第1話

文字数 8,631文字

 もう何日も荒野を歩いていた。
 空には薄雲がかかり、輪郭の定まらない太陽が鈍い光を放っている。そして眼前には、見渡す限り不毛の大地が広がる。
 いつから歩き続けているのか、朦朧とした意識のもとでは思い出せない。いや、思い出そうと努力することさえ億劫だ。
 暑いのか寒いのかも、よくわからない。五感も失われつつあるのだろう。
 それより、水筒の水が尽きたのはいつだったか。一週間も水を飲まないと死ぬはずだから、四、五日前か。いや、昨日だったのかもしれない。
 不意に地面の突起に足をとられ、前のめりに崩折れた。辛うじて地面に両手をつき、顔面を強打するのは免れたけれど、そのまま横転してしまう。
 決して楽な体勢ではないけれど、もうどうでもいい。立ち上がる気力すらない。
 どうやら、このあたりで僕の短い人生にも幕が下りるようだな。それでいい。そうだ、もともとこれは死に場所探しの旅じゃないか。
 思えば、今までろくな生き方をしてこなかった。他人を傷つけ、不幸に陥れ、身近な人を嘆かせて失望させた。独りよがりの妄執に囚われて、罪もない女性を死の寸前にまで追い詰めた。
 そして──自分の身に降りかかってきたのは悪行の報いだった。
 復讐の刃を背中に受け、病院のベッドで死の淵をさまよいながら、自分の人生をふり返った。
(僕は生きる価値のない、いや、生きているべきじゃない人間なんだ)
 退院後、なけなしの家財を処分し、着の身着のままで逃げるように日本を去り、できるだけ過酷な環境を目指した。そして辿り着いたのが、あらゆる存在を拒絶するかのような、この荒野だったのだ。
(僕にふさわしい終焉の地だ)
 ふと、なぜか仰向けになって最期を迎えたいと思った。
 横臥した身体を捻ろうとしたが、どうもうまくいかない。
(そうか。背中のリュックサックが邪魔なんだ)
 でも、もう起き上がれない。横たわったままで……何とかリュックを……外して……

 海底から水面に浮かんできた……という感覚だった。
 暗から明へ。そして自然に瞼が開く。
 網膜にぼんやりと投影されたのは、縦横に走る太さ不揃いの木材だった。
 映像が次第に鮮明になるにつれ、木材の中に数本おきに鉄パイプ様の金属棒が混ざり、その間を埋めるように細い枝とか棒きれとか藁のようなもの──いわゆる粗朶が敷き詰められているのがわかった。
(?……敷き詰められているんじゃなくて、あれは天井か。 今、仰向けになって……えっ、僕は……)
 肘をつきながら上体を起こして、改めて周囲を観察する。
 そこは広さ六畳ほどの小部屋で、その壁際に置かれた粗末な寝台に、僕は横たわっていた。
 床は畳敷きではなく、剥き出しの土の地面だ。
 視線を上げると、くすんだ窓ガラスを通して屋外が窺えた。でも、見えるのは向こうの隣家の入口と、時おりその間を行き交う人の姿だけ。
 そして聞こえるのは、どこか遠くから風に乗って届く子どもの泣き声と──
 突然、背後で人の気配が生じると同時に、甲高い声が周囲の空気を震わせた。
「○○○○○!」
 振り返ると、小部屋の入口に十歳前後と見える少年が立っていた。次いで、少年の声を聞きつけたと思われる壮年の男性も。
 作業服というより軍服といった装いの男性と少年は、二、三言葉を交わした後、僕に向かっていろいろと何事かを語りかけてきた。
 ところが、今まで聞いたことのない言葉で、何を言っているのかさっぱりわからない。僕は顔をしかめて首を振り、意思疎通がまったくかなわないことを表現するしかなかった。
 すると、業を煮やした様子の男性は少年に何かを命じ、それに応じて駆け出していった少年は、じきに枯木のような体つきの白髪老爺を連れて戻ってきた。
 男性が老爺に何かを伝え、老爺は頷きながら、改めてゆっくりとした口調で僕に話しかけてきた。
「おまえさん、日本人らしいが、こんなところに何をしに来たんだ?」
 英語だった。しかも、僕にも聞き取れる程度の。英語は下手な者同士のほうが通じやすい、と誰か言っていたっけ。
 それにしても、どうして僕が日本人だと……あ、僕の荷物を、リュックサックを調べたのか。
 そうだ、リュックは……。半身を起こしたまま周囲を見回すと、男性が察したのだろう。「ここにある」と言わんばかりに、寝台の脇に置いてあった薄汚れたリュックサックを掲げ見せてくれた。
 荷物の所在はわかったが、あまり突っ込まれたくない老爺の問いにどう答えるか。
 しばし迷ったあげく、僕は「目的のない旅だ」という返事になるように、適当な単語を並べておいた。「死に場所を探している」などとバカ正直に白状する必要はあるまい。
 それで納得したのかどうかはわからないが、こうした質問はそれ以上されずに済み、次に彼らは僕を見つけた時の状況を、拙い英語に身振り手振りを交えて話してくれた。
 僕が意識を失った場所はこの集落からさほど離れておらず、集落に住む子どもたちの活動圏内だったらしい。
 さっきの少年──のちにシャルムという名前だとわかった──を含む子どもたちが、行き倒れになっている僕を見つけてくれたのだ。
 数人がかりで僕を集落まで運ぼうと悪戦苦闘しているところに、シャルムの父親であるマルドゥクが行き合わせて、自分の棲家まで運んでくれたという。
 ともかく、老爺の通訳で何とか意思疎通ができるようになり、さらに彼らは体調が良くなるまで集落に滞在するように勧めてくれた。
 僕の思惑がどうであれ、こういう形で命を救われた以上、彼らが引き留めてくれるのを振り切って早々にここを立ち去るのは、さすがに恩知らずのようで気が咎める。
 僕は彼らの勧めに従って、しばらくマルドゥク父子の住居に置いてもらうことにした。
 長くて二週間ほどしか留まるつもりはなかったが、それでもいざ腰を落ち着けてしまうと、マルドゥク父子や例の老爺を含む近隣住民との接触が増え、何となしに集落の風情のようなものが肌で感じられるようになる。
 三日ほどで身体の方はすっかり良くなり、五日もすると僕は、屋内での生活に飽きて集落内の徘徊を始めた。
 同伴してくれたシャルムのおかげで近隣住民ともすぐに親しくなり、一週間が経つ頃には、つたない現地語+英語+ボディランゲージで四苦八苦ながらコミュニケーションがとれるほどになっていた。
 親しくなってみれば、とてもおおらかで気の良い人たちだった。
 これまでの人生で他人との関わりといえば、疎んぜられるか無視されるかのどちらかしかなかった僕にとっては、母国である日本よりはるかに過ごしやすい環境だった。今の日本人が失ってしまった、人としての根源的な温もりや優しさがここにはある。死に場所探しの旅も、ここで頓挫するかのように思えるほどだった。
 しかし、この頃になると他所者の僕も、この集落を覆う影の存在に、おぼろげながら気づかされていた。
 一つは貧困。貧しい集落であることは、外歩きをするようになってすぐにわかった。日干し煉瓦を積み上げただけの粗末な住居に、綻びと擦り切れの目立つ衣服、質量とも満足には程遠い食事。これといった産業もなく、集落を取り巻く痩せこけた畑にもごくわずかな緑しか見られない。
 そして、そんな貧相な暮らしぶりと対照して奇異に感じたのが──豊富な銃火器の存在だった。どの家の片隅にも拳銃やライフル、自動小銃などの銃器がひっそりと、しかしいつでもその凶悪な力を発揮できるような威圧感を湛えて準備されているのだ。
 そのことを何かの折りに口にした時、マルドゥクと例の老爺は意味ありげな表情で顔を見交わした後、集落を覆うもう一つの影──戦禍について語ってくれた。
 この国は政府軍と反政府勢力による内戦の真っ最中であり、この集落には反政府武装組織の一グループが拠点を構えているという。
 過去に何度か集落を巻き込む小競り合いがあり、そのたびに少なからぬ集落の住民が命を落としたそうだ。マルドゥクの妻、つまりシャルムの母親もその一人である。
 マルドゥクは反政府組織の一員ではないが、彼を含む集落の住民は反政府シンパといえる存在であり、しかも戦闘に備えて、準備や訓練を日常的に行っているという。
 戦闘に備えて、ということは、まさか……。
「そう。近い時期に政府軍の奴らは、ここに攻撃を仕掛けてくる」
 と、マルドゥクは断言した。
 ここが戦場になるのか。今、自分がいる場所で、目の前で血が流されるのか。
 大学生の頃、サバイバルゲームに熱中し、程よい緊張感を伴うレジャーとして山野を駆け巡ったことはあるが、生死のかかった実戦経験なんて、もちろんない。
 凄惨な未来予想図を脳裏に描いているうちに、生存本能が恐怖を呼び起こした。
(今のうちに逃げるか)
 シャルム少年は懐いてくれているし、マルドゥクや老爺や近隣住民たちも何かと親切に世話を焼いてくれる。
 そんな儚い安住に慣れかけていた僕だったが、一瞬そう思った。
 しかし──怯えを追い払うように、本来の旅の目的とともに別の考えが頭をもたげてくる。
 これは、運命とやらが僕に死に場所を与えてくれたということではないのか。
 荒野の真ん中で人知れず土に還るよりも、世話になったこの集落の人たちのために、この正念場で身命を賭すべきではないだろうか。その結果、たとえ命を落とすことになるとしても、僕はやはり自分の生と死に何らかの意味をもたせたい。
 そう決意した僕は、密かにマルドゥク家にある銃器の検分を始めた。

 そして、ついにその時がやってきた。
 それは大方の予想より早く、僕がマルドゥクから話を聞いた日から五日後の夜明け前、まだ薄暗い時間帯だった。
 夢うつつで聞こえた散発的な銃声が次第に激しくなり、たちまちのうちに辺りは騒然となった。
 寝台から飛び起きた僕の横で、手早く戦闘服を身に着けたマルドゥクは、いつになく険しい目で窓から屋外の様子を探る。
 彼の緊張した様子から察するに、敵軍の規模はこれも予想を上回るものらしい。今回の攻撃で一気に決着をつけるべく、政府は大軍を投入して反政府勢力の一斉掃討に乗り出したのだ。
 シャルムもいつの間にか拳銃を手にして、父親をサポートする体勢に入っている。
 僕も彼らに加勢すべく、銃器の収納場所である物置に向かったが、そこでマルドゥクに止められてしまった。
「おまえはここに隠れていろ」
 と言う。
 僕は抗議の声を上げようとしたが、彼は有無を言わさずに僕を物置に押し込んだままドアを閉め、シャルムを連れて戸外に出て行ってしまった。
 いよいよ戦闘は激しくなり、外からは乾いた銃声に混じって悲鳴や怒号が絶え間なく聞こえてくる。
 と、次の瞬間、銃声とは比較にならない轟音──というか地響きのような衝撃──に身体が揺さぶられ、同時にガラスの破片が僕の周囲に音もなく散らばった。
 僕は反射的に振り返ったが、壊れた窓の向こうに見えたのは、通り向かいの民家が粉塵を撒き散らしながら崩れ落ちていく光景だった。しかも無音で。
(音が聞こえない……)
 爆発の衝撃波で鼓膜が破れてしまったのかと思ったが、聴覚の麻痺は一時的なものだったらしい。徐々にまた、あの不快極まりない屋外の狂騒が音量を上げていくのだが、それに伴って別の異変が僕の身体に現れた。下半身が細かく震え、特に脚にまったく力が入らず、立ち上がることさえできないのだ。
 僕は腕の力だけで這うようにして物置の隅に移動した。壊れた窓からはできるだけ離れたほうがいい。どのみち、この家に爆弾──おそらく迫撃砲弾だろう──が降ってきたら一巻の終わりだけれど。
(これが戦争なんだ)
 初めて体験するリアルな殺し合いの真っ只中で、僕はひたすら膝を抱えて、恐怖と緊張に身を竦ませているしかなかった。

 どれほどの時間、物置の片隅で凝固を続けていたのかわからない。
 気がつくと銃声はすでに散発的になっていた。
 緊張の持続にも限度があるらしく、どうやら脚の感覚も平常に近い状態まで回復しているようだ。
 意を決して物置から這い出し、よろよろと立ち上がったところで、また脱力するようなショックに襲われた。
 戸外に通じる出口を塞ぐように、上半身を朱に染めたシャルムが横たわっている。
 まだ動きのおぼつかない脚を叱咤しつつ、そばににじり寄ってみたが、すでに事切れていることは一目瞭然だった。
 悲しみとか哀れみとかいう感情よりも、ただ猛烈な虚脱感に打ちのめされた。
 シャルムは命の恩人だった。彼が見つけてくれなかったら、僕はとっくに野垂れ死にしていたはずなのだ。そして短い間とはいえ、この集落で生活できたのはシャルムとその父であるマルドゥクのおかげ……。
 ぼんやりとにじんだ視線を戸外に向ける。
 見覚えのある戦闘服に身を包んだ人が、土埃と硝煙に烟る道の真ん中に倒れていた。マルドゥクだ。
 何かに誘われるように、僕はふらふらと戸外に歩き出して、横たわるマルドゥクを見下ろした。でも、顔は確認できなかった。
 上顎から上の部分が吹き飛ばされている。下顎と血に染まった歯列の一部はかろうじて残っているが、後は血と脂で赤黒く塗りたくられた人間の頭の残骸でしかなかった。
 酷いともグロテスクだとも思わなかった。ただ、二人とも死んでしまったことは、はっきりと認識できていた。
 いや、二人だけじゃない。崩壊した向かいの民家や隣家、その向こう隣を含む周辺の建物から人の気配が途絶えてしまっている。
 みんな死に絶えてしまった。貧しいけれど、人として根源的な温もりをもつ素朴な人たちが。
 そして死に場所探しの末、ここにたどり着いた僕が、こうして生きている。
 何か抑えがたい衝動がふつふつと湧き起こってきた。
 僕は、マルドゥクの遺体の両足首を持って家の中まで引きずり込み、シャルムの亡骸の横に並べた。
 寝台の毛布を引きはがして二人の亡骸を覆い、手を合わせる。さすがに両目に涙が滲んだ。
 それから僕は物置に引き返し、以前から目星をつけていたサブマシンガン──昔サバイバルゲームで愛用したドイツ製の短機関銃MP5に似たモデル──を手に取った。
 マガジンを外して弾が二十発近く装填されているのを確認し、改めて戸外に足を踏み出した。
 涙の名残と硝煙と土ぼこりで周囲は薄く霞んでいる。
 さっきは気づかなかったが、そのぼやけた情景のあちこちにくずおれた住民の姿が見えた。街道の隅に、植え込みの陰に、日干し煉瓦の壁に寄りかかって……いや、あれは死体じゃない。子どもだ。生きている。
 駆け寄ろうとした瞬間、僕の眼は斜め前方に黒い影を捉えた。しゃがみ撃ちの姿勢で銃を構え、その子どもを狙っている兵士の姿を。幸いそいつはこちらに側背を向けているので、僕の存在に気づいていない。
 途端に心臓が早鐘を打ち始めた。
(落ち着け。サバゲーを思い出すんだ)
 僕は逸る心を抑えながら、銃のセレクターをフルオートにセットした。それから、緊張に震える脚を叱咤しつつ、密かに兵士の後背に回り込む。
 彼我の距離二十メートルあまり。
 照準を合わせ、ハンドガードに添えた左手で銃身をしっかり保持し、頃合いを図って、ひと思いに銃爪を引いた。
 タタタ──という小刻みで軽快な連射音とともに、空薬莢が立て続けに弾き出され、反動が両腕を通して全身に伝わる。
 何発かの弾丸が首尾よくターゲットを捉えたらしい。兵士の薄黒い軍服が何箇所か弾けると同時に、彼は手にした銃を放り出すようにして死の舞を演じ、そして路上に倒れ伏した。まるでモノクロームのような光景だった。
 兵士が動かなくなったのを見届けて、僕は狙われていた子どもに駆け寄った。
 それは十歳にも満たないであろう幼い男の子だったが、その顔を見て僕は息を呑んだ。
 額に鮮血で彩られたV字型の傷が……。
 どうやら敵軍兵士の手で意図的に刻まれたものらしい。
(ひどいことをしやがる)
 痛みに耐えかねて自分の手で触ったのだろう、男の子は朱に染まった手指を細かく震わせながら、脅えたような目で僕を見上げている。
 危害を加えるつもりはないことを伝えようと男の子に微笑みかけたが、彼の幼い顔から恐怖と警戒の色は消えない。
 とにかく額の傷の手当てをしてやろうと思ったが、あいにく適当な道具や材料の持ち合わせがない。
 マルドゥクの住居で役に立ちそうなものを探すか。
 そう考えて男の子を促そうとした時、僕は、彼の瞳が僕の背後の何かを捉えて大きく見開かれるのを見た。凶悪な気配を感じて振り返ろうとした瞬間、背中の一点を貫いた衝撃が全身に伝わり、僕は平衡を失って地面に転がった。
 見ると、五メートルほど離れた場所で、さっき僕の放った銃弾に倒れたはずの兵士が頭をもたげ、憎悪に燃える瞳を僕に向けている。その手には一丁の拳銃が……。
 と、一瞬残忍な笑みを浮かべた兵士の目が急速に生気を失い、ほぼ同時に頭が地面に落ちた。死の直前に最期の力を振り絞って、僕に報復を加えたのだろう。
「エミル!!
 女の声が響いた。
 どこかに身を潜めていたのか、見覚えのある中年女性が駆け寄って男の子をその腕に抱きしめた。母親か。
 彼女は子どもの無事を確かめた後、彼の額の傷を手持ちの布で覆い、それから半ば意識を失いかけている僕の方に向き直った。何か大声で訴えながら僕の身体を揺さぶる。おそらく「しっかりして!」とか言っているのだろう。
 でも……もうダメだな。撃たれたのはたった一発だけれど、どこか重要な臓器が破壊されたのか、痛みさえも麻痺してしまうほど気怠さが半端じゃない。
 以前、自分の悪行の報いで、ある女性に背中を刺された時のことが脳裏をよぎった。
 死ぬ前に一つ良いことができたのかな? でも、人を助けるために人を殺したんだから差し引きゼロか、過去の悪行を勘定に入れるとマイナスだ。やっぱり僕は生まれてくるべきじゃなかったのかもしれない。
 急速に機能を失いつつある網膜に映った最後の光景。それは、男の子が身につけた粗末で薄汚れたTシャツの胸の部分にある拙い刺繍だった。

 〈Emili……〉

 もう視界がぼやけてきて細かい綴りが読めない。Emil……そうか、だからエミルか。
 いい名前だ。そして、たぶん、いい子だ。
 すでに暗転が進み、漆黒の闇に同化しつつある意識の中で、なぜかそう思った。
 父さん母さん……ごめんよ。僕は……いい子になれなかったよ。もし……生まれ変わることが……で……き……

 *

 三十年後──東京国際空港、通称羽田空港。
 雑踏行き交う第三ターミナル国際線到着ロビーの隅で、テレビクルーや新聞記者に囲まれてフラッシュの光を浴びている一人の男があった。非公式訪問、いわゆる〝お忍び〟で初めて日本の土を踏んだ、バルトリア民主共和国のエミリアント・デルフォン国家評議会議長である。
 同国は長期にわたって政府軍と反政府勢力による内戦状態にあったのだが、当時のデルフォン参謀長と現国家元首であるカスティーノ・ラモス総司令率いる反政府勢力が、民衆の支持を背景に政府軍を撃滅し、革命政権を樹立した。
 一時は周辺国も巻き込み、状況次第では第三次世界大戦の火種となる危険も囁かれていたことから、結果として地域の政治的軍事的安定を果たした彼らの功績は世界的に喧伝され称賛されたものである。
 その混乱冷めやらぬ中での突然の初来日であったため、さまざまな揣摩臆測が乱れ飛ぶ事態となった。彼の来日を嗅ぎつけてマスコミが空港に殺到し、即席の記者会見が行われることになったのも無理からぬことであった。
「このたびの訪日の目的は?」
「滞在の期間は?」
「我が国の要人との面会等のご予定は?」
 矢継ぎ早に発せられる定番の質問を、側近と見られる女性が通訳する間、デルフォン議長は柔和な、しかし鋭利な刃物のような光を宿した瞳で記者団を見渡している。
 額に薄っすらと刻まれたV字型の傷が、主の過酷な半生を物語ると同時に、顔の下半分を覆う髭と相まって圧倒的な存在感を醸し出していた。日本の世襲政治家や二世議員からは、決して感じることのできない威厳だ。
 女性通訳の言葉が途切れたところで、デルフォン議長が口を開く。低く落ち着いた声と無骨な口調だった。
 穏やかな表情で議長を直視しつつ、その言葉に繰り返し頷いていた女性通訳は、議長の返答が終わると同時に、記者団に向き直り、やや硬質だがよく透る声で訳語を発した。
「このたびの訪日は完全に非公式なもので、あくまでプライベートの旅行だ。政治的な意味合いはまったくない」
「実は、ある日本人の遺骨を携えてきた。できうることならば、遺族を探し出して遺骨をお返ししたい。それが旅の目的だ」
 意外な言葉に周囲からどよめきが起こる。
「内戦が最も激しかった三十年前、幼児だった私は死の直前で、その日本人に命を救われた。引き換えに彼は命を落としたのだが、その持ち物から彼の名が『ジュンヤ』であることだけはわかった。年齢はおそらく二十代後半だったのではないか」
「ジュンヤが何の目的で、どういう経緯で、激しい内戦下にあった我が国の土を踏んだのかは、わからない。しかし、彼が私を救ってくれた命の恩人であることは、まぎれもない事実であり、したがって我が国にとっては、内戦終結と平和回復の契機を作ってくれた救国の英雄と言えるのだ」
 (了)
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