第2話

文字数 806文字

 Tが微分積分の重要性をくどくどと説いた日があった。夏休みが始まってすぐ、Tが家庭教師として私の横に座るようになって一週間がたった頃だった。道路のアスファルトもとろとろに溶けるんじゃないかと思うほど暑い日だった。
 微分積分から、いかに数学が、数学的考え方が人生には重要かという話まで、Tは熱を込めて私に話していた。頭が良い人は数学が得意だ、とまで言った。
 私は右から左に話を聞き流しながら、ノートをコツコツと叩くTの手を見つめていた。
 右手中指の左側面がぷくりと膨れた豆のようになっているのは、ペンの持ちすぎ勉強のしすぎだろうか。太く青い血管が透けて見える甲と、綺麗に切り揃えられた薄桃色の爪の対比が美しかった。
「先生の手、男だね。すごく綺麗」
 私はノートを叩いていたTの手に、思わず、本当に思わず、自分の手を重ねてしまった。
 Tの手がぴたりと止まった。話も止まった。口を閉ざして、数秒、じっとしていた。Tの手の甲の冷たさが、私の手のひらに伝わった。
 次の瞬間、Tは、私の手の下から逃げようとした。とっさに私は、Tの手を思い切り力を込めて抑え込んだ。私の手と机に挟まれて、Tの手はもがいた。ばたばたうんうんと、もがいた。
 Tの大きな手は、私の手の下から逃げた。
 沈黙が、勉強部屋に流れた。私は汗をかいていて、自分のしでかしたことに唖然としていた。エアコンが冷風を吹き出す音が、やけに大きく聞こえた。
 先生、ごめんなさい、そう言おうと思って、机の上にあった視線を無理矢理Tに向けると、Tは俯いて、眉間に皺を寄せていた。
「この問題、解いて」
 Tは、私と視線を合わさないまま、感情のこもっていない声で言い、数学の問題集を乱暴に広げた。ぱさぱさと紙が音を立てた。
「先生、数学は得意だけど、女は得意じゃないのね」
 ごめんなさいの代わりに、私の口から出た言葉はそれだった。
 Tは何も言わず、窓の外で蝉がうるさく騒いでいた。
 


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