第3話

文字数 2,688文字

祥子(しょうこ)ちゃん、おつかれさま」
 カウンターに私が座ると、ママは私にグラスを持たせてビールを注ぎます。
「ありがとうね、(れい)ちゃんのお勉強みてもらって」
 スナックのママにお酌をしてもらい私はなんだか接待を受けるサラリーマンの感じでした。
「こちらこそありがとうございます。いただきます」
 私は礼子さんの勉強に付き合うのは自分の〝おさらい〟になるから負担に思わないで欲しいという意味の事をいいました。
 実際、礼子さんの家庭教師をしたおかげで私は成績が上がりました。後で礼子さんに説明するつもりで講義を聞き、見せるつもりでノートを取るので、内容が整理されて頭に入りやすいのです。さらに礼子さんに教える事で復習になります。卒業式の時には学長から成績優秀者として表彰され、表彰状と一緒にもらった記念品のパーカーのボールペンは今も仕事で使っています。私の唯一の自慢です。
 ママは色白で、目鼻立ちのはっきりした端正な顔の人でした。豊かな髪をすっきり巻き上げた横顔は理知的で哀愁がありました。印象派の名画の女性像に似ているといって、ママを口説こうとするお客さんもいました。
 ラザニア、ピラフ、ぎょうざ、ハンバーグ、生姜焼き、海苔巻き、オムレツ、おでん。ママの料理はどれもおいしかったです。
 ママのおでんにはちくわぶが入っていました。関西人の私が初めて見る出汁の色に染まったブヨブヨのおでんダネを食べてみると、メリケン粉でできた粉モンだったので意外に思いました。
 ママは東京生まれの東京育ち。結婚を機に大阪へ来たそうですが、当時すでに独身でした。
「お、祥子ちゃん、おつかれさん」
 と、常連客の一人、斉藤さんが私とグラスを合わせました。
 斉藤さんは白髪頭に黒い眉毛をふさふささせた面長の顔をして、ちょっと植木等に似ていました。
「専務、若い子ナンパしたらあかんで」
 と、日根野さんがいいます。
 日根野さんは、作業着を着たお店近くの測量事務所の人です。酔った斉藤さんが“いぶし銀”と呼んでからかうシブい中年のおじさんで、事務所の若い人たちを連れ立ってくる事もありました。
「フレンズ」は元は喫茶店だったそうです。カウンター六席、ボックス席が3セットあって、「詰めたら二十人入るわよ」と、ママはいいました。商店街の人たちが寄り合いで使う時、ちょうど二十人が座るそうです。
 長い間空き室だったマンション一階の貸店舗部分を遊ばせておくのはもったいないとママがはじめた喫茶店でしたが、近所の病院や市役所、予備校などから来るお客さんから夜に営業して欲しいといわれてスナックに変えたそうです。スナックになっても、喫茶店のメニューにあった厚焼き玉子サンドとコンソメスープの注文がありました。
 カウンターの中に入った礼子さんは、キャンパスで見るのと違って大人っぽい。洗いざらしのシャツにデニムを履いてカフェエプロンを着けて、アイスペールに氷を入れたり、グラスをフキンで拭いたりする動作が様になっています。
「せやけど先生、礼ちゃんはママ似のべっぴんな娘さんやな」
 と、斉藤さんは日根野さんにいいます。
 斉藤さんは日根野さんを「先生」と呼び、日根野さんは斉藤さんを「専務」と呼びました。本当に専務でも、先生と呼ばれる職業についているわけでもありません。後で礼子さんに聞いたら、
「それっぽい呼び方になるみたいなの」
 と、礼子さんはいいました。「先生」「専務」だけでなく、「社長」「部長」「師匠」など、スナックの客にはその人の風貌、雰囲気に相応しい呼び名がつく事があるそうです。
 カウンターの中でオレンジをむく礼子さんは、斉藤さんが「べっぴんな娘さん」といったのが聞こえなかったのか、「ん?」と、聞き返すように微笑みました。
 するとママが、
「斉藤さんはひどい人ね。親子ほど離れた歳じゃありません。私と礼ちゃんは姉妹よ」
 と、返します。すると日根野さんが、
「せやせや、歳の離れた姉妹や」
 と、いいました。
「またこのいぶし銀、女にモテようとして」
 と、斉藤さんは日根野さんをからかうようにいいました。
 日根野さんと斉藤さんにははぐらかしたような感じがあって、私はこの時、ママと礼子さんは母娘(おやこ)だと思いました。
 確かに礼子さんとママは似ています。
 おばとめいが似ても不思議はありませんが、瓶ビールの栓を抜く時の手つきとか、ふきんでテーブルを拭く時の仕草とか、礼子さんとママにはちょっとした動作にも似ているところがありました。「ママ」と呼ぶ礼子さんの声も、言葉の裏側を読もうとする私の癖を発揮すれば、お母さんを呼んだ感じに聞こえなくもないのです。
 ただもしそうだとしても、なぜこの時期にわざわざ大阪に来て母親と一緒に暮らしはじめたのか、礼子さんが短大の二年から転入したのがどうも中途半端に思われました。
 しかもC女子短期大学という、C女子に短期大学卒業の学歴を持たせるためのような短大にです。
 まさか学問を求めて転入したわけではないでしょう。講義中ぐっすり寝る礼子さんに限ってあり得ない、と、私はグラスのビールを飲み干しました。
「なんや祥子ちゃん、こわい顔して」
 と、斉藤さんが私にいいました。「悩んだ時はな、真面目に考えんほうがええで」
「そうそう。真面目にしたら、深刻になるだけや」
 と、日根野さんがいいます。「真面目にふざけたほうがええ」
「ふざけたら真面目にでけへんやろ」
「せやからふざけたらええねん」
「深刻にならんか」
「真面目にふざけたらな」
「人をおちょっくったみたいないい方やな」
「うん。ふざけてるねん」
「真面目やな。ま、祥ちゃん、飲み」
 と、斉藤さんがいって、私は斉藤さんのボトルで飲ませてもらいました。ウイスキーの味はよくわからなかったけれど、ママに作ってもらった水割りを飲むと大人になった気分でした。
 斉藤さんたちとお喋りしているうちに電車のない時間になり、終電を逃した私は礼子さん家(ち)に泊めてもらいました。
 マンションに戻ると、ママがお夜食を作り始めました。
 リビングのテーブルで私と礼子さんはうどんを食べました。ママは土瓶で煎じたハッカ系の香りのする漢方薬みたいなものを飲んでいました。
 六畳の和室に礼子さんと私はふとんを二つ敷きました。このほうが修学旅行みたいで楽しい、と、礼子さんは自分の部屋ではなく、和室に来て私の隣で寝ます。
 たまご色の肌触りのいい布団は寝心地が良くて、ふとんに入った途端パツンと主電源を落としたテレビみたいに私は眠りに落ちました。
 翌朝は頭痛に起こされました。
 人生初の二日酔いでした。

(つづく)
ワンクリックで応援できます。
(ログインが必要です)

登場人物紹介

登場人物はありません

ビューワー設定

文字サイズ
  • 特大
背景色
  • 生成り
  • 水色
フォント
  • 明朝
  • ゴシック
組み方向
  • 横組み
  • 縦組み