3. 天使、現る!

文字数 3,047文字

 その時あたしは、手元をよく見るために、左側を外に向けて座っていたの。左から光が当たったほうが見やすいと思って。で、あれこれ考えていたら、ふと右手に見える、暗いはずの部屋の中が妙に明るくなってることに気がついたの。




 え、ちょっと待って。明るいって騒ぎじゃすまないくらい、眩しいよ?!なにこれ?どうして??






 驚いて光源を探すと、部屋の奥の方がまばゆく輝いている。




 

(ちょ)

(ちょちょちょ、)

(ちょっっっっと、待って。)

(ひ、光の中に、人がいるよ?!)




(うわああああああああああ)

「怖がることはありません、マリヤ。」

(いえ、とっっっても、怖いです! 怖がらなくていいって…え?


 …いいの? こわがらなくても?)

「ヤハウェ様に特別に祝福された女性、マリヤ。アドナイ様があなたと共におられます。」

(…えっと、何?このお方、もしかして、天使?!)
(…ああ、そうだ。聖書の中で天使が出てくる時はいつも「怖がることはない」って挨拶が最初にあったっけ。いつも、「何でかな?」ってわからなかったけれど…今ならわかる! 超、怖いもん!!! いきなり超常現象やめて!)
(…ん? この天使さん、今、何て言ったの?


 あたしが…特別に祝福されている、の?


 アドナイ様があたしと一緒に…?


 これは一体、どういう挨拶? どういう意味なの?????)

 すると、光の中の存在がにこ、と微笑んだように見えた。

「私は天使ガブリエルです。


 マリヤ、あなたはアドナイ様から恵みを賜ったのです。


 ご覧なさい。あなたはみごもって男の子を産みます。


 名前をイェシュアと名付けなさい。」


(……)

(……)



(……っはあああああああああああ?????????)


(おとこのこ? 男の子って言った???)




(……ちょ……タンマ! ……って天使さま相手には言えない! さすがに! ああああああ!)

「その子は偉大な人になり、いと高きお方の子と呼ばれます。




 また、神であるアドナイ様は彼に、その父ダビデの王位をお与えになります。




 彼は永遠にイスラエルの家を治め、その王国は滅びることがありません。」

(……なんか、色々言われた気がする!


 でも、頭の中ぐっちゃぐちゃで、よくわかりません!)

(でも! 一つだけわかった!


 「みごもって、男の子を、産む」ですって?!?!?)

 混乱する頭と心をどうにか整理して、天使に向かって勇気を出して聞いてみた。

「ど、ど、どうやったらそんなことに?!


 あたし、まだ処女です! 結婚してません!」

 天使はまたも微笑んだように見えた。正確に言うと眩しくて見えてはいなかったが、そんな風に感じたのだ。

「アドナイ様の聖なる霊、聖霊があなたの上に臨み、いと高きお方の力があなたをおおいます。


 それゆえ、生まれる者は聖なる者、神の子と呼ばれます。


 ご覧なさい。あなたの親戚のエリザベツも、あの歳で男の子を宿しているではありませんか?


 不妊の女性と言われ続けて来たのに、もう妊娠6ヶ月です。」

 天使ガブリエルはここまで言うと、一呼吸置いてからすう、と息を吸うと、マリヤを真っ直ぐに見つめながらこう言い放った。

「アドナイ様にとって、不可能なことは一つもありません。」

 その言葉にまるで風圧でもあったかのように、あたしは衝撃を受けて思わず後ずさり、そのままひれ伏さずにはいられなかった。

(アドナイ様の御子を、あたしが宿す…?!)
(それはつまり…)
(あたし、アドナイ様のご子息の母になれる、ってこと?!



 それって、ものすごいことじゃない?!?!?)

(生まれるのがアドナイ様のご子息なら…王子!あたしはその母だから…王母?!すごい!


 王宮とかに住めたりするのかな?!)

脳裏に浮かんだそのあたしの思いつきは、一瞬でしぼむことになった。








 なぜって、








 あたし、【結婚前に妊娠する】ってことだよ?!?!?




 それがどんなに恐ろしい事か、わかる?




 あたしたちのユダヤ人コミュニティは、アドナイ様が創設された神と国民が一体となったユニークな共同体だ。そして、アドナイ様を第一に礼拝しつつ生きる、貞潔を守る、他者の利益も守る、弱者も生きられるような社会システムを作るなど、アドナイ様が直々にお命じになられた数々の教えを守ることであたしたちは生かされている。




 結婚前の不貞は、特に深刻だ。モーセの教えでは「石打ちの刑」という重刑が課せられている。どういう刑かと言うと、大人の男性が片手か、下手すると両手で掴むような大きな石を、村中の人がこぞって罪人に向かって死ぬまでぶつけ続けるという極刑だ。あたしたちのナザレ村にも、石打ち用の石が積まれて保管されていることは知っている。




 子どもの時、その石打ちの様子を遠くから一度だけ見たことがある。




 人妻の女性を恋い慕って、ついに街の外でその女性と肉体関係を持ってしまった男性がいた。


 大人たちの怒号と、恐ろしい、恐ろしい悲鳴と音が聞こえて来たのを、今も覚えている。




 アドナイ様の教えによれば、村の外で男女が関係を持った場合、男性は石打ちの刑。女性はこの場合被害者で、助けを求めても人が近くにいなかったから、というのが理由らしい。これが村の中だった場合、女性が助けを求めなかった場合は、両者合意の上での性行為だったとみなされ、男女とも石打ちになるらしい。この教えを初めて聞いたときは、「村の中で危険な目にあった時は、何が何でも大声で助けを呼ばなくては」と肝に命じたの。

(待って



 この天使の言っていることが本当だとするなら




 あたし、石打ちの刑ーーーーー?!)

 いやです。




 だってだって、婚約者が不貞を働いて妊娠なんかしようものなら、それも石打ちの刑だよ!死刑!




 そんなのやだーーーーー!


 そう思っていると、天使の光がいっそう強くまばゆくなって行った。












 その光の洪水の中で、あたしは思い出した。




(…ああ…そっか。アドナイ様にとって、不可能なことは一つもない、のか…。)
(もしあたしが石打ちの刑になったとしたら、生まれるはずの、イェシュア、だっけ?その神さまの子どもも生まれて来られなくなるわけだよね?)
(だったら、責任者のアドナイ様が、あたしのことを責任持って全力で守ってくださる、って期待していいんだよね?)

 そう考えていたら、だんだん胸の奥が静まって来た。

(…そう、あたし、決めてたの。アドナイ様からお声がかかったら、何があっても、どんなことでも、お従いしよう、って。だって、あたしたちの憧れの存在なんだよ?聖なる、きよくて美しい、あたしたちが慕って慕ってやまない存在なんだよ?)
(あ、でもヨセフ…。わかって、くれるかな…? うぅ~ん…)
(うん、いい。たとえヨセフが理解してくれなくても、あたし主なるアドナイ様についていく。だって、もう決めてたんだもん。たとえ、何があったとしても。)

 ひれ伏していた頭を上げ、すうっと息を深く吸い込んで、あたしは天使に言った。

「ご覧ください。わたくしは、アドナイ様にお仕えする召使いです。どうぞ、あなたのお言葉どおり、あたしの身に、なりますように。」

 あたしがこう言ってもう一度深々と頭を下げると、天使ガブリエルは満足したようにすうっと消えて行った。そして、まるで何事もなかったかのようにザアザアと降りしきる雨の音が家の中に響いていた。




 あたしはもう、ただただ呆然として、そのあと何をしたのか、よく覚えていない。

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登場人物紹介

ナザレ村のマリヤ。13歳で婚約。主人公。


比較的冷静で、感情や想いは内に秘めるタイプ。

人や動物の気持ちがなんとなくわかる、思いやり娘。

一途な想いは誰にも負けない。

タマル。マリヤの妹、12歳。

お姉ちゃん大好きっ子。

はた目にはぼんやりしているように見えるお姉ちゃんが心配でしょうがない。

あわてんぼうで、よくお姉ちゃんにたしなめられる。お姉ちゃんにはかなわないなーと思っている。

羊飼いヨナタン。イスラエル北部のナザレ村付近で、仲間の羊飼いたちと一緒に153匹の羊の群れを飼っている。

商人エスロン。マリヤとタマルの長旅を助けてくれる、計算高いお兄さん。

天使ガブリエル

マリアとタマルの母。

ヨセフ。マリアのいいなづけ。

マリアの親戚、エリザベツです。主の恵みによって不妊・高齢で男の子を産みます。

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