うしろには私たちがいるからね

文字数 3,946文字

 朝山鈴は投球練習を終えると、美晴からボールを受け取った。

 悠子が守備陣に声をかけ、味方が応える。

 先頭打者は1番の篠原真紀。

 鈴はもう一回ロージンバッグに触れて、指先を確認した。

 相手の吹奏楽部の応援。

 家族や学生たちによる声援。

 両ベンチから飛ぶかけ声。

 球場は音で満ちている。

 鈴はセットポジションを取った。

 周りの音が妙に大きく聞こえた。

 なんだか、ホームまでの距離も遠く感じられる。

 まだプレイがかかっていないのに、汗が止まらない。次々に頬を伝って流れていく。

 これが夏の公式戦。

 3年生たちの、最後の夏。

 そんな試合のマウンドを預かるという重圧。

 体が重たい。

 けれど、潰れるわけにはいかない。

 自分が投げることで、味方に勝利を呼び込む。

 投げなければ。

(行こう、怖がらずに全力で!)
(表情は思ったほど硬くなさそうだけど……)

 悠子がストレートを要求してきた。

 鈴は頷いた。

 アウトコースのボールゾーンギリギリ。

 外れてもいい。

 まずは1球投げることで気持ちを落ち着かせよう。

 そんな気遣いを感じた。

(外へ、ストレート――!)

 鈴の夏、1球目。

 外角のボールコースにストレートが行く。

 篠原真紀が初球から振ってきた。

 バットのやや先端に当たって弱めのライナーがファーストへ飛んだ。

くそっ、届け――

 ファーストの夕日が後方へ下がりながらジャンプ。

 懸命に腕を伸ばして取りに行く。

 ボールは、夕日のファーストミットの先に当たった。そこで跳ねて、真後ろに落ちる。

いてっ!

 捕りきれず、夕日が右肩から地面に倒れ込む。

 カバーに来た桜がボールを拾ったが、すでに篠原は1塁に到達して様子を窺っていた。

ああ、先頭出しちゃった……。
(今日、全部内野安打……)
(あの1番、運がよすぎる。こういうバッターを切らない限り流れは完全に持ってこれないんだよな)
鈴、悪い……。
だ、大丈夫ですよ! 次でゲッツー取りましょう!

 鈴は明るい表情で返した。

 嫌でもプレッシャーがかかる初球をコントロールできたことで、気持ちが少し楽になった。

 マウンドに戻り、打席に入る相手のキャプテン、一色一葉と対峙する。

 悠子のミットは見えている。

 まだちょっと緊張が残っているようで、距離感に危うさがある。

 それでも、上がった直後に比べれば、足元がしっかりしてきた。

(大量得点のあとの投手交代……エースの温存に入ったのか、それとも戦略的な継投なのか……)
(5点差あるし、強攻で来るはず。ランナーはスルーしよう)
(バッター集中……)

 鈴は得意のカーブを投げ込んだ。

 左バッターの一色に対し、外から内へ入ってくる変化球だ。

 バッターが見送った。主審がストライクをコールする。

 ストライクが取れたことでさらに余裕ができてくる。

 次の外へのまっすぐも狙い通りに投げられた。

 一色が空振りしてツーストライクと追い込んだ。

(エースとの球速差が大きすぎる……)

 一色のバットは、鈴の直球に対し明らかに早く出ていた。

 まだ澪のストレートが頭にあるのだ。

(合ってないな。交代直後の今ならこれが使えるはず)
(こくっ)

 鈴は頷き、3球目を投げた。

 外いっぱいに緩いボール。

(このカーブは――)

 一色が泳がされるような体勢でバットを振るった。しかし音は響かなかった。

 主審が「ストライクスリー!」と大声を張り上げる。

 鈴が最初のアウトを三振で奪った。

や、やった! まず一つ!
オッケー、いいよ! その調子!
キャプテン、今のは……?
おそらくただのスローボールです。てっきりカーブかと思ったのですが……。
あの山なりのカーブも捉えるのが難しそうですね。
ええ。ただし、球速はありません。じっくり見ていってください。

 3番の橋爪遼子をバッターボックスに迎える。

 ここから強打者が並ぶ。

 チームとしては、まだ長打をもらっても余裕がある状況だ。

 しかし鈴にとっては、極めて重要な局面となる。

 ここを抑えられるか、打たれて点を取られるか。

 それが今後の投球に影響してくることは間違いない。

 鈴はいつものように深呼吸した。

 力みは何も生まない。

 自然体で投げること。

 この舞台でもそれを大切にしたい。

(澪先輩はピンチでも落ち着いてた。私も同じようにやろう)

 橋爪への初球、インコースのカーブから入る。

 ここで1塁ランナーの篠原が走った。

 悠子が素早くセカンドへボールを送るが、間に合わずセーフ。

 ワンナウト2塁になった。

 鈴の緩いボール主体の投球を見て、足が使えると思われたようだ。

 これでヒット一本でも1点につながる可能性が出てきた。

(ちょっと待って。今、背中の方からボールが出てきたように見えた……)
(右バッターには極力インコース使っていこう)
(わかりました)

 インコース、膝元へのストレート。

 橋爪が振ってきたが、タイミングが合わない。

 根元に当たってピッチャーゴロになる。

 鈴は落ち着いて捕球、セカンドランナーを目で牽制してからファーストに送った。

 ツーアウト2塁。

4番、サード、島滝さん。
(あのちっこい子が二番手だったとはね)
(ここで4番。スタンドにだけは持っていかれないようにしなきゃ)
(このバッターもインコースで)

 鈴が島滝の膝元へストレートを投じる。

 見送られてボール。

 点差からして、焦ってカウントを取りに行く必要はない。

 鈴は厳しいコースを意識して、次のカーブを投げた。

 右バッターの死球コースから内角いっぱいに決まる大きな変化。

 ――それを、島滝が狙っていた。

 肘をうまく畳んだスイング。

 カーブを完璧にすくわれた。

青葉――!
これは、ちょっと――

 左中間に打球が飛んでいた。

 深めに守っていたレフト、センターの中間地点、やや前寄りに落ちてくる。

 センターの青葉がダッシュをかけてきて、グローブを伸ばした。

 しかし、ボールは芝生を叩いた。

 ワンバウンドした打球が不規則に跳ね、青葉のグローブにうまく入らない。

 2塁ランナーの篠原がホームイン。打球処理のわずかな隙につけこみ、島滝も2塁へ到達する。

 7-3と得点が動いた。

ふう、もうちょっと飛んでたらただのセンターフライだったな。
落ちたか。今日は際どい打球が多いな……。
鈴ちゃーん、ほとんど打ち取ってたから自信持っていいよ! 次のバッターで切ろうぜ!
そ、そうですね! しっかり切ります!

 ここでチェンジにすれば問題はない。

 鈴は自分に言い聞かせる。

 点を奪われた落胆もあったが、思ったほど深刻なダメージは受けなかった。

 今はとにかく次のバッターを打ち取る。

 それが何よりも重要だ。

(今日は好機で二回とも凡退……。このまま終わるわけにはいきません)
 東御女学院の5番、森村淳もまた、闘志を胸に打席に入った。
(ここまでカーブ、ストレート、スローボールしか見せてない。左バッターだし外に逃げる球種は有効かもね)
(いきます)

 鈴は初球を外角に投じた。

 森村が積極的に狙ってくる。

 ボールは外へ滑るように曲がり、バットが空を切った。

(届かなかった? 今のは、シュートかシンカー……?)

 森村は目で追い切れていなかった。

 鈴は外にもう1球シンカーを続ける。森村はギリギリ当ててファールにした。

(最後……逆方向に曲げてくるのは読まれてるかな。うーん……)
…………。
(じゃあ、これ)
(はい)
(間違いなく3球勝負に来るはず。絶対にとらえてみせる!)
(いけっ――!)

 悠子の選択は外角低めへのストレートだった。

(合わせて――)

 森村が流し打ちする。

 ショート頭上にボールが飛んだ。奈緒がジャンプするが届かない。そのままレフトの前に落ちた。

 セカンドランナー島滝はホームを狙ってきている。

礼! 本塁(よっつ)だ!
わかってる!
(礼先輩――)
 鈴は悠子の背後へカバーに入りながら打球の行方を見守った。
(これは私の――)
 礼が返球体勢に入る。
(――得意分野よ!)

 低く速い送球がホームに返ってきた。

 悠子がランナーの来る位置にミットを構えていて、ボールはほとんどブレなくそこに収まった。

 悠子が半身を左に流してタッチにいく。

 島滝が強引に身をひねってタッチを回避した。

 悠子が体勢を崩して転ぶ。

 しかし島滝も回避動作の中で転倒していた。

 悠子と島滝がほぼ同時に動き出す。

 島滝がヘッドスライディングでホームに右手を伸ばした。

(間に合え!)
(させるかっ!)

 島滝の手が伸びてくる。

 悠子は、ベースの手前にミットを置きにいった。

 島滝の手は、ホームまであと数十センチというところで阻まれる。

 主審が今日一番の勢いで右手を挙げ、「アウト!」を宣言した。

 場内がすさまじい拍手に包まれる。

や、やったぁ!
ふう、一歩及ばずか。……ナイスプレーでした。
ありがとうございます。さすがに、今のはやられたかと思いました。
悠子先輩、ありがとうございました!
 鈴はたまらず、立ち上がった悠子に抱きついていた。
ちょっと、テンション上がりすぎだって。でもよかった、ホームインされてたら礼に申し訳なかったし。
悠子、ナイスタッチ。切り返しの速さ、さすがね。
そっちこそ、いつもながらお見事な返球だったね。
礼せんぱ~い!
ちょっ……!? 鈴、はしゃぐのは戻ってからにしましょ。
嬉しかったです~。
……まずは、ナイスピッチね。

 鈴は興奮のあまり自分をコントロールできなくなっていた。

 礼の返球も悠子のタッチも、練習試合で見てきた。それでもこんな大舞台でいつも通りやってのける精神力には本当に感動させられた。

よく守りました。……礼さん、ちょっと重たそうですね。
礼先輩、好きです~。
今日は許してあげます。
 鈴に抱きつかれたままベンチに戻ってきた礼を見て、恵は苦笑するのだった。
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登場人物紹介

朝山 鈴(あさやま りん)

裾花清流高校1年生。右投げ右打ち。ピッチャー。

サイドスローの投手。しなやかな肩と肘を使った柔軟な投球を得意とする。中学時代は味方の守備に足を引っ張られ、試合に勝つことができなかった。

外浦 朝陽(とのうら あさひ)

裾花清流高校1年生。右投げ右打ち。キャッチャー。

中学時代に鈴とバッテリーを組んでいて、朝山と朝陽でサンライズ・バッテリーと呼ばれていた。

結城 まこ(ゆうき まこ)

裾花清流高校1年生。右投げ左打ち。セカンド。

ピッチャーのモーションを読み取り、持ち前の俊足で盗塁を確実に決める。だいたいテンションが高い。

広野 皐月(ひろの さつき)

裾花清流高校1年生。右投げ左打ち。ショート。

打撃、守備ともに堅実なプレーを重視している。控えめであまり目立ちたがらないタイプ。

高池 凪(たかいけ なぎ)

裾花清流高校1年生。右投げ右打ち。サード。

中学最後の大会で左腕を負傷し、まだ回復しきっていない。

松原 雅(まつばら みやび)

裾花清流高校1年生。右投げ左打ち。

バットコントロール能力が高くボール球でもヒットにできる技巧派。外野ならどこでも守れる。

漆原 礼(うるしばら れい)

裾花清流高校3年生。左投げ左打ち。レフト。

野球部キャプテン。身体能力が高くセンス抜群。クールな振る舞いから、校内では男女問わず隠れファンが多い。

新海 澪(しんかい みお)

裾花清流高校3年生。右投げ右打ち。ピッチャー。

チームのエース。速球と緩いボールを使い分ける本格派右腕ながら、肩の調子に不安を抱えている。

岩見 悠子(いわみ ゆうこ)

裾花清流高校3年生。右投げ右打ち。キャッチャー。

正捕手で長距離バッターでもある。相手の様子を見ながら配球を決め、野手に守備位置の指示を出すチーム随一の頭脳派。

一ノ瀬 桜(いちのせ さくら)

裾花清流高校3年生。右投げ左打ち。セカンド。

俊足巧打、広い守備範囲を持つ攻守の要。ハイテンションで味方を盛り上げたりからかったり忙しい。

天城 奈緒(あまぎ なお)

裾花清流高校3年生。右投げ左打ち。ショート。

広大な守備範囲を持ち、一ノ瀬桜とのコンビで鉄壁の二遊間を構築している。出塁率も高い。

神村 青葉(かみむら あおば)

裾花清流高校2年生。右投げ右打ち。センター。

2年生ながら4番を任されている。商店街のアイドル的扱いを受けているのでおっさん達が試合の応援に駆けつけてくる。

赤羽 夕日(あかばね ゆうひ)

裾花清流高校2年生。右投げ右打ち。ファースト。

当たればでかいロマン砲。一方、守備は堅実で難しいバウンドもきっちり処理する。

漆原 優(うるしばら ゆう)

裾花清流高校2年生。左投げ左打ち。ライト。

キャプテン漆原礼の妹。やる気の波が激しく、いつもはぐだっとしているが試合では頭脳をフル回転させてプレーする。

水崎 美晴(みずさき みはる)

裾花清流高校2年生。右投げ右打ち。サード。

バント職人。小柄だが強肩を持ち、深い位置からでもアウトが取れる。

緋田 恵(ひだ めぐみ)27歳

裾花清流高校野球部監督。

最初に赴任した高校を県ベスト4まで連れていくなど指導力の高さを評価されている。裾花清流高校は赴任2校目で2年目。

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