文字数 4,230文字

 翌日萩原が部長室に呼び出されたのは、営業が始まってすぐの九時五分だった。
「──萩原くん、今回のことは実にきみらしくなかったね」
 部長室の大きなデスクの席に着き、本田(ほんだ)本店営業部長はしかめ面をした。
「申し訳ありませんでした」
 前に立った萩原は深々と頭を下げた。「処分は覚悟しています」
「それなんだがねえ、萩原くん……米倉くんが頑としてきみの降格を求めて引き下がろうとしないんだ。いくらきみの方が役職が上とは言え、五年も先輩の自分を殴るとは許せないとね。そんな人物は係長に相応しくないと、そう言い張るんだよ」
「米倉主任のおっしゃるとおりだと思います」
「いや、だからと言うてそう決めたわけやないんや」
 同席していた貸付二課の斉藤(さいとう)課長が言った。「あのときは私もフロアにいたが、米倉くんもきみにいろいろと言うてたみたいやし」
「はあ」
「それで、これまでのきみと米倉くんとの様子を他の行員たちにも聞いてみたんだ。山本くんとかね。そうしたら、きみも今までいろいろと我慢させられていたということが分かってね」部長は言った。
「でも、だからと言うて暴力はいけなかったと思います」
 萩原はあえて謙虚な姿勢に出た。別に降格させられても構わないと思った。今までがちょっと早すぎたのだ。
「そこでだ、萩原くん。せっかく人よりも早く係長になったんだから、ここできみを内輪のもめ事で降格させてしまったのでは、将来のあるきみにとっては大きなマイナスだろう。きみの能力に大いに期待している私としても残念だ」
「……ありがとうございます」
 嘘をつけ。在任中に降格者を出したんでは、自分の出世に響くからや。萩原には部長の腹が読めていた。
「福岡へ行ってくれるか」
 部長は唐突に言った。
「あ、はい」
 萩原も咄嗟に返事をした。
「博多支店や。最近、向こうの貸付係長が交通事故に遭うてな。どうやら長引きそうなんで、早急に人員を補充してくれと人事に言うてきたらしい。何しろ福岡では最大店舗やから、めっぽう忙しいんや」課長が説明した。
「分かりました」と萩原は頷いた。「それで、いつからですか?」
「向こうは一日も早くって言ってきてるらしいんだが、こっちにも引き継ぎがあるからね……」
 部長は考え込んだ。「まあ、来週一杯でこっちの仕事を片付けてもらって、その次の月曜からと返事しておくよ。辞令は明日にでも出るだろうがね」
「分かりました。ご面倒をお掛けして申し訳ありません」
「早くて半年──遅くとも一年で呼び戻すから」
「なに、きみやったら向こうでもすぐに馴れるよ」課長が言った。「きみは人当たりがええからな」
 そう思ってると今度はあんたが殴られるでと、萩原は心の中で舌を出した。

 部長室を出た萩原を待っていたのは山本だった。
「どうやった? やっぱり降格か?」
 萩原は首を振った。「博多支店やて」
「そうか……」
「おまえ、部長らに俺のフォローしてくれたんやて?」
「殴ったのはおまえやけど、悪いのはあのおっさんやからな」山本は腹立たしげに言った。「青山も言うてくれてたぞ」
「いろいろ悪いな」
「気にすんなよ。で、いつからや?」
「再来週の月曜からや。来週一杯は大忙しやな。おまえにも引き継ぐことがあるやろうし」
「萩原……」山本はじっと萩原を見つめた。「おまえ、ほんまにそれでええんか?」
「サラリーマンがいちいち転勤を嫌がっててどうする?」
「けど、向こうには何のおとがめもなしやぞ。喧嘩両成敗って言うやないか」
「向こうのことなんてどうでもええんや」萩原は言った。「この街から出られるんなら、俺はそれでええ」



 その日の午後、萩原より一足先に大阪をあとにしたのが一条だった。
 宝石強盗事件は思わぬ結末に終わり、一条はまたしても自分の手で犯人を挙げることができなかった。それどころか、容疑者全員死亡という最悪の結果を招いたことで、帰ってからの彼女には極めて厳しい事態が待っているに違いなかった。
「──二週間近く前にここへ来たのが、遠い昔のように思えるわ」
 新大阪駅の新幹線上りホームで、一条は懐かしそうにあたりを見渡しながら言った。「ホームに降り立ったとき、みんなが敵に見えちゃって」
「今はどうなんだ?」と芹沢は訊いた。「みんなお友達に見えるか?」
「さあ、どうだか」一条は肩をすくめた。
「まあ、おたくはそんな単純なタイプじゃねえよな」
 一条は小さく笑ったが、どこか虚ろな笑顔だった。
「……鍋島くんによろしくね。彼にもいろいろ言っちゃったけど、感謝してるって」
「ああ、言っとくよ」
 列車の到着時間が近づき、ホームにいた人々は足下に書かれた乗降口を示す番号の前に列を作り始めた。芹沢と一条はもう話すことが思い当たらず、黙ってホームの先を眺めていた。
 やがて新幹線の姿が現れた。夏の光に反射した車体が陽炎の中に揺れ、ゆっくりとこちらへ近づいてくる。頭上のスピーカーからアナウンスが流れた。
 一条は芹沢に振り返った。「……じゃあ」
「元気でな」
「ねえ」
 いくぶん切迫した声で一条が言った。
「ん?」
 逆に芹沢は落ち着き払った様子で一条を見た。
「……わたしが、本気になったって言ったら?」
 芹沢は一条を見下ろした。無感情な顔だった。「何のことだ」
「……あなたのことよ」一条は戸惑い気味に言って俯いた。「ずっと……頭から離れないの」
「なに言ってんだよ」と芹沢は鼻で笑った。「恋人が首を長くして待ってんだろ。出張先での遊びのことなんか、さっさと忘れちまえよ」
「遊びなんかじゃなくって──」
「おい、どうしたんだよ急に」
 芹沢はやれやれとばかりに溜め息をついた。 「もたもたしてたら乗り遅れちまうぜ。そうなったら俺が課長に文句言われるんだよ」
「あなたはどうだったの?」
「いいから、乗れよ」
 芹沢は一条の背中を押して列車に乗り込ませた。中に入った彼女は乗降口に立ったまま振り返った。
「あのとき、少しでもわたしを──」
「それを訊いてどうなる? 今さらどっちだっていいじゃねえか」
「いやよ。わたしやっぱり──」
 足下に置いたボストンバッグを取り、一条はホームに下りてきた。
「やめてくださいよ、警部」
 芹沢は彼女の肩を掴んだ。そしてゆっくりと押し戻し、口の端に少しだけ笑みをたたえて言った。「下っ端をいじめないでくださいよ」
 一条は眉をひそめた。「……そんな言い方しないで」
「いいえ、これが正しい接し方なんです」
「だったらせめて、ちゃんと答えて」
「何をですか?」
「あの夜のことよ」
 そう言った一条の瞳は、微かに潤んでいた。
「そりゃあもちろん──」
 芹沢は顔を上げた。そして白けた眼差しで一条を見た。
「傷ついてるあんたを慰めた、ただそれだけです」
 直後にドアが閉まり、列車は動き出した。

 駅を出た芹沢が停めておいた車へ戻ると、そこには鍋島がいた。
「来てたのか」
「ああ、ちょっと息抜きに」
 助手席のドアにもたれかかった鍋島は言った。
「お荷物が帰ったぜ」
「嘘つけ」鍋島はにやりと笑った「名残惜しかったくせに」
「別に」芹沢は車に乗り込んだ。
 エンジンを掛け、後ろから通り過ぎていくタクシーの流れの切れ間を伺っていると、隣に乗り込んだ鍋島がぽつりと言った。
「マジやったんやろ」
「何のことだよ」
「とぼけるな。彼女のことや」
 芹沢は窓の外を見たままだった。「……男がいるんだぜ」
「身を退いた、ってわけか。おまえらしくもないな」
「どうせあっちもすぐに忘れちまうさ」
 そう言うと芹沢はハンドルを切った。



 学生たちの論文を読み終えた麗子が寝室に入ってきたとき、鍋島はベッドに沈んで寝息を立てていた。
 麗子が近づくと、彼は寝返りをうった。額にうっすらと汗を掻き、洗い髪をくしゃくしゃにしてブランケットにくるまっている。
 昼間チンピラを署に連行するときに殴られたという傷が、左の目尻に青痣となって残っていた。
 不思議なものだな、と麗子は思った。十年近くの間にすっかり見慣れたはずの顔だったが、よく見ると気づかなかったことが意外にも多いのに驚かされた。  
 ガキ大将がそのまま大人になったような頑固そうな顔で、男のくせに年相応に見られないなんてちょっと恥ずかしいことだと思っていたが、こうしてじっくり見るとそうでもなかった。自分とは憎まれ口を言い合っていた間に、すっかり大人の男になっていたんだなと、麗子は鍋島の顔をじっと覗き込んで感慨に(ふけ)った。

 鍋島が目を覚ました。麗子をじっと見つめ、そのまま向き直った。そしてブランケットから手を出すと、彼女の手に重ねた。
「人が仕事してんのに、いい気なもんね」
 麗子は微笑んだ。
「俺も昼間は働いてたよ」
 鍋島は欠伸をして目をこすった。「明日の休みも、二週間ぶりや」
「だからって、何の前触れもなく来ないでよ」
「おまえもこの前そうやったやろ」
「そうだった?」と麗子はとぼけて笑った。「着替えたら? 食事に出ましょうよ」
 鍋島は起き上がって、そのまままた麗子をじっと見つめた。
「何よ。顔に何かついてる?」
「いや……」
「じゃあ何よ。何か言いたいのね」
 鍋島は小さく首を振り、溜め息をつきながら俯いた。
「勝也?」
「……いや、ええんや」
 そう言った鍋島を見て、麗子も呆れたように溜め息をついた。
「そうね。まだ言わない方がいいかも」
「えっ?」
「そうやって迷ってるうちは、口にしない方がいいってこと」
 潔い口調で言うと麗子は立ち上がった。
「大丈夫よ。あたしはずっと勝也のそばにいるから」
「うん」
 鍋島は素直に頷いて、それから照れ臭そうに笑った。
 麗子はそんな鍋島を見つめると、自分も嬉しそうに笑って、もう一度彼のそばに腰を下ろした。
 どちらからともなく顔を近付け、唇を合わせると、鍋島は麗子の頬に手を添えてゆっくりと撫で、そのまま頭を抱きかかえるようにしてベッドに倒れていった。
「ごはん、行かないの……?」
 麗子が囁くように訊いた。
「その前に、ちょっと……

の飢えを満たしてから」
 鍋島は麗子のブラウスの胸元に手を伸ばしながら答えた。

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