十二~十四

文字数 20,833文字

 十二
 10時32分
 東京都港区汐留
 突如目の前にあらわれた女性にこれほどまでに心をかき乱されるとは思わなかった。彼女から聞かされた話を理性ではきちんと受けとめているのだが、混乱の波は松木のなかで静かにうねったままだった。妻の紗英を見舞った事態はそのままいまの松木の仕事につながっている。あんな不幸をだれであって経験してほしくない。それで三十歳で一念発起して気象予報士になったのだ。
 あの悲劇について知る者は、身内や当時所属していた劇団のごく親しい関係者以外にはいないはずだ。それをずばりと言いあてられるなんて。気象にまつわるすべての事象が科学で解明できると思っている身からすれば、超常現象なんてものは思考の埒外にある。だが水城奈央という女性が明かしたのは、松木が口外してこなかった秘密であり、二度と癒えることのない生傷だった。それが暗い水底からすくいあげられ、春のやわらかな日差しのような温もりに包まれて、信じがたいことに完治したかのようだった。もちろんあの出来事を忘れたわけでないし、紗江との思い出はいまでも松木のどまんなかにある。なにより忘れ形見の晋治がいるからだ。とはいえ奈央がなしたこと、その能力は、認めないわけにいかないし、苦悩に満ちあふれたこの世のなかできっと役にたつものだろう。
 とりわけあざみ野にまつわる一連の事件を解明するうえで、貴重な情報をもたらしてくれるかもしれない。松木はあらためて奈央の義姉が引き起こした殺傷事件について訊ねた。
 「もしかするとお義姉さんにも施術をされたのですか」
 「そうです」
 「それであざみ野でゲリラ豪雨に遭ったことが見えたというわけですか。その後の事件のことも。お義姉さんの心を読んだということは、動機のようなものもわかったのですか」
 「一つには、子育てを理由に時短勤務になっている若い子たちの仕事を押しつけられていたということがあります。その欝憤が彼女たちに向かったようです。亡くなった方のことを悪く言うのはよくないとは思いますが、その子、たしかサナエさんという同僚かと思いますが、どうやら時短制度を悪用して不倫をしていたみたいなんです」
 「不倫……? それをお義姉さんは知っていた」
 「たぶんそうなのだと思います」奈央はショートカットの髪を片手でなでながら言った。「それともう一つ、義姉自身も事情を抱えていた。妊活していたんです。でもどうもうまくいっていないみたいで、絶望感にさいなまれていた」
 「なるほど。すでに子育てをはじめている年下の同僚への嫉妬心があったのかな」
 「きっとそうだと思います。でもだからといって義姉は見境もなく刃物を振りまわすような人間じゃないですから」
 松木は清仁学園二年の森野冨美香の一件について思いだしていた。彼女は学校で同級生からひどいいじめに遭っており、その中心にいたとおぼしき同級生をバイト先にまで押しかけて刺殺している。そればかりではない。すでに明らかになっている数々の事件で、容疑者たちは一様に被害者に怨恨を抱いていた可能性がある。奈央の義姉の件もふくめ、それがあの雨によって増幅されたのだろうか。
 「お義姉さんはもう意識を回復されているのですか」
 「ここに来る前に兄に確認しました。目を覚ましたそうです」
 「となると警察も事情聴取をはじめるでしょうね。きのうの出来事が本人の口から語られるわけだ。あざみ野周辺で起きた一連の事件との関連性も浮かびあがってくるかもしれない」
 「そのことなんですが」奈央は顔を曇らせた。「きのうの夜、病院で警察の人から妙なことを言われたんです」
 「妙なこと?」
 「病院を移ってもらうことになるって」
 「事情聴取しやすい場所に移るということですか」
 「どうでしょう。手続きもすませてあると言ってました。どこか急いでいるような感じもしました。ただ、担当の刑事さんとはちがう人だったんです」
 「ちがう人? 警察の人だったんですよね」
 「警視庁の身分証明書を持っていましたから」
 松木は背筋にぞわぞわする感じをおぼえた。あざみ野の現場で小谷が言っていたことを思いだしたのだ。
 公安の人なんだよ――。
 もし奈央の義姉が起こした一件が一連の事件とかかわっているのなら、病院で奈央に転院を告げてきたのも公安関係者ということになるまいか。となるとやはりテロなのだろうか。松木は訊ねないわけにいかなかった。「お義姉さんの目ですが、白目のところが青くなっていませんでしたか」
 奈央は驚いて声をあげた。「そうです。たしかにそうなっていました。静脈がむくんでいる感じでした。それで心配して頭に触れてみたんです。事件を起こしたほかの人たちもそうなんですか」
 「すくなくとも二人、高校に籠城した女子高生と老人ホームで事件を起こした入居者の男性はそうだった。じつは女子高生が逮捕された高校の現場に警視庁の公安の人が来ていたらしいんです」
 「公安の人って?」
 「通常の犯罪とはちがう、いわば国の安全保障にかかわるような事件を担当する捜査員のことです。お義姉さんの転院について話したのももしかするとそっちのセクションの人間かもしれない」
 「それってもしかして――」
 「そうです。さっきあの雨を降らせた雲についてテロの話をしましたが、こうなってくるとあながち否定もできなくなってきましたね」
 「やっぱり人を狂わせる細菌兵器とかなのでしょうか」
 「どうだろう。ただ、もしそうだとしたらきのうの雨を分析するはずだ。雨がやんでからもうずいぶん時間がたっているからほとんど蒸発してしまっている。だけど庭先のじょうろのなかとか、屋根の雨どいの日陰になっている部分とかには、まだ残っているはずだ。公安の捜査員たちはいまごろそれを探しているかもしれないな。きのう、衛星画像には問題の雲が二つ見られたんです。でも午後三時の時点では一つしかなかった」
 「消えたんですか」
 「気象庁の担当者はそう話していました。でもなんらかの理由で画像として映らなかったのかもしれない。だとするとおなじ出来事がまたどこかで起きる可能性がないとも言えない」
 「じつはもう一つ、気になることがありまして」奈央が首をかしげながら言う。「義姉があざみ野駅前のコンビニの軒下に雨宿りしたときの記憶に接触したときのことです。白人の青年が義姉に近づいてきたんです。あれほどすごい雨だというのにブロンドの髪には滴一つついていなかった。それがものすごい違和感だったんです。それでわたし、彼がだれなのか思いきって聞いてみたんです。すると冷ややかな目でにらまれ、直後、それまでの施術では感じたことのない痛み、たとえば中身の見えない箱に手を突っこんで、いきなりなかにいたものに咬まれるみたいな、とんでもない抵抗感がありました」
 「だれなんでしょうね」
 「雨宿りしているとき、彼が本当にあらわれたのか、それとも義姉の幻覚というか妄想だったのか。そこらへんはわかりません。ただ、なんて言うかとても邪悪で敵対的だった感じがします」
 「お義姉さんの記憶を混濁させ、精神異常へと導くもの。それが使用された細菌兵器か化学兵器なのだとしたら、その白人青年というのは兵器の薬理機序によって出現した幻想なのかもしれないですね。彼がどんな外見だったかくわしく教えていただけませんか」
 松木はペンを取りだし、メモ帳を広げた。奈央は記憶をたどるように眉根を寄せて中空を見た。ボーイッシュなショートカットにぱっちりとした瞳が愛らしい。ほんのすこし紗江とも似ているような気がした。松木は懐かしさのようなものを感じた。
 「年齢は十六、七歳で身長は百八十センチぐらい。きゃしゃな感じがしました。髪はウェーブがすこしかかったブロンド。白人特有の細面で、きれいな顔をしていたけど……鋭い目つきで、なにより無表情、まるで表情筋が固まってしまったかのようでした。あと、右の頬に大きなほくろがありました」
 松木はそれらをメモ帳に書きつけていく。「着ている服とかは」
 「紺色のパーカーにグレーのスウェットパンツだったかな。アメリカ人が好きそうなバスケットシューズを履いていたような気がします。あと、金属製の箱みたいなものを肩からさげていました」
 「金属製の箱? なんだろう」
 「わたしもよくわかりませんでした」
 松木はタブレットを操作し、ブログの編集画面を立ちあげた。「これまでにわかっていることをできるだけ具体的にまとめて、ほかの人たちからも情報提供をもとめてみよう。いまのテレビや新聞にはそこまでできないだろうから、こっちでやるしかない」
 「だいじょうぶですか、松木さん」奈央は、松木がまたプロデューサーから小言を言われるのではないかと心配してくれているようだ。
 「すでにネットの世界じゃ、アザミノはランキングトップになっている。それにちょっと乗っかるだけですよ。テロの可能性についても多くの人が言及している。ぼくはたんに自分たちが見聞きした事実、たとえば雨雲の状況とか公安警察の話とかを淡々と紹介するだけですよ。あと、過去の人類史で毒ガスとか化学兵器がどう使われてきたかも調べてアップしようと思っています」
 「白人の若者の話はどうされますか」
 松木は迷わなかった。「情報はできるだけ幅広くもとめたほうがいい。奈央さんが見た青年はお義姉さんの心象風景であって、事実ではないのかもしれないけど、なにかのヒントになる可能性がある。せっかくだから書いてみますよ」
 奈央に見守られながら松木はブログに没頭した。
 二十分ほどして電話が着信した。気象庁のホットラインの番号が表示されていた。「松木さんですか」声でわかった。消えたもう一つの雨雲について先ほど訊ねた担当者だった。「新たにわかったことがあるんです」相手は切羽詰ったようすで話しはじめた。「例の雨雲らしきものがふたたびあらわれました。小笠原諸島の北方です。そこから北上していて現在、伊豆諸島に差しかかっています。きのうとはタイプがちがいます。もっと広がっています。地上からの高度はきのうよりもっと低い。千メートルもないくらいです」
 「千メートルもないって……? 温度はどうですか」
 「相変わらず高いです。四十五度を記録しています」
 「ありえないですよ、そんな温度」松木はソファに腰かけたまま吐き捨てた。
 担当者はそれを無視して客観的なデータを伝えた。「おなじ高度で横に膨張しています。現時点で半径約二十キロ。きのうの十倍の規模です。雲の内部で対流が起きていてそれが膨張につながっているようです。しかしそれでも温度は一定なんです。高温のまま広がっている」
 スマホを握りしめる手に自然と力がこもる。「その雲が北上しているんですか」
 「そうです。関東地方に接近しています」担当者の声には底知れぬ不安が漂っていた。きのうの雲が雨をもたらした地域でなにが起きたかわかっているのだ。「それだけじゃない。ちょっとへんなんです」
 「へん……?」
 「レーダーで雲の内部を探っているんですが、断続的に一定の周波数が観測されています。だいたい五〇〇〇から六〇〇〇ヘルツです」
 「音が出ているってことですか、雲のなかで」
 「そんな感じです。一分ほどつづくときもあれば、数秒のときもある。解析するとセミとか昆虫の鳴き声に近い音です」
 「音源のようなものはあるんでしょうか」人為的なものである懸念から松木は思いきって訊ねてみた。
 「水蒸気の塊。つまり雲であるということしかわかりません。物理的に考えたら、雲の内部でなんらかの電気的な現象が起きているとみたほうがいいでしょうね。それ以上は見当もつきませんが」
 松木は雲の北上速度を訊ね、顔をしかめた。電話を切り、奈央に向かって苦りきって伝えた。「まずいことになった。なんとかしないと」
 「どうしたんですか」青ざめた顔で奈央は聞いてきた。
 正直に答えないわけにいかない。「おなじことが起きる可能性がある。しかももっと広範囲で。例の雨をもたらした雲らしきものが近づいているらしい」
 「本当ですか」
 「わからない。でも内部温度とか特徴が似ている」松木は募る焦燥感を抑えつつ、スマホの電話帳を開き「モーニング・ストリーム」を牛耳る絶対権力者の番号を指で探った。テロだとか化学兵器だとかあくまで仮説に過ぎない。しかし甚大な被害をもたらす規模の台風が襲ってくるとわかっていて、それを伝えなかったら気象予報士として失格だ。それとおなじではないか。人命が失われてからでは遅い。紗英のような目に遭う人は一人でも出してはならなかった。
 前田CPは会議中だったらしい。不機嫌そうに電話に出るなり、用件を手短に言うよう松木を乱暴にせっついた。だから松木も率直に話してみた。けさの天気予報で口にしたよりもダイレクトに訴えた。おなじ雲が接近していて、アザミノとおなじ事態、場合によってはさらにひどいことが起きる恐れがある。だからいますぐテロップのニュース速報でもいいから、外出を控えるよう伝えてほしい、と。
 前田は冷淡だった。「ブログ読んだぞ。さっき更新していたな。はっきり言っとくが、うちの電波を使って仕事をしている以上、たとえ個人のブログでも勝手なことは書かないでもらえるか。局の信用にかかわるからな。だいたいおまえ、頭いかれてるよ。テロとか化学兵器だとか、バカじゃないのか。それを番組で流せだなんてビョーキだぞ。おれをなめるのもいいかげんにしろってんだ。そもそもけさの放送自体、大問題なんだからな。好き勝手なことしゃべっていいって、だれが言った? いいか、あしたのオンエアには来なくていい。局アナを使うから」
 「ちょっと待ってください」松木は食い下がった。「犠牲者が出てもいいって言うんですか」しかし電話はそのまま切られてしまった。
 松木はあきらめなかった。契約スタッフの気象予報士ごときが言ってもそりゃだめかもしれない。だったら社員である報道局の記者に頼めばいいんだ。松木はアザミノを取材する小谷に電話を入れた。
 小谷は真剣に話を聞いてくれた。「一連の事件に共通性がありそうだとはおれも思うけど、その雨についてはなんとも言えないな。ただ、きのうとおなじ異様な雲が出現しているって話は気味が悪いね。それに公安が動いているのはどうやらまちがいないみたいだ。警視庁筋のネタ元が教えてくれたよ。くわしくはわからないけどな」
 「昼ニュースとかで流せないかな」
 苦しそうに小谷はうなった。「もうすこし取材して公安が動いている理由をつかむ必要があるな。でもおもしろそうだ。政治部の後輩に官邸の動きも探ってもらうよ」
 「恩に着るよ。ありがとう」松木は電話を切り、奈央のほうを見た。
 奈央は自分のスマホを見つめていた。「これ、見てください。いま流れたんです」指さしていたのはNHKのニュースサイトだった。
 松木は息をのんだ。しかしある意味、これで事態がはっきりした。
 ニュース速報
 国内で化学兵器が使用された恐れ。米軍が調査を開始。

 十三
 11時43分
 東京都八丈町
 伊豆七島はいつだって取ってつけたようにあつかわれる。
 チェックアウトしたゲストを八丈島空港に送りとどけた帰り道、中井道子は低い雲を見あげた。伊豆諸島に晴れマークを表示させたテレビの天気予報のことだ。島が本土とおなじ気象のわけがない。それなのにいつもおなじ基準で測ろうとする。たとえば登山客は平野部の天気予報なんてたいしてあてにしないだろう。それとおなじだ。ここに陸地はない。絶海にたまたましがみつける縁(ルビ、よすが)が突きだしているにすぎない。天候の気まぐれな変化はここにいる者にしかわからないのだ。
 その意味では、道子はもう梅雨明けしていると確信していた。それでもこんな分厚い雲がぐずぐずと垂れこめる日々がつづき、そのうち暴風雨のシーズンに突入しているというのが、この島の常だった。なんともやるせない夏。観光協会の青年部――と言っても幹部はみんな、わたしなんかよりずっと年上の五十代なんだけどね――が作るPR動画には、真っ青なハワイのような青空と海が出てくるが、そんな快晴の日は夏の間、ほんの数日しかない。島をぐるりと囲む海が夏の陽ざしに熱せられれば、海水が蒸発して雲ができる。あたりまえの話だ。それでも夏休みシーズンに入ったこの時期、道子のような観光業者は好天がつづくことを祈らざるをえない。とりわけ観光客の激減が取りざたされる昨今は。
 「まずいなぁ……」道子はワゴン車のハンドルにしがみつきながら思わずひとりごちた。「また霧だわ」きょうは、午後にやって来る団体客を八丈富士トレッキングに連れていくことになっている。小高い丘のような山だが、山頂からは、八丈島のもう一つの名山である三原山の絶景をたのしむことができた。だがそれは霧さえ出ていなければという条件つきだ。たとえ曇りでも見晴らしさえ確保されれば、それなりにゲストを満足させることができるのだが。
 予感は的中した。市街地を抜け、コンシェルジュとして勤務して三年になるリゾートホテル「アズール」にいたる九十九折の道は、どこからともなくあらわれた湯煙のような霧のせいで早くも前照灯をつけねば視界があやしくなってきた。霧そのものはめずらしくもないが、光の加減のせいかきょうはもやに色がついているように見えた。夕方のような薄紫色だ。
 微細な滴がフロントグラスにつくようになり、道子は間欠ワイパーをかけた。山おろしの風が吹けば、霧もろとも雨も海上に押しやってくれるだろうに。きょうのゲストを乗せたつぎの便が到着する昼までにあがるといいのだが。空港の外に出た途端、うらめしげに空を見あげさせるのはしのびない。しかし速度を落として慎重にカーブを曲がれば曲がるほど、霧は濃くなり、ワイパーも常時作動に切り替えねばならなくなった。視界はどんどんきかなくなる。まとわりつくようなもやに包まれてしまった。
 アシタバ畑の広がる路肩にとまっていた軽トラックのわきを通過しようとしたそのときだった。道子は急ブレーキを踏んだ。
 黒っぽい人影が横切ったのだ。
 農作業に来た人だろうか。徐行運転だったがタイヤは大げさな音をたててとまった。ハンドルに腕を突っ張らせたまま道子は目を凝らした。ぶつかってはいない。それでもフロントグリルのわずか二メートルほど先だった。軽トラックの陰からいきなり飛びだし、左から右へと道路を渡っていった。霧のせいでぎりぎりまで気づかなかった。だが相手はもう霧のなかに姿を消している。あれだけ盛大にタイヤが軋んだのだ。向こうが気づかぬはずはない。道子はフロントグラスに顔を近づけてあらためてたしかめた。右手の路肩を下りた先は雑木林だ。その先には小さな集落がある。そこの住人だろうか。昔からある集落で、かつてはみんな農家だったが、いまは半分ぐらいが役場や水産加工場などに勤めている。
 なにかへんだった。
 それがわかっていたから道子はすぐには車を発進できずにいた。目の前を通過していったのはたしかに人影のようだったが、やけに大きい気がしたのだ。かといってヒグマどころか本州のツキノワグマだって島には生息していない。人以外の最大の動物は鹿のキョンだが、野生のものはいない。ビジターセンターで飼われているだけだから、脱走してきたのでもないかぎり、こんなところに出没するわけがない。それになによりキョンの背丈は人の腰ぐらいの背丈しかないのだ。たったいま目の前をよぎったのは、その倍以上あった。ということは二足歩行だ。欧米の観光客だろうか。たしかに最近はアズールにもたまにやって来る。山道を散策中、霧で迷ってしまったのだろうか。
 ちがう。
 道子は本能的に集中ドアロックに指をのばした。都会を脱出して田舎暮らしをするようになって以来、ロックなんてかけたことがない。そっちのほうが事故が起きたときにも脱出しやすいし。だがいまこのときばかりは、四つのドアに瞬時に錠がかかったことでようやく胸にたまった息を吐きだすことができた。
 動悸がつづいていた。ブレーキを踏む寸前、ほんの一瞬、目の前を通過した何者かが巨大な黒っぽい鉄板、いうなれば中世ヨーロッパの騎士たちが手にする楯を背負っているかのように見えたのだ。見ようによっては、それは大きな甲羅にも思えた。
 つぎの瞬間、道子は悲鳴をあげていた。
 いきなり運転席の真下からずしんと地響きがしたのだ。火山島だから地震はめずらしくない。だがたてつづけに起きた轟音に道子ははっとして振り返った。爆発音のような音が背後でしたのだ。空港の方角だった。だが霧のせいでなにも見えやしない。それにしても気色が悪い。パープルカラーの光が霧のなかで乱反射しているようだった。
 「なんなのよ……」いやな汗がわきの下に落ちる。それに押されて道子はようやくアクセルにかけた爪先に力を入れようとした。
 運転席側の窓がたたかれたのはそのときだった。
 道子はまたしても悲鳴をあげた。だがそれをはるかに上まわる声で相手は叫んでいた。
 「たすけてくれ!!」
 男だった。さっき車の前に飛びだしてきた人影とはちがう。もっと小柄で白いTシャツ姿だった。なによりその頬からだらだらと血を流し、胸に飛び散っていた。ごま塩頭に見おぼえがあった。ホテルのレストランにときどき野菜を搬入する農家のゴンさんだった。
 「開けて! 開けて!」血まみれになりながらゴンさんはリアシート側のドアにしがみついた。「早く!」
 道子はあわてて集中ドアロックを解除した。
 「化け物だ!」リアシートになだれこむなり、ゴンさんはわめいた。「早く! 早く車出してくれ! 逃げるんだ!」
 「逃げるって……いったい……」
 「いいから! 早く! 殺される……!!」
 もう一度、後方遠くで爆発音がした。わけのわからない恐怖心がこみあげ、道子はアクセルを思いきり踏みこんだ。ホテルの送迎用ワゴン車はタイヤを軋ませて飛びだした。
 「だいじょうぶですか……血が出てますよ」
 「おれだって信じられん」ゴンさんはリアシートで横になったまま、Tシャツをめくりあげて顔の傷を押さえている。「いきなり家に入ってきたんだ。窓を破って」
 道子はバックミラーで不意の客に問いかけた。「窓を破って……?」
 「そうだよ。化け物が入ってきたんだ。なんなんだ、あれは。信じられんよ」そこでゴンさんは声を詰まらせ、おいおいと泣きはじめた。「女房が……女房が……でもこんどはやつがおれのほうに向かってきたから……」
 「え……奥さんが……」
 「悪い夢かなにかなんだろう……なあ、そうなんだろ。よしてくれよ、こんなの。あいつ、女房の首を……」あとは号泣のせいで聞き取れなかった。
 夢だと思いたいのは道子のほうだった。頭がひどく混乱し、運転に集中できない。すでに何度もガードレールに車体をこすっていた。
 「ゴンさん……でもなんだったんですか……その化け物……って」ようやく訊ねることができ、道子はもう一度、バックミラーをのぞきこんだ。
 農夫の姿が見えなくなっていた。乱暴な運転のせいで、横になったままシートの足もとに転げ落ちてしまったようだ。道子は振り返ってたしかめた。
 「イヤッ……!!」
 フロントシートとリアシートの間隙にはさまった格好の男の顔を見るなり、道子はハンドル操作を誤り、こんどはガードレールの切れ目に生えるスダジイの古木に真っ正面から突っこんでしまった。
 シートベルトのおかげで額をハンドルに打ちつけずにすんだが、衝撃で両手ともハンドルを放してしまい、どっちも甲の側からダッシュボードにしたたか打ちつけることになった。鈍い痛みが両腕を這いのぼってきたが、道子は気にもとめずにシートベルトを外しにかかっていた。本能はとにかくその場から遁走することを命じていた。血まみれのゴンさんの顔がみるみる黒ずみ、顔の輪郭があきらかに変形しはじめていたからだ。口の左右から鉤爪のようなものがのび、眼球はピンポン玉のように飛びだしてきている。まるで内側から押しだされているかのようだった。そして額に生じた左右二つのくぼみからは、てらてらと黒光りするワイヤー状のものがぶるぶると震えながら生えはじめていた。
 シートベルトの解除に手こずったせいで、道子は助手席との間からのびてきたものに左ひじをつかまれてしまった。
 声にならぬ悲鳴をあげながらそれを振りきり、ようやく道子はベルトを外して車外に転がりでた。四つん這いになって前に進む。とにかく車から――あの化け物から――離れたかった。ゴンさんになにが起きたかなんていまは考えるひまがなかった。
 置かれた状況とは裏腹に、薄紫色の霧に包まれた山道は、見ようによっては幻想的な光景だった。細かな雨滴がたちまち全身にまとわりついたが、かまっていられない。ゴンさんは追いかけてくるだろうか。濃霧のせいでどこが道なのかわからなくなってきたが、不幸中の幸いなのは、こっちも霧のなかに身を隠せることだった。必死に手足を動かすうちにいつしか道子は雑木林に分け入り、そこを這いまわっていた。手もひざも泥だらけだった。
 ようやく立ちあがり走りだす。ところが急斜面であることに気づくのが一歩遅く、あっという間に道子の体は崖下まで十メートル以上転落してしまった。背中に激痛が走る。だが頭のなかで、逃げろ逃げろとせっつかれ、痛みなど味わっているひまはなかった。体を起こし、ほんの一瞬、道子はあたりを探った。濃い霧のなか、数メートル先にアスファルトが見えた。集落にいたる道路のようだった。痛みをこらえて道子は立ちあがり、脚を引きずりながらそっちに急いだ。
 だが待て。
 そっちはゴンさんがやって来た方角ではないか。“化け物”が妻の首をどうにかした家がある方角ではないか。
 背後でバリバリと枝が折れる音がした。ゴンさんだったものが車から出て、追いかけてきているのだろうか。考えているゆとりなどない。道子は道路に出るなり、駆けだした。
 ほとんど視界がきかず、どこに家が建っているのかもわからない。はっきりしているのは、おなじアスファルト道に追跡者のほうも到達したということだった。十数メートル後方だろうか。人の靴音とはあきらかに異なる、まるで獣の長い爪で岩を引っ掻くような音が聞こえてきた。
 道子は全身びしょ濡れだし、泥まみれだった。それでも足もとの道路だけを頼りに全速力で走りつづけた。
 もう一度、爆発音が聞こえた。いったいこの島でなにが起こっているのだろう。警察に通報しようとようやく気づいたところで、スマホを車に置いてきたことに気づいた。とにかくどこか安全な場所に避難しないと……と思ったとき、道子はもんどりうって倒れた。突如、目の前にあらわれたものに激突し、というか、自分のほうから突っこんでいってしまったのだ。
 ある意味、それは安堵をもたらすものだった。
 人間だったのだ。
 若い男だった。道子ははっとした。外国人、ブロンドの白人のようだ。もしやさっき車の前に飛びだしてきたのは、この青年だろうか。濃紺のパーカーを羽織っている。身長もすらりと高い。
 青年は道子のことをじっと見つめている。青い瞳はあわれんでいるかのようだった。
 「あ……ごめんなさい……いえ……アイム・ソーリー」つっかえながら道子はやっとのことで絞りだした。「アー・ユー……オール・ライト……?」
 「ご心配なく」
 とろけるような声音で日本語が帰ってきた。それでぴんときた。島の高校に派遣されている語学助手だろうか。道子は即座に立ちあがった。「逃げないと!」
 「大丈夫ですよ」
 青年は落ち着いていた。だが背後の足音はもうすぐうしろにまで近づいてきている。あと数メートル。霧がなければ見つかっているだろう。
 「ちがうんです。事件が起きているんです。危険なんです。デインジャー!」そう言いながら道子は相手の腕をぐいとつかもうとした。
 白人青年の姿が消えた。だが声は聞こえる。
 「あなたはあなたでなくなる」
 瞬間移動したかのように青年は道子の隣にいた。
 「あらゆるものから」
 声は隣から発せられているはずだ。しかしふしぎなことに道子の頭の中心から聞こえてくる。
 「逃れられる」
 この人はいったいなにを言ってるのだろう。そう思ったとき彼女は気づいた。まるでドローン撮影しているかのように自分のからだがふわりと宙に浮かび、眼下の光景を眺めていたのだ。
 背後から追いかけてきたものがアスファルトの上を駆け抜けるのが見えた。そのわきに女が一人立っている。
 道子は絶句した。
 自分自身だった。いや、ちがう。急速に姿を変えていた。
 異形のものへと。
 おぞましさに身の毛がよだつ。しかし同時に理解しがたい空腹感もおぼえた。かつてないほどの耐えがたい衝動だった。
 「欲するままに――」
 頭のなかで彼がささやいた。それは道子自身のつぶやきでもあった。
 地上では、人間ではない何物かに完全に変化した女が大股で歩きだしていた。
 徐々に薄らぎだした意識のなか、道子はそれが向かった先にあるのは、きっと自分が勤めるホテルにちがいないと思った。

 十四
 12時37分
 東京都港区汐留
 NHKは昼のニュースをずっと延長したままだった。松木に連れられてテレビ東邦の報道局フロアに飛びこんできた奈央は、それを映しだす壁のテレビ画面を食いいっていた。日本での化学兵器の使用について米軍が調査を始めたと速報した直後から、NHKは総合テレビとBS1で番組を切り替えてこのニュースを伝えつづけた。それをインターネットでも同時送信しており、報道局のスタッフのなかにはスマホで見ている者も多い。
 NHKのアナウンサーらしい慎重な言いまわしながら、米軍が調べているのがあざみ野の一件であることがくりかえし伝えられていた。松木が言ったとおりだ。きのうの午後、あざみ野で短時間ながら強い雨が降り、その後、同時多発的に殺傷事件が周辺で相次いだ。両者の間に因果関係があることについて公共放送が堂々と伝えているのだ。テレビ東邦もそれを無視するわけにはいかない。報道局は蜂の巣を突いたようだった。しかしすぐには情報のウラが取れないらしく、「社会部」「政治部」とのプレートが天井から下がる島に陣取り、電話で指示を出している人たちは一様にいきりたっていた。
 報道局のなかでいまもっとも熱を帯びたその島に近づこうにも近づけずにいる太めの中年男がいた。真夏のこの時期に一人だけネクタイを締めている。部外者であり、どさくさにまぎれて入館手続きをすませてやって来た奈央にも、その男が報道局のなかでひときわ浮いた存在であるのがわかった。苦虫を噛みつぶしたような顔をしているが、まるで漂流者のようにだれかに声をかけたいし、かけてほしいと思っているのがありありと伝わってきた。なんとか自分も参加したい。しかしそれはこの期におよんで自分の存在感をしめしたいとの浅はかな考えによるものだ。超能力を使わずとも奈央は感じ取った。もちろんそれは周囲でてきぱきと働くスタッフたちにもわかっていることなのだろう。男は完全に無視されていた。
 もっとも無視していたのは松木だった。なるほどこれが彼の出演番組のチーフ・プロデューサーで、さっき電話で責めてきた人物か。松木が心のなかで「それ見たことか」とつぶやいているのが聞こえてきそうだった。しかしそれを口に出すのは松木の自尊心が許さなかったようだし、じっさいそんなことにかかわっているゆとりはなかった。事態は急速に展開し、新たな局面が生まれていたのだ。すでに起きたことより、これから起きることに備えたほうがよさそうだったのだ。
 最初にそれに気づいたのは、民放他局だった。昼前の情報番組のスタジオ中継から、一面に立ちこめる霧の映像に切り替わったのだ。八丈島空港の固定カメラがライブ撮影しているものだった。一報が入ったのは、二十分ほど前だという。機体から火の手があがっているのが霧の切れ間から見えた。ターミナルの真横、搭乗ゲートに横づけした位置だった。着陸に失敗したわけではなさそうだった。スタジオにいるキャスターは、乗客もふくめ空港関係者が何者かに襲われている模様と伝えていた。
 「八丈島空港、つなげるか!」だれかが緊迫した声で指示をだした。テレビ東邦はちょうど昼のトーク番組の最中だった。午後の情報番組は一時からだ。その前に臨時ニュースに切り替えたいようだった。
 松木は報道局のメインフロアの隣にある小部屋に奈央を連れていった。「モーニング・ストリーム」のスタッフルームだった。
 「まずいな」自席につくなりパソコン操作を開始した松木が口にする。画面には関東沿岸を撮影した衛星画像があらわれていた。「八丈島だけじゃない。すでに半径百五十キロぐらいにまで広がっている」
 それは素人目にもわかった。雲とおぼしき白っぽい塊が伊豆諸島全体に広がり、その北端はすでに大島を越えていた。
 「きのう、あざみ野に雨を降らせた雲とおなじものだとは思うけど、性質がちがう。拡張速度が恐ろしく速いぞ。北上する速度も異常だ。ありえないスピードだよ」
 「そのせいで八丈島があんなふうに」奈央はスタッフルームの壁に据えつけられたテレビ画面をあらためて見た。ニュースを繰り返し読みあげるアナウンサーとスタジオのようすをワイプで交互に抜きながら、空港カメラの映像を流しつづけている。燃えあがる炎によって上昇気流が生まれたらしく、霧が蹴散らされ、さっきよりも状況がはっきりと見える。搭乗ゲートで待機する中型機のエンジン付近から猛然たる炎が噴きだし、ときおり爆発が起きていた。炎が燃え移ったのか、ターミナルのほうも炎上している。しかし消火活動が行われているようすはなかった。「あざみ野とおなじなんでしょうか」
 「いや、雲の性質がちがう。すくなくとも積乱雲は発生していない。ゲリラ豪雨なんかじゃない。まさにあれだよ」松木は八丈島空港のようすを映すテレビ画面を指さした。「霧だ。だいたい五百メートル上空ぐらいから地上付近まで垂れこめた雲が霧雨を降らせている」
 「関東に接近しているんですか」
 「このままいくとそうなるかな。化学兵器の散布だとしてもそれが地上にどう降りそそぐかは、自然まかせのはずだ。こんなふうな異様な拡散はやろうと思ってもできるわけがない。いったいどういうことなんだ」松木は苦しげにうなった。
 テレビの画質調整がうまくいっていないのか、それとも激しい炎のせいなのかわからないが、他局が伝える八丈島空港の映像は、まるで夕暮れのように色づいて見えた。奈央は目をすがめ、画面をよく見た。端のほうに不可解なものが映っている。ターミナルビルのガラスごしだった。待合室にだれか倒れている。スカートをはだけた女性らしい。その上になにか黒っぽい大きなものがのしかかっているようだった。襲撃者の上半身はジャケットに包まれているようだが、どこか外見がおかしい。ズボンから突きだした脚が黒い骨のように見えた。「なんですかね、あれ」
 松木は衛星画像からテレビ画面に目をあげた。そのとき襲撃者がカメラのほうを振り返り、奈央は息をのんだ。
 人間じゃなかった。
 異様に膨張した真っ黒い目がこちらを見つめていた。
 「千葉の館山で大量殺人が起きてるって!」報道局のフロアで声があがった。「共同通信が新しい記事を流してきたぞ。霧のなかで……なんだ、こりゃ……獣が暴れている……だと」
 獣――。
 奈央はもう一度、八丈島空港のようすを映していた他局の番組に目を向けた。しかしすでにスタジオでのやり取りに切り替わっていた。電波障害が起きたらしく、空港カメラの映像がうまくつながらなくなったという。テレビ東邦は、のんきなトーク番組をようやくニューススタジオの映像に切り替え、化学兵器使用に関する米軍の調査について伝えはじめていた。しかし八丈島の映像は他局同様、うまく入らないようで、館山の一件とともにアナウンサーが口頭で繰り返すばかりだった。
 松木は衛星画像を操作し、雲のようすを拡大していた。「たしかに房総半島の突端を越えてきている。どんどんこっちに近づいているぞ」
 「ツイッターがたいへんなことになってる!」スタッフルームにいたジーンズ姿の女性が声をあげた。「館山のこと。何匹もいるみたい……獣が」奈央と同世代だが、黒髪をきちんとうしろで結び、きりりとした目つきをしている。まわりの仲間に矢継ぎ早に指示を出し、たちまちそこに小さな取材本部ができたかのようになった。
 その子が松木のほうに近づいてきた。「これってきのうのあざみ野のことと関係しているんですよね」ゲリラ豪雨とその後の殺傷事件について、松木がすでに朝の時点で関連づけていたことを踏まえての問いかけだった。
 「米軍の調査のこともあるし、たぶんそうだと思う。ツイッター、どうなってるの、タニちゃん」
 「雨にあたった人たちがどんどん変身してるって」
 「変身……?」
 「見てください」タニちゃんはスマホ画面を松木と奈央に見せた。
 これが獣なのか。建物のなかから路上のようすを動画撮影したらしく、濃い霧のなかでなにかが蠢いているのが映っていた。人間よりも大きく、黒っぽいロングコートを羽織っているように見える。手足が異様に長く、ガニ股になって悠然と道の真ん中を闊歩していた。体に比して頭部が小さい。それ以上は霧のせいでよくわからないが、八丈島空港の映像に映っていたあの恐ろしい目がそこについているのだろうか。
 「その人たちが家に入ってきて襲いかかっているみたいです。完全にパニクってるって」
 「あざみ野とはちがう種類のものなのかな。すくなくとも強力になっている。それに霧雨っていうのがいやだな」タニちゃんのスマホを見つめたまま、松木が言う。「もし雨のなかに細菌とか化学物質が入っているとしたら、短時間で降り終わってしまう雨よりも、いつまでもだらだらとつづく霧雨のほうが、標的に対する攻撃効率が高いからね。発症する人数はあざみ野の比じゃないと思う」
 「あっちはゲリラ豪雨の二時間後に発症していたのでは?」タニちゃんが口にした。
 「霧状に散布したほうが薬剤の吸収量が多いんじゃないか。強力だってことだよ」
 「それですぐに変身してるんですかね」
 「わからない。いったいどうしてこんなことが起きるんだか」松木はいらだちと困惑を必死に抑えていた。「とにかく外出しないように言わないと。雨にさえあたらなければおかしくなることもないし、豹変した人たちに襲われることもない」
 「こっちにも来るんですか」だれもが抱きはじめた懸念をタニちゃんが口にした。
 松木はパソコンの衛星画像に目を落とした。「あの雲は、基本的に南からの風に押されて拡散している。でもたぶんそれだけじゃない」松木は気象庁とオンラインで結ばれた共用パソコンのほうに移動し、あらたな画面を立ちあげた。迫りくる巨大雲のようすを解析したべつの画像だった。「これを見てくれ」松木は膨大なデータのなかの一つを指さした。「これは雲の中心部の温度なんだけど、五十度に達している。こんなの絶対にありえないんだけど、もしかするとこの雲のなかに正体不明のエネルギーがあるのかもしれない。もしそれがなんらかの気流なり、運動エネルギーを起こしているのなら、それがエンジンになって移動の推進力になっているとも考えられる」
 たまらず奈央が訊ねた。「いまどのあたりまで……」
 「湾岸エリアに迫っている。あと三十分もしないうちにこのあたりにも到達するんじゃないか」松木は不安げに窓の外を見た。
 先ほどまでの真夏の青空はどこかに消えていた。まだ霧が立ちこめているわけではないが、薄雲に陽射しがさえぎられ、夕立の前のように急に薄暗くなってきた。
 「マッちゃん、ちょっといいかな」
 スタッフルームの入り口にロマンスグレーの背の高い男が立っていた。松木はすぐに立ちあがり、男のほうに駆け寄った。信頼を寄せる人物のようだった。
 「きみの想像どおりになったみたいだね。いまできる最善の策はなんだろう」男は穏やかな口調で訊ねた。
 「絶対に外出しないこと。外出先にいるなら、どこか雨にあたらない場所に避難すること。その二点につきると思います」
 「じゃあ、それをきみの言葉で伝えてくれるかな。いますぐに。責任はおれが取る。ネットもこじ開けるから」
 「わかりました」
 松木は奈央のほうを振り返りもせずにその男といっしょにスタッフルームを出ていった。
 「報道局長の米倉さんです」タニちゃんが教えてくれた。「松木さんが伝えるのが一番説得力があると考えたんじゃないかな」
 やがてテレビ画面に松木が登場した。いつもの笑顔でなく、緊張と責任感がみなぎっている。
 「建物のなかに避難して、窓やドアは密閉してください……」

 だが松木の必死の呼びかけにもかかわらず、事態は悪くなる一方だった。二十分もしないうちに雲は横須賀から横浜方面に広がり、東京湾をはさんで千葉市上空にまで達した。そしてそれらの都市を魔の霧で覆いはじめた。そこでなにが起きるか。報道局にいただれもがおなじ想像をした。松木のアドバイスを忠実に守った視聴者もいるにはいたのだろうが、なにも知らぬ何万という者たちが次々と霧雨の洗礼を受け、変身していった。そして難を逃れようと建物内に立てこもる者たちに迫り、一人ずつ体を引き裂き、血祭りにあげていった。阿鼻叫喚の状況に警察だけでは手が負えず、自衛隊が出動した。

 奈央は薬を二錠飲んだ。さっきから時折、ずきりずきりと発作のように痛みだしていたが、いよいよ恐怖に頭が割れそうになってきたからだ。しかしそれは自分の“能力”が反応しているのではないか。ふとそんな思いが胸をよぎり、ちがう意味で奈央は怖くなった。自分がいまここで事態に巻きこまれつつあるのは、もしかすると運命なのか……。
 テレビ東邦もNHKも民放他局も時折中継が途絶えるようになっていた。謎の霧のせいで電波障害が起きているのも事実だが、現場にいる記者やカメラマンたちが襲われたか、自ら変身した可能性が高かった。そうした状況を踏まえ、米倉局長は身の安全をはかるよう取材陣に指示を出した。すでにそのときには汐留周辺もうっすらと霧がかかりはじめ、低い雲に覆われた空は薄紫色がかって見えた。
 「官房長官会見がはじまるぞ!」
 報道フロアでだれかが叫ぶ。同時にNHKと民放キー局の番組を映していたテレビ画面がいっせいに官邸の記者会見場に切り替わった。
 ふだんは高慢な態度が目だつ官房長官にしてはめずらしく憔悴しきった表情で、用意されたコメント読みあげた。
 「伊豆諸島と関東地方南部で、無差別殺傷事件が相次いでおります。件数については集計中ですが、膨大な数の被害者が出ており、殺傷事件の容疑者も数百人規模におよぶ模様です。容疑者はいずれもいちじるしく凶暴化しており、現在、警察の機動隊のみならず自衛隊にも出動を要請し、対処にあたっております。原因については調査中ですが、関東南部に広がる霧がなんらかの影響をおよぼしているものと考えられます。霧をもたらす雲の動きが読めないこともあり、関東地方、静岡、山梨、長野、福島、山形の一都十一県のみなさまは、今後、政府による解除指示があるまでいっさいの外出を禁止いたします。なお、昨日、神奈川県横浜市で発生しました数十件の殺傷事件について、米軍が細菌兵器、化学兵器の使用を視野に調査を行っているとの報道があることは承知しており、本日の大量殺傷事件とのかかわりも指摘されていますが、いずれも現時点では確認中であります……」
 記者たちは官房長官のコメント朗読を一字一句逃すまいと、全員がうつむき、パソコンに向かっていた。テレビ東邦のカメラはその背中を映しだしている。だが確実なことはただ一つだけのようだった。あの霧にあたってはならないのだ。奈央はいまだに信じられなかった。しかし窓の外はみるみる霧が充満してきて、視界は悪くなる一方だった。
 いきなりタニちゃんが声をあげ、画面を指さした。「なんなの! あの人!」
 それは会見場の最前列、政府コメントを読みあげつづける官房長官のちょうど真正面にいる男性記者だった。開いていたパソコンを投げだしたかと思うと、自らも長官の目の前に倒れこみ、仰向けになって体をけいれんさせはじめた。口からは泡を吹き、やがて何度か嘔吐した。SPとおぼしきスーツ姿の男たちが飛んできて、若い記者を左右から抱えあげようとした。官房長官は話すのをいったんやめていたが、問題の記者が会見場から排除されそうになるのをたしかめ、ふたたび説明をはじめた。
 ところがそのとき、SPたちがはじき飛ばされた。嘔吐した記者が激しく抵抗したのだ。それはまるで幼児が大人に突き飛ばされるような光景だった。それを目にするや官房長官は腰を抜かしたようになって自らテレビカメラのフレーム内から逃げだした。周囲にいた記者たちもおなじだった。
 主役である官房長官がかすむほど会見場の注目を集めた男だけがただ一人、カメラに映っていた。カメラが微動だにしないところを見ると、カメラマンも危険を察知して機材から離れたのかもしれない。
 男はふらふらと立ちあがり、カメラのほうに顔を向けた。融けた蝋細工のようになった顔は、すでに左右の眼球が眼窩から飛びだし、なかば落ちそうになっていた。その裏側、つまり頭蓋骨の内側からなにかべつの巨大な眼が出現しつつあるようすも見てとれた。そればかりでない。男の身長が急ににゅっと伸びたのだ。ライトグレーのスラックスの裾からのぞく黒光りする鉄パイプのような脚――そんな脚があるだろうか――を見ればわかる。おなじようにジャケットの袖からもおなじような黒い棒状の異様な腕が突きだしてきていた。手にも脚にも棘のようなものがびっしりと生えている。
 それらの状況がテレビカメラにしっかりととらえられ、新聞社のカメラマンが使っているとおぼしきカメラのフラッシュが断続的に瞬いていた。スピーカーからは会見場に響く悲鳴と怒号があふれだしている。
 「あの霧にあたったんだ」松木がスタッフルームにもどってきていた。奈央の隣で呆然とテレビ中継を見つめている。「化け物だ……」
 会見場の男の左右のわき腹が膨らんだかと思うと、そこから手足同様の黒光りする棒状のものが突きでてきた。それが合図となったかのように、男は身につけていたものを剥ぎ取り、おぞましく変化した全身をカメラの前にさらした。
 もはや男は人間の顔をしていなかった。逆三角形をした黒い顔には、昆虫の複眼によく似た球状の眼が左右に一対ついている。その下に鋼の草刈り鎌を二つ組み合わせたかのような鋭い顎(ルビ、あぎと)が開いていた。そして最後まで体に張りついていたトランクスの尻の部分が急激に盛りあがり、張りつめたところで生地が破れて尾部と思われる蛇腹状の膨らみがあらわれた。そこの部分だけでも太さは人の腰ほどもあり、それが後方に六十センチも伸びている。
 男は――男だったものは――全裸でカメラの前に立っていた。床につけているのは後ろ肢だった。もともとどんな脚をしていたのかわからないが、皮膚や肉と呼べるものは消え失せ、黒々とした外骨格が節になって連なっている。その付け根となる胴体はやや飴色に輝き、肢とくらべればやわらかそうだった。いまや体長は二メートル以上に達していた。信じがたい出来事の連続に報道陣たちはついに言葉を失ったらしい。会見場は恐ろしいほどの静寂に包まれていた。
 「なんか出てきたぞ……」松木が画面を指さした。化け物の頭部、眼の上あたりだ。最初は二つのこぶのようだった。それが震えながら盛り上がり、内側から鞭のようなものが伸びてきたのだ。もうとっくに悪夢の光景だったが、それ自体、意思を持っているかのように前後左右に揺れながら伸びつづけるようすに奈央は吐き気をおぼえた。いまや体長よりも長くなっている。
 「触角だ」松木が声を震わせた。化け物はじっとカメラのほうに正対しているのではっきりとはわからないが、背部には流線形の羽が閉じているにちがいない。「カミキリだ」
 それに応じたかのように画面の向こうで恐ろしい鳴き声があがる。
 ギィィィ――。
 化け物は獰猛そうな顎を左右に大きく開き、ゆっくりと大股で近づいてきた。硬い爪がリノリウム張りの床をこする音がスピーカーから伝わってきた。奈央は怖くなって思わずあとずさった。しかし巨大カミキリはカメラのことなど無視してそのわきを通り過ぎていった。触角かなにかがレンズを殴打し、カメラは三脚ごと弾き飛ばされた。
 カメラは壊れたりしなかった。床に横倒しになったまま撮影をつづけ、会見場の後方のようすを映しだした。奈央はそれでようやく理解した。なぜ報道陣が静まりかえっていたのかを。
 画面に映っているだけでも五体が確認できた。最前列にいたあの記者だけでなく、後方にいたカメラマンやスタッフたちのなかでも変身を遂げた者たちがいたのだ。それで恐怖に駆られてみんな逃げだしてしまっていた。
 「もうおしまいなのかな……」タニちゃんが弱々しい声をあげた。「この世界は……」
 奈央もおなじ思いだった。窓の外はますます霧が濃さを増し、煙を炊いようになっていた。そのときすべてのテレビ画面が真っ暗になった。
 「八丈島とおなじだ。電波障害だろう」あとからやって来た米倉局長がスマホでどこかに電話を入れた。しかし電話の通話状況も悪くなっているようだった。
 「どうしよう……」顔を曇らせたのは松木だった。「すみません、局長、ちょっとだけ家に電話してもいいですか」
 「あぁ、もちろんだ。緊急事態だ。放送どころじゃないよ。みんな、電波が通じなくなる前に取り急ぎ家族の安否を確認したほうがいい。ただし、絶対に外に出ちゃだめだぞ」
 「義父母といっしょに暮らしていまして、息子の面倒を見てもらっているんです。まだ六歳で、きょうは保育園に行ってるはずなんです」松木は言い訳するように奈央に告げると、スマホを握りしめてスタッフルームを出ていった。
 だが十五分ほどしてもどってきた松木はひどく困惑した顔をしていた。お子さんになにかあったわけではなさそうだった。「さっきあげたブログにかなりコメントが届いていたんですけど、そのなかに気になるものが一件ありまして」
 「気になる……?」
 「『頬にあったのはほくろでなく、傷痕ではなかったですか』そう書きこんであったんです。例の白人の若者のことです」
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