文字数 1,306文字

 可奈が事務所を出ていくと、坂上は両手を頭の後ろで組み、椅子の背もたれにもたれ込んだ姿勢のまま、しばらく死んだようにじっとしていた。開いたままの目には何の思いも読み取れない。それはただ天井を見つめている。やがて、おもむろに起き直ると電話の受話器を取り上げた。
「新島常務ですか? F工場の坂上です」
「ああ坂上君か。連絡を待ってたよ。あの件はどうなったかね?」
「混入の件ですが、あれはここのチーフの不注意でした。早速辞めてもらうことになりました」
「そうか」
「はい。あと、残業代をかかさず申請する人にも辞めてもらいました」
「そうかそうか。うまくやったね。私はちゃんと知ってるよ。工場長の生田さんは何もしてなくって、実際は君が工場のすべてを取り仕切ってるんだってね」
「はあ。恐れ入ります」
「約束通り、君は本社の人事課へ転勤だ。おめでとう。これからも僕の下で大鉈をふるってくれよ」
「それはもちろん」と坂上は有能で忠実な部下の口調で答えた。「私にできる限りのことはさせていただきます。ところで、生田さんはどうなりますか?」
「生田さんか? あの人は、まあ、統合先の工場で何か閑職を探すよ。あの人自身、もう本社に戻ることなんて望んでいないし。それに、もうすぐ定年だしね」
「はあ……それじゃあ、よろしくお願いします」
 電話を切ると、坂上はまた椅子の背に深くもたれ込んだ。今度はその顔に表情が読み取れた。状況への満足に、一日の仕事を終えた喜び。入社時の研修で上司に目をつけられて、こんな工場へ左遷されはしたけど、意外と早く本社に戻れそうだ。
 この工場で、自分は何をしたというわけでもないけれど、うまく立ち回る術や、人の力を利用するコツは学べた気がする。人が自分に力をかしてくれるよう、持って行きさえすれば、すべては自然と正しい方向へ流れていくのだ。これはひょっとするとすごい発見かもしれないぞ、と坂上は考える。俺はやはり出世する運命なのかもしれない。新島さんよりも。いや、あせっちゃいけない。しばらくはおとなしく新島さんについていこう。人事課か、エリートじゃないか。やっと最初のチャンスをつかんだのだ。これからもうまく立ち回って、会社の出世街道を駆け登ってやる。それには、常に周囲に気を配り、注意も怠りなく、だ。そうすれば、いつか……実際、何が起きるかは誰にもわからないからな。
 坂上は鼻でフンという音を立てると、帰り支度を始める。

 可奈は工場を出るとバスに乗った。手足が冷たかった。空いていた席にすわると、可奈はすぐに携帯電話を取り出して、ブログへの書き込みを始める。途中、何度か顔をあげると、鏡のようになった窓に幽霊のように青ざめた自分の顔が映っているのが見えた。外はもう真っ暗で、暗い野原の横を走るとき、バスはまるで宇宙に浮いているようだ。遠くの家の明かりが星のようにきらめいている。
 バスの中の仕事帰りの人たちは、可奈にとってすっかり他人に戻っている。もうこのバスに乗ることもないだろう。可奈は暗い大きな穴の中にバスごと落ち込んでいくような気がした。自分の指だけが命を代弁するかのごとく、生きいきと、せわしなく動いていた。


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