3. 天使、現る!
文字数 3,047文字
その時あたしは、手元をよく見るために、左側を外に向けて座っていたの。左から光が当たったほうが見やすいと思って。で、あれこれ考えていたら、ふと右手に見える、暗いはずの部屋の中が妙に明るくなってることに気がついたの。
え、ちょっと待って。明るいって騒ぎじゃすまないくらい、眩しいよ?!なにこれ?どうして??
驚いて光源を探すと、部屋の奥の方がまばゆく輝いている。
すると、光の中の存在がにこ、と微笑んだように見えた。
混乱する頭と心をどうにか整理して、天使に向かって勇気を出して聞いてみた。
天使はまたも微笑んだように見えた。正確に言うと眩しくて見えてはいなかったが、そんな風に感じたのだ。
「アドナイ様の聖なる霊、聖霊があなたの上に臨み、いと高きお方の力があなたをおおいます。
それゆえ、生まれる者は聖なる者、神の子と呼ばれます。
ご覧なさい。あなたの親戚のエリザベツも、あの歳で男の子を宿しているではありませんか?
不妊の女性と言われ続けて来たのに、もう妊娠6ヶ月です。」
天使ガブリエルはここまで言うと、一呼吸置いてからすう、と息を吸うと、マリヤを真っ直ぐに見つめながらこう言い放った。
その言葉にまるで風圧でもあったかのように、あたしは衝撃を受けて思わず後ずさり、そのままひれ伏さずにはいられなかった。
脳裏に浮かんだそのあたしの思いつきは、一瞬でしぼむことになった。
なぜって、
あたし、【結婚前に妊娠する】ってことだよ?!?!?
それがどんなに恐ろしい事か、わかる?
あたしたちのユダヤ人コミュニティは、アドナイ様が創設された神と国民が一体となったユニークな共同体だ。そして、アドナイ様を第一に礼拝しつつ生きる、貞潔を守る、他者の利益も守る、弱者も生きられるような社会システムを作るなど、アドナイ様が直々にお命じになられた数々の教えを守ることであたしたちは生かされている。
結婚前の不貞は、特に深刻だ。モーセの教えでは「石打ちの刑」という重刑が課せられている。どういう刑かと言うと、大人の男性が片手か、下手すると両手で掴むような大きな石を、村中の人がこぞって罪人に向かって死ぬまでぶつけ続けるという極刑だ。あたしたちのナザレ村にも、石打ち用の石が積まれて保管されていることは知っている。
子どもの時、その石打ちの様子を遠くから一度だけ見たことがある。
人妻の女性を恋い慕って、ついに街の外でその女性と肉体関係を持ってしまった男性がいた。
大人たちの怒号と、恐ろしい、恐ろしい悲鳴と音が聞こえて来たのを、今も覚えている。
アドナイ様の教えによれば、村の外で男女が関係を持った場合、男性は石打ちの刑。女性はこの場合被害者で、助けを求めても人が近くにいなかったから、というのが理由らしい。これが村の中だった場合、女性が助けを求めなかった場合は、両者合意の上での性行為だったとみなされ、男女とも石打ちになるらしい。この教えを初めて聞いたときは、「村の中で危険な目にあった時は、何が何でも大声で助けを呼ばなくては」と肝に命じたの。
いやです。
だってだって、婚約者が不貞を働いて妊娠なんかしようものなら、それも石打ちの刑だよ!死刑!
そんなのやだーーーーー!
そう思っていると、天使の光がいっそう強くまばゆくなって行った。
その光の洪水の中で、あたしは思い出した。
そう考えていたら、だんだん胸の奥が静まって来た。
ひれ伏していた頭を上げ、すうっと息を深く吸い込んで、あたしは天使に言った。
あたしがこう言ってもう一度深々と頭を下げると、天使ガブリエルは満足したようにすうっと消えて行った。そして、まるで何事もなかったかのようにザアザアと降りしきる雨の音が家の中に響いていた。
あたしはもう、ただただ呆然として、そのあと何をしたのか、よく覚えていない。