第20話 猪膝の大庄屋中村家

文字数 942文字

 猪膝の宿場を後戻りしていると、屋号の話しをしてくれた散歩人の連れた犬が庭で餌を食べていた。フルカワさんの表札があり、ここで昔両替屋をしていたのだ。
 幼稚園の前は、公民館で広場に看板があり、宿場の見取図で、道筋の商店の職柄が詳しく書いてある。ほとんどの店屋は住宅へと変貌しているが、麹味噌屋は最近まで営業していたという。それだけ味噌の需要が、今でも、江戸の昔から英々と人の口になじんでいる証である。
 もう中村邸のご主人は帰還されているかと思い、呼び鈴を押した。立派な庭の向こうに、上品な奥様が「何かご用ですか」と問う。「突然で済みません。猪膝宿のことを教えて貰いたいのですが」と訊ねると「私はそれ程詳しくはないのです。堀江先生が調べられているので、そちらで」と言う。「私は、当主のお話を伺えたらと、中間市の方から来ました」と粘って言った。奥様は立ち話を始めた「八人兄弟の五女ですが、この家を私が継ぐことになり、酒醸造を行っていました」という。現在は酒蔵を廃業し「主人は嘉麻市の黒田武士の酒蔵に勤めていました。今は病気になり、療養中です」と語る。
 私は疑問に思った事を尋ねた「中村一族の掲示板や石碑は、どうなのですか。近所の人は、反対だと言っていましたが」と先ほど聴いた話をした。「あれは五年位前に、NM産業という会社から話しがあり、家紋が同じでしたので、『一緒にやってもらえないですか』と打診がありました。石碑などを建てることは、文句は言いませんが、賛同者になることはお断りしました」。NM産業は建設業者で町外に住み中村家とは関係がないようだった。
 「夕方近くに突然たずねて申し訳ありません」というと、奥様は「また温かくなった時期に御出下さい」と言ってくれた。「家の電話番号を教えますので、事前に電話頂けば、古文書も用意し見ていただけます」なんたる優しい言葉、ジーンと胸に滲みるお言葉。「誠に嬉しく有難く存じます」と何度も礼を述べ「いずれまた、お邪魔させて下さい」と言い庭から退出していった。
 何の補助金も受けずに、現状の屋敷を維持するのは大変な事だろう。また猪膝の地名もなくなり今は猪国に変わった。猪膝宿は田川市猪国にある。昔の宿場の雰囲気を彷彿とさせる。こんな場所は、滅多にない。
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