第10回:アホじゃなくなる病気

文字数 2,770文字

 それはもう九月も終わりに近い木曜日の午後。私は会社で勤務中であった。

『ひーちゃんウチ死ぬかもしれへん』

 トイレに行ったついでにスマホを見たら、アカネからメッセージが届いていた。自撮りナシだ。(補足をすると、昼休みとかでなければ、席にいるときににはスマホを見ないようにしているのである。)

『ウチコロナかもしれへん』
『もうあかんかもしれへん』
『ごめんもうすぐ誕生日やのに』
『おかねもためてたのに』

 次々にメッセージが短文で積み重なっていた。私が仕事をしているあいだに散発的に送り続けていたようだ。
 ゴメン……!
 申しわけなさでいっぱいになった。
 アカネも私が仕事中なのは知っている。いつもならばタイミングを見計(みはか)らって、アホで自分大好きなメッセージを送ってくる。
 ただごとではない。なぜならば、それがよりにもよってアカネのことなのだから、私には分かる。
 

(←強調)アホで可愛くてそして元気――という設定の――アカネ。決して弱音を吐くことのないアカネ。もちろん、アイドル現役時代からそうだった。それは私と付き合い始めてからも変わっていない。頑張り屋で、私に対してですら弱みを見せないできた。見せたのは例のオカネない事件のときくらいだ。そのアカネが『あかん』と言うのだから、事態は深刻に違いないのである。
 実際に、もしも新型コロナウイルス感染症だったとするならば。『死ぬかもしれへん』というのも、まだまだ大げさではない。人がバタバタ亡くなっていたのも、つい数年前のことだ。ワクチンができたとはいえ、いまは接種を受けてから日にちがかなり経っている。まだ効果が残っているとは思いがたい。症状が軽くなければ、死ぬというイメージが浮かんでも来るだろう。気が弱くなってくるだろうから、なおさらだ。
 とにかくアカネは常にアホで可愛くて元気(ということになっている)。
 異常事態。

 とはいえまだ仕事中だ。会社を抜けるのは難しい。単に「急用です」では理由にならない。かといって「フィアンセが死にそうです」とも言えまい。その日は残業なしで定時に退社することにした。心中(シンチュウ)では気が気でなく、仕事がまともに手につかなかったのだが。
『わかった。仕事終わったらすぐ行く』

 アカネから返信が来るかもしれないので、スキをみて積極的に休憩を細切れにとり席を外す。アカネから返信が来ていた。

『あかん うつるから ひーちゃん こやんといて』

 ますます危機感が募る。そんなこと言われたら。ヒャクパー、冗談では済まない状況なのだ。
『行くから。心配せやんでええ。N95マスクしてでも行くから待っとり』
『絶対死なさへんから』

 まさか……いますぐ死なへんやろな……? 会社なんかおいといて、いますぐ行ったほうがいいんだろうか。

 夕方。退社すると、電車でアカネの最寄り駅に真っ直ぐ向かう。
 駅前のドラッグストアで買い揃える。緊急事態だ。安い店に行くヒマはない。アカネのためならオカネなんてどうでもいい。
 タイレノール。吸熱シート。抗ウイルス性があるらしいマスク。スポーツドリンクは二リットルではなく五〇〇ミリリットルボトルで何本もまとめ買う。すぐ飲みたかったとしても二リットルでは病人には重いからだ。念のため経口補水液も。それと、レトルトの

を数パック……。なかなかの量の買い物。
 トイレに入り、早速だがマスクを付け替えた。薄っぺらいが、これが私の防具となる。

 アカネの部屋の鍵は持っている。オートロックも開けるし、玄関ドアまで急行だ。いや、超特急だ。
 呼び鈴のボタンを押す。まあ鈴というわけでもないのだが、ファミリーマートのアレ(たぶんパナソニックのヤツ)というわけでもなく、ありきたりなカメラ付きインターホン。こういうときに限って、そんなくだらないことが頭に浮かんだ。
 カメラが付いているから中から覗けるようにはなっているわけだが、今日はおそらく確実に、アカネは出てこられない。ヘバって苦悶していると想像がつく。
 ゴンゴンゴンッ。「入るで!」
 返事も待たないで、手持ちの鍵で扉を開ける。
 ワンルームの狭い部屋。薄暗い。常夜灯や電気機器のインジケーターくらいで
あとは外からの光だけ。
 照明をつける。思ったとおり、ベッドの上で()せっている。
「来たで」アカネに。「もう大丈夫や」
 アカネは目を覚ましていた。声がほとんど出ない。
 靴を脱いで玄関から上がった私が近づく。申しわけなさそうなのと、助かったというのと、それぞれ半々なのだろうが、それすらも表情が弱々しい。当然スッピンだが、いまさら驚くようなことでもない。ただ顔立ちがボヤけているだけのこと。本人はスッピンがイヤかもしれないが、アカネは可愛い。私のなかでは。
 自力で起き上がろうとする。その弱々しい姿に、
「ええから、起きやんでええから……」

 触って分かる凄い熱。
 食べていないというし、とりあえずは

をなんとか食べさせた。起き上がるのも食べるのも、私が手助けした。経口補水液と一緒に解熱剤を飲ませる。そしてようやく思い出したかのように体温を計ってみると、三八度。体温計は外に出されていた。アカネ自身もいくらか前に計ったみたいだ。なるほど、『あかん』のを自分でも認識していたわけである。
 身体が痛いか訊くと、うん、と。うなずく。
 ただの風邪ではない。インフルエンザか? 『新型コロナ』か? 可能性は半々といったところ。インフルも流行している。そういえば抗原検査キットでも買っておけばよかった、と思ったが、しかしここで素人が検査して何がどうなるものかもあやしい。
 この夜のいまさら病院はない。アカネのこの具合では、昼間でも歩いて行けなかっただろう。無理をさせるのもよくない。しかし緊急入院かというと、私のいままでの人生経験からいけば、やや否定的に傾いた。パルスオキシメーターがあれば、救急車を呼ぶかどうかの判断もできたかもしれない。

 トイレに行くのも大変なので手を貸したり。足もとがおぼつかない。これで転んだりしようものならば、ただごとでは済まないかもしれない。

 ようやく寝ついたアカネを眺めながら、イスに座って考える。
 どうしてこんなにひどくなるまでアカネは黙っていたのだろうか。
 私に心配かけたくないから? 迷惑をかけたくないから?
 うつしたくないから? 言ったら私が来ることが目に見えているから。
 それとも、私の誕生日が近いから? なんとしてでもひとりで治すつもりだったのだろう。

 一晩看病していた。
 眠れない。
 徹夜だ。明日も会社があるのに。あとさき考えてなかった。

 眠る気がしなかった。

 二〇二〇年初夏、『新型コロナ』は私の最後の肉親をも奪っていった。死に目も、葬式までも。
 勝手に死なせへん。もうこれいじょう……

〈つづく〉
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