あちら側とこちら側を行き来するトリックスター

文字数 2,866文字

 突然だが、インターネットにある『#モバマスの画像をアップすると近い構図の京極夏彦の画像が送られてくる』という企画、およびTogetterによるそのまとめをご存知だろうか。
 アイドルマスターのカードの画像を送ると、コレクターがそのカードと似た構図をした京極夏彦氏の写真を返信してくる、というものだ。
 好評のあまり、京極氏自身に気づかれてしまい、太極宮から公式で「わはははは。本人のあずかり知らぬところで「近い構図」が密かに嘲笑の的になっている模様ですが、どんだけあるんだこんなワタシ画像(しかもあの恐怖の餅撒き画像まで……)。おそるべし電脳網。僕にモバマスをしろということか情報化社会。(京極)」と送られてきてしまう始末。
 主催者がモバマスで宴の支度をし、京極氏自らその百鬼夜行の宴の始末を行った、というわけである。

 京極夏彦といえば、その独特のファッションに身を包んで世に登場したのは有名な話である。
 そこから『京極堂(中禅寺秋彦)』=『京極夏彦』で考えてしまいがちだが、京極氏は、自身の小説について、登場人物の〈容姿〉は、読者のイマジネーションにゆだねている、という。
 アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』生誕30周年記念出版された『京極夏彦 鬼太郎に挑む!』において、その頃テレビで放送された鬼太郎にゲストで〈出演〉した「一刻堂」なる陰陽師の、キャラクターデザインを担当したことを振り返り、こう言う。

「一刻堂というのは京極堂ではないんです。小説の場合は読者が抱いたイメージが常に正しいんです。(中略)一刻堂は同人誌の京極堂などを参考にしてつくった」

 作家は自分がイコンとして使われてしまうことを危惧するものだが、ここには自分と、自分の小説中の人物と、自分で書き下ろしたキャラデザのキャラとで、これらは全く別物なのである、と線を引いており、そのうえで、自分の作品の二次創作同人誌を参考にデザインをしていることの告白をしている。
 イコンとして消費されつくされることはない、という確信が伝わってくるし、それは前述した『#モバマスの画像をアップすると近い構図の京極夏彦の画像が送られてくる』にしても同じだ。
 どんなに追って行っても、捕捉したかと思うとすり抜けていってしまう、消費されることすら不可能なワン&オンリーの権化である京極夏彦という『海霧』の姿が浮かび上がっては、僕らを幻惑させてくれるだけだ。

 京極夏彦は、アニメ『ゲゲゲの鬼太郎』で放送された『言霊使いの罠!』の脚本とキャラクターデザイン、そして声優も担当した。
 筋書きは、先祖がぬらりひょんと約束をしていた経緯がある陰陽師である一刻堂が、その約束による要請によって鬼太郎たちの前に立ちふさがる、というものだ。

「シリーズものというのはパターンが大事なんです。お約束があってこそ掟破りもある。(中略)でも自分が指名された以上は、他の方では書けないようなものにしないと意味がない」

 京極夏彦は、そう語る。
 出してきたのは言霊使いの陰陽師だ。
 関東水木会に所属する京極氏には、鬼太郎に関する独自の見解、……いや、理論と呼ぶものだろう……があり、それに沿ったかたちで、脚本を制作した。

 京極氏は語る。

 鬼太郎世界というのは複層構造になっている。
 自然科学的に整合性を持つ世界がある。
 幽霊も妖怪も存在しない世界。
 そこに出てくる妖怪は一種の生物として鬼太郎に殺される。
 しかしそのSF的世界の背後に得体の知れない世界が控えている。
 これは作品の外にある。
 理屈の通じない世界観が混入してくる。
 鬼太郎はそちら側とこちら側を行き来するトリックスターなのである、と。

 今、述べた思想は、鬼太郎と一刻堂が闘ったとき、一刻堂側が使った論理である。台詞を抜粋しよう。

「何をいっているのかね。もちろん君たちを祓うのさ。拝み屋は幽霊妖怪を祓うのが仕事。そして君たちは妖怪じゃないか。この世に巣食う悪しきものだ。いいかね、この世に不思議なものなどない。だから君たちのようなものはいらない」

 そして、続けて。

「ないものがあっては困るのさ。君たちは今、私の打った式を見ただろう? でもあれは幻覚だ。今風にいえばバーチャルリアリティだよ。見えるように触れるように、ちょいと仕掛けをしただけだ」

 ……そう、そこには唯物的とすらとれる、SF的な世界観がある。
 今回一刻堂が使役する〈式神〉は、物の精で、付喪神の一種。
「物が化けたもの」という状態を〈式〉として作り出すことを、している。
 だが、それと相容れぬ価値観・世界観を持つものも同時にいる。
 それは、当の妖怪本人たちだ。
〈式〉は、ここでは妖怪としては偽物だった。
 だが、「本物の妖怪側」は、どう思考するというのか。
 まさか、自動人形(オートマトン)が妖怪だ、とでも?
 少なくとも、京極氏の鬼太郎理論では、それはない。
 目玉の親父のセリフを聴いてみよう。

「なぁに、気にするな鬼太郎。ないと思えばなにもない。あると思えばすべてある。わしらを知っている人がいる限り、わしらはここにおるし、こうしてわしらがいる限り、これが現実じゃあ」

 目玉の親父らしい、なんとも頼もしい言葉ではないか。
 陰陽師が唯物、つまりマテリアルワールド側についているとするのなら、目玉の親父たち妖怪側は〈唯識〉の論理に近い、世界の捉え方をしている。
 唯識とは、あらゆる諸存在が個人的に構成された識でしかないのならば、それら諸存在は、主観的な存在であり、客観存在ではない、ということだ。
 確かにその世界は、京極氏が語るように、マテリアルワールド的な理屈の通じない世界観なのかもしれない。

 僕らが住む世界は理詰めだけで回っているだろうか。
 そうじゃないな、と僕は思う。
 だからこそ、理が必要で、でも、隙あらばその理のほつれた部分から混入してくる、〈あちら側の世界〉があって、ときに人はその〈ほつれ〉から〈あちら側の住人〉になってしまう。
 その〈あちら側〉に浸食されないよう助けてくれるのは、あちら側とこちら側を行き来するトリックスターである、鬼太郎のような存在なのではなかろうか。
 そして、その水木しげる理論を熟知した京極夏彦が描く、あの〈憑物落とし〉こそが、あちら側からこちら側への帰路を、示してくれるのではなかろうか。
 京極堂の、憑物落としが。
 論理という〈こちら側〉と、妖怪という〈あちら側〉を、知る者として。

 狂気に染まった憑物は、落とされるべきだ。

 僕らは〈こちら側〉に戻ってこよう、妖怪という狂気に魅入られて〈あちら側〉に行きそうになったとしたら。

 この脚本『言霊使いの罠!』を読んで、妖怪の世界を知って。
 百鬼夜行シリーズを読み、憑物を落としてもらって。

 ……けれども、〈あちら側〉は、いつも理のほつれとして、僕らのそばにある。

〈了〉
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