第1話

文字数 1,190文字

 昨年のある金曜日の午前中、80歳後半の女性が「腹痛」で救急搬送された。
 ピ~ポ~ ピ~ポ~。
 救急車のサイレンが鳴り止んだ。赤色回転灯の赤いランプが救急外来の窓の外で回っている。救急外来の担当看護師が救急外来の扉を開け、救急車を迎えに出る。
 急患がどんな状況で救急車から降ろされるか?緊迫した瞬間だ。
 と、一人の老婆がスリッパを履いて歩いて救急車から降りてきた。
 「?? お婆ちゃんが患者さんですか?」
 「んだ。腹いでぐなての~。便出はりそうだったんけど、救急車の中でいでぐなくなたぁ~」
 聞くと、便意とともに下腹部がぐるぐると痛くなって救急車を呼んだが、便意が消えたら救急車の中で痛みも消えたそうだ。診察すると腹部は下腹部を中心に(ごく)軽度の圧痛を認めるが、ほかに有意な所見はなかった。最終の排便は覚えていなかった。
 「あれれ、先生、この患者さんは今週の月曜日にも腹痛で救急搬送されていますよ。便秘の診断で、浣腸をして緩下剤(かんげざい)(便を柔らかくし、排便回数が増加する薬剤)の内服を処方され、帰宅となっています。」
とは、カルテを検索していた看護師さんからの報告だった。
 腹部レントゲン写真では横行結腸(おうこうけっちょう)から下行結腸(かこうけっちょう)に多量の糞塊(ふんかい)を認めた。診断は便秘だった。浣腸を施行し、
 「やや硬い便がたくさん出ました。」
とのことで、緩下剤を処方し帰宅となった。
 後から遅れて病院に到着した60歳前後の患者の長男に聞くと、「母は頑固で、処方された薬は腹痛がなかったので飲んでいなかった」とのことだった。
 高齢者の便秘は(あなど)れない。
 経験例では、排便の際に腹圧をかけ過ぎたことによる迷走神経(めいそうしんけい)反射で失神し、救急搬送された症例があった。また、糞塊が固まり糞石(ふんせき)様になって、摘便(てきべん)(直腸に指を入れて、栓になってしまっている便を、指で動かしたり、直腸反射を促すことで、排出させる方法)の際に直腸粘膜の裂傷をきたした報告例もある。最悪は大腸穿孔(せんこう)(大腸に穴が開いた状態)で、緊急手術例を何例も経験した。消化器外科の要請を受け応援で手術に参加するのだが、開腹とともにプ~ンと手術室中が糞臭で充満し、便には慣れない心臓血管外科医の自分は卒倒しそうになった。
 事実だけを切りと取ってみれば、この老婆はこの1週間は2回、当院から約20数km離れた鳥海山麓(ちょうかいさんろく)の集落から救急車に乗って、病院に雲鼓(うんこ)をしに来たことになる。これが僻地の救急医療の現場の一端である。
 掛りつけ医の大切さを痛感した。う~ん。

 さて、写真は自分が当地で一番好きな日本酒「杉勇(すぎいさみ)」である。

 日本酒度+8の辛口で、口当たりは淡麗である。さっぱりとしたキレのある味で、塩をつまみに飲むのが美味しい。鳥海山の麓に位置する造り酒屋で作られる。
 酔うと仕事のことは滅多に考えないが、「杉勇」を飲むと、印象に残る患者さんとして、たまにこの老婆が思い浮かぶ。
 んだの~。
(2022年6月)
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