第2話

文字数 3,861文字

 それ以来、岸部はもちろん、絵理とも疎遠となり、彼女から謝罪のメールが一件届いただけだった。

 仕事にも身が入らなくなり、酒浸りの日々が続く。
 大好きなはずのアニメのDVDを見ても、あの二人が頭に浮かび、とても集中などできようもなかった。

 ある日、美佐は街に出た。
 その日は朝から雨が降っていたが、そのまま傘もささずに、さ迷い歩く。
 行き先など決めていない。ただ、家にいたくなかったのだ。

 ずぶ濡れのまま歩き続けること数時間。辺りがさらに薄暗くなったころだ。
 美佐はずぶ濡れのまま歩みを進めていたが、ある店の前でふと足を止める。
 ――こんなところに古道具屋なんてあったかしら?
 そのまま通り過ぎようとしたが、どういうわけか自然と足が店に向かっていく。
 やがて引き戸を開けて店内に入ると、そこは思った以上にガラクタにまみれた空間だった。
 取っ手の取れかかった箪笥や白黒のブラウン管テレビ。ビロードでできた片腕のない人形。埃だらけの百科辞典など、とても営業しているとは思えないほどだ。
 だが、なぜだか目が離せない。全身がずぶ濡れにな事も忘れ、言い知れない心地よさを感じていたからにほかならなかった。
「なにかお探しですかな?」
 突然声をかけられ、ビクつきながら振り返ると、そこには髭面の老人が、値踏みするような目つきで佇んでいた。
「……いえ、たまたま寄っただけですから、すぐに帰ります」美佐はキッパリと言った。
 すると老人は濡れネズミの美佐を不憫に思ったのか、奥に引っ込むと、着替えだと言いながら紙袋を差し出してきた。
「気にせんでもよろしい。どうせ余り物じゃて」
 気持ちはありがたかったが、見ず知らずの男性から、そんな施しを受けるわけにはいかない。
「いえ、結構です」と断りを入れたが、再び足が勝手に動く。
 気が付けば店の奥のトイレに入って、しかも紙袋を開いていた。
 中にはバスタオルと共に、青の生地でできた衣装が入っていた……。

「あのう、これって一体……?」
 老人の元に戻るなり、美佐は疑問をぶつけた。
 まるでスーパーマンのコスプレにしか見えず、胸にはSの代わりにJの刺繍が施されている。しかもサイズが一回りほど小さめなので、ピチピチ状態。体のラインがはっきりと浮き出ている。下はスカートになっているが、かなりのミニなので、角度によっては下着が見えそうである。紙袋にはブルマも一緒に入っていたので、直接見えるわけではないが、それでも恥ずかしいことに変わりはない。
「お主はジャスティスマンを知っておるかな?」知らないと答えると、「ではひょっとこマンではどうじゃな?」
 それなら知っていますと返事をすると、そこで美佐は思い出した。確かあのおかしなヒーローは、元々そういう名前であったことを。
「それはジャスティススーツと言って、彼のようなヒーローになれる衣装じゃよ。お前さんの場合はヒーローではなく正義のヒロインといった感じじゃな。名付けてジャスティスレディじゃよ」
 仰天した美佐は憤りを感じずにはいられなかった。
「正義のヒロイン? ジャスティスレディ? 冗談じゃないわ! こんなコスプレみたいな恰好で、外を歩けるわけないじゃないの! それにジャスティスマンには黒いうわさもあるし、あんなのと一緒にされたら、たまったものじゃないわ!!」
 美佐は烈火のごとく怒鳴り散らし、元の服に着替えるべく、トイレに戻った。こんな格好をするくらいなら、まだずぶ濡れの方がマシだと思ったからだ。
 だが、不思議なことに紙袋に入れていたはずの服が、紙袋ごと消えていた。

 再び老人の元へ戻ると、彼は美佐の服をたたんでいて、丁寧にアイロンまでかけている。
「すみません、そんなことまでしていただいて」美佐は怒りを忘れて頭を下げた。
「何の何の。これしきの事、お安い御用じゃ」
 だが考えてみれば不思議である。こことトイレは通路が一つしかない。彼はいつ、どうやって衣服を回収したのだろう……。
「ほら、これならバッチリじゃ」
 老人はアイロンがけの終了した衣類を手渡してきた。
 再びお礼を告げた美佐は、それを受け取るとトイレに向かう。
 元の衣装に着替え終わると、トイレの壁を入念に調べた。もしかしたら秘密の出入り口があるかもしれないと思ったからだ。だとすれば、着替えを覗かれたのかもと気が気ではなかった。
 だが、壁や床、天井に至るまで調べてみたが、それらしい箇所は発見できずにいた。

 老人の元に戻った美佐は、ジャスティススーツの入った紙袋を老人に返した。
 だが、「これはお主にプレゼントしたもんじゃから」と受け取りを拒否される。
 せっかくだから何かの役に立つかもしれない。美佐は言われるがまま持って帰ることにした。

 それから数か月が経ち、失恋の痛みがようやく薄らいできた八月上旬。美佐はあるところに向かっていた。
 それは猛狩(もうかり)マッセという国内最大級のイベント会場。この日は夏コミと呼ばれるフェスタが開催されていた。
 美佐は猛狩駅のプラットホームに降りたった。予定より三十分ほど遅れている。周りには美佐と同じく猛狩マッセに向かうと思われる人たちで埋め尽くされ、毎年のことながら込み合っている。
 同人誌の詰まったケースを引きずり、ようやくマッセにたどり着くと、受付を済ませ、エレベーターに飛び乗った。

 会場にはすでに大勢の人たちであふれかえり、どこを見ても、ブースの設営に余念がない。ところどころに巨大なポールが立てられていて、万国旗や垂れ幕などが吊るされていた。
 開場まではあと一時間以上あるが、それでも熱気はすさまじく、興奮が抑えきれない。
 美佐は東の隅に向かう。そこが今回美佐に与えられたスペースだからだ。
 といっても一人ではない。他に二人の仲間が一緒である。
 一人はぽっちゃり気味の体つきで、分厚い眼鏡をかけている。ハンドルネームはチビユニ。有名なアニメのキャラをもじったもので、チビなユニコーンを略したものだった。
 もう一人は背が高く、髪はベリーショート。すっきりした顔と躰は如何にも男装が似合いそうだった。彼女はセルフィーというこれまた大ヒットゲームのキャラクターを、そのままハンドルネームにしていた。
 ちなみに美佐のハンドルネームは……。
 彼女たちはネットで知り合った腐女子仲間で、実際に顔を合わせるのは今日が初めてだった。先ほど説明した彼女らの容姿は、メールに添付された画像によるものである。もちろん美佐も自分の画像を二人に送っていた。
 指定された箇所に辿り着くと、それらしい二人がすでに設営を始めている。
「始めまして。遅刻してごめんなさい。電車がやたら混んでいたものだから」
 すると二人は顔を向けるなり、笑顔を浮かべた。
 セルフィーと思われる女性が、手書きのポップを飾りながら口を開く。「私たちも今来たところだから気にしないで、権助さん」
 そう。美佐のハンドルネームは権助なのだ。
 特に意味などなく適当につけた名前だったので、実際に呼ばれると気恥ずかしくてたまらない。もっとまともな名前にすればよかったと後悔せずにはいられなかった。
 三人で準備を進めていき、開場の二十分前にはスタンバイが整った。
「ねえ、ちょっと着替えてくるから」ぽっちゃり眼鏡のチビユニが手を上げる。
 美佐とセルフィーは、分かったと返事をすると、彼女はバッグを携えながら更衣室に向かった。
「じゃあ私もいい?」セルフィーも後に続く。
 二人ともコスプレに着替えるつもりなのだ。当然美佐も用意してある。実のところ、この日のために半年も前から準備していたのだ。
 去年はプリキュアだったし、一昨年は、けものフレンズだった。今年は大人気アニメときめきセインツの島原塚ハルカを用意している。服飾には自信があったので、誰にも負けない自信があった。特に今年はこれまでで最高の完成度であり、自分でも渾身の出来と思えるほどだった。
 昨夜も最後の仕上げを施して、試着もしている。普段ならとても恥ずかしくて着れそうもない格好だが、この日ばかりは勝手が違う。
 会場の中は誰もが別人になることができて、思いきり羽目を外して良いのである。
 妄想を膨らませていると、チビユニとセルフィーが戻ってきた。
 チビユニは涼宮ハルヒ。セルフィーはファイナルファンタジーのセフィロスだった。
 チビユニはその体系がゆえに、とてもハルヒには見えないが、セルフィーの方はなかなか様になっている。特に白髪のカツラが、元のキャラをより一層引き立てていて、男装の麗人として、美佐もうっとりするほどであった。
「それじゃあ、私も行ってきます」美佐はリュックから紙袋を取り出すと、行列の並ぶ更衣室の最後尾に立った。
 二十分ほど待たされ、美佐が更衣室に入った頃には、すでに開場が始まっていた。
「仕方ないわね。でも、焦って破けでもしたら元も子もないわ。慎重に着替えましょう」
 そう独り言をつぶやきながら袋を開けると、なんと入れていたはずの衣装がなく、代わりに怪しい老人からプレゼントされたジャスティススーツが入っていた。美佐は貰ったことさえも忘れていた。
「……嘘でしょ? ちゃんと確認したはずなのに……」
 ショックを隠し切れない美佐は呆然となるが、まだ順番待ちしている女子たちが待ち構えていて、どうするか決断しなければならない。
 ――こんな恥ずかしい恰好なんて、できるわけがないわ。
 そう確信した美佐は、ため息をつきながら更衣室の扉に手をかけた……。
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