ただならぬ営業

文字数 2,719文字

 インターホンが鳴ったのでドアを開けると、スーツ姿の男が立っていた。年は40代に差し掛かろうというところだろうか、とにかく働き盛りであることは確かだ。また、年齢相応のキャリアを重ねてきていることも分かる。何故なら、男が見せているにこやかな面構えは決して嫌らしくなく、かといって軽薄なものでもなく、相手に信頼を与えるような代物であり、その表情の完成度が、積み重ねた経験を語っていたからである。

 ただの営業だろうと思っていたが、その考えは間違えであった。男は、こちらに何を言うわけでもなくおもむろに鞄に手を入れると、赤子の頭程ある大きなおにぎりを取り出した。そしてそれを、顎が外れそうな程大きく開いた口に丸々一個突っ込み頬張り出した。 

 次に男は、胸ポケットに手を入れ、名刺を取り出し私に渡した。

「株式会社白熱電気 頬張り営業部 斎藤隆夫」

 男はただの営業をしに来たのではなかったのだ、頬張り営業をしに来たのだった。

 玄関の前で、男は延々と頬張り続ける。勿論言葉によるやり取りはないが、それどころか、男はボディーランゲージをすることもなく、黙々と頬張っている。成程、筋金入りの頬張り営業マンというわけだ。きっとこれまで、頬張り営業界で叩き上げられて来たに違いない。きっと社内の頬張り営業成績もトップクラスなのだろう。

 男の視線は常にこちらに向いており、決して男から逸らされることはない。頬張り営業技術への自負と紹介しようとしている商品への自信が、その瞳を満たしている。また、まるでこちらの意識を吸い込むようなその眼差しに、こちらも目を背けることができない。  

 私は自分が対峙しているこの頬張り営業が、断る為に相当な労力を要するものであることを予感していた。

 男の口の動きが少なくなるに連れて、私の緊張は高まっていった。気分は背中合わせのガンマンである。男の口内に残された最後の米粒が喉を通った瞬間、戦いは始まる。

 小さくなってゆく頬は、やがて通常サイズに戻り、唇が描く波線は、徐々に穏やかになり、凪になった。そして一寸の時を置いた後、遂に男の喉仏が音を立てて上下した。決戦の火蓋が切って落とされたのである。    

 その瞬間を見逃さなかった私はすかさず、

「結構です」

 と言ってみせた。しかし、その言葉は、放たれた途端にその効力を失ってしまった。

 なんと、男が二つ目のおにぎりを頬張り始めたのである。私は自分の立っている場所が崩れてゆくような錯覚に苛まれた。私も何度か頬張り営業を体験して来たが、並みの頬張り営業マンであったら、頬張り終わると同時にパンフレットを渡して来る。しかしこの男はなんと、更に頬張ろうというのだ。

 二回目のカウントダウンは、一回目のそれとは明らかに異質のものであった。先程とは全く種類の異なる緊張が、私の頬に汗を伝わせた。

 私には男の行動が予測できなかった。このカウントダウンが終わった瞬間、男はまた頬張るのか、それとも遂にパンフレットを差し出して来るのか、全く読めなかった。

 そもそも、男は何故二つ目のおにぎりに手を出したのか、それを考えれば相手の狙いを読み、打開策を講じることができる筈だ。

 私は思案した。するとそれを察知してか、男の咀嚼の速度が上がり始めた。タイムリミットを短くする姑息な作戦である。そうはさせないと神経を脳に集中させた。

 男の視線が気にならなくなった時、不意に、神からの啓示を受けたかのように私に答えが降って来た。

 この男は、私がこのように動揺することを狙っていたのである。二個目のおにぎりを頬張り終わった瞬間、男が頬張るのではないかと私が身構えたその隙を突こうとしているのである。ということは、次こそはパンフレットを差し出して来る筈だ。咀嚼を速くしたのがその考えを証左している。その手は食わない。

 迷わず「結構です」と言ってやろうと、私は悠然と構えた。

 しかしその時、私は男の顔に不適な笑みが浮かんだのを見た。その今までとは明らかに意味を異にする微笑みを目撃した途端、私はいよいよ男の瞳に体ごと落下してゆくような心持がした。その深淵なる黒の中で、私は非常にちっぽけな存在であった。私は自分が完全に男の術中に嵌っていることを確信した。

 全て読まれているということを理解したところで、私に打開策はなかった。何故なら、いくら相手の裏をかこうとしても、裏返り合う「頬張り」と「パンフレット」を決着させる為の手掛かりとなる、男の疑い深さがどれ程のものなのかを計れない上に、その無限の裏読み自体が男の策略に違いないからである。

 私に残された手段は、最早自分の運に身を任すことのみであった。私は内心では白旗を掲げつつも、せめてもの抵抗として「結構です」と言ってやろうと決心した。きっと既に動揺に疲れ果てた私の脳は、「とりあえずご覧になるだけでも」の常套句から始まるセールストークに押し負けてしまうだろう。しかし一時的に、言葉だけでも抵抗することが、これまでの私の奮闘を鎮魂する唯一の方法なのである。

 男の咀嚼が終わろうとしている。表には見せないが、きっと私の様子を見て頬張り営業の成功を確信しているのだろう。私の完敗である。きっとこの男は、頬張り営業の天賦の才に恵まれた上、数多の頬張り営業の修羅場を潜って来た、頬張り営業マンの頂点に君臨する男なのだ。

 終戦を告げる嚥下が終わった。私は好敵手に敬意を払う為に、握手を求めながら、「結構です」と言った。私に悔いはなかった。あるのは清々しい汗だけであった。

 しかし、出した手が触れたのは、相手の手でなければ、パンフレットでもなかった。男は、私の手におにぎりを握らせたのである。

 爽やかな汗が急に冷え始めた。相手は相変わらずの表情で私に視線を向けている。まさか、「頬張れ」というのだろうか、頬張り営業客に対して、頬張り営業マンが、「頬張れ」と、そのような意図で私におにぎりを渡したのだろうか。

 私は、自らの浅はかな考えを呪った。相手を知ったつもりが、それは男のほんの上辺に過ぎなかった。私が闇だと思い震えていた場所は、まだ浅瀬であった。私が筋斗雲に乗って飛び回っていた山脈は、釈迦の掌であったのだ。

 私はおにぎりを片手に、底のない沼にゆっくりと沈んでいった。徐々に光が遠退き、辺りは暗くなってゆく、やがて、意識は男の闇に完全に包まれた・・・。


 後日、「頬張り営業連続殺人」の被害者として私がニュースに取り上げられたことを、私は知らない。

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