけて見つけ出した、唯一の植民適合環境の揃った星なんだ。万が一の事態を回避するためにも、団長としては万全を期したい」
 天井から歪に垂れ下がるパイプの下を、長身を屈めてくぐりながら、カーロは一歩前に踏み出した。
「考え得る範囲内で準備はし尽くしている。でも同時に、机上の計画では予測出来ない事態が必ずある。我々の先祖がスタージアを開拓した際に用いた《オーグ》の秘術は、そういった不測の事態を乗り越えるのに役立つはずなんだよ」
「机上の計画ではないわ」
 カーロの熱弁の一部を取り上げて、ジューンが否定を口にする。
「開拓計画は、ミゼールやスヴィが命を賭けて持ち帰った調査結果を基に立案されているのよ。あなたは自分の両親の成果を、ただのデータとしか見ていないというの?」
「そんなわけないだろう」
 一瞬声を荒げそうになったカーロは、ジューンの挑発に乗りかけていることに気がついて、すぐに大きな口を引き結んだ。相手を興奮させて会話を有利に進めようという手法は、ジューンが時折り用いる話術のひとつである。昔ほどではないにせよ、《繋がれし者》はやはり底意地が悪いという想いを、カーロは未だ拭い去れない。
「逆だよ。父さんと母さんの犠牲を無駄にしたくないからこそ、この開拓計画を絶対に成功させたいからこそだ」
 落ち着いた口調を取り戻しつつ、両手を広げて身振り手振りを加えながら、カーロはジューンに訴えかける。
 彼の言葉に嘘はない。かつて《原始の民》がスタージアに降り立ったとき、まだ過酷だったこの星の環境を徹底的に改造して、人々が安定した生活が営めるようにまでしてみせたのは、《オーグ》の秘術――彼らが《星の彼方》から持ち寄った知識と技術を振るったからである。カーロたちが向かう惑星エルトランザは、スタージアに比べればはるかに植民の難易度は低いとされているが、《オーグ》の秘術があればその成功率がさらに高まるのは間違いない。
 だが博物院は、開拓団に《オーグ》の秘術の全貌を明らかにしようとしない。
 彼らが開拓に必要と判断した、恒星間航法や極小質量宙域(ヴォイド)の探索方法、テラフォーミングや現像技能といった技術と、それを行使するための物資は十分に与えられている。だがいずれの技術に関する知識も使用する(すべ)に特化した内容ばかりであり、根本的な原理については明かされていない。それどころか《オーグ》の秘術の根幹を成す《繋がり》については、その原理や扱い、存在すらも、《繋がれし者》にしか許されない秘中の秘とされている。
「今じゃ《オーグ》の正体を知る者はほとんどいない。僕が知っているのだって、たまたまあなたに育てられて、ほかの人よりも秘術に触れる機会が多かったからに過ぎない。開拓団のメンバーにもスタージアの住民にも、《オーグ》といえば《星の彼方》から《原始の民》を追いやった化け物扱いされているよ」
《オーグ》の秘術の開示だけではない、長年の疑問に対する答えを求めて、カーロはさらに一歩足を前へ踏み出した。
「いったい《繋がれし者》は、《オーグ》の正体をこのまま歪めたままにしておくつもりなのか?」
 そこまで口にしてから、ようやくカーロはジューンの意図を理解する。
 まるで世間から隔絶されたかのようなこの屋敷は、カーロが《繋がれし者》に抱き続けてきた想いを吐露するのに絶好の環境であった。ここであれば《オーグ》の名をいくら口にしても、耳にするのは《オーグ》の正体を誰よりも知るジューンであり、彼女に《繋がれし者》だけだ。
 カーロが開拓団長としてスタージアを発つこの時期、もしかすれば今生の別れになるかもしれないというこのタイミングだからこそ、ジューンは彼の長年の葛藤を解消するために、この屋敷に足を運ぶよう仕向けたのだ。今頃そのことに気がついて、カーロは我ながら察しの悪さに頭を掻き毟りたくなる。
 だとしたら、彼に出来るのは後はもう、彼女の答えを待つことだけであった。ジューンに限らず、《繋がれし者》は底意地が悪い。だが悪意に満ちているわけではない。真摯に向き合えば相応の態度を示してくれるのだということも、カーロはよく知っていた。
「話は少々長くなりそうね」
 いつの間にか現像機(プリンター)の合間から移動して、ジューンは二階へと上がる広間中央の階段の最下段に足を掛けていた。つられて視線を動かすカーロに向かって、ジューンは彼を階上へと促す。
「ここで立ちっぱなしのまま長話も、老体には堪えるわ。あなたの好きな柑橘茶を淹れてあげるから、上に場所を移しましょう」

 屋敷の二階はジューンの生活スペースとなっていた。寝室、キッチン、浴室等がひととおり揃っているものの、いずれも必要最低限の広さに設備ばかり。カーロが通されたリビングも至って質素な造りだったが、彼の目を引いたのはそこではなかった。
「こいつは凄い」
 リビングの奥、南に面した壁面は、調光の施されたガラス窓で一面を覆われていた。その奥に見えるのは広々としたバルコニーであり、さらにその端の手摺り越しには、夕陽に照らし出されて静かに凪ぐ海面が広がっている。バルコニーに出れば三方に広大な大海原を望み、まるで海の上に立っているかのような眺望を味わえるのだ。
「ジューン、ここに屋敷を構えたのは、この景色を独り占めしたかったからじゃないのか?」
 茜色に染まる水平線のその先に沈みかける、恒星の輝きの美しさに目を奪われながら、カーロは窓際に立ってそう尋ねる。
「素敵でしょう? もし別荘を建てるならここって、ずっと狙ってたの」
 キッチンから卓上サイズの現像機(プリンター)を乗せたワゴンを押し出しながら、ジューンは悪びれずに答えた。
「ここはよく、スヴィに車で連れてきてもらったところなのよ。ミゼールと三人で、暇さえあればここまでドライブして、キャンプして過ごしたこともあったかな」
「父さんや母さんと? そいつは初耳だ」
「その頃はまだここまでの道も未舗装で、車酔いの酷いあなたはとても連れて行けなかったしね。そうこうしている内にふたりともエルトランザへの調査に行ってしまったから」
 そう言うとジューンは、リビングの中央に据えられた木製テーブルの、周りに添えられた四脚の椅子のひとつに腰掛けた。傍らにワゴンを引き寄せて、現像機(プリンター)を起動させると、一瞬機械が小さく唸り声を立てる。間もなくして現像機(プリンター)の壁面についた小さな照明が緑色に灯るのを確認してから、ジューンは取り出し口からカップをふたつ取り出した。 
 ソーサーに乗ったカップには、微かな甘い香りをくゆらす黄金色の暖かい液体が満たされている。カーロの立つ窓辺にまで漂うその匂いは、彼の鼻腔をくすぐると同時に少年時代の記憶を呼び覚ました。
「ジューンに柑橘茶を淹れてもらうのは久しぶりだな」
 柑橘茶はスタージアでもありふれた飲み物だが、ジューンが現像機(プリンター)で再現する茶は、彼女自身が手がけた設計図(レシピ)に基づいている。市販のそれよりも甘い風味が強い彼女の柑橘茶を口にすると、不思議と気持ちが落ち着いたものだった。
「そうそう、この香りだ。懐かしい」
 そう言ってカーロはジューンの向かいの椅子に腰を下ろし、香り立つ柑橘茶が注がれたカップを手に取った。一口啜って、記憶にある味と変わらないことを確かめながら、堪能する。
「ミゼールもその柑橘茶が好きで、よく淹れてあげたものよ」
 茶を啜るカーロの顔を眺めていたジューンが、そう言って表情を和ませる。彼女の言葉に、カーロは太い首を傾げた。
「うちで柑橘茶が出た覚えは、あんまりないんだけど。父さんも母さんも、コーヒーを飲んでばかりだった気がする」
「それはそうよ。このお茶の設計図(レシピ)だけは、スヴィにも内緒だったからね」
 カーロの疑問に、ジューンは黒目がちの目を心持ち細めて答えた。
「でも、教えてあげれば良かった。ミゼールもスヴィも、まさかあんなに早く逝ってしまうとは思わなかったから」
「そうだね。父さんも母さんも生きていれば、開拓団もあと十年は早く出発出来たろう」
「彼らの夢をあなたが引き継ぐことになったと知ったら、ふたりともどんな顔をするかしらね」
 ジューンもまたカップに唇をつけて、柑橘茶を口にする。やがて口を離したカップをソーサーの上に戻したとき、彼女の目はそれまでよりもしっかりと見開かれて、カーロの顔を見返す視線には強い意志が込められていた。
「カーロ、私はもう若くないわ。エルトランザに旅立つあなたとこうして話す機会は、これで最後になるかもしれない。だからあなたに全てを伝えておきましょう。ミゼールとスヴィのことも含めて、全部ね。《オーグ》の秘術が本当に必要かどうか、その上で判断してちょうだい」
 ジューンの真剣な眼差しを受けて、カーロは椅子の中で姿勢を正しながら、唇を引き締めて彼女の話に耳を傾けた。
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