第十四章 ⑧
文字数 3,627文字
私は、ハッと思い出したんです。
あの源六じーさんのことを……。
十何年も会っていない、源六じーさん
を急に思い出したのです。
ずっと忘れていたのに……。
皆さん。
源六じーさんと言うのは、私たち母娘が、
いすみ市で住んでいたアパートの大家
さんでした。
短気で、怒りっぽくて、ズバズバと
ものを言う人で、小さい頃の私は、
嫌いでした、正直。
その、源六じーさんのことを急に
思い出したのです。
「もう死んでるよね。
生きてたらもうかなりの年齢だし……」
と思いましたが、私は、ずっと暮らした
アパートを見に行きたくなりました。
行けば、もしかしたら、源六じーさん
にも会えるかも……と、思います。
私は、義時君に頼みました。
「あの……。大丈夫だったら、
私が、昔住んでたアパートの方に
行ってもらいたいんですけど……」。
義時君は、快く、
「了解、了解。なんとなく分かるけど、
近くまで行ったらナビしてね。
あの駄菓子屋の方だよね?」と
言ってくれました。
優しい男性です、彼は…。
しばらくして、私は、懐かしい住宅街を
歩いていました。
義時君が、隣を歩いてくれます。
懐かしさ、感動で、私の胸は、
いっぱいになります……。
よく遊んだ公園、思い出深い通学路の
急階段、よく診察してもらっていた
診療所。
そして、まだ、ありま……せんでした!
私たち母娘が住んでいたアパートは、
もうなかったのです。
ただ、空地になっていました。
私は、その土地の前に立ったのです。
「立て壊されたんだ……、もう」と
残念な気分になりました。
時代の流れを感じました。
アパートの隣にあった源六じーさんの
古い木造住宅もなくなっていて、
キレイな一軒家が立っていました。
表札には、「関田」とあり複数の
名前が書かれていましたが、
源六じーさんの名前は、
ありませんでした。
私は、その家を見つめながら思いました。
「源六じーさん、死んじゃったんだろう
なぁ」と。
私は、いすみ市を去る頃、大嫌いでした。
怖かったし、雷を落とされたことが、
いっぱいありましたから。
でも、大人になって思い返せば、
昔気質の良い人でした。
『他人の子』だからと言って、
見て見ぬふりするようなことをせずに、
怒るべき時は、怒ってくれました。
母子家庭に育った私にとって、怖い、
『父親的存在』であってくれました。
そのおかげで、私は、そんなに、
悪い方向に行かないで済んだのかも
しれませんね……。
胸の内で回想します。
「あぁ。よく、『このアパートは、
今はボロだけどなぁ、有名な
プロゴルファーがなぁ、貧乏学生時代に
住んでたんだぞ!
今じゃ、日本を代表するプロの羽河富加
がなぁ!!』って自慢してたなぁ」と
私は思い出しました。
ずっと、本当に忘れていた記憶が、
出身地に帰って来て、フッと戻って
きます。
不思議ですね。人間の記憶力って…。
そして、嫌いだった、源六じーさんに、
無性に会いたくなるのです。
それと、亡き母にも……。
おそらく、私一人だったら、その場に
立ち尽くし-ずっと-、泣いていた
ことでしょう……。
懐かしさや色々な感情で。
でも、すぐ横に、義時君がいます。
私一人、時を忘れていてはいけません。
「今度、一人で、また、ここに、
来よう」、私はそう決めました。
歩きながら源六じーさんとの想い出や
母との想い出を義時君に話しました。
つまらない話だったはずですが、
優しい義時君は、うんうん頷いて
聞いてくれました。
そして、彼に導かれるまま、私は、
彼の行きつけの店だと言う牛丼屋さんに
生まれて初めて入りました。
本当に、生まれて初めてです。
母とも、雪子おばさんとも行ったこと
なかったし、みどりちゃんとも、あの
しーちゃんとも入ったことはありません
でした、牛丼屋さんなんて。
第一、入りづらいじゃないですか、
女の人は……。
だから、正直、お店の前に連れて行かれ
た時ビックリしました。
車の中で、確かに、義時君は、
「すごっく美味しくて、いすみイチの
おススメの店に後で案内するよ」と
言ってくれたのです。
だから、内心、かなり、期待して
いました。
でも、義時君が「ここだよ!!」と
ドヤ顔で指さすのは……、牛丼屋!?
私じゃなくても、女の人が一人では
絶対に入れないような雰囲気、まさに、
『THE・男の店!!』…。
口から出しはしませんでしたが、
「何ここ?ボロッ!!
って言うか、デートで、こんな店?!」
と思ってしまいました。
そして、正直、ガッカリでしたね。
彼の選択にも、その店にも、正直、
彼自身にもちょっと…。
そんな私に気づいたのか、彼は振り返り、
大きな声で言うのです。
「あッ!ここ、こんな感じで、外はボロイ
から驚いただろうけど、味は天下一品
だから!!俺が、保証するから!
騙されたと思って、入ってみて!」。
そう言いながら、引き戸を開ける彼。
そして、店内からは、その瞬間-引き戸
が開き切る前に-、威勢の良いと言う
より、がなり立てるような
「っらっしゃいッー!!」と……!?
一瞬、心臓が縮みました、本当に。
「何なの、ここ!?
もう、寿命が……!」と思いました。
飲食店に入って、あんな体験したのは
アレが初めてです、本当…。
それで、人生初の、牛丼屋さんは、
ショッキングの連続でした。
あんな店、つまり、『男臭に満ちた』
と言うか『むさ苦しい』店は、それまで
入ったこともなければ、存在すらも
知りませんでしたからね。
店内は、テレビが大音量で、うるさい
くらい。
しかも、壁も天井もボロボロで、
「築何十年!?地震来たらアウトね、
ここ」という感じでした。
そして、ウっとなりましたね。
さらに、天井も壁も、そして、床も…
汚すぎる!!
それまで自分の部屋が大変な状態だった
私が言うのも何ですが、でも、私の
部屋以上に汚い、脂で滑るほどの床!
「清掃っていう言葉知らないのかな、
ここの人?」と思いましたね。
もう、この時点で、私一人なら、
あんな店、出ます、即!!
と言うより、外見見た瞬間、素通り
です、絶対!
店内には……、厨房に、厳ついスキン
ヘッドのオジさんが1人。
義時君と親しげに話しています。
「ボロくて悪かったな!」と笑い
ながら……。
そして、狭い店内に目をやると、一心に、
ガツガツ食べる男性陣……の皆さん。
ビジネスマンが4人。
学生グループ3人。
初老の男性が1人。
女性客は……、私だけ。
完全な場違い……、そう思いました。
「女が来るとこじゃナイでしょ」とも。
女のウェイトレスさんなんて、
いません……。注文訊きに来るオバちゃん
さえ。
私は、「お水は、どうするんだろう?
あと注文は……」と考えながら店内を
見渡してみました。
すると、「アッ!」と声を上げ、
義時君が立って、奥の方に……。
そして、お水の入ったコップを持って
来てくれました。
そういうことなんですね……。
そして、注文も。
訊きに来るとか、ボタンで呼ぶとか
そんなものでは、ありませんでした!
義時君が座ったまま、大声で、厨房に
向かって叫んでいました……。
何かよく分からない暗号のようなことを
言っていましたね。
「ナミ2!両方ツユダクで、
ネギダクね!!」と。
人生で初めて聞く言葉の連続で、今でも
あの『暗号』の意味は分かりません。
あと、ビックリしました!
義時君が、叫んでから、1,2分で、
あの厳ついオジサンが、牛丼を運んで
来たのです!!
5分も経っていないのです!!
「こんなに早いの!?
手抜き料理?
大丈夫なの!?」と一瞬、思いました。
でも目の前に置かれた牛丼は、
ホカホカと湯気がたち、食欲をそそる
匂いが……。
それに、牛肉と玉ねぎが……、見るからに
美味しそう!!
ゴクッと……。
「えッ?!意外!!
本当に美味しそうなんだけど~!」。
テンションが上がりました。
そんな私を見ながら、義時君が、
「見て。こうやってね、その生卵のに
醤油を入れて、かき混ぜて……」と
言いながら、レクチャーしてくれます。
私は、それを真似ながら、最後に、
牛丼の上にその卵を、バッと-義時君
のやるように-、かけました。
心の中で、「オーッ!」と叫びましたね。
あまりにも美味しそうで、お店の外装と
内装とは正反対にキレイです!
どこからどう見ても『男の店』で、
『男メシ』なんですけど、私の心は、
牛丼に魅了されました!
思いは1つ、「早く食べた~い!」
でした。
一口目を口にしました。
そして、私は、大袈裟でなくて、
本当に、唸ってしまいました。
初めての味でした。
「こんなに美味しんだ、牛丼って!!」。
感動でしたね、まさに……。
もっと早く食べていたかったです。
私は、「スゴイ美味しいですね」と、
目の前に座ってる義時君に伝えようと
顔を上げました。
でも、言いませんでした。
彼は、周りの男性客と同じく、もう、
一心不乱にガツガツと牛丼を食べて
いましたから……。
冬なのに、汗をかきながら…‥。
ドキッ!!
「カッコイイなぁ~。あと、眼福だなぁ」
と思って、一瞬、見つめてしまいました。
そして…、その後、私は…。
彼や他の男性客と同じように、
牛丼を食べることに、
専念しました-デートなのに-……。
(著作権は、篠原元にあります)