第4話 群来

文字数 2,803文字

 ――いま話したように俺は漁師だったんだが、海の上じゃときどきシャレになんねえことが起きる。凪で風もなくてこれ以上ないって漁日和なのに、そういうときに限って自分が海に落ちる。仲間が海に落ちる。点検したはずなのに、海ん出てみたら魚群探知機の調子が悪くて、ありもしないもんを写す。しかもそれが、どう見ても最近死んだ近所のジジの顔ってこともあった。

 何十年も船に乗ってりゃ、そんな話のひとつやふたつ、あるべや。

 俺が若い頃……っつっても、いまでも若いんだけどさ。ああ、ガキの頃。ガキの頃だ。そういうことにしとく。昭和四十年頃かな、海ん出てて群来を見た。

 群来ったら、アレだ。鰊ニシン。オスが放精して海面が白くなる。いや、群来なんて俺はそれまで、話には聞いてたが見たことはなかった。昔たくさんとりすぎたから、しばらく鰊はこないって聞かされてた。

 それがさ、海水が牛乳になっちまったんじゃないかってくらい、船のまわり一面が真っ白になっていたんだよ。ああ、漢字でグンライって書くくらいだから、そこにゃもちろん魚群があるわけだ。網をいれりゃ、大漁間違いなしだと……まあ、こう考えるわな。

 でもなあ、俺が乗ってた船はもうアブラがギリギリだったし、魚をあげてもいた。うん、もう引き上げるとこだったのさ。獲ったもんを捨てて、漂流する危険を冒してまで鰊に行くか、行かないか。もっとも、そう港から離れていたわけじゃないし、無線もある。まあアブラ切れでも何とかなったんじゃないかな。

 親方は決めかねていた様子だったから、俺は歯ぎしりして地団駄踏んでたんだが、同じ船に乗ってた爺様がさ、群来にしては何か変だっていうんだ。俺らは話に聞いてただけで群来だ群来だって騒いでたんだけれども、爺様はじっさいに見たことがある。何度も何度も……で、みんな耳を傾けた。

 爺様はいった。

「わしが見た群来は、もっと白かった。こいつはどこか違う、何だか汚らしい気がする」ってな。もっとこう……群来のときの海面の白さは、もっと鮮やかなんだと。でもこれはクリーム色だった。灰色に近い部分さえある。

 へえ、そうなのかと思いながらも、俺にはやっぱり、ちょい疑う気持ちもあった。この白い海面の下に、どんだけ鰊がいるんだってなったらな。ああ、欲目だ。全くの欲目だ。いやあ、そんときは雇われてたから大漁も不漁も関係なかった。ちょっとボーナスに色がつくくらいのもんだったろう。だがな、海の上にいると、ときたまそんな瞬間があるんだ。こいつをどうしても獲らねばなんねえってな。

 そうこうしているうちに、船はもう白い海面の上にいた……というより、白い海面が船の下にすべりこんできていた。相変わらず親方は立ち往生している。どうするどうすると一同、親方の顔を覗きこんでいた。

 そのときだった。バタバタバタってったかと思うと、船の上に飛び込んできやがったんだ、それが。

 いやいやいや……それが、鰊じゃなかったんだ。

 得体のしれん生き物。パッと見たら鰊に似ているんだが、違った。腹の方が灰色っぽい色をしていて、恐らくそれを見て爺様は変だと思ったんだろう。

 いちばん奇妙なのは頭だ。これが鼠そっくりだったんだな……そうそう、鼠。そのへんで見るドブネズミと変わらんかった。ヒゲはどうだったかな……たぶんなかった。ああ……歯は鼠っぽくなかったな。前歯が出てたわけでもない。でも、鋭かった。ありゃ噛まれたら血が出たはずだ。上の方には、耳がふたつついてた。うん、それも鼠そのものだ。つまり、身体は魚で頭は鼠。そんなもんがバラバラバラっと海面を跳ねあがって、船にはいってきたんだ。そんなもんが甲板の上でぴちぴちしているのを見て、俺はぞっとした。親方も爺様も、いや、みんな固まってたな。そんなもん、誰も見たことなかったし、どうしていいか分からん。ただ突っ立ったまんま、ボーっとしてた。

 亀の甲より年の功っていうべさ……やっぱり爺様が初めに正気に戻ったんだ。親方の腕を摑んで、逃げるべって。

 それで帰ることになった。なったんだが、まだどこかみんな、可笑しかったんだな。突然叫びだして、その得体のしれん魚だか鼠だか分からんもんを必死に踏みつぶしているやつもいれば、ぶつぶつひとりごとをいってるもんもいた。

 船はしばらくの間、ずいぶん南寄りに進んでった。別に潮目も風も関係ない。むしろ海じたいは穏やかなもんだった。それで親方が舵取りに、おいどこにいくんだって怒鳴ったら、いやこっちで間違いないっていう。そんなバカなことあるかって殴りつけたら、舵取りが服を脱ぎだしてさ。どういうわけか知らんが、海に飛び込むっていい始める。俺はもちろんそのときのやりとりを見てたんだが、舵取りの目が据わっててな。ぞっとしたよ。

 港に着いたら、みんなぐったり疲れてた。他の船のヤツがからかい半分でいろいろいってきたけれども、いい返す気力もなかったよ。

 甲板には踏みつぶされたソレの死骸があちこちにこびりついていて、掃除してもなかなか落ちんかった。港に帰ったときには早くも腐ったにおいがしてたしな。踏みつぶした方の靴もダメになった。うん、においがなあ……船もそうだったんだが、ションベンみたいな臭さだった。洗剤だの漂白剤だのいろいろやっても全然落ちんかったんで、みんな捨てちまった。船はさすがに捨てられんかったけれども。

 結局これ、何だったんだろうな……今でも思う。

 いや、人に話すのは初めてだ。新種の魚? そうだろうか。

 ああ、あのな……このとき船に乗ってた人間はみんな、まもなく死んでるんだよな。

 爺様が最初にあの世に行った。そりゃ寿命かもしれんて思うが、それでもあのとき六十ちょっとくらいだった。今の俺より若いじゃねえか……亡くなってまもなくの頃は、何も疑わなかった。

 それから親方も舵取りも、俺と同じ時期に船に乗ったやつもバタバタと死んでった。心臓とか肝臓とか脳とか……まあ、死因はいろいろだ。五年もしないうちに死んだ。みんな……そう、みんなだ。

 俺だけが今日まで生き残っている理由は不明だけれども、ひょっとしたらこの話を人にしなかったからだと思うこともある。一方ではそれと同じくらいに、そんなことありゃせん、偶然だとも思う自分もいる。

 ん……? いやいや。この歳まで生きてきたんだからなあ、この話をしたから死んだってことになってもなあ……。

 え? 聞いた方はどうかって?……いやあ、だいじょうぶじゃないか、たぶん。

 少なくとも俺のまわりには、この話を聞いたから死んだなんてやつは、ひとりもいなかった。人間ってな、ハタから見ればくだらん理由であっけなく死んじまうもんなんだ。要するに、死ぬときゃ死ぬってこった。
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