13 あの子、そんなにいけない子なの
文字数 1,881文字
この世界は、どこかおかしいんじゃないか。
中学に入ると、あたしははっきり、そう考え始めていた。
りべかの父親は、娘にますます厳しくあたった。
あたしの両親は、ますます険悪になっていた。
「人生はね、思いどおりにいかないものなの」
母は、なにかにつけて決まり文句の愚痴 をこぼした。
思うとおりに生きようなんて、まったく努力していないくせに。
やがてあたしは、母の決まり文句は〝思うとおりに生きようと試みないための言い訳〟にすぎないと気がついた。
中学は、小学校よりも港に近い低地の街の中にあった。共学で、制服はトラッド。紺色のブレザーに、女子はチェックのスカートだった。
制服!
その存在に、りべかがどれだけ喜んだことか。
体操着から解放され、他の女子生徒と同じ、しかもスカートで通学できるのだ。
髪はあい変わらず、父親による不揃いのおかっぱだったけれど、彼女はぐんと輝きを増した。
同じ服を着ていると、〝素材〟の違いが残酷なほど明白になる。
顔立ちの美しさはもちろん、頭が小さくて四肢のすらりと長いファッションモデルばりの体形が、いやでも目立った。
りべかの家は、中学校と小学校の中間地帯を流れる川沿いの、昔ながらの商店街のはずれにあった。
シャッターが下りたままの店舗も多い小路から、さらに細い横道に入った、古くて小さな一軒家だった。間口は狭く、両隣の建物に挟 まれて、サンドウィッチの具のように窮屈 そうに建っていた。いつつぶれてもおかしくない、そんな印象を受けるほど、屋根や壁は傷んでいた。
家のなかの物音は、外までよく聞こえてきた。
もくもく会のためにりべかの家を訪ねたあたしは、玄関のチャイムを押す前に、しばしば父親の怒鳴 り声に遭遇 した。
「死ね!」
はじめて聞いたときは耳を疑った。
「おまえなんか死にやがれ!」
まぎれもなく現実に聞こえている声だとわかると、あたしはチャイムを押しかけた指を止めて、戦慄 した。
「いますぐ死ね。死にやがれ。俺の目の前から消えろ、このバカが」
自己陶酔 の響きを含んだ、奇妙な節回しだった。
大声で反復されるそれらの言葉は、もはや本来の意味を失い、別の何か(たとえば悪意)を充満させて投げつけられる砲弾のようだった。
あたしは迷った。どのタイミングでチャイムを押すか。
あたしに聞かれたと知ったら、父親があとでりべかになにをするかわからない。
あたしは耐えた。息を殺し、嵐が過ぎるのをひたすら待った。
(あるときからは、録音を取った。そっとカバンからICレコーダーを取り出して、炸裂 する罵倒 の嵐を記録した。いつか、りべかのために役立つよう祈りながら……)
父親の声が疲れを帯びてきたら、頃合いだ。
チャイムを押すと父親は、必ず真っ先に玄関に出て来て、あたしの表情を確認した。
あたしはもちろん、できる限りそ知らぬ顔で挨拶 した。何も聞いていない、あたしはいま来たばかりだと自分に言い聞かせて、演技した。
りべかの父親の顔に貼り付いている、異常に愛想のいい笑みが気色悪くて、背筋にはいつも悪寒が走った。
りべかの部屋に入ってしまえば、アンタッチャブルだった。
りべかの家でもくもく会をする日には、あたしたちは無駄なおしゃべりはせず、猛勉強していたからだ。
子どものチカラでは打開しようのない現実を、子どものあたしたちがいくら語り合ったところで、埒 が明かないと、すでにあたしたちは知っていた。
勉強に逃げこむのは効率のいい方法に思われた。成績が上がり、いい高校へ進学すれば、新しい道が見えるかもしれない。それは期待であり、希望だった。
勉強熱心な子どもを邪魔 する親など、いるはずがないのだし。
だからといって、しんどくないわけはなかった。
一度だけ、母に漏 らしたことがある。
「りべかのお父さんたら、娘に〝死ね〟って怒鳴るんだよ」
「まあ」
あたしの母は眉根を寄せた。
「あの子、そんなにいけない子なの」
「違うよ、あのお父さんの頭がおかしいんだよ」
あたしは反論したけれど、母は顔をしかめて拒絶した。
「ヒトサマの親を、悪く言うものではありませんよ」
この世界は、どこかがおかしい。
あたしの腹の底にずっと前からくすぶっていたものは、怒りにほかならないのだと、明確に意識したのはこのときだった。
中学に入ると、あたしははっきり、そう考え始めていた。
りべかの父親は、娘にますます厳しくあたった。
あたしの両親は、ますます険悪になっていた。
「人生はね、思いどおりにいかないものなの」
母は、なにかにつけて決まり文句の
思うとおりに生きようなんて、まったく努力していないくせに。
やがてあたしは、母の決まり文句は〝思うとおりに生きようと試みないための言い訳〟にすぎないと気がついた。
中学は、小学校よりも港に近い低地の街の中にあった。共学で、制服はトラッド。紺色のブレザーに、女子はチェックのスカートだった。
制服!
その存在に、りべかがどれだけ喜んだことか。
体操着から解放され、他の女子生徒と同じ、しかもスカートで通学できるのだ。
髪はあい変わらず、父親による不揃いのおかっぱだったけれど、彼女はぐんと輝きを増した。
同じ服を着ていると、〝素材〟の違いが残酷なほど明白になる。
顔立ちの美しさはもちろん、頭が小さくて四肢のすらりと長いファッションモデルばりの体形が、いやでも目立った。
りべかの家は、中学校と小学校の中間地帯を流れる川沿いの、昔ながらの商店街のはずれにあった。
シャッターが下りたままの店舗も多い小路から、さらに細い横道に入った、古くて小さな一軒家だった。間口は狭く、両隣の建物に
家のなかの物音は、外までよく聞こえてきた。
もくもく会のためにりべかの家を訪ねたあたしは、玄関のチャイムを押す前に、しばしば父親の
「死ね!」
はじめて聞いたときは耳を疑った。
「おまえなんか死にやがれ!」
まぎれもなく現実に聞こえている声だとわかると、あたしはチャイムを押しかけた指を止めて、
「いますぐ死ね。死にやがれ。俺の目の前から消えろ、このバカが」
大声で反復されるそれらの言葉は、もはや本来の意味を失い、別の何か(たとえば悪意)を充満させて投げつけられる砲弾のようだった。
あたしは迷った。どのタイミングでチャイムを押すか。
あたしに聞かれたと知ったら、父親があとでりべかになにをするかわからない。
あたしは耐えた。息を殺し、嵐が過ぎるのをひたすら待った。
(あるときからは、録音を取った。そっとカバンからICレコーダーを取り出して、
父親の声が疲れを帯びてきたら、頃合いだ。
チャイムを押すと父親は、必ず真っ先に玄関に出て来て、あたしの表情を確認した。
あたしはもちろん、できる限りそ知らぬ顔で
りべかの父親の顔に貼り付いている、異常に愛想のいい笑みが気色悪くて、背筋にはいつも悪寒が走った。
りべかの部屋に入ってしまえば、アンタッチャブルだった。
りべかの家でもくもく会をする日には、あたしたちは無駄なおしゃべりはせず、猛勉強していたからだ。
子どものチカラでは打開しようのない現実を、子どものあたしたちがいくら語り合ったところで、
勉強に逃げこむのは効率のいい方法に思われた。成績が上がり、いい高校へ進学すれば、新しい道が見えるかもしれない。それは期待であり、希望だった。
勉強熱心な子どもを
だからといって、しんどくないわけはなかった。
一度だけ、母に
「りべかのお父さんたら、娘に〝死ね〟って怒鳴るんだよ」
「まあ」
あたしの母は眉根を寄せた。
「あの子、そんなにいけない子なの」
「違うよ、あのお父さんの頭がおかしいんだよ」
あたしは反論したけれど、母は顔をしかめて拒絶した。
「ヒトサマの親を、悪く言うものではありませんよ」
この世界は、どこかがおかしい。
あたしの腹の底にずっと前からくすぶっていたものは、怒りにほかならないのだと、明確に意識したのはこのときだった。