第8話【リハーサル】

文字数 2,686文字

 張り詰めた緊張感が充填された空間。ここでは、微かに耳に届く空調の音でさえ、妙に安堵感を覚える。静寂は、時として恐怖なのだ。
 この空間の全ての存在を支配する指揮者が、厳しい口調で語り始めた。
「本番まで、あと1週間だ。今更新しい取り組みは出来ないが、今までやってきたことを確認する意味で、今日は特に課題の多い2楽章のみをさらおう」

 口調や佇まいとは裏腹に、指揮者は、内心ビクついていた。本番に向けて、曲の仕上り具合に不安があるためではない。むしろ、その逆の意味で、このオケの指揮を引き受けたことを非常に後悔していた。
 上手すぎるのだ。
 自分の技量や知識、聴力、感性、表現力、全てを遥かに越えた次元で演奏されるため、何をどう指導していいのか分からなかったのだ。かと言って、的外れな指導で嘲笑されるのも嫌だし、何も指示を出さない訳にもいかない。このままでは、オケにバカにされてしまう……そんな恐怖と戦いながら、必死で能力の欠如を隠し、騙し騙し見せ掛けの威厳を保つことに専念してきた。その結果、自ずと、不機嫌なしかめっ面の設定に辿り着いたのだ。

「では、2楽章、展開部から始めよう。いい? Dの2小節前のアウフタクトから」

 しかし、僅か数小節進んだところで、険しい表情の指揮者は手を止め、演奏は中断された。

「ダメだ、木管バラついてる! ブレスを揃えろ! それに、オーボエ、もっと全体を引っ張る意識を持ってくれないと。あとは、1stフルート、3つ目のGisがいつもぶら下がって聞こえるぞ……何とかならないのか?」
「もう一回、じゃあ、木管だけで。いいかね? はい、3、4」

 と、適当なことを言ってはみたものの、実際の所、指揮者の能力では、この部分いつも完璧に聴こえるのだ。なので、困ったことに、どこをどう直せばどう変わるのかなんて、指揮者には分かりっこなかった。
 それでも、指揮者は、学生時に受講した特別講習を必死に思い出していた。ある世界的巨匠を招いて行われた指揮法の特別講習で、まさにこの曲が題材として取り上げられたのだ。そして、二楽章のこの部分、巨匠が執拗に指導していた光景は、今でも鮮明に記憶していた。
 よく分からないが、きっと大切な部分なんだろう……
 指揮者の指示は、その時の巨匠の指導を記憶の限り真似ているだけで、自身の音楽的解釈や哲学は一切無視しているのだ。

「うん、まあ、良いだろう。今の感覚を忘れないように」
「じゃあ、同じ所からいくぞ……今度は金管と低弦も入って。はい、3、4」
 先程の木管アンサンブルに金管が和声を重ね、チェロのロングトーンが響きに厚みをもたらした。そして、コントラバスのピッチカートが、ゆったりとしたリズムを荘厳に刻む。オケの絶妙なビルドアップにより、音楽は豊潤な響きを重ね、ゆったりとした時間のリズムを心地良く揺らめく。
 そこから何か指導しようにも、オケが奏でる演奏は指揮者の音楽的水準を遥かに凌駕しており、どこも気になる所は見付けられないのだ。

(ヤバイなぁ、皆こっち見てるじゃん。何か発言しないと、オケのメンバーに能力の無いことがバレちゃうよ……)
 そう思った指揮者は、当たり障りのない指示を出すことで、その場を取り繕うことにした。

「コントラバスがちょっと遅れ気味だ。足を引きずってる感じに聞こえる。心持ち、早めに入ってくれ。あとは、チェロ、全体的にもっとレガートだ。そうすると、最後のスタッカートがもっと歯切れ良く聞こえて、生きてくるんだ」
「では、トゥッティでいこう」
 トゥッティ(総奏)になると、更に凄い迫力で音楽が構築される。様々な形、様々な色のピースが、完璧な配置で隙間なくピッタリと組み合わされ、強固な音の塊となり空間を埋め尽くす。オーケストラの、いや、音楽の持つ巨大なパワーは、実に圧巻で美しく、神々しい。
 しかし……残念なことに、指揮者は聴衆ではない。指導者で支配者なのだ。それなのに、この完璧な演奏を前に、何をどう指示すべきなのかさっぱり分からず、指揮者は困り果てた。

(どうしよう……そうだ、こういう時は、感情面の指導を抽象的に言えばいい!)

「192小節目、クラリネットのタラララーンってところ、もっと情緒的に歌ってもらえないか?くどいぐらいで……そうだな、演歌っぽくなっていい。ファゴットの対旋律も同じだ。クラの旋律をよく聞いて、模倣するように追っかけるんだ」
「全体で、296小節のfffに向けて、ジワジワとクレッシェンドするように。さっきのだと、寸前の3小節ぐらいで急激なクレッシェンドになってるぞ。これは、皆が意識を共有するだけで直るはずだ」

「じゃあ、2楽章、通してみよう」
「ストップストップ、1stヴァイオリン、今のところどのポジションで弾いてるんだ?」
「そこは、ずっと3rdポジションって言っただろ?Eの音は3rdのまま4の指を伸ばして取って、そのままグリッサンド気味にDisを取れって……今からでも変更するんだ!」
「では、今度こそ2楽章を通してみよう」

「コーダに入って12小節目のトランペットとトロンボーン、前にも言ったと思うけど、そこは最大の盛り上がりが欲しいんだ。歓喜のファンファーレだから、もっと爆発してくれないと。あんた達が鳴らさないでどうするんだ。今のだと、完全に弦に負けてるじゃないか。多少ピッチが上ずろうが音が割れようが構わない、ここだけは音量最優先で吹いてくれ」
「コーダから、もう一度」

「おいっ! ティンパニ! フェルマータで何で勝手にディミヌエンドするんだ? 私が指示するまで、ffを保て! いや、むしろ、微妙にクレッシェンドするぐらいの気持ちで、丁度いいんだ。指揮から勝手に目を離すんでない!」
「もう一回、コーダから!」
「ダメダメダメ! 低弦、バタバタするんじゃない! 縦の線をしっかり刻まないから、中声もモヤモヤしてくるんだ。スフォルツァンドをもっと大袈裟に強調して!」
「もう一回、コーダからだ!」
「……うん、本番も今の感じで通せたら、なかなか良いだろう。後は当日までに、各自でよく楽譜を読み直すこと。パート譜だけじゃなく、全員もっとスコアを読みなさい」
「では、今日の練習はここまで」



(よし、こんな感じでいこう……)
 指揮者は、そう小さく呟いた。
 どうやら、これでイメージトレーニングは終了のようだ。緊張と静寂に包まれた狭い部屋に一人……

 指揮者は、明日のリハーサルに向けて、一人でリハーサルのリハーサルを行っていたのだ。
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