時間の牢獄(前編)

文字数 17,027文字

 からからと、小さな子供が声を出す。
 からからからと、軋み重なり音が鳴る。
「あはは、回る回る」
 壊れかけの歯車を何度も何度も繰り返し強引に回すことで、時の流れゆく方向を確かめる。
 音は歪み窮屈さを訴えるが、耳を傾け手を止めることはない。思考にズレが生じようとも己を保ち、狂い始めた箇所を認識する為にも、それは不可欠な行為と言えよう。だが、
「……はは」
 失敗は時間が取り戻す。成功するまでやり直せばいい、と。
 怖がることは何も無い。不安を感じる必要も一切無い、と。
 それなのに、何故なのか。
 無垢であったはずの瞳は、視界を霞ませた。
 大粒の涙が頬を伝い落ち、その心に隙間を作り出す。拭っても拭っても、溢れ出る滴を止めることができない。
「つまらない……全部全部つまらないね」
 狂いゆく思考に語り掛け、口元を歪ませる。
 ぽつりと出る言葉には、後悔が潜んでいた。
 その問いに、口を開く者はいない。ここにいるのは一人だけ。
 だからか、からからと笑う。
 せめて笑っていなければ前に進むことができない。今更立ち止まることなど不可能なのだ。
「いつになったら、終わるのかなあ……」
 意味が無くともあるはずと、疑うこと無く信じ込み、小さな子供は己の手で歯車を回す。それが正しい行為だと信じている。
 辿ることのできない終着点を求め、終わりの見えない旅を続ける。
 やがて、また出会う。
 予め決められたものを受け入れまいと。
 やがて、また出会う。
 今度こそ運命を捻じ曲げてしまおうと。
「……あ、着いた」
 そして呟く。小さな子供は喉を鳴らし、同じ台詞を繰り返し繰り返し――……。

     【1】

 それは地から離れた空の上の出来事だ。雲と雲の合間を抜けながら、一台の小型ソリがゆっくりと走っていた。
 操縦席に座る青年は、赤の遊びの入った帽子を被り、首元にはマフラーを巻いていた。
 マフラーの先に付いた小さな鈴が、風に揺られて音を響かせる。鈴の主張を耳で受け入れつつも、青年は無段変速機を二速へと入れ替えると、足元のペダルを少し緩めて速度を落とした。
 地を窺うように目線を下げ、近隣に町や村があるか否かを確認する。
 と、その行為が合図となったのだろう。青年の隣から、可愛らしい声が聞こえてきた。
「ねえ、エズ。お菓子が無くなっちゃったよ」
 助手席に腰掛け口を開くのは、青銀に染まる髪を二つに結った女の子だ。胸元には埃の付いた古臭いクマのヌイグルミを抱いている。
「三日前に買い溜めたはずだ」
 エズと呼ばれた青年は、地から視線を移さずに口を動かす。すると女の子は、何を当たり前のことを、と言いたげな表情を作り込んだ。
「だからそれが全部無くなったの」
「……まさか、全部食べたのか」
 ようやく、エズは顔を上げ、助手席に座る女の子に目を向ける。だが、それに伴い女の子の視線が逸れていく。
「い、言っておくけど、わたし一人で食べたんじゃないからね? エズだってほら、少しは食べたでしょう? ……たぶん」
 曖昧に、多分と言う。
「ぼくは一度も食べていない」
 エズが返事をすると、女の子はそれ以上口を開かずに地を見下ろす。
「クイイジッテノハナオラネーモンダナー」
 すると、何処からともなく別の声が響く。
 と同時に、女の子はクマのヌイグルミの頭の部分を叩いた。
 その瞬間、またもや何処からともなく別の声が「イテエッ」と叫んだ。
「お腹が減っちゃうのって、人として普通のことだと思うの。だからわたしね、もっとたくさんお菓子を買うべきだったと後悔してるわ」
「カーミン……太るぞ」
「失礼ね、ちゃんと運動するから平気よ」
 助手席に座る女の子は、カーミンと呼ばれた。
 太ると言われてご立腹の様子だが、多少なりとも気になったのか、お腹の辺りに手を置く。
「カカカッ、ダイエットシネエトナー」
「クマー、うるさいから」
「オーコエエー」
 地と空。この世界は大きく二つ。
 人々は地を「下界」と言い、何処までも続く大陸に根を生やし生活していた。一方、下界の空には、雲よりも高く浮かぶ島々、通称「浮遊島」が存在する。浮遊島に住む者は、下界の人々から「赤の人」と呼ばれていた。
 赤の人は不思議な力を持っており、形が有り生命を持たない物であれば、どんな物でも具現化し、何も無い空間から生み出すことができる。
 故に、求められた。下界の人々から、願いを叶えて欲しいと。
 だが、願いを叶えるには条件がある。
 赤の人が持つ不思議な力は、下界に生きる子供達が抱く夢の力が源となっている。しかもそれは、ただの夢では意味を成さない。純粋無垢な心を持った子供達の夢に限られている。
 子供達の願いを聞き届け、夢を叶えてあげることで、赤の人は夢の力を得ることができる。
 その夢の力によって、浮遊島は空に浮かぶことが可能となり、赤の人は願いを叶え続けることができるのだ。
 故に、求められても叶えることはない。夢を持たない子供や、欲に塗れた大人達、夢を叶えることで欲を知ってしまった子供達の願いは、浮遊島にとって毒にしかならないから。
 だが、もし知らずに叶えてしまったら、その時は赤の人の終わりを意味する。汚れた夢の力を取り込むことで他者の欲に溺れ、自分自身が何者であったのかを忘れてしまうのだ。
 赤の人として生きてきたことを忘れた者は、どんな者の願いでも叶えてしまうかもしれないという、危険を孕んでいる。
 だからか、赤の人は彼等を処罰の対象と見なし、存在そのものを認めず、欲に溺れ黒く染まる者、通称「黒の人」と呼び、否定した。
 そして、下界の人々は知らない。黒の人が元は赤の人であったことを。
「ふわぁ。……欠伸が出ちゃった」
 可愛らしい声が、助手席から聞こえた。
「食べ過ぎで眠くなったか」
「ううん、それは違うわ。今までずっと起きてたから、そのせいだと思うの」
 助手席に座ったまま、カーミンは両手の指を組んで真上に伸ばす。暫く座りっぱなしだったので、疲れが溜まっていた。
「早く次の町に着かないかなあ。そしたら眠気もすぐに吹き飛ぶのにね」
 横目にエズを見て、もう一つ欠伸をする。その視線に気付いたのか、エズは肩を竦めた。
「もうすぐ着く」
「ほんとに?」
 言われて頷く。エズの言葉が事実であれば、間もなく目的地に着くらしい。カーミンは口の端を上げ、笑みを浮かべた。
「今度はお菓子をいっぱい買い溜めておかないとね。わたしの分と、エズの分でしょう? あとはクマーの分も……」
「オレノブンハ、オメーガクウキダローガ」
「そんなことないわ。でももし食べることができなかったら、仕方ないから代わりにわたしが食べてあげてもいいけど」
「テメーコノヤロー」
 あははと笑い、カーミンがクマのヌイグルミに向けて舌を出す。そんなカーミンの顔を見やり、エズは僅かに頬を緩めた。
 カーミンは黒の人だ。元々は浮遊島に生きる赤の人であったが、夢を持たない子供の願いを叶えてしまったが故に、自分自身が何者であったのかを全て忘れてしまった。
 幼い頃、同じく赤の人である父の背中に付いて回り、カーミンは度々下界へと顔を出していた。下界の景色は見ていて飽きが来ず、実に楽しいものであったが、父が子供達の願いを叶える間は何処にも行けずに退屈していた。
 だが、ある日のこと。カーミンは一人抜け出し、飢餓に苦しむ死にかけのエズと出会った。
 死の淵にいたエズの願いは、赤の人になることだ。しかしながら、カーミンはその願いを叶えてはならないことに気付いていた。
 何故ならば、エズは純粋無垢な心の持ち主ではなかったから。
 けれども、カーミンは自分が赤の人であることを理解はしていても、願いを叶える相手を見極め、選ばなくてはならないことには疑問を抱いていた。目の前に苦しむ人々がいるというのに、夢を持たないからといって、手を差し伸べないのは如何なものなのかと。
 純粋無垢な子供心を持っていたが故に、カーミンは頭を悩ませた。そしてエズと出会った時、その迷いは晴れ、一切躊躇うことなく願いを叶えてみせた。
 その結果、エズは赤の人となった。
 しかし、エズはただの赤の人ではない。下界に住む普通の人間から赤の人になった変わり種であり、赤の人の願いの範囲を知らずに赤の人になりたいと願い、叶えてもらったのだ。
 それ故、エズは何者にも縛られない。形無き物や生命あるものでも自由自在に具現化することが可能であり、浮遊島に縛られないが故に、欲を持った願いを叶えたとしても、自分自身を忘れることがない。赤の人を超えた赤の人として、自由気ままな旅を続けることができていた。
「あっ、見えた!」
 下を見ながら、カーミンが声を上げる。辺りに雲が見当たらなくなると、下界の景色がよく見えるようになり、カーミンの瞳に町の姿が映り込んでいた。
「すごいところにあるね、あの町」
 カーミンの言うとおり、下界に見える町は海沿いの崖縁に作られていた。地震が起こると、そのまま崩れてしまいそうである。
「はあ、楽しみだなあ。あの町で色んなお菓子を買うんだよね」
 だが、カーミンは町が何処に作られていようがお構いなしだ。もはや、お菓子を買うことが目的の一つとなっていた。
 一方のエズは、それはそれで構わないと考えている。何故ならば、二人は何かを目的に小型ソリを走らせているわけではない。
 これは、あてのない旅なのだ。
「無駄遣いはしないぞ」
 とはいえ、お菓子ばかりに目を向けるわけにもいかない。程々が一番だ、とエズは口を開く。
「えー、少しぐらいならいいでしょう? だってお腹が空いたら困るもん」
「お菓子じゃなくて、ご飯を食べるんだな」
「それはそれで食べるのになあ」
 ぷくっと頬を膨らませて、カーミンが返事をする。赤の人であれば、お金を具現化することなど造作も無いことだ。食べきれないほどのお菓子を買うことも不可能ではない。だが、甘やかしてばかりではいけない。
「着陸するぞ」
「はーい」
 クマーをしっかりと抱き直し、カーミンは鼻歌を口ずさむ。町に入るのは数日振りで、気分が高まっていた。
 エズは無段変速機を動かし、足元の装置を踏む力を緩める。
 二人を座席に、クマのヌイグルミを胸元に、大小幾つかの旅荷を荷台に載せた小型ソリは徐々に速度を落とし、着陸態勢へと入る。
 操縦桿を傾け、地面擦れ擦れのところを浮いたまま進む。無段変速機を中立部に戻し、動力の伝達を切り、エズは小型ソリを地に停止させた。衝撃吸収用ベルトを外して操縦席から降りると、荷台へと目を向ける。
「降ろすぞ」
「任せて」
 ニコッと笑い、カーミンが助手席から降りる。
 小さな鞄を一つ手に取り、肩に掛けた。それはカーミンのものだ。中身はお菓子がほとんどだが、此処に着くまでに全て平らげてしまったので、今は空っぽだ。
「キュークツダゼー」
「我慢して、クマー」
 お菓子の代わりにすっぽりと埋まるのは、今まで胸に抱かれていたクマのヌイグルミだ。
 それは、当然のように文句を呟く。
「ねえ、今思ったんだけど、もっと大きな鞄を買おうかな?」
「鞄を?」
「うん。だって鞄が大きかったらお菓子もたくさん入れることができるもん。だから今日は鞄探しをしてもいい?」
「好きにしろ」
 カーミンの提案を耳に、目を合わせずに答える。とその時、エズはカーミンの手を取り、辺りを見渡した。
「どうしたの、エズ?」
「見られている」
 そう言って、エズは目を動かす。
 町から少し離れた場所に小型ソリを停めたが、どうやら下界の人間に見られていたらしい。
 赤の人の来訪に、町はざわつき始めていた。
「あっ、誰か来るけど」
 町の方角から、杖を突いた男性がゆっくりとした歩調で近づく。遠目からも分かるほど、その男性は疲れた表情をしていた。
 更に離れた場所に、その背を見守るかのように置かれた彫像が一つ。その彫像は、何処か物悲しい雰囲気を醸し出していた。
「もし、旅の御方……。勘違いでしたら済みませんが、もしや赤の人ではありませんか?」
 エズとカーミンの傍まで寄ると、男性は二人の様子を窺うかのように問い掛けた。が、
「違います」
 エズは否定する。
 それは全く迷いの無い返事だ。
 赤の人ではないかと訊ねられ、はいそうですと言うと、では願いを叶えてくださいと言われてしまうのは、分かり切ったことだ。
 一々相手をしていては、面倒極まりない。
「違うと……そうでしたか。鈴の音が耳に届き空を見上げてみましたら、お二人が乗るソリが降りて来ましたので、ひょっとしたらと思ったのですが……」
 マフラーの端に付けられた鈴の音が、住人の耳に届いていたらしい。
 エズの返事に眉を潜める男性は、ガッカリしたような表情を作り込む。赤の人に願いを叶えてもらおうと考えていたのかもしれない。
 赤の人は、純粋無垢な子供達の願いしか叶えることはないが、下界の人々にとって、そんな条件は全く関係ない。
 己の願いを叶えることができれば、赤の人が死のうが浮遊島が無くなってしまおうが構わないと考える者が後を絶たないのだ。
 この男性が、その手の輩であるとは限らないが、やはり大人の願いを叶えることはできない。
 しかしながら、男性は食い下がる。
「でしたら、御二方は……この町の願いを叶えることはできないのでしょうか」
「赤の人ではありませんので」
 願いを叶えることができるのは、赤の人のみ。
 他の人間には叶えることができない。
 故に、この男性の問い掛けは意味を成さないものでしかない。ただ、
「町の願いって?」
 変な言い回しに、カーミンが聞き返す。目の前の男性が何を願いたいのか気になってしまったのだろう。鞄の中に詰められ、顔だけが出た状態のクマーも、ピクピクと反応を示していた。
「アレをご覧になってください」
 後ろを振り向かず、目を動かす。その仕草の先にあるのは、先ほど視界に入った彫像だ。
「あの彫像が何か」
「彫像……? いえ、彼等は町の番人です」
 彫像のことを、男性は町の番人と称し、彼等と呼んだ。つまり、あの一体の他にも似たような彫像が町の中にあるということだ。
「町の番人を……彫像にさせてるの? 悪い人が入って来ないようにするために?」
 カーミンが問うと、男性は疲れ切った顔で唇を震わせる。
「いえ、そうではないのです。彼等には別の役目があります……。彼等は、私達を見張っているのです」
「見張るって……もしかして、何か悪いことでもしちゃったとか」
「いいえ、何もしていません。普通に暮らしているだけです」
 それなら何故、と言おうとするが、男性が先に言葉を続けた。
「この町の住人達は、町全体を牢獄だと思っています。彼等が見張っているから、私達は誰一人として外に出ることができないのです」
「今、貴方は外に出ていますよね」
 エズが指摘する。
 彫像に見張られていると言っているが、意味が全く分からない。彫像が動くはずもなく、逃げることは容易く見えるが、住人達は何故、逃げようとしないのか。
 そもそも、あの彫像は誰が何の目的で作り、住人達を見張らせようと思ったのか。
 疑問は絶えない。
「外に出ても……何度遠くに逃げようとしても、無駄なのです。ここは、この町は……時間の牢獄なのですから」
 重い口振りで呟き、町の男性は昔を思い出すかのように語り出す。
「今から百年以上前になるでしょうか……。ある日のこと、この町に赤の人が訪れたのです」

     【2】

 願いを叶えることができる赤の人が、町に姿を現した。その事実に住人達は歓喜し、我先にと願いを叶えてもらおうと群がった。
 けれども、赤の人が住人達の願いを叶えることはなかった。欲を持った願いを叶えることはできないからだ。
 だが、住人達には赤の人の事情など関係ない。
 願いを叶えてくれないのであれば、赤の人など意味の無い存在である。だからだろうか。
「互いの欲を叶える為に、住人達は赤の人を拘束することを決めました」
「ひどい……」
「ええ、そうですね。今思えばとても酷いことをしました。あの時、思いとどまってさえいれば、こんなことにはならずに……」
 起こしてしまったことを悔やむが、今更どうすることもできず、更に言葉を続ける。
 願いを叶えるまでは、解放されることは無いと赤の人に告げ、早く叶えろと住人達は命令した。けれども赤の人は、決して願いを叶えることはなかった。
 そしてとうとう痺れを切らした住人の一人が、赤の人を殺してしまう。それが、この町を時間の牢獄へと変える切っ掛けとなった。
「赤の人が死んだ後、悪魔が現れました。何も無い空間に亀裂が入り、その隙間から手を出し、顔を覗かせ、身を乗り出してきたのです」
「……悪魔が?」
 眉を潜めるのはエズだ。
 思いがけない言葉に興味が沸いたのだ。
 その悪魔は告げた。赤の人は己の願いを叶え、町全体に呪いをかけたと。
 願いの内容は、ただ一つ。永遠とも思えるこの苦しみを、町の住人達にも与えたい。早く死を求めたくなるほどの苦痛を与えたい、と。
「はい。四つの目と四本の角を持つ悪魔は、時を戻す力を持っていました」
 結果、赤の人の願いを叶える為に悪魔が姿を現し、町に恐ろしい呪いを掛けてしまう。
「時を戻す……ですか」
「はい。その通りです」
 悪魔は、住人達が町に囚われて、日々を繰り返すことしかできない呪いを掛けた。
「おかしいですね。赤の人は、形無き物を具現化することはできないはずですが」
 だが、エズが口を挟む。
「そうなのですか? しかしながら、現に願いは叶ってしまいました……」
 男性の話が正しい可能性は十分にある。何故ならば、この町で死を迎えた赤の人は、己の願いを正確に叶えることができていないからだ。
 永遠とも思える苦しみを与えることはできているが、早く死を求めたくなるほどの苦痛を与えることはできていない。
 或いは、肉体的な苦痛ではなく、精神的なものだとすれば、その願いは正しく叶えられたのかもしれないが、けれどもやはり疑問は残ってしまう。それは、形無き物を具現化する点だ。
 自らの命を引き換えに願ったが故に、悪魔を具現化し、叶えることができたと考えるのが普通だろうか、と。エズは思考を巡らせるが、すぐに考え直す。必要なのは昔話ではない。今現在、目の前にあるものなのだ。
「では一つお訊ねしますが、貴方の願いとは、呪いを解くことですか」
 聞くと、男性は「はい」と頷いた。
「呪いを解くことで、この町は時間と言う名の牢獄から解放されます。明日を楽しみにすることができるのです」
「エズ、明日になったら時間が戻るなんて、信じられないけど……」
 ぼそりと、カーミンが呟く。
 その意見はもっともだが、この世界には赤の人が存在する。時間を戻すことも決して不可能ではない。実際に、エズはその手の願いを叶えたことが何度かあった。
「町に入ることはできますか」
「町にですか? もちろんですが……明日になると時間が戻りますので、外部者の御二方は強制的に町を追い出されることになりますよ」
「強制的に……そうなると、どうなっちゃうの」
「日を跨ぐと同時に、御二方は町の入口に戻ってしまいます。これは、過去に町を訪ねた商人や旅の方々の話を聞いて確定していることです」
 町の中にいたとしても、日を跨いだ瞬間、エズとカーミン、そしてクマーは、町の入口へと強制的に移動する。つまり、外部者はこの町に一日以上は干渉することができないことになる。
「例えば明日以降、日を跨いですぐに御二方が町を訪れたとしましょう。その時、御二方は今日の出来事を覚えていますが、残念なことに私達は覚えていません」
「え、なんで?」
「明日以降、御二方が言葉を交わす私は、今実際にお話している私とは異なるからです」
「……ごめん、エズ。話が全くわかんない」
「世界線が違うってことだ」
「世界線……?」
 何を言っているのだろうかと、カーミンは小首を傾げる。
「今此処で御二方と言葉を交わす私は、今日限定の私になります。勿論、私自身も御二方と話した記憶は持ったまま明日という名の今日を迎えることになるのですが、時間が戻ってしまうので、明日以降私が出会う御二方は、一日遅れの御二方になります。そしてその御二方は、私と言葉を交わしたことがありません」
「頭がこんがらがっちゃうよ……」
 カーミンは、もはや何が何やら分からずにお手上げといった状態だ。
「時間が牢獄の役割を果たしているのは理解できました。しかしそれとアレとは関係ないように思えますけど」
 エズが言うのは、彫像のことだ。
 赤の人の願いと言う名の呪いによって、町が同じ日々を繰り返し続けるというのであれば、住人達の見張りをするという彫像が存在する意味はあるのだろうか。
「彼等は歯車で作られた存在です」
 すると、男性は答えを呟く。
「赤の人が死に、悪魔が姿を現した時、彼等が具現化されました。彼等は己の体に使用されている歯車を逆回転することで、時を戻す力を与えられているようです」
「歯車でできた存在ですか……」
「ううー、全然分かんないよ」
 思考し、予想を立てる。
 この町で死した赤の人は、己の願いを叶える為に、形ある物……この世界の何処かに存在する悪魔を呼び寄せ、形無き物を生み出すことを頼んだのかもしれない。
 その悪魔に願いの続きを叶えてもらう為に、赤の人が何らかのものを差し出した可能性も否定はできないが、そうであれば納得がいく、とエズは思った。
 赤の人の願いを叶える為に、悪魔が生み出した物が、歯車でできた彫像だとする。
 後を託された彫像は、町を呪う役割を持っているのかもしれない。
 形ある物に形無き物を与えること。つまりは、時を戻すという行為を実行に移すだけの力を、形無き物に与えることは、通常であれば不可能だ。何故ならば、赤の人にできないことを赤の人が作り出した何かで成すことはできないからである。故に、悪魔は実在するものであり、たまたま赤の人の願いが届いたことになる。
 しかし、実際にそう上手く事が運ぶのだろうか。エズの思考に、新たな疑問が浮かび上がる。
「あの、赤の人ではないのでしたら、それはそれで構いません」
 コホンと咳を吐き、男性は目を泳がせる。
「……ですが、この町を哀れに思っていただけるのでしたら、町を助けると思って、一つだけお願いを聞いてはいただけませんか?」
 赤の人にではなく、下界の住人に向けた願いを、エズとカーミンに頼もうとする。
「お願いって、どんなの?」
「赤の人を探し出して、町まで連れてきてください……。私達は、一日経てばまた同じ日を繰り返すことになります。時間の牢獄に閉じ込められたままでは、赤の人を探して呪いを解いてもらうことすらできません」
 ですからお願いします、と懇願する。
「でも、日を跨いだら別の世界線になるとかなんとか言ってたよね? それって、わたし達が赤の人を連れてきても、今わたし達とお話してる貴方が助かるわけじゃないと思うけど……」
「赤の人は何でも叶えてくれるはずです」
 男性は断言する。
 カーミンの言う事はもっともだが、どの世界線であろうとも自分達を救い出してくれるはずだ、と信じる他に術がない状況であった。
 けれども、エズは素知らぬ顔で口を開く。
「結局、町には入ってもいいんですか」
 既に日は暮れ始めている。この町に泊まることができなければ、今夜は野宿だ。
 専用の道具一式は自由に生み出すことができるが、エズとカーミンは町から町を移動し、その雰囲気を味わいながら旅を続けている。
 この町に入り、お菓子の買い足しや宿を見つけることができなければ、別の町や村を探す必要が出てくるのだ。
 エズの関心は、その点にしかなかった。
「そ、それは構いませんが……」
「では、お邪魔します」
「こんばんはー」
「ヒャッハー、アタラシーマチダゼ!」
 鞄の中から顔を出すクマーが声を発し、男性はビクッと肩を揺らす。
 だが、エズとカーミンは特に何かを説明することもなく、町の中へと入っていくのであった。

     【3】

「気持ちいいー」
 ぽふっ、と音が響く。ふかふかのベッドに飛び乗り、カーミンが手足を思い切り伸ばす。
「でもおかしな人達だったね。困ってるなら、彫像を壊せばいいのに」
 背伸びをし終えると、エズに話し掛けた。
「そうすればきっと、呪いも無くなるはずだもん。だよね、エズ?」
「既に試しただろうさ」
 その程度のことは、何度も試してみたはずだ。
 そしてその度に絶望もしたに違いない。
 町の中へと入り、住人達の顔色を窺っていると、誰も彼もが疲弊し切った表情をしていた。
 同じ日を繰り返すことで、一切前へと進むことができなくなり、自暴自棄になる者もいると、男性が話していた。しかしながら、一日中何もしなくても日は跨ぎ、時は戻る。そしてまた同じ日を繰り返すことになる。この町を「時間の牢獄」と称した悪魔は、まさにこの状況を作り上げることを目的としていたのだろう。
「日を跨ぐ瞬間どうなるのか、興味があるな」
「瞬間移動しちゃったりして」
「かもしれないな」
 宿部屋で言葉を交わし合いながら、エズは窓の外から町の景色を眺める。
 先ほど、町の中を散策した時に気付いたことがある。悪魔が生み出したとされる彫像は、町の四隅、つまり四つ存在している。
 それだけならば別段驚くことはないのだが、エズは彫像の形が気になっていた。
「妙な気分だな」
「うん? あの彫像のこと?」
 むくりとベッドから起き上がり、カーミンはエズの傍に寄る。そして、窓からそれを見た。
「あの彫像、エズに似てるもんね」
 帽子を被り、マフラーを身に付けた彫像は、何となくではあるが、エズに似ていた。だが、おかしなことに、それだけではなかった。
「テメーニニタモンモアッタゼー」
 カーミンの声に反応し、クマーが声を出す。
 その言葉の通り、残る二つの彫像のうち、一つはカーミンを模したかのような造りをしており、そしてもう一つが最もおかしなことなのだが、それはクマーと瓜二つの出来栄えであった。
「あの人の話に出てきた悪魔って、わたし達のことを知ってるのかな」
「恐らくな」
 何故、一度も訪ねたことのない町に、エズやカーミン、クマーに似せた彫像が造られているのか、そうでなかれば説明が付かない。
 更に、不可解な点が一つ。
「町の人達は全く気付いてなかったけど、どうしてかしら」
 カーミンが問い掛ける。確かに、この町の住人達は、誰一人としてエズ達が彫像に似ていることを口にしなかった。
「死んでいるからだろう」
「え?」
 すると、エズはあっさりと答えを導き出す。
「町の住人達は、全員死んでいる。彫像のことを彼等と呼び、あたかも生きた人間のように話していたのは、生きた者と死した者の区別がつかなくなっているからだ」
「じゃあなんで町の人達は死んだ後も時間の牢獄に拘束されてるの」
「悪魔に聞け」
「ええー」
 理由は、当の本人にしか分かり得ない。
 悪魔がこの場にいない以上、エズとカーミンは何も知ることができないのだ。
「それならエズ、せめてあの人達が誰に殺されたのか教えてよ」
 但し、彼等が誰に殺されたのかは別だった。
「時間が殺したんだろう」
「時間が……? それ、どういう意味なの」
 小首を傾げ、カーミンは聞き返す。
「時間の牢獄に囚われた彼等は、始めのうちは生きていたはずだ。だが、たとえ見た目が変わらないとはいえ、同じ日を何度も繰り返すということは、時を刻むことに変わりはない」
「あっ」
 ここでカーミンが気付く。
「つまり、中身は年を取り続けてたってこと?」
「そういうことだ」
 住人達は、百年以上前に赤の人と出会ったと言っていた。それが意味するところは、ただ一つ。彼等は寿命で死んだということだ。
「この町って、なんだか変なことばかりで詰まらないよ。お菓子も無かったし……。せっかくたくさん食べられると思ったのになあ……」
「オメーハオカシサエアレバマンゾクスルカララクナモンダゼ」
「クマー、うるさいよ」
「ヘイヘイヨー」
「……あっ、だとしたらさ、もしエズが時間の牢獄から解放しちゃったら……」
「その瞬間、彼等はただの屍と化す」
 繰り返していた時間が一度に押し寄せ、歳を取ることになるだろう。彼等がその流れに逆らうことは不可能だ。故に、彼等を救うことは初めからできないということになる。
「ちょっと可哀想……自分達が死んでいることにも気付かないなんて」
「気付いたら、もっと悲惨だと思うけどな」
 部屋の壁に、時読盤が掛けられてある。
 二つの針は、もう間もなく明日の訪れを示そうとしていた。
「……ドキドキするなあ。もしわたし達まで町に囚われちゃったら、どうしよう」
「ぼくがいる」
「うん? ……うん。そうだよね」
 エズの言葉に、カーミンは笑みを浮かべる。
 クマーを両手で抱え、二人は針が時を刻む音を耳に通し続けた。やがて、
「あと少しで、明日に……」
 日を跨ぐ。カーミンの台詞が、最後まで部屋に響くことはなかった。

     【4】

 それは、宿を探す前の出来事だった。
 エズとカーミンは、お菓子を買う為に町中を散策し、途方に暮れる最中であった。
「何処にもないよ」
「みたいだな」
 ガッカリとした表情のカーミンと、その横で小さく息を吐くエズの二人。クマーは、カーミンが肩に掛ける鞄の中に収まり、寛いでいた。
「次の町まで、お菓子はお預けだな」
「ええー、そんなの無理だよ! せっかくお菓子が食べられると思ったのに!」
「クイイジガハッタヤローニハコマッタモンダゼナー、クカカ」
 クマーの煽りに言葉を返すことができなくなるほど、カーミンは落ち込んでいた。それほどまでに、お菓子を楽しみにしていたのだ。
「こんなに活気がある町なのに、どうしてお菓子がないのかな」
 活気がある町と言い、カーミンは辺りを見回す。町の住人達は楽しげに通りを歩き、挨拶を交わしていく。
 エズやカーミンにも、愛想よく接していた。
「さっきの人の話を聞いてなかったのか」
「勿論、聞いてたよ。でも、少しぐらい残っててもおかしくないのに」
 この町の外れには、身よりの無い子供達が住む小屋があるという。住人達は、子供達が町に被害を及ぼさない為に、お菓子と食料を日々送り届けていると話していた。
「小屋に行って、子供達にお菓子をくださいって頼んでみるか」
「そんなことできないよ、もう……」
 お菓子が大好きなカーミンと言えども、さすがにそこまで図太い性格ではない。
 と、それは二人が町中を歩き、裏路地に入りながら会話していた時の出来事だ。
「……ん」
 首に巻いたマフラーが、引っ張られた。
 少し視線を落とすと、小さな子供がエズのマフラーを掴み、ニコリと笑っていた。
 丁度噂をしていた小屋に住む子供なのだろうかと、カーミンは目を向ける。
「時の砂をちょうだい」
 いつからいたのか、どこから出てきたのか、どうしてここにいたのか。エズでさえも、マフラーを引っ張られるまで気付かなかった。
 その少年は、まだ何色にも染まらない無垢な瞳の持ち主だ。そしてその瞳に映るのは、どんな願いでも叶えることができる存在である。
 しかし、だからといって素直に願いを叶えることはない。それは赤の人の役目であって、エズの役目ではない。
 何故ならば、エズは黒の人だから。赤と黒の境界線は明確にしている。
「ねえ、聞いてる?」
 少年は左手でマフラーを掴み、右手には小さな歯車を二つ持ち、器用に指で重ね合わせながら回している。
 からからと、笑う声。
 からからからと、回る音。
 己の小さな手で歯車を回すことで、少年が何かを表現しようとしているようにも見えた。
 それはまるで、時の流れが一方通行であることを強引に頭で理解しようと試み、その流れに逆らおうとしているかのようであった。
「いいよね? ちょうだいよ」
 何処と無く、居心地の悪さを感じる場所だが、この少年はエズ達が通りかかるのを此処でずっと待っていたのだろう。無垢な瞳を向ける少年は「時の砂」というものを欲していた。
 決して笑みを絶やすことなく、少年はエズのマフラーを掴み続ける。
 その姿に興味を抱いたとしても、不思議ではない。世にも珍しい物を求める姿が、エズの頭に訴えかけたのだ。
「何故、そんなものが存在すると思っているんですか」
「あなたが黒の人だからだよ」
 エズの問い掛けに「黒の人」と少年は言った。
 その言葉を耳にして、エズは更に興味を抱いてしまう。
「……では何故、貴方はぼくが黒の人であることを知っているんですか」
 エズは、自分が黒の人であることを、この町の住人には明かしていない。赤の人だと疑う者はいたとしても、黒の人という言葉自体、出るはずがないのだ。
 それなのに、この少年はエズのことを黒の人と呼び、時の砂を欲しいと願った。
「前に聞いたよ。エズさんは黒の人だって」
「えっ、なんでエズの名前を知ってるの?」
 カーミンが瞬きを繰り返し、問い掛ける。
「おねえちゃんの名前だって知ってるよ。お菓子が大好きなカーミンでしょ?」
 言われて、カーミンは肩が揺れた。何故この少年は自分の名前を知っているのかと。あと、好物も……。
「ぼくはまだ一度も貴方には黒の人とは言っていません。それにそもそも黒の人の存在を知る人自体、下界にはほとんどいないはずですが」
 言いつつ、エズは思考を巡らせる。
 過去に一度、エズとカーミンはこの少年と出会ったことがある。けれどもその時、少年に顔を見られることもなければ、名前を告げることもしていない。
 故に、エズとカーミンは奇妙な気分であった。
「ねえ、エズ。どうしてこの子、わたし達の名前を知ってるのかな」
「彼に聞いたのかもしれないな」
 それ以外には考えられない。むしろそう考える方が利口であった。
「ねえ、何処の誰に聞いたの?」
 カーミンが問い、間が開く。ニコリと笑ったままの少年は、一泊置いてから言葉を続けた。
「エズさんにだよ」
「ぼくに……ですか」
 今し方、エズはそれを否定した。少年に教えたことなどないと。
 だが少年は、それが正しいと告げる。
「うん。でもそれはエズさんとは違うけどね」
「……エズ。この子ちょっと変だよ」
「カーミンヨリアタマイッチマッテンゼー」
「失礼ね! わたしは変じゃないから!」
「ンジャー、テメーモコノガキニシツレイナコトイッテンダッテジカクシナー」
「うっ、確かに……」
 クマーの指摘に、カーミンが口を閉じる。
 そんな様子を見ながら、少年は当然のように笑った。クマのヌイグルミが言葉を発することに対しても、全く動じていない。
「あはは、ぼくは正常だよ。おかしなことは何にも言ってないもん」
「じゃあ、どういうことなの?」
「ボクが聞いたことあるエズさんっていうのはね、この世界とは異なる別の世界線のエズさんのことなんだよ」
「別の世界線?」
 聞き慣れない言葉だった。カーミンは、隣に立つエズへと助けを求め、目を彷徨わせる。
 何か気付いたエズは、目を細めていた。
「あーあ、このやり取りも何度目かなあ。もっと上手く話しをすることができれば簡単なんだけど、ボクには難しいや」
「……その様子から察するに、一度や二度ではなさそうですね」
「え? えっ、エズ? 何のこと?」
 エズの問い掛けに、カーミンが頭を悩ませる。
 だが、少年は嬉しそうに微笑んだ。
「うん。もちろんだよ」
「何度目ですか」
「そんなめんどくさいこと、一々覚えてられないよ。だから全部忘れちゃった」
 少年は手の指で歯車を回す。からからからと。
「そんなことよりもさ、早く時の砂をちょうだいよ。ボク、待ち切れないんだよね」
 顔は笑っている。けれども少年は、何かを焦るかのように歯車を回し続ける。
「ぼくは気紛れです。貴方の願いを叶えるか否かは、話を聞いてから決めます」
「うん。その台詞も覚えてないぐらいたくさん聞いたよ。だから何度でも言うね」
 マフラーから手を離し、少年は頭を垂れる。
 そして、その名を口にした。
「ボクの名前はトキ! 黒の人のエズさんから時の砂を貰って、何度も時を駆けてるんだ」
 少年は、トキと名乗る。
 そして、ゆっくりと思い出すかのように、己が見てきたものについて語り始めた。

     【5】

 ある日のこと。
 エズとカーミンが出会ったのは、まだ幼い少年トキだった。
 とある町の外れに、木々に隠れるかのようにヒッソリと、年季の入った小屋が建てられていた。誰も住んでいないかのように思えるが、町中を散策していたカーミンの話によると、ぼんやりと灯りが見え隠れするとのことだった。
「恐いなあ……オバケとかいるのかな」
「面白い。行ってみるか」
「えっ、冗談だよね?」
 カーミンは、自分の発言を後悔する。
 乗り気になったエズに引っ張られて、夜の小屋へと乗り込むことになった。
 だが、オバケはいない。その代わりに、小屋から更に崖の縁へと進んだところに、小さな子供の姿を見つけた。それはトキだ。
 住人の誰とも言葉を交わすことなく、崖の縁に座り込み、トキは孤独に泣いていた。
「エズ、あの子泣いてる」
 一瞬、あれがオバケかもしれないと思い掛けたが、気を取り直す。心配したカーミンが、エズの腕を引っ張り、トキの許へと近づき、何故泣いているのか理由を聞くことにした。
「……だれ」
「ぼくはエズ。黒の人です」
「わたしはカーミンよ。そしてね、こっちのクマのヌイグルミがクマーっていうの」
「ボーズヨロシクナー」
 自己紹介を済ませるが、トキはすぐに視線を逸らした。人と話す気分ではなさそうだった。
 しかし、カーミンが言う。黒の人はどんな願いでも叶えることができると。赤の人ではないけれども、エズの気分次第でそれが可能なのだと。すると、トキは口を開く。
「……ボク、過去に行きたい」
 泣く理由は、口にしない。
 けれども、どうしてもやり直したいことがあるのだと、トキは告げた。
「エズ、どうするの?」
 本来、エズは理由も聞かずに願いを叶えるようなことはしない。だが、トキの願いは今までに叶えてきたどの願いよりも珍しく奇妙なものであった。だからか、エズはトキの願いを叶えることにした。
 形無き物の中でも、時間を扱うことは、これまでにも数えるほどにはあった。しかしながら、時間そのものの流れに干渉することは、エズ自身初めてだ。故に、好奇心が勝ったのだろう。
 左右の手を合わせ、瞼を閉じる。
 思い浮かべるのは、時の流れだ。
 新たな世界線を作ることになろうとも関係ない。赤の人には決して叶えることのできない願いだとしても、エズであれば叶えることができる。それこそが、エズが赤の人を超えた存在であることの証明となる。
「――……できました」
 繋いでいた手を離すと、何も無かったはずの空間に、小瓶が一つ浮かんでいた。
「きれい……」
 ぼそりと呟くのは、カーミンだ。
 と同時に、眉を潜めて小瓶の中を窺った。
「エズ、これって……歯車?」
「ああ、その通りだ」
 小瓶の中には砂粒が入っているように見えたが、目を凝らしてよく見てみると、それは一つ一つが小さな歯車でできていた。
「歯車の回る向きを想像し、創造してみた」
 エズは、トキが求める物を具現化し、生み出すことに成功した。
「……これ、なに?」
 トキが問う。すると、エズは小瓶を指で摘まんだまま、口を開く。
「時の砂です」
「時の……砂?」
 エズが生み出したのは「時の砂」と呼ばれる物だった。
「小瓶の蓋を開け、中に詰まった歯車を貴方の体に振り撒けば、思い描いた時間軸へと時を遡ることができます」
 ですが、と更に続ける。
「貴方が行く道は、一方通行です。今現在の時間軸……つまり、元々生きていた世界線に戻ることは、二度とできません」
 時の砂を使用するということはつまり、後戻りができないということだ。それでもいいですか、とエズはトキへと問い掛ける。しかしながら、トキは涙を拭いて唇を震わせた。
「……うん。いいよ。だってこの世界には何の未練もないんだもん」
 初めから、心が揺らぐことはない。時を駆けることができるのであれば、今いる世界線に留まるつもりはない。それがトキの出した答えだ。
「エズさん……カーミンさん。あと、クマーさん。ボクに、その砂をください……」
 願いが叶う。それがどのような結末を作りだすのか、エズ達には見届ける術がない。
 何故ならば、エズ達はトキが時の砂を使っていなくなった世界線に残り続けるからだ。
 だが、エズは躊躇わない。
 トキが躊躇わないのだから、迷いなく願いを叶え、時の砂を渡すことにした。
「ありがと。これでお兄ちゃんを助けることができるよ……」
 小瓶の蓋を開け、歯車を頭上から振り撒く。
 本音を口にしたトキの全身を包み込むかのように、無数の歯車が重なり合い、止まることなく逆回転を始めた。その中心にいるトキの姿は、徐々にだが透明になっていく。やがて、
「……消えちゃったね、エズ」
 トキはこの世界線から姿を消した。
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登場人物紹介

《エズ》
自称、黒の人。
善悪関係無く、下界に生きる人々の願いを叶え続けている。

《カーミン》
自称、エズの弟子。
ソリの助手席に座り、エズと共に下界を旅している。

《クマー》
下界で作られたクマのぬいぐるみ。
ゴミとして捨てられていたところを、カーミンに拾われる。

《ケーキンズ》

お菓子の国の王様。

自分の城にエズを招待し、お菓子の箱が欲しいと願うのだが……。

《エルトリッヒ》

浮遊島に住む赤の人の長。

とある目的を達する為に、エズとカーミンを探している。

《トキ》

ロロの弟。

エズに願い、時の砂を手に入れた。

《ロロ》

トキの兄。

己の生きる時間を牢獄と称し、絶望していた。

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