六~八

文字数 19,232文字

 六
 7月25日19時35分
 横浜市青葉区あざみ野
 湿った暖気が南から入りつづけているせいで、夜になってもうだるような暑さがつづいていた。田園都市線がとまっていたから、松木は渋谷からバスを乗り継いで二時間以上かけてあざみ野に到着した。アスファルトの路面や街路樹のようすを見るかぎり、雨が降った感じはない。だが駅前ロータリーでたばこをふかしながら客待ちしていたタクシーの運転手たちの話では、午後三時過ぎに恐ろしいほどの豪雨が降ったという。
 「おれはこっちにもどってくる途中だったんだが、ライトつけなきゃ危なくて走れないほどだった。なんか急に夜になっちまったっていうか、ちょっと紫がかったような世界だった。だけどここに着いたときにはすっかりあがってたよ」道のあちこちに小さな池のような水たまりができてみんな歩きにくいようすだったが、それもすっかり干上がってしまったという。
 駅前交番でも訊ねてみたが、心配した雨による被害は出ていないようだった。氾濫した川に家が土台ごと流されているわけでも、法面が決壊して土砂崩れが起きたわけでもない。もちろん低地に流れこんだ水のなかに幼子を連れた母親の運転する車が突っこんで身動きが取れなくなっているなんてこともなかった。とりあえずは無事なようだ。松木はずっと胸にためこんでいた不安をやっと吐きだした。
 だが街はちがう意味で騒然としていた。神経質そうな顔つきの交番の警官は、テレビの天気予報で見おぼえのある男の出現にほんの一瞬、はっとしたような顔をしたが、松木の質問に必要最小限のことだけ答えると、すぐにがなりたてる所轄無線とのやり取りにもどった。もはや松木など目の前から消えてしまったかのような態度だった。タクシーの運転手たちの話も大半は、いまこの街が陥っている緊急事態についてだった。
 あざみ野は通りという通りにパトカーと救急車、消防車があふれ、そのせいで幹線道路は大渋滞となっていた。これではタクシーに乗るよりも歩いたほうが早い。駅の改札を出たのち、タクシー乗り場にいったん足を向けた者たちが立ちどまるのは、そんな思いがすぐに頭に浮かぶからだろう。テレビ局のカメラクルーらしきグループも目につく。似たような光景に松木はかつて出くわしたことがある。3・11の夜のことだ。膨大な数の帰宅困難者が公共交通機関の利用をあきらめ、まるでバルカン半島経由で欧州になだれこむシリア難民さながらの疲れきったようすで無言の行進をつづけていた。
 いくつかの事件を運転手たちが教えてくれた。彼らがいちばんくわしかったのは目の前にある駅で起きた惨劇だった。発生したのは帰宅ラッシュが始まる前の五時過ぎ。それで田園都市線がとまったのだ。
 「上り線のホームで、駅員が小学生の男の子を線路に突き落としたんだ。ちょうど急行が入ってきたときでもうどうしようもなかった。男の子は学校帰りで、駅員はいっしょにいたほかの子どもたちにもつかみかかったらしい。それをほかの乗客が取り押さえたんだ」
 「すぐに警察が来て、駅員を連行していった。よく見かけるベテランの駅員だったけど、顔つきがぜんぜんちがって見えたな」
 駅から連なる商店街には通り魔があらわれた。「サンダル履きの若い男がサバイバルナイフで女の人に次々切りつけたんだ。一人が胸を刺されて心肺停止、六人が重傷だってさっきラジオで言ってたよ」
 べつの運転手は美容室の前に集結したパトカーと救急車に出くわした。「美容師らしい若い女の子が手錠かけられて出てきたよ。顔見知りの食堂のおばちゃんがたまたま通りかかったんで聞いてみたら、店長がハサミで刺し殺されたって教えてくれた」
 駅前や国道246号線から離れれば、あざみ野は閑静な住宅地だ。ゆるやかなうねりがつづく丘陵地に戸建てはもちろん瀟洒なマンションが並び、都心とはひと味ちがう緑地と都市のバランスが保たれている。江田やたまプラーザもそうだが、渋谷までさほど遠くなく、教育環境も悪くない。だからいまも子育て世代に人気で、おもにファミリー向けマンションの建設ラッシュが依然としてつづいている。事件はその工事現場の一つでも起きた。「交通誘導員の男が足場に使う鉄パイプを振りまわして、通行人をつぎつぎめった打ちにしたんだ。向かいのマンションの車寄せに配車した運転手がもろに目撃したらしい。あたり一面血だらけで、何人か死んだって話だ」
 そのとき運転席で車載テレビの小さな画面を見ていたドライバーが声をあげた。「突入したぞ」運転手仲間たちはくわえていたたばこを指にはさみ、腰を曲げて車内をのぞきこんだ。よりによってテレビ東邦の中継だった。
 「この先の坂をのぼったところにある高校の校長室で生徒が教師を人質に取って籠城してるらしいんだ」運転手の一人が前代未聞の事件について松木に教えてくれた。「発生からかれこれ二時間以上がたっている。そろそろ警官隊が突入するんじゃないかって話していたんだよ」
 「けが人は……?」思わず松木は訊ねた。
 「出てるみたいだ。教師が何人か」
 松木はわけがわからなかった。「ぜんぶ、このあたりで起きているってことなんですか」
 運転手たちは不安げな目で一様にうなずいた。
 「いったいどうしたんだろう」
 「こっちが聞きたいくらいさ。みんな、暑さで頭がいかれちまったのかな。あんた、せっかく来たのなら天気のことなんて聞いてないで、きょうはそっちを取材したほうがいいんじゃないか」
 その言葉にうながされ、松木は問題の高校に向かった。帰りが遅くなることは晋治もわかっているはずだ。できるだけ早く帰って息子の相手をしたかったが、ちょっと寄り道したところでさして帰る時間は変わるまい。大渋滞のなかタクシーで向かうわけにいかず、松木は歩道にごった返す人の流れを押しのけながら、地獄絵図が広がりつつある街を進んだ。
 私立清仁学園高校は探さずにもすぐにわかった。真新しい白壁の校舎にたどり着く五百メートルも先から、パラボラアンテナを夜空に向けるテレビ局の中継車がずらりと並んでいた。その先に救急車とパトカーが並び、正門から五十メートルほどのところに非常線が張られている。緊迫した空気のなか、報道陣と野次馬たちがその手前にごった返していた。ほんの数分前、籠城していた女生徒が逮捕されたらしい。犯人が未成年であることから人権上の配慮として校舎の入り口に掲げられたブルーシートの向こうにほんの一瞬、女性警官に連れられて護送用ワゴン車に乗りこむ女生徒の姿が見えた。直後、けたたましいサイレンが響き、パトカーに先導されてあっという間にワゴン車は学校を後にした。
 すぐに各局のリポートがはじまった。あざみ野の惨劇はどこの局でもトップニュースになるのはまちがいなかった。
 「マッちゃん!」
 非常線のうしろから首をのばしていたら。声をかけられた。顔が知れている以上に周囲より頭ひとつぶん飛びだしているから、こんなときもやたらと目立つ。だが声の主はもの好きな視聴者ではなかった。おなじテレビ東邦の社会部記者、小谷一弘だった。カメラクルーを率いて現場リポートに来ているようだった。
 「どうしたの? こんなところでお天気中継でもやるのかい?」三十代半ばながら不摂生の極みのせいで、白い開襟シャツがはち切れそうなほど膨れた腹を揺らしながら近づいてきた。丸々とした顔も短髪の頭も汗だくだ。こっちは契約スタッフだが、小谷とは以前、防災関連の番組をいっしょに作ったことがあり、何度か飲みに行ったこともあった。いつだって斜に構えた雰囲気でまわりを煙に巻いているが、正義感は人一倍強い。松木はそう感じて一目を置いていた。上昇志向の強い社員ばかりがひしめく報道局の連中のなかで、数少ない信頼できる人間だった。
 「ちがうんだ。ちょっと気になることがあって来てみたんだ」
 「気になるって、どの事件が気になるのよ?」小谷はやけくそのように訊ねてきた。「よりどりみどりだぜ。異常だよ。こんなことありえない。このあたりだけで現場が八件。どれも殺傷ざただ。極め付きは、青葉署内で地域課の巡査が課長の頭を撃ち抜いたことかな」
 「うそだろ」
 「そう願いたいよ。でもついさっき新聞社がネットに流してきた。だから取材するほうもたいへんだが、サツも救急も完全にパニクッてる。所轄だけじゃ限界があるから、近隣署が一斉に応援に入っている。戦場みたいだよ」
 「ゲリラ豪雨の取材のつもりだったんだけど、来てみてびっくりしたよ。こっちはとりあえず犯人を逮捕したみたいだね」
 「担任ともう一人の教師が心肺停止で運ばれている。まあ、持たないだろうな。犯人の子は、この近くのコンビニでも事件を起こしているみたいだ。そこでバイトしていた同級生の女生徒の顔と首をカッターで切り刻んだんだ。そのカッターと金属バットを持って五時過ぎに学校に乱入してきたようだ。いじめがあったなんて話もある」小谷はスマホを操作して、今回の事件に関して早くも立ちあがったネットのスレッドを松木に見せた。
 書き込みは残酷だった。人権なんてみじんも考えやしない。森野冨美香。容疑者である女子高生の実名がさらされ、彼女が清仁学園でどれほど陰湿な目に遭っていたか、さも自分が目撃したかのように赤裸々につづられていた。松木は不快な気分になった。「えぐいな。けどほんとかどうかはわからないよな」
 「たしかにそうだ。でも何人かの生徒から聞いた話とも大部分が合致する」
 「ジュースに消毒液入れたりするのは、殺人未遂だろう」
 「きのうまで親友と思っていた相手が、きょうになったらへいきでそんなことをする。恐ろしいよ。いまの子どもたちは」
 「進学校なんだよな、ここ。教師は見て見ぬふりだったのか。その意趣返しってことかな」
 「かもしれん。おれは246沿いのガソリンスタンドで爆発が起きたっていうんで、そっちの取材に駆りだされたんだが、急きょこっちに転戦するはめになった。あとは電話が鳴りっぱなしだよ。つぎからつぎへと新しい現場が出てくる。ぜんぶこの近くだし、みんな発生したてのほやほやなんだ。悪い夢なんじゃないのか。マジに。応援のクルーも来てるがはっきり言って手が回らんよ、これじゃ。なんていうかな街全体が殺気立ってる感じがする。戦場だよ。これ以上余計なことが起きないでくれるといいんだが」
 「手伝うよ。これで絵も撮れるし」父親の帰宅を待つ愛らしい顔を胸から追いやり、思いきって松木は申し出てスマホを掲げた。
 「本当か? じつはほんとに猫の手も借りたいぐらいなんだ。たすかるよ、サンキュ!」小谷の肉厚な手のひらが松木の華奢な肩をぎゅっとつかんできた。「ここから車で五分くらいのところに老人ホームがあるんだけど、そこで入居者が殺されたみたいなんだ。犯人はおなじ入居者らしい。そっちはまだ手つかずなんだ。いまだに共同通信の配信原稿でしのいでるだけだし、なにより絵がない。なんでもいいからホームの外観とか撮ってきてくれるとありがたい。メールで送ってくれたら報道に送信したりするのはやっとくから」
 「了解。ついでに話も聞いとくよ。どうせ他社も取材に行ってるだろうから便乗させてもらう」
 「もうしわけない。これからサツの現場レクがあるし、たぶん学校側が会見やるはずなんだ。それが終わったら、できるだけ早くそっちに向かう。ただ、こっちもちょっと気になることがあるんだよ」
 「気になる?」
 「うん。乱入してきた女生徒を昇降口で目撃したっていう生徒に聞いたんだが『目が見たこともないくらい青かった』っていうんだ」
 「目が青かった? 白人みたいな感じなのかな」
 「いや、瞳のことじゃないんだ。白目のところが青く血走っているみたいだったっていうんだ。なあ、まったくわけわかんねえだろ。まいっちまうよ」小谷は胸にたまりきったストレスに耐えかね、たばこに火をつけた。それを思いっきり吸いこむや、大量の紫煙をまるで煙突さながらに空に向かって高々と吐きだした。天頂では、恐ろしいほどのゲリラ豪雨などうそであったかのような満月が煌々と輝いていた。雲一つない。今夜雨が降ることはなさそうだった。「あと、あっちも気になるんだよ」そう言って小谷は肉づきのいい顎を、非常線の向こうに振った。
 いかにも捜査員という感じの白シャツに濃紺のスラックスの中年男が、正門のわきで電話をしているところだった。
 「警視庁回ってたころによく見かけた人なんだ」
 「警視庁の刑事も応援に来てるのか」
 「応援ってわけじゃないかもしれない。公安の人なんだよ」

 七
 7月25日東部時間8時21分(日本時間22時21分)
 米ヴァージニア州アーリントン
 西条は一睡もできなかった。
 霧に包まれたポトマック川を見下ろす高層マンションで夜が白々と明けていく。窓際のデスクに置いたパソコンは、二時過ぎに帰宅してからずっとつきっぱなしになっている。日本のいくつものニュースサイトがつぎつぎと更新されていくのをはらはらしながら見つめていたのだ。
 あざみ野周辺で通り魔から籠城事件まで二十四件の殺傷事件が起きていた。所轄でいうなら、青葉、緑、都築の各署管内だ。NHKのサイトには、あざみ野駅近くの交通がまひして帰宅客が道路にあふれるなか、まるでテロでも起きたかのようにパトカーや救急車がサイレンを鳴らしながら走り抜けていくようすが映しだされていた。
 検索ワードのトップはすでに「あざみ野」となっており、「アザミノ」を9.11など過去のテロ事件の呼称と並べる書きこみが増殖していた。狭い範囲でこれだけの異常事態が起きれば素人だってそう考える。
 防衛省の上司にも電話を入れてみた。反応は慎重だったが、依然として警察レベルのコントロールがつづいているようだった。「防疫チームの出動が検討されているかもしれないが、まだ聞こえてこないな……」上司は言葉を濁した。防疫チームは細菌化学兵器が使われた可能性がある場合に機動する部隊だ。しかし実働経験はまだ一度もなかった。
 国防副長官がおそらくこの件で緊急会議を招集したことを告げるべきか迷った。日本の国益のためならそうすべきなのだろうが、西条は会議の当事者でないし、じっさいに協議された中身も知らない。そんなあやふやな情報を伝えるのは、危険だし、なにより越権行為だ。スパイ容疑をかけられてもおかしくない。
 だが冷静に考えてどうだろう。サリンやVXガスは直接、人を攻撃するものだ。人を凶暴化させ、それによって被害を生みだす兵器など聞いたことがない。遺伝子組み換えで未知のウイルスを作りだし、それを脳に働きかけて覚醒剤常用者のような幻覚を引き起こすというのだろうか。まるで“ゾンビ・ウイルス”――すでにネットではその言葉が氾濫していた――だが、それでは大量殺りく兵器としては効率性に欠ける。いくら国防予算を湯水のように使える中国やロシアでもそこまでは手を出すまい。
 とはいえゲルドフたちがこそこそ動いているのは事実だ。それに関して日本政府が――防衛省が――情報を得られるかどうかは、まさにペンタゴンに送りこまれている西条の力量にかかっている。自分が対処しないといけないのはわかっているのだが、出向先のガチガチの官僚組織のなかで、最善の手法が見つからないのだ。
 たまらず西条はこの夜、帰宅してから三杯目となるコーヒーをドリッパーに落とした。マンションの裏通りでシリア移民の店主が細々と営むコーヒーショップの自家焙煎豆だった。店を構えてもう二十年になるというが、敬虔なイスラム教徒でもあることから、心ない者たちによって誹謗中傷を受け、くりかえし店を破壊されてきた。銃撃され、命を落としかけたことまである。それでもこの街の人々のために丹精こめて豆を煎り、うまいコーヒーを淹れつづけてきた。西条も一杯飲んだだけで魅了された。とくにいまのお気に入りであるフレンチローストの“アデン”は、脳の奥までガツンとくる魔法の豆だった。
 店主の祈りを頭にたくわえて西条はいつもより早く出勤した。居ても立っても居られなかったのだ。現在所属する防空システム構築部門の上司であるボーグマン大佐は、西条より二歳年下だ。北欧系の名門一族の出身で、ウエストポイントを出たものの実戦経験はほとんどない。いかにも官僚然としていて、軍人から政界に転向した父親のあとを追う決意に満ちている。それでも西条は、ボーグマンの出勤後、なにげなく日本で起きている局所的事件についての話を持ちかけてみた。
 「いまでこそ凶悪犯罪が増えましたが、日本は世界でも有数の安全な国です。そこでこれだけの犯罪が連続するというのはちょっと――」
 「アメリカの黒人社会並みだとおっしゃりたいのですか、テツ」仕立てのいいダークスーツがすらりとした長身にさまになるし、真っ赤なネクタイが北欧系特有の透きとおるような肌に映える。ペンタゴンのファッション・リーダーとしてはトップクラスだ。しかし出世コースでは外れかかっている。防空システムを構築するのは、本来的には技術者の仕事だ。そこに管理職としてポストを得たのは、人事部門としては、どこでもいいからやつの置き場所が必要だったからだ。ジャックが以前説明してくれた。政界に転向するかどうかはべつとして、上層部がボーグマンを重用するとは考えられない。軍事関連の適当な天下り先があれば、一刻も早く押しこみたいはずだという。
 「いえ、そうはもうしませんが」
 「一晩で殺人事件が二十何件でしたか」さすがはウエストポイントだ。すでに事態を把握していた。「フロリダあたりじゃ、たまにカウントされる数字ですよ」かなり盛った話のようだが、それでもさらりと言ってのけるあたりがボーグマンだ。
 「日本じゃ、まずカウントされないデータです。いろいろ考えてしまいました」
 「テロとおっしゃりたい?」ほんの一瞬、上司はパソコンから目をあげ、部下にいちべつをくれた。「日本がついに標的になったと」
 「ええ、まあ。ISの標的になることはないにしろ、北とはつねに緊張関係がつづいていますし、中国やロシアもある」
 「もしかして“ゾンビ・ウイルス”ですか?」ずばりと訊ねてきた。しっかりネットチェックしている。「細菌兵器の可能性があると?」
 「可能性は考えてもいいと思いますが」
 「想像するのは自由ですが、わたしは聞いたことがないな。その手の兵器は」目も合わせずに慇懃な口調で吐き捨てた。
 「もちろんわたしもです」とはいえ事態に注目する動きがペンタゴン内でもあるのでは? そう訊ねたい衝動を西条は必死におさえた。
 「一義的には日本政府が考えることでしょう。それについて出向者であるあなたが気をもむのは理解できます。ただ、テロなのかどうか、細菌兵器が使用されたのかどうか、すくなくともわたしには判断がつきかねますね。それに防空システム構築とは無関係だ」最後の部分を上司は強調した。つまり余計なことに首を突っこむなということだ。「なにかわかればすぐにお伝えしますよ」そう言って上司は話を打ち切った。
 可能性は二つだった。
 知ってて隠しているのか、傍流を進みはじめた者の悲哀としてたんになにも聞かされていないだけなのか。判断がつかぬまま西条は自分のブースにもどった。
 カレンからスマホにメールが入っていた。
 ヘンリー・グプタ。
 ウィリアム・カニンガム。
 前夜、自ら撮影したスマホ動画に映った入館証の番号から、名前を割りだしてくれたのだ。どういうルートを使うとそういう奥の手が可能なのかわからなかったが、西条はいまごろ夜勤明けの眠気をこらえて子どもたちを学校に送っている中尉に感謝のメールを返信した。
 しかし名前だけわかったところで、ゲルドフ主催の緊急会議に参加したCIA職員が何者なのかは判然としない。ここから先は西条が自ら調べねばならなかった。
 西条はカフェテリアに向かった。朝食をとるわけではない。陽射しがさんさんと降りそそぐ、だだっ広いフロアをぐるりと見まわし、端っこのトレー返却口のところにいる小柄なアジア系の中年男を見つけた。
 男のほうも西条に気づいた。三十メートルほど離れたところから小さくうなずいてくる。天井にはあちこちに監視カメラがある。表向き西条は、カフェテリア運営業者につかえるベトナム人のことなど知らないことになっていた。
 だがボートピープルの末裔であるグエン・クオックは、アニメとゲームをきっかけに日本文化のファンになり、いまはアーリントンの道場で剣道を習っていた。西条は、そこの師範に誘われて門下生を指導することがあり、グエンとも手を合わせることがしばしばあった。四十を過ぎて剣道を習いはじめたグエンだったが、飲みこみがよく、アジア人特有の反射神経の良さもあって、高校時代の部活動で二段を取ったままだった西条からきれいに一本を取ることもあるほどの成長ぶりだった。
 昼休み、西条はアーリントン墓地の反対側にある書店の地下のコミックコーナーにいた。和製コミックが豊富なことで知られ、アニオタたちでこの日もにぎわっていた。西条にこの手の趣味はないが、やむなく何冊か手に取って眺めるふりをしていると、うしろからグエンに声をかけられた。西条は黙って小さな封筒を手渡し、グエンは一瞬それに目を落として去っていった。
 西条は一人で近くのタイ料理店に入り、グリーンカレーチャーハンを注文した。グエンに“仕事”を頼んだときにいつも使う店だった。タイ料理に関しては東京はレベルが高いと言われるが、チャーハンに関してはそれに匹敵する味の店だった。ほかのメニューもおいしく、おそらくワシントンではナンバーワンだろうが、とかく味に鈍感なアメリカ人には不人気なようだった。
 だがこの日は西条も絶品の味を愉しめなかった。あざみ野のことが気になってしかたがない。三十分ほどしてグエンからメールが届いて、ようやく落ち着いて深みのあるシャンツァイの風味を味わうことができた。
 グエン自身はハッカーではない。しかしアニオタ仲間にはその手の連中が大勢いるらしかった。西条は、ヘンリー・グプタとウィリアム・カニンガムの二人の名前とカレンが撮影した写真をグエンに提示し、CIAの職員データベースを調べてほしいと依頼し、それが全米の――全世界かもしれない――どこかにいるハッカーたちに伝わったのだ。
 カニンガムは軍人あがりの職員で、かつては特殊部隊で中東任務についていた。いまはノースカロライナのフォート・ブラッグ陸軍基地にいる。経歴を見るかぎり、テロ対策はやっていそうだったが、化学兵器にかかわっているかまではわからなかった。
 グプタのほうは正式な職員ではなかった。協力員との立場で、八年前にカリフォルニアにあるNASAのエイムズ研究センターから移ってきたようで、それより前は大学の宇宙物理学の研究者だった。てっきり化学兵器の開発者かと思ったのだが、あてが外れた。ただ、NASAが国防にかかわっていることはだれもが知っている。その意味では衛星画像部門の責任者が呼びだされたというジャックの話とも符合する。だがやはり肝心の部分がわからない。
 西条はスターアニスをきつめにきかせたデザートの杏仁豆腐をきちんとたいらげてから店を出て、日本の知人に電話を入れた。人工衛星の軍事利用に関する防衛省の審議会で同席して以来付き合いのある宇宙航空研究開発機構(ルビ、JAXA)の幹部で、かつてNASAに出向したことがある人物だった。
 「一時間だけ時間をもらえますか」
 その言葉どおりきっかり一時間後にスマホにメールが届いた。それを西条はオフィスの自分のブースで開いた。
 ヘンリー・グプタはエイムズ研究センターでは変人で知られた。エイムズには、莫大な国家予算を使って地球外生命体の探索をつづけるセクションがあり、そもそもそんなところに配属される者はおおむね変人なのだろう。だがなかでもグプタは宇宙から地球に届くありとあらゆる電波を分析し、宇宙人からのメッセージを見つけだそうと本気で考えているようだった。カニンガム同様、いまはフォート・ブラッグ勤務だった。基地内となると、正式な手続きを経ないかぎり接触は困難だ。だがJAXA幹部からのメッセージには、グプタの連絡先として、カリフォルニアの電話番号が記してあった。NASA時代のものだろう。西条は職場の外からそこにかけてみた。
 女性が出た。インド系のなまりがある。夫が単身赴任している間の留守を預かる妻のようだった。
 「ドクター・グプタにうかがいたいお話がございまして」西条は日本のジャーナリストと偽り、携帯電話の番号を教えてほしいと頼みこんだ。ドクターの見解に非常に興味があるのです。なんならこちらにかけていただいてもけっこうです――。
 妻は西条が伝えたスマホの番号を復唱し、いちおう主人に伝えてみると言ってくれた。西条はグプタという元NASAの研究者が電話をかけてくれることを期待してオフィスにもどった。
 だがブースにもどるなり、ボーグマンが冷たい表情でやって来た。「テツ、ちょっといいですか」西条は無人の会議室に連れこまれた。ボーグマンは自分のタブレットを机に放りだし、いすにどっかりと腰かけて長すぎる足を派手に組んだ。不快なことがあったときに見せるポーズだった。
 西条は向かい側に座った。「なにか不都合でも」
 ボーグマンは深くため息をついてから両ひじを机について手を組み、身を乗りだした。「これがあなたがたのやり方だとは思いたくないですが、この国を見くびらないほうがいいですよ」
 喉元に苦いものがこみあげてきた。西条は唇をかみしめる。
 「奥さんに電話をかけたのは得策でなかった。彼女はあなたに言われたとおり、正直にご主人に電話を入れた。しかしそもそもグプタ博士のご自宅の電話は機密保持の理由から監視下にあった」
 「監視下……?」
 「いちいち説明しないでもおわかりですよね。ジャーナリストを名乗る人物が博士に連絡を取ろうとしている。そこで夫人に伝えられた電話番号を勝手ながらしかるべき部署が調べてみた。テツ、あなたの名義で登録されている番号でしたよ」
 ひるむつもりはなかった。そんなことならそもそもグプタと連絡を取ろうなんて考えはしない。「元NASAの研究者と連絡を取る必要があったんです。奥さんを驚かせたくなかったので、ジャーナリストとは名乗りましたが、本人から連絡があれば、きちんと名乗るつもりでした」
 「しかしなんでまた急にグプタ博士と? しかも博士は昨夜、この建物を訪れている。ある会合に出席するためにね」ボーグマンはゲルドフ副長官の会合について最初から知っていたのだろうか。それとも部下である西条による越権行為が盗聴セクションの調査によって判明したあとで知らされたのだろうか。「その会合というのは、あなたも知ってのとおりの内容だった。アザミノですよ。だがあなたには事情は伝えていない。それをあなたがどうやって知り、どのようにして博士にまで行きついたのかきちんと説明していただけますか」
 「いまアザミノとおっしゃいましたよね」西条は右手の人さし指を立てて気持ち集中した。「日本での出来事なんです。調べないわけにいかない」
 「勝手な行為は慎んでいただきたい。はっきり言えばスパイ行為にあたる。軍法会議ものだし、終身刑にも値する」淡々とした口調ながらエリートならではの棘のあるもの言いだった。「外交関係にもひびを入れることになる」
 クリアブルーの瞳で射貫くようににらみつけられ、さすがの西条も目を机に落とした。ちくしょう。だからといって指をくわえていたら日本での被害がどこまで拡大するか知れたものではない。「わかりました、大佐。あなたに迷惑をかけたことはあやまります。勝手なまねをしてしまった」
 ボーグマンはばかにしたようにふんと鼻を鳴らした。この国の西欧系の住民がアジア系に対して見せる侮蔑の態度だった。西条は怒りを通りこして失望をおぼえた。だがそんな感慨に浸っている場合ではない。上司をなんとか説得しないと博士に接触できないのだ。「でも大佐、これは緊急事態なのではないですか」
 ボーグマンはもう一度鼻を鳴らした。こんどのはいささか派手で、不愉快さを表現したというより、くすりとするのを押し隠したかのようだった。そして素早い操作でタブレットを立ちあげ、画面を西条のほうへ向けた。「緊急事態かどうかはわたしには関係ない。あなたが指揮命令系統を逸脱したことを問題視しているだけです。さて、わたしはこれからべつの打ち合わせがあります。このタブレットは三十分後に回収しますから、ここにそのまま置いておいてください。では」そう言い残し、上司は立ちあがった。
 西条はわけがわからず、タブレットとともに会議室に取り残された。やがて画面が切り替わり、硬い表情のままこちらを見つめるインド系の男が出現した。西条は首筋がかっと熱くなるのをおぼえた。ひどい自己嫌悪とあまりの恥ずかしさに赤面しているのが相手に伝わらなければいいのだが。期せずして西条は狼狽した。
 ボーグマンはスカイプをセットしておいてくれたのだ。

 八
 7月25日22時23分
 東京都新宿区曙橋
 夕食用に買ったお弁当をさげたまま奈央は、曙橋にある聖レジス医大病院の夜間通用口に飛びこんだ。パトカーが二台、浜辺で不吉な姿をさらす海獣のように並んでとまっていた。兄の文彦から連絡があったのは四十分ほど前、奈央が武蔵小山駅前のコンビニから出てきたときだった。独り暮らしのマンションにそのまま帰るわけにいかなくなり、あわてて電車に乗りなおしたのだ。
 照明が落とされた一階のホールには、制服姿のおまわりさんが四人もいた。いずれもじっと押し黙ったまま無線に聞き入っている。奈央は面会の手続きをする間に手が震えてきてまともに字が書けなくなった。警察官が醸しだす威圧感が、義姉(ルビ、あね)の容態を聞きたい気持ちより聞きたくない気持ちのほうを募らせる。文彦からは「圭子が車にはねられて病院に運ばれた」と聞いただけだった。その後、兄はメール一つよこさない。きっと勤務先の銀行から残業を切りあげてこっちに向かったのだろう。
 圭子は兄より四歳年上の三十六歳。新宿の旅行代理店に勤めている。子どもはいない。突っこんだ話はしたことはないが、夫婦ともにいまは仕事を最優先に考えているようだった。だから義姉も夜遅くまで営業職としてあちこち飛びまわっている。取引先の接待にも率先して参加しているという。それで出先で事故に遭ったのだろうか。
 看護師に指示されてエレベーターで六階にあがったところで、文彦を見つけた。談話室で会社かどこかに電話を入れ、声を震わせながら妻の容態を伝えているところだった。奈央に気づくや、電話を切り、目をつりあげてにらみつけてきた。まるで奈央が妻をはねたかのようだったが、それは正気を保つために自らを鼓舞せねばならなかったからのようだった。
 「たいへんなことになった」談話室にはほかにも入院患者らが何人かいたが、文彦は気にとめるだけの余裕もなく、張りつめた声をあげた。「信じられないよ。こんなことが起きるなんて。いったい――」
 「落ち着いて、おにいちゃん。圭子さん、どうなの、車にはねられたって」奈央は、うろたえる兄の背中に手をまわし、やさしくさすった。
 「……あぁ、さっきICUから出てきたところだ。MRIも撮ったが、脳はだいじょうぶみたいだ。軽い脳震とうらしい。でも骨盤と大腿骨が折れてる。全治三か月だって」
 「命に別状はないのね」動揺を押し隠して奈央は確認につとめた。
 兄はすがるような目で妹を見て小さくうなずいた。「さっき骨の手術をするんで全身麻酔をしたんだ。それがまだ効いてて眠っている……あぁ、だめだ。いったいなんなんだよ、これは――」
 奈央は正気づかせるように兄の腕をぎゅっと握った。「どこではねられたの」
 文彦は青ざめた顔で言った。「会社のビルの真ん前だって。エントランスからいきなり通りに飛びだしたらしい。そこにタクシーが突っこんできた。二十メートル以上跳ね飛ばされたみたいだ」
 廊下の奥の個室の前におどおどした感じの若い制服警官が一人立っていた。圭子はそこにいた。下半身が固定され、頭には包帯が巻かれている。頬も鼻も唇もガーゼがあてられ、茶色く血がにじんでいる。それでもだれもが振り返る小ぶりの愛らしい丸顔が、アスファルトにこすりつけられて挫滅しているなんてことはなかった。脳に損傷はないようだという。義姉の姿を現実に目にして、言い知れぬ不安からようやく奈央はすこしだけ解放された。だが夫が取り乱しているのはちがう理由からのようだった。
 「飛びだしてきたって、どういう状況だったの」
 「会社の後輩を追いかけていたって言うんだ。まったく、わけがわからないよ」
 「わたしたちだってそうです」
 背後で女性の声がした。振り向くと、扉のところにグレーのスーツ姿の五十がらみの女性が心配そうに立っている。ジャケットの襟元にさしたバッヂで圭子の会社の人だとわかった。
 「営業三課の風間ともうします」名刺を差しだしてきた。
 「圭子の課の課長さんだよ」すこしだけ落ち着きを取りもどし、文彦が紹介してくれた。「あと、そちらが――」風間杏子の背後にそっと立つ中年男のほうに手を広げた。「四谷署の方」
 「刑事課の西端です」奈央は名刺を差しだされた。刑事課……? どうして交通課じゃないのだろう。
 その疑問には風間課長が答えてくれた。すでに聞かされている話らしかったが、それでも文彦は何一つ聞きのがすまいと真剣な表情で耳を傾けた。
 「夕方五時半ごろだったと思います。オフィスで悲鳴があがったんです。そしたらバタバタって人が倒れる音がして……圭子さんがおなじ三課の大塚さんという女性社員の上に馬乗りになって、ハサミを振りまわしていたんです。みんなあっけに取られました。あたり一面、みるみる血の海になって。首を刺していたんです。何度も何度も」
 奈央は耳を疑った。首を……刺していた……?
 義妹の動揺を無視して課長はつづけた。「たぶん時間にしてものの十秒かそこらだったと思います。圭子さん、外回りからちょうど帰ってきたところでした。それでふらふらっと立ちあがって、こんどは女子更衣室に近づいていきました。ハサミを持ったままですよ。そしてドアを開けるなり、また悲鳴が聞こえて……勤務を終えて帰る子が二人、野口さんと川床さんが着替えていたんです。そのときには男性社員がそっちに飛んでいってくれたんですけど間に合わなかった。野口さんはすでに胸を刺されていた。三人の男性社員が圭子さんを取り押さえようとしたのですが、ハサミを振りまわすものだから……。そのうち川床さんが泣きながら飛びだしてきて、圭子さんも男性社員たちを振りきって彼女を追いかけた。オフィスの外にです」
 「オフィスは二階ですが、目の前がエスカレーターになっていましてね」西端があとを次いで説明した。「圭子さんは川床さんを追いかけてエスカレーターを走りおりた。そして道路に飛びだした」
 タクシーにはねられて圭子は重傷を負った。しかし勤務先では、一人が失血死し、もう一人が胸に肺まで達する傷を受け、あやうく命を落とすところだったのだ。いずれも圭子の後輩で、勤務を終えて子どもを保育園に迎えに行くところだった。つまり圭子は交通事故の被害者である一方で、殺人、および殺人未遂事件の被疑者だったのである。制服警官が病室の前や一階に配置されていたのはそのためだったのだ。
 風間が説明する。「圭子さん、きょうは何件か得意先を回っていたんです。手分けして電話して確認してみましたが、仕事中はとくに変わったようすはなかったみたいです。いちおうバッグの中身とかもたしかめてみたんですが――」そこまで口にして風間はちらりと奈央の顔色をうかがった。危険ドラッグでも使ったと思っているらしい。状況を考えればやむをえない想像だ。奈央が先をうながすと風間は話をつづけた。「めぼしいものは見つかりませんでした。ドコモショップの修理受付票が入っていました。スマホが故障したらしく、帰社する前に立ち寄ったみたいです」
 西端が文彦に告げる。「いまのままでは、たとえ圭子さんが目を覚ましてもすぐに事情を聞くのは難しいでしょう。しかし身柄は警察があずかっていると思ってください。容態が回復しだい逮捕します」文彦はやはり目をしばたたかせるばかりで、事態をあえて飲みこみたくないかのようだった。「ただ、みなさんには順次、お話をうかがいたく思います。ご協力いただけますでしょうか。病院側に無理を言って、このフロアの会議室を借りました。取り急ぎそこで事情をうかがい、調書も取らせていただきたく思います」西端は別室に移るよううながした。
 文彦は妻のそばにいるべきか戸惑った。しかしすくなくとも義姉は命に別状はない。奈央は自分がここにいる役割を考えた。「だいじょうぶよ、おにいちゃん。わたしがここにいるから。なにかあったら連絡するわ」それで兄も風間課長も西端のあとについていった。
 病室には若い警察官と奈央が残された。「ごくろうさまです」奈央が小さく告げると警官は会釈して、居づらいかのように病室の入り口のところで廊下のほうに顔を向けた。奈央はベッドに近づいた。
 圭子の呼吸は安定している。枕元に映しだされるモニターも血圧や脈拍数や体温が落ち着いていることをしめしている。だがギプスに固定された下半身も傷だらけの顔や頭も見るにしのびなかった。なにかというと子どものころから内にこもりがちだった奈央とちがい、文彦は中学、高校と野球部のキャプテンだった。リーダーシップがあり、社交的でみんなから頼られていた。圭子はそれにひけを取らぬぐらい明るく、姐御肌なタイプで、周囲の信頼も厚かったはずだ。それがなぜ――。
 奈央はベッドの柵を両手でつかみ、傷ついた顔をのぞきこんだ。血のりと崩れたファンデーションが混じりあっているが、表情は穏やかそうだった。
 目がかすかに開いている。気づいたのだろうか。だが顔の前に手をかざしてみても反応はない。眠っているあいだに自然とまぶたが開いてしまったようだ。
 奈央は首をかしげた。
 最初はマスカラが落ちてにじんでいるのかと思ったが、そうではなさそうだった。黒目はまぶたの裏に隠れていたが、露出している白目部分がひどく黒ずんで見えた。黒ではない青っぽかった。
 若い警官はまだ廊下のほうを向いていてくれた。圭子は義姉の顔にそっと手をのぼし、指先ですこしだけまぶたを押し開いてみた。こんなの見たことがない。静脈がむくれあがって鬱血しているかのようだった。医者は脳に異常は見られないというが、いまになって病変が表に出てきたということもある。
 そのときだった。
 電流のような衝撃が指先から脳髄に突き抜けた。
 たまらず奈央は圭子の顔から手を放した。指先にぴりぴりする痛みが残っている。頭がすこしくらくらした。看守役の若い警官がちらりと目を向けてきたが、すぐに廊下の警戒にもどった。義姉の容態をチェックするのは彼の仕事ではない。殺人事件の容疑者に無関係の面会者を近寄らせないこと。それこそが任務だった。
 奈央は両手の指先をこすりあわせた。いまのはなんだったのだろう。ふだんの施術で感じとるものとは桁外れの抵抗感だった。それは奈央の指先を拒絶しているようでもあったが、本心では救済をもとめているのではないか。義姉は職場の後輩を一人殺害し、もう一人に重傷を負わせたのだ。心の平衡状態が崩れ、荒れた外洋の難破船のように感情の嵐に翻弄されていることだろう。それが奈央の指先のセンサーと同期したのだろうか。
 もう一度ドアのほうをチェックする。若い警官は完全にこちらに背を向けていた。あまりちらちらと様子をうかがうのはしのびないと思っているかのようだった。奈央はベッドに向きなおり、気持ちを集中させた。圭子のなかに苦悩が詰まっているのなら、それを吸引してあげないと。記憶をすっかり奪ってしまうのなら、その後の取り調べにも影響が出ようが、奈央の施術は苦しみを除去するのが目的だ。捜査の妨害にはなるまい。
 包帯を巻いた頭の側面、ちょうど耳の周囲の頭蓋骨あたりに十本の指をそっとあてがう。どこをけがしているかわからないので、力はくわえないようにしよう。さっきの衝撃を考えれば、軽いタッチでも同期し、なかに分け入っていけるはずだ。
 それはすぐにやってきた。
 さっきよりもずっと鋭い痛みが指先に入ってくる。最初にやって来たのは恐怖の波だった。ふだんの施術のときとはあきらかにちがう。だが逃げるわけにいかない。奈央は指先に気持ちを集中させ、すこしずつ動かしながら後頭部の継ぎ目を探った。圭子のまぶたがかすかにけいれんする。痛がっているのかしら。でもすぐにすむから。Y字形の継ぎ目をようやく感じとることができ、やさしく力をくわえていく。指先が頭蓋骨をつらぬくなり、圭子が放つ心の痛みが強まり、奈央は爪のわきにできたささくれをペンチで無理やり引きはがされるような耐えがたい疼痛をおぼえるようになった。それでも指を義姉の頭のなかに沈めていく。やがておびえたように硬直した球体を両の手のひらの内に包みこむ。
 津波のようにイメージが流れこんできた。

 奈央はスチールのロッカーが並ぶ小部屋にいた。
 「リコちゃん、どうするの? きょう」
 背後で声がした。ロッカーの前に制服から私服に着替える二人の若い女がいた。
 「友だちが来てるの。ご飯食べるんだ。サナエは?」
 「映画見てくる」
 「一人で?」
 「へへ……」

 圭子の背中が見える。会議室のような場所で風間課長と話している。
 「わたし、もうそろそろ限界です。好きでつづけている仕事ですけど、なんだか最近、あの子たちがやるべきことをかわりにやってあげてるだけみたいな感じがして」
 「わかるわ。ただ、こういう時代だし、あの子たちの事情も考えないわけにいかないのよね、会社的に」
 「時短勤務っていう制度は理解できますよ。でもじっさいはどうなんですか。仕事を早く切りあげて、まっすぐ保育園に子どもを迎えに行くのならわかります。だけどあの子たちはそうじゃない。制度を悪用して遊びに行ってるんですよ」
 「それはわからないわ」
 「いや、そうなんです。あの子たちが話してるのを聞きましたから。保育園は何時に迎えに行ってもいいところなんです」
 「たまにはそういう息抜きみたいなことだってあるんじゃないの……」風間は圭子をなだめようとした。しかし圭子にとっては、ごまかして逃げようとしているとしか感じられない。
 「そんなのダメですよ。時短勤務っていうのは、遊ぶ時間を増やすためじゃないんだし。そんな人たちがやり残した業務をどうしてこっちが尻ぬぐいしてやらないといけないんですか」圭子は立ちあがり、上司に指を突きつける。「おかしいですよ、こんなの!」

 圭子は白衣の女性と話していた。診察室のようだった。
 「じゃあ無理なんですか」圭子は声を震わせながら訊ねる。
 「無理かどうかはわかりません。ただ、あなたのようなケースの場合、うちのクリニックでは成功した事例がまだないんです」
 「年齢的にはまだだいじょうぶなんですよね」
 「ですから以前もお話ししたかと思いますが、あなたの場合、年齢的な事情で左右されるものでは……」

 雨。
 ものすごい雨だった。
 奈央はあわてて雨宿りできる場所を探し、コンビニの軒下に駆けこんだ。駅前だった。駅名の看板が見える。あざみ野だ。そこへずぶ濡れの女がやって来る。
 圭子だ。
 義姉は腕時計を見やる。午後三時十三分。営業先からの帰りのようだった。濡れた手でスマホをつかみ、電話をかけようとするが通じない。スマホの画面が消えてしまっている。雨でやられたらしい。疲れきり、悄然としている。
 たすけてあげないと……。
 奈央は義姉に近づき、そっと手をのばす。同期して心の澱を吸いだしてやるのだ。
 そのときだった。
 若い男が目の前にあらわれた。奈央が圭子に近寄るのをさえぎるようにして割りこんでくる。奈央は若者のわきに回りこみ、その顔を見る。
 白人の青年だった。
 こんなひどい雨だというのに、ウェーブのかかったブロンドヘアはさらさらしたままだった。まだ十代だろうか。肩からさげたビニールストラップには金属の小箱がつりさげられている。
 「だれなの」訊ねてみたが返事はない。かわりに射貫くような視線を奈央に向けてきた。頬に大きなほくろがある。近づこうとしたとき、奈央は強烈な痛みを両腕全体におぼえた。鉈で切断されたかのようだった。たまらず奈央はのけぞり、顔をそむける。

 奈央は呆然と眺めていた。
 圭子は若い女――だれかいい人と映画を見に行ったサナエ――に馬乗りになってハサミを振るっていた。そして血の海のなか、ロッカールームへとふらふらと近づいていく。

 「だいじょうぶですか」
 声をかけられ、奈央は正気づいた。白い麻のジャケットに濃紺のニットタイをした口ひげの男がじっとこちらを見ていた。先ほどの西端の同僚だろうか。まるでいたずらをとがめだてするかのようだった。たしかに奈央は包帯を巻いた入院患者の頭を両手で抱えているところだった。
 「あ……いえ……」しどろもどろになって奈央は義姉の頭から手を放した。「義理の姉なんです。心配なのでようすをたしかめていたんです」
 男は監視係の若い警官の顔をちらりと見てから言った。「まだ麻酔が効いているのではないですか」年齢の割にきらきらと若々しく輝く瞳をしている。「骨折の手術は成功したし、とくに心配はないと聞いています」
 「警察の方ですか」
 男はだまってうなずき、警視庁の身分証明書を見せた。「ご相談したいことがありまして」
 「相談……」
 「圭子さんの目が覚めしだい、面倒ですが病院を移っていただきたいのです」
 「移る……? どういうことですか」
 「手続きはすでに取ってあります。お義姉さんはただの入院患者とはわけがちがう。そういう意味で、ぶしつけながらおねがいしているのです」
 「すみません。よくわかりませんが、そういうお話でしたら、圭子さんの夫である兄に直接していただけませんでしょうか。わたしが返事をするわけにいきませんので。たしかこのフロアの会議室でべつの刑事さんから事情を聞かれているはずですが」
 男は小さく鼻を鳴らしてから若い警官の顔をもう一度見た。「その点はご心配なく。のちほどわたしのほうから伝えておきます」
 奈央には男の真意がよくわからなかった。男はどこか急いでいるようすだった。
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