第2話 あり得たかもしれないもう一つの人生

文字数 11,104文字


 自分を覗き込むいくつもの顔。みんなが口々に何かを話している。朦朧とした意識の中で今自分の身に起きていることを理解しようと試みる。しかし、脳がうまく働かない。身体中に鈍い痛みが走る。
「綾ちゃん、綾ちゃん、わかる。お母さんよ」
 今度は母の声がはっきりと聞こえた。声を出そうとするが出ない。かろうじて頷くことができた。その瞬間、母の目から大粒の涙が零れ落ちた。隣にいるのは父、そして兄。さらに、白衣を着た人…。
 自分がいるのが病院とわかる。なぜ…。ベッドの中で、意識の端をつかもうと試みる。少しずつ蘇ってくる景色。シャッターの下りた商店街、暗闇に浮かぶ神社、交差点、そして右側から迫りくる車のライト、急ブレーキの音、激しい衝撃…。
 すべてを理解した。自分は事故にあったのだ。
「もう、大丈夫ですよ」
 医者と思しき人が母の顔を見ながら言った。
「そうですか。先生、ありがとうございます」
「いえ。これからが大変かと思いますが、頑張ってください」
 そう言うと、医者は看護師とともに部屋を出て行った。蛍光灯がのっぺり白い光で部屋を照らしている。目の前の景色がふくれあがり、水の底のようにゆらゆらと揺れた。再び意識が薄れ、眠りに落ちる。
次に目が覚めた時は、母一人だった。
「お母さん」
 ふり絞るようにして声はかすれていた。
「何?」
 綾香の顔を覗き込むようにして母が言う。
 綾香は目が覚めた時から感じていた身体の違和感について口に出した。
「私の足…」
 母の顔が歪んだ。それだけでわかってしまった。
「無くなっちゃったのね」
 無言で小さく頷く母の顔から再び涙が落ちる。
「そう…。両方?」
 まだ感情を取り戻せていなかったせいなのか、この時の綾香は冷静だった。再び頷く母の顔を見て、綾香に突然悲しみが襲ってきた。『生きていた』という喜びは全くなく、ただただ暗い洞穴の中で自分を自分で切り捨てるしかなかった。
 翌日から悪夢と幻想との闘いが始まった。毎日毎日繰り返し見る事故の夢。その度に自分は交差点を渡り切ろうと頑張るが、いつも事故は起きてしまう。
 もう一つが幻想。両足の膝から下を喪った現実は理解しているのに、まだ足があるような『感覚』が残っているのである。これは綾香だけが感じるものではなく、同じように足や手を喪った多くの人に起こる感覚らしい。だから、朝、目が覚めた時、あの事故は何かの間違いで自分の足はまだあると思える。だが、動かそうと思って足に力を入れると力が入らないことに気づく。現実を突きつけられる辛い瞬間だ。絶望で奈落の底に落とされる。毎日涙が流れる瞬間でもある。
 綾香に毎日のように辛い瞬間が訪れていることを母は医者から聞かされて知っていて、敢えて気づかぬふりをしている。きっと、医者からそうしろと言われているのだろう。そんな母親のことも含めてすべてのことが気に食わない。嫌気がさしている。
「お母さん、わかっているんでしょ?」
「何を?」
 とぼける母親の顔に殺意すら感じる。
「とぼけないでよ」
 怒鳴り声とともに、枕を投げつける。枕は母の顔に命中し、かけていた眼鏡がはじけ飛ぶ。母はその眼鏡を無言で拾いかけ直して、枕を綾香の頭の下に戻す。母は綾香の悲しみや苦しみや怒りや絶望感といったあらゆる負の感情を、スポンジのようにただただ吸収しようとしているのだ。そんな姿を見ると綾香はさらなる苛立ちを覚えるのであるが。しばらく経つと激しく後悔する。
『お母さん、ごめん』
 心の中で謝るが、本人に向かって口には出さない。ざぜなら、明日も同じようなことを繰り返してしまうことがわかっていたから。
 病院で目が覚めて以来、毎日のように綾香は母に当たっていた。もはや生きることに何の意味も見いだせなくなっていた。このまま生き続けることは辛いだけ。毎日死ぬことだけを考えていた。行き場を失った感情を吐き出し、ぶつけることができる相手は母親しかいなかった。
 それでも、そんな綾香を忍耐強く受け止めてくれている母や、たまに来てまるで腫れ物にでも触るようにしながらも心を配ってくれる父や兄、甲斐甲斐しく世話をしてくれる看護師の姿や担当医の丁寧な治療に接するうちに、綾香の気持ちも少しずつ落ち着いてきていた。悲しくても生きている間は前に進まなくちゃいけないと、みんなが教えてくれた。
 だが、綾香にはまだひとつだけ心に引っかかっていることがあった。それは、晴久のことだった。綾香が病室で目を覚ましてから、晴久は何度か見舞いに来ている。しかし、交わす会話は少ない。晴久にしても、綾香にどう接し、どう話しかければいいのか戸惑っているように見える。一方の綾香も、いつ来ても不必要に窮屈そうにしている晴久の姿を冷めた目で見ていた。
「綾香、昨日お兄ちゃんが持ってきてくれた桃食べる?」
 天上を見ながらぼおっとしていた綾香に母が声をかける。
「ああ、そうだね」
「ちょっと待ってて。今剥くから」
 みずみずしい果物の香りが部屋中に広がる。
「はい」
 楊枝にさしたひときれの桃を差し出す。
「ありがとう」
 口に入れると桃の甘いエキスが口全体に広がる。
「おいしい」
 穏やかな時間が流れる。
「あっ、そう言えば、明日の午後に増渕さんが来るって」
 急に思い出したように言った母だったが、本当はかなり以前から連絡を受けていたに違いない。綾香の様子を見て、話すタイミングを計っていたのだろう。
「そう…」
 とたんに憂鬱な気分になる。
 あの日晴久は電話で自分に何を話すつもりだったのだろう。訊いてみたい気持ちはあったが、こうなってしまったもう訊くことなどできない。綾香はお互いのために、そろそろ決着をつけなければならないような気がしていた。
 翌日の午後2時ぴったりに晴久はやってきた。こういうところは晴久の生真面目さが出ている。
「はい、これ」
 今日は花束を持ってきた。
「いつもありがとう。でも、もう気を遣わなくてもいいから」
「うん、わかった」
「とにかく座って」
 パイプ椅子に晴久が座るのを見て、母はそっと病室を出て行った。
「だいぶ元気そうだね。顔色もいいし」
「そうね。少しは前向きになってきたかな。で、晴久のほうはどうなの? 仕事忙しいんでしょ?」
「うん。営業部に異動になってから、毎晩のように残業が続いているよ」
「そう、大変ね。身体壊さないでね」
「ありがとう」
 いつものように、差し障りのない話題が尽きると、会話は途切れてしまう。だが、その日の晴久はいつも以上に落ち着きがなかった。何か大事なことを言わなければという緊張感のようなものが、そうさせているに違いなかった。だから、晴久がそのことを言う前に、自分のほうから告げることにした。
「晴久。もうここに来なくていいよ」
「ん?」
「私、こんな身体になっちゃったじゃない。だから、もう晴久の力になることもできそうもないし、彼女として失格だから」
「でも、それは…」
「無理しなくてもいいよ。さっきから晴久の顔を見ていて気付いているから。たとえ、一時でもこんな私を彼女として受け入れようと思ってくれただけで十分だよ。私は私で、これからは今までとまったく違う人生を歩んで行こうと決めたの。だから、晴久は晴久の人生に向かって進んでほしい」
「綾香…」
「今まで本当にありがとう」
 そう言って、綾香は晴久の顔の前に手を差し出した。晴久はパイプ椅子から立ち上がり、綾香の手を握った。


 綾香は今しがた晴久が出て行ったドアのあたりを見つめていた。相手に別れを告げられるより、自分から別れを告げたほうが辛さは薄れると思ったけれど、全然そんなことはなかった。それは綾香がまだ晴久のことを好きだったから。綾香は布団をかぶり、声をあげて泣いた。ようやく少し気持ちが落ち着いた頃、母が病室に戻ってきた。
「増渕さん、もう帰ったのね」
「うん。もう来ないと思うよ」
「そう…」
 二人の恋が終わったことを母も理解したに違いない。しかし、母はそれ以上、何も言わなかった。
「ねえ、お母さん。退院したら、私やりたいことがあるの」
 週末に退院できることになっていた。晴久に別れを告げたことで、気持ちが吹っ切れたのだろうか。綾香の気持ちは前向きになっていた。
「何をやりたいの?」
「イラストとか絵とか」
 このところずっと考えていたことだった。綾香は子供の頃から絵を描くことが好きだった。でも、自分の才能に自信を持っていたわけではない。だから、平凡なOLの道を選んだ。でも、その平凡なOLの道が閉ざされた今、自分に残されているのは絵を描くことだ。
「いいじゃない。賛成よ。綾香、子供の頃から漫画や絵を描くのが好きだったし、事実、上手かったしね」
「ほんと。嬉しい」
「必要なものを言って。揃えるから」
「ありがとう、お母さん」
 綾香の退院後の車椅子生活に向けて、家をバリアフリーに改築してくれていた。とはいえ、自宅に帰っても母の介助は必要になる。そこで、もともとは二階にあった綾香の部屋は物置にし、一階の両親の寝室の隣に新たに綾香の部屋を増築してくれたのだ。さらに、退院祝いとして、イラストや絵の道具一式を両親と兄がプレゼントしてくれた。
 幸い、自分には両手が残されていた。その気にさえなれば、イラストや絵の勉強をすることができるのだ。生きる目標が出来て綾香は変わった。
まずは絵画の勉強を始めた。子供の頃絵が上手かったなどというのは何の役にも立たないということがわかっていたので、絵画教室の先生に自宅まで来てもらって基礎を徹底指導してもらうことにした。かかる費用は、綾香の少ない貯金をすべてはたいても足りなかったので、不足分は父にお願いして貸してもらった。父は全額出してくれると言ったが、断った。これから先の人生に、決して甘えは許されないと思ったからだ。
 最低限の基礎を学んだあとは自分自身で勉強するしかなかった。模写に始まり、名画の観賞、最近さまざまな賞を受賞している画家の作品の研究。もちろん、毎日絵筆を握り描き続けた。描いて描いて描き続けることで見えてくるものがあると信じていたから。そんな日が数年続き、最近ようやく自分らしい絵が描けるようになった。
 絵画仲間も少しずつ増えていった。趣味として絵を描いている人、美術大学に通う学生、すでにいくつかの賞を受賞している実力者。そんな人たちと会話したり、お互いの作品を観たり意見を言い合ったりすることで、たくさんの刺激をもらっている。
 そんな中で、綾香が今一番懇意にしているのは真田亮だった。5つ年上の真田はすでに画壇でも知られた新進気鋭の画家だった。綾香にとっては良き指導者であり、良き相談相手であり、ひそかにライバルとも思っている。現状では真田に遠く及ばないが、いつか真田と肩を並べられるようになりたいと思っている。それに、…。綾香は一人の異性としても意識している。こういう身体になってしまった自分が真田に気持ちを打ち明けることなどできないし、きっと叶わぬ恋だろうとは思うけど、それでも人を恋する気持ちは大事にしたいと思っている。
 そして、この頃から綾香はイラストにも力を入れ始め、さまざまなコンテストに応募していた。いつまでも親の財力に頼って迷惑をかけることはできない。経済的に自立するという意味では、こちらのほうが近道だと考えたからだ。幸い、すでにいくつかの賞を受賞していて、仕事も入り始めている。ひとり立ちできるようになるために、あと一歩というところまで来ている。
 土曜日の午後8時。綾香は来月末が締め切りのイラストに取り掛かっていた。今回の仕事は綾香がこれまで受けてきた仕事とは違い、大手企業から依頼であった。もし、この仕事が評価されれば、以降も継続して仕事を受注できることが約束されていた。それだけに、気合を入れている。
「綾香、部屋に入っていい?」
 ドアの外で母の声が聞こえる。あの事故以来、母は未だに綾香に気を遣っている。
「どうぞ」
 疲れた顔の母が入ってくる。最近収入が増えてきたとはいえ、綾香はまだまだ健常者よりもお金を必要とする。そんな綾香のために、母は以前よりパートの仕事を増やしている。心から申し訳ないし、感謝もしている。
「何?」
「ヘルパーさんのことだけど」
 現在綾香はたいていのことは自分自身でできるようになった。それでも、母が働きに出ている昼間の時間には介助が必要になる。そのため、週5日ヘルパーさんに来てもらっている。だが、今まで来てもらっていたヘルパーさんが、家庭の事情で来れなくなった。
「ああ、そのことね」
「月曜日から来る人の資料が協会からFAXで送られてきたんだけど…」
 なんか言葉を濁している。
「ん、何?」
 ヘルパーさんは協会から派遣されてくる。
「若い人なのよ」
 これまで来てくれていたヘルパーさんは50代前半のベテランの人だった。
「若いって、いくつの人なの?」
「綾香より2つ下」
「そう。別にいいんじゃない。それに、どうしてもダメだったら変えてくれるんでしょ」
「まあ、そうだけど。綾香がいいのならいいんだけど…」
 母はまだ不安そうである。
「そんなに心配することないよ。やってもらいたいことは私がちゃんと指示するから大丈夫」
「わかった。じゃあ、協会のほうにOKの連絡入れちゃうね」
 月曜日の午前9時ちょうどにその人はわが家にやってきた。
「松田陽子と言います。よろしくお願いします」
 わざとそうしているのか、若いのに地味な服装をしているせいで不自然なほど暗い感じの人だった。
「こちらこそよろしくお願いしますね」
 陽子の顔に笑顔はない。初めての出会いで緊張しているのかもしれないと、綾香なりに理解する。その後、母から綾香の仕事内容や生活パターンについて説明し、その中で陽子に介助を頼むのはだいたいこのようなことがあると話した。
「わかりました」
 陽子は必要に応じてメモをとっていた。真面目で几帳面な性格なようで安心する。
「私がお願いすることは細かいことが多いので、その都度説明しますから、やりながら覚えていただければと思います」
 綾香が改めて言う。
「はい、わかりました」
 派遣元の協会との契約で綾香の介助以外に、掃除など家事の一部の代行もしてもらうことになっている。
「そういうことなので、今日からよろしく」
 そう言って綾香は握手を求めた。陽子はその手を握りながら言った。
「ひとつだけお聞きしていいですか?」
「どうぞ」
「私はどこで控えていればいいでしょう」
「隣の部屋を自由に使ってください。用事があったら私のほうから呼びますので」


 陽子は見た目の印象とは違い、てきぱきと仕事をこなしてくれた。介助の仕事のみならず、秘書的な仕事も的確に処理してくれるので助かっていた。おかげで、勝負を賭けていた大手企業のイラストの仕事も高い評価を得ることができ、綾香はイラストレーターとしての地位を確保できたのである。その後の仕事も順調で、同時に収入も増えて、今ではすっかり独り立ちしている。すべて、陽子が来てからの短期間で実現されたことである。そんな陽子に今では感謝している。
「陽子さ~ん」
 仕事が一段落したところで陽子に声をかける。
「は~い」
 顔を出した陽子はにこやかだ。初めてわが家に来た時は暗い印象だったが、それは緊張のせいだったようだ。今では年齢相応の明るさと華やかさが伺える。
「お茶しない?」
 この言葉は綾香が休憩する時の合図だった。
「いいですね。今準備しますから少々お待ちください」
「今日、私はアイスがいいわ」
 綾香はコーヒーと決まっていた。原則ホットだが、アイスを飲みたい時だけ、その旨を伝える。
「わかりました」
 最近、綾香は絵の創作にも力を入れていた。綾香の描く独特な世界観にすでに多くのファンがいて、個展を開くと絵はいつも完売していた。
 飲み物とケーキをお盆に乗せた陽子が入ってくる。
「先生、その絵素敵ですね」
 綾香が現在取り組んでいる絵を見て言う。
「ありがとう。でも、これからまだまだ変わっちゃうけどね」
「へぇー、そうなんですか。楽しみです」
「そうね。私自身もどう変わるのかわからないのよ。だから、そういう意味で私も楽しみ」
「私、先生のお描きになるイラストも好きですけど、やっぱり絵のほうが好きです」
「ありがとう」
「そう言えば、最近、真田先生お出でになりませんねえ」
「ああ、彼は今忙しくなっちゃったから、なかなか来られないのよ」
「そうですか。有名になられたんですね」
「まだそこまでじゃないけど、実力は評価されてきたわね」
「へえー、カッコいいですね。先生、あの人好きなんじゃないですか?」
「何を言い出すのよ」
 油断ができない。真田と自分との会話や様子から感じ取ったのだろうが、突然こんなことを言い出す陽子という女に、綾香は警戒心を持った。
「だって、そう見えますよ」
「確かに一人の画家として尊敬しているし、そういう意味では好きよ」
「なんか胡麻化されてる感じがしますけど…」
「そんなことないわよ」
「そうですか。じゃあ、私、真田先生に絵を習おうかなと思うんですけど、いいですか?」
 明らかに綾香を挑発するためにわざとこんなことを言っているに違いない。悪意が感じられる。だが、陽子の意図がどこにあるかわからず気味が悪い。
「別にいいんじゃない」
「ほんとですか。でも、先生、顔が怖いですよ」
 半分にやけた顔で言う。
「止めてよ、陽子ちゃん」
 自分でも語気が強くなったのがわかった。
「嘘ですよ、嘘です、先生。そんなに怒んないでください。そもそも私、絵の才能なんかないし」
「才能なんて自分でもわからないものよ。きっと、陽子ちゃんにしか発揮できない才能がどこかにあるはずよ」
 さきほどの自分はいささか大人げなかったと反省した綾香が、とりなすように言った。
「そうでしょうか」
「そうよ。陽子ちゃん、まだ若いんだからいろんなことにチャレンジしてみたらいいと思うよ」
「そうですね。でも、夫が…」
「ご主人って拘束するタイプ?」
「どちらかというと…」
「そうなんだ…。こういう仕事していて大丈夫なの?」
「ええ、それは。実は夫は福祉大学の準教授をしていて、将来福祉施設を建てたいと思っているんです。だから、私がその方面の実務を身に着けることには賛成なんです」
「ああ、そうだったんだ。それで納得したわ。最初、私より年下の人が来ると聞いた時に少し違和感を持ったんだけどね」
「不安でしたか?」
「不安というより、違和感ね」
「そうですか…」
 この時、一瞬陽子の顔が曇ったのを綾香は見逃さなかった。
「で、今はどうですか?」
「もちろん、今はまったく感じないわよ」
 嘘をついた。あの時感じた違和感だけはずっと残っている。
「そうですか。良かった」
 少し下を向いて言ったが、その顔に喜びなはかった。その時、綾香は別の思いにとらわれていた。
「話違うけど、私昔どこかで陽子ちゃんに会ったような気がするんだけど」
「いえ、今回初めてお会いしました」
 陽子は妙にきっぱりと否定した。
「そうよね。私の思い違いかな」
 陽子にはこう答えていたが、自分の思い違いだとは思っていない。なぜなら、陽子が時々見せるある特徴が綾香が忘れるはずのない人物の特徴によく似ていたからだ。
「そうですよ。私、どこにでもいるような顔しているので、よくそう言われるんです」
 

 その日の会話はそこで終わったが、綾香は翌日陽子が来る前に派遣元の協会に電話して、その事実を確認した。陽子の結婚前の苗字が中原であること。陽子には姉がいたが、中学校の時に亡くなっていること。この二つの事実を知るだけで十分だった。陽子が初めて自分のところへ来た時に感じた違和感の正体はこれだったのだ。陽子は強い意思を持って綾香のところへやって来た。だが、陽子はきっと勘違いをしている。いつか機会を見つけて話さなければならないと思う。
 その機会は思わぬ形で現実のものとなった。
 綾香は週、2、3回散歩に出かけることにしている。ずっと部屋の中で仕事をしてると思考が固まってしまい、いいアイデアが出て来なくなるし、時々外の空気を吸うことが身体的にも必要だった。散歩といっても車椅子に乗った綾香を陽子に押してもらって近所を回るものだ。だいたいコースは決まっているが、毎回同じコースだと飽きてしまうので、陽子に目ぼしい場所を探してもらっていた。
「先生、今日散歩に行きますか? 天気いいし」
「そうよね。どこかいいところ見つけた?」
「実はそうなんです。ちょっと遠いんですけど、すごく見晴らしがいいところです。桜も咲いていますし」
 今年の桜は開花した後、花冷えの日が続いたおかげで花が散らずに長持ちしているらしい。幸い、今日は温度も上がり、散歩にも花見にもうってつけだった。
「そう。じゃあ連れてって」
 外に出ると春の柔らかい陽の光が顔に当たり心地よい。陽子がゆっくりと車椅子を進める。流れ行く景色を眺めながら、綾香は車椅子を押す陽子の息遣いが気になる。
 コンビニの角を曲がって少し進むと道は二股に分かれている。右の道を選べばいつもと同じコースに入る。
「今日はここを左に曲がります」
 車椅子を左に向ける陽子の手にいつも以上の力を感じたのは気のせいだろうか。
 なだらかな登り坂になっている長い道を登り切ると、そこは高台になっていた。桜の木がたくさん植えられていて、見事に満開だった。
「きれい」
「ですよね。これを先生に見てほしかったんです」
「ありがとう」
「でも、先生。ここだけじゃないんです。もう少し先にさらに絶景のところがあるんです。見たいですか?」
「そりゃあ見たいでしょう」
「わかりました。じゃあ、これからお連れしますね」
 陽子に導かれるようにして進むと、高台の反対側に到着した。そこには、車ではなく徒歩で来る人のための長く急な階段があり、その階段の両脇に桜が咲いていた。下から眺める桜もきれいだが、上から見下ろす桜も圧巻の美しさだった。狂ったように咲き誇っていた。だが、それは同時に引きずり込まれるような恐怖を感じる場所でもあった。綾香は、陽子がここへ連れてきた意味を考えた。
「どうですか、先生?」
「美しい」
「そうですよね…」
 しばらくの間、二人は無言になった。風もないのに、桜の花びらのざわめきが聞こえてきそうだった。やがて、車椅子を握っている陽子の緊張が綾香にも伝わってきた。時空を超えたようなこの美しい世界の中で、陽子が犯そうとしている恐ろしい意思が綾香には見えた。
「陽子ちゃん、そのまま一気に突き落としてもいいのよ」
 あの時、あの事故で死亡していたと思えば、今の私は付録のようなものだ。陽子の強い思いを叶えられるのなら、それもいい。
「先生…」
「あなたは中原早苗さんの妹さんよね。結婚して苗字が変わっていたし、顔もお姉さんにはあまり似ていないからずっとわからなかった。でも、先日あなたと話している時にわかったのよ。笑う時にできるわずかな笑窪がお姉さんにそっくりだったの」
「それで調べたんですね」
「そう。協会に訊いたわ。最初はプライバシーに関することだから教えられないの一点ばりだったけど、お姉さんと私の関係を話したら教えてくれたわ」
「そうですか。であれば、私の願いもわかりますよね」
「わかるわ。でも、ひょっとしてあなたは勘違いしているの」
「なんですって?」
「あなたは、早苗が書き残したいじめの加害者の名の人物を探して会った。でも、その中に私の名前はなかったはずよ。だけど、元加害生徒と会う中で、影のリーダーは私で、私が彼ら、彼女らに指図していたと言われたのよね」
「それが事実ではないのですか。それに、あの動画があります」
「ああ、やっぱりあの動画を見せられたのね」
 やっぱりあの人たちは変わっていない。自分たちは悪くないと今でも思っている。いじめ問題において、日本では被害生徒の問題だけがクローズアップされて、加害生徒に対する対策はほとんどできていない。だから、彼ら、彼女らにいじめ相手の懊悩や悲しみや憎しみなどわかるはずもない。わかろうともしない。たとえ、相手が自殺しようとも。そしてそのまま大人になる。だが、綾香は人生は結局辻褄が合うものだと思っている。いつか、彼ら、彼女らも自分の行った罪に等しい罰を人生のどこかでどんな形であれ受けることになると信じている。それが直接、当時のいじめと結びつかないために気づかないだけだ。
「ええ」
「あれが、早苗に対するいじめの動画だと思う?」
「そうとしか見えなかったですけど」
「そう。家に帰ってもう一度よく見て。あれはね、私が早苗が自殺する二日前に会った時、早苗から自殺したいと告げられた私が彼女に目を覚ましてほしくて平手打ちしてしまったものなの。早苗が苦しんでいるのはもちろん知っていた。でも、私はなんとしても早苗に生きていてほしかったの。だから、思わず手が出てしまったの…」
 当時のことを思い出して胸が詰まり、声が震えてしまった。
「それをあのグループの一人に撮られてしまったの。結果、私もいじめの加害者とされてしまったというわけ。しかも、学校のいじめの調査の際には私が影のリーダーであるとあの人たちが言い張った」
「ほんとうですか?」
「どちらの話を信じるかはあなたが決めること。私のほうはあなたの思いを受け入れる覚悟はできているわ。でも、お姉さんが一番望んでいることが何か、もう1日だけ考えて見て。それでも、あなたの気持ちが変わらなかったら、明日またこの場に連れてきて。そして、私をこの桜の海に投げ込んでください。私は甘んじて受け入れるわ。それでいい?」
「はい、わかりました」
「良かった。じゃあ、今日はすべてを忘れてこの桜を堪能しましょう」
 うっすらと雲が模様を描いて通りすぎる。その瞬間、空の半分が紺色に染まる。気持ちががしんと静かになっていく。眼下に広がる桜の海を見ていると、生と死が相互に浸透し合うことがことがあるとわかる。
 翌日やってきた陽子の顔は心なしかすっきりしているように見えた。
「先生、昨日帰って心の中で姉と話をしました。それと、姉のこと、自分がしようとしていたことを初めて夫に話しました」
「そう…」
「私は間違っていました。私は姉の思いに応えるために今回のことを計画しました。でも、それは、私の独りよがりの行動で、姉が望んでいることではありませんでした。そして、夫からは、もっと自分のことを大切にしろと言われました。それから僕には君がずっと必要なんだと…」
「そう…。その通りだと思う」
「ですから先生、非常に身勝手なのですが、私は来週いっぱいでこちらの仕事を辞めさせていただきたいんです」
「わかりました」
 翌々週の月曜日から、再び50代のヘルパーさんがやってきて、以前と変わらぬ日常が戻った。
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