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 わたしがカオルさんと会ったのは、もう30年以上も前のことになるんだと、カレンダーを見る度に、月が変わってめくる度に、思う。歳をとるのが早いとか、余命幾ばくもないな、なんてことよりも、カオルさんに会いたい、もう一度だけ会いたいな、と思わせてくれるから、年月の流れも、そんなに悪くないと思える。

 わたしがカオルさんと会った時のことは、30年経った今でも、昨日のことのように思い出せる。きっと、死ぬ時に見えると言われる、あの伝説の走馬灯も、ほとんどがカオルさんと会った時の事だろう。それくらい、わたしの人生を大きく変えてくれた人だった。でも、きっと、カオルさんにそんな自覚はないんだと思う。誰かのターニングポイントになる人は、あっけらかんとしたものだから。

 わたしがカオルさんと会った時、わたしはまだ、30歳になったばかりだった。まだまだ若造で、若造にありがちな不遜さを持っていて、自分が不遜だと気づかない鈍感さも同居していた。今のわたしからすれば、それは子どもの背伸びした生意気さにも似て、とても可愛いものなのだが、客観的に見れば、やっぱりそれは単なる若造だ。そして、その年齢にありがちなことだが、自分の将来について、なんら悲観していなかった。仕事が楽しかったし、この仕事を一生やっていくんだ、と無駄に将来を狭めて気負ってしまう若さかあった。

 わたしがカオルさんと会った時、そういった、若さゆえの甘い人生設計がすべて壊れたとか、対岸の火事と思っていたことが自分の身に降りかかってきたりとか、そんないろいろなことがあった。わたしは、不遜さや鈍感さや大胆さばかりが身についていて、そうした数々の出来事に対する免疫がなかった。そしてそれらの出来事がわたしを追い詰めていて、そのときは、どうやって死のうか、楽に死ぬにはどうしたらいいか、ということばかりを考えていた。それもまた、若さゆえの甘い考えだということは、30年も経たずとも気がつく。けれど、その時は本気だった。本気だったからこそ、死ぬ勇気のない自分を蔑んだ。自分を蔑むことで、なんとか自分を形作っていた。まるで、型抜きのできそこないみたいな、とても歪な形を、なんとか維持していた。料理は、食事という破壊行為をしなくては価値がわからない。わたしは、死ぬことでしか自分を評価できないと、本気で考えていた。そんな状態だった。

 わたしがカオルさんと初めて会ったのは、そんな精神状態で迎えた、ある夏の日の早朝だった。蝉の声で目を覚ましてしまい、二度寝ができなかった。眠れないのに、眠たい。そんな状態も嫌だった。それに、誰もいない部屋に独特に存在する、あの低い、蚊のような音がするのに耐えられなくなり、ほとんど飛び出すように家を出た。サンダルを発作のように慌てて履いて、部屋を出たら、信じられないくらい暑くて、空には雲が一つもなかったのを思い出す。ああ、部屋の外はこんなにも、熱があるんだと思った。クーラが無情に効いていて、遮光カーテンが年中閉められっぱなしの暗い部屋は、なんとなく、霊安所を連想させた。

 当時わたしが住んでいたアパートから、歩いて2分くらいのところに、幅の大きな川が流れている。名前は知らないけれど、きっと有名な川なんだろう、くらいに思っていた。江戸時代には、渡し船を使っていたんだろう、と思わせるくらいの幅だった。わたしはその川の、幅よりも驚くほど広い土手に向かって歩いた。土手には、野球のグラウンドやサッカーのグラウンドがあって、川にたどり着くまでには、結構な距離を歩かないといけない。でもわたしは、その時、不思議と、川に吸い寄せられていた。このまま、川に入って沈んでしまおうと思っていたのかもしれない。何かの映画で見たような気もする。主人公が川に歩いていって、そのまま沈んでいく。そんなシーンだ。それでも良いか、と思うくらい、わたしは人生を諦めていた。

 川のほとりには、黒っぽい塊があって、最初は、道祖神かと思った。でも、そんなところにあるはずもない。次に連想したのは犬とか鳥だけれど、それにしてはあまりにも動かない。大きな岩だろうと思って近づいていくと、それが人間なんだとわかった。

 わたしがカオルさんと会った時、もちろん、その黒い塊がカオルさんだということは知らない。カオルさんは、土手の川寄りのところで、体育座りをしていた。わたしは、その背中を目印に、川の畔まで来た。わたしが近づいていくと、足音に気がついたのか、わたしの方を小さく振り向いた。目の端でわたしを確認したのだろう。特にそれ以外の動きもなく、また川の方を眺めた。わたしは、カオルさんから少し離れたところに、カオルさんと同じように、体育座りをした。土手の土は乾いていて、サラサラだった。ところどころに芝が生えていて、グラウンドの方には生え揃っているけれど、この辺りはまばらだった。わたしは、芝のあるところを選んで腰掛けた。川は、驚くほど穏やかだった。陽の光が、川面に反射して眩しかった。座った途端に風が少し出てきて、太陽に晒された朝の顔に心地よかった。わたしは、それらのほんの些細な事に、涙しそうになっていた。実際に泣いていたかもしれない。このことだけは、今でも、はっきりとは思い出せない。
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