第6話

文字数 3,989文字

 身内の弔事は二度経験したけれど、他人の通夜に来たのは初めてで、私は少し緊張した。
 やっぱり、笠野に一緒に来て貰ったらよかった、と、心細くなった私に、ルミ先生のジャズダンス仲間と思しき私と年の近そうな三人連れが目に入る。使い慣れない袱紗を弄び、おろしたてのような喪服も着慣れていない。
 私が一人、後ろほうの席に座っていると、前から滝沢さんが近づいてきた。滝沢さんは前のほうで辻さんや藤井さんと一緒に座っていた。
 席から立った私が辻さんと藤井さんにお辞儀をする。
 滝沢さんは近づくなり、小声で私にこういった。
「今日ちゃん、門田(かどた)先生から聞いたの?」
 私は、いえ、カメラマンの笠野から聞きました、と答えた。
 ああ、そうね、と、滝沢さんは頷き疲れたように微笑んだ。
 じゃ、また、といって、滝沢さんは前の席に戻った。戻ると私が答えた事を辻さんと藤井さんに告げたらしく、三人は重要な情報を共有したように頷き周囲を見渡した。オーナーの門田さんの姿が見えなかった。
 葬儀会館のスタッフが会葬のアナウンスをする。
 僧侶が現われ、読経がはじまった。
 私は遺族席の中に喪主のリボンをつけた男性を見つけ、あれがルミ先生の旦那さんか、と思った。がっしりした体の男性で、喪服が窮屈そうだった。
 遺族席の一番前に座った彼は、弔問客に自ら顔を晒そうと覚悟した感じだった。硬い表情を作り、読経を辛抱強く耳に入れている。彼のまわりの遺族の人たちは居心地が悪そうで、面倒な事を早く済ませたいような面持ちだった。彼らの中に小学一年生くらいの男の子がいた。色白の、肌の色の明るい少年で、遺影と見比べたら誰の目にもルミ先生の子どもだとわかる男の子だ。
 私はドリームホールにいた頃、ルミ先生に子どもの写真を見せてもらった事があった。
 携帯電話の待受画面を私に見せたルミ先生は、「これ、翼クン」と、お気に入りのアニメのキャラクターを呼ぶみたいに息子の名前を口にした。
 どこか他人事のようだったけれど、といっても決して息子に愛情がないという意味ではない。ルミ先生は子育てをおろそかにはしない。子育てに関心がなければ、自分のジャズダンスレッスンは子どものお稽古事で、そこが親たちのたまり場になればいい、などという発想は持てなかっただろう。
 母親を支え、守る環境が必要で、それが子どものためになる、とルミ先生は考えたのだと思う。バツイチなんやけどね、と、あっけらかんといった彼女は、自らシングルマザーになる事を選んだには違いないけれど、それでもやっぱり、いや、だからこそ親が子育ての不安を共有したり、弱音を吐ける場の大切さをわかっていた。
 今更、ルミ先生の思いや考えをわかろうとしても仕方がないのに、そう考えると子どものお稽古事で親の場を作る、という彼女のアイデアに私は納得がいく。
 私は肩を落とした。翼クンを一人で育てていた彼女を理解し、配慮のできた人がどのくらいいただろう。少なくとも私は何もわかっていなかったのだ。
 でもルミ先生は再婚したらしい。
 斎場の「××家」は、私の知らない姓だが、電話で今日の事を知らせてくれた笠野に、喪主は旦那さん、と聞いたので、「××」は旦那さんの姓だと私は思った。
 ルミ先生が再婚していた事に驚いたけれど、私がドリームホールを辞めてからよりを戻したのなら、私が知らないのは当然だった。
 でも、それならなぜ、と、私は思う。
 再婚した時期を、私がドリームホールを辞めてからどう早く見積もっても、ルミ先生は改めて家族をやり直そうとしたばかりなのだ。やっぱり何かあったんだ、と私が思案していると、葬儀会館のスタッフが弔問客の焼香を案内した。
 一回焼香でお願いします、と、白い手袋の人差し指を立てたスタッフに促され、弔問客同士譲り合いながら列を作った。
 順がまわってきて、私は焼香台の前で手を合わせた。
 遺影を改めて眺めて、お香に手を伸ばし位牌が目についてハッとした。白木の位牌には「故菱川ルミ子之霊」とあるのだ。思わず私は位牌をまじまじと見てしまい、手がお香を取り損ねそうになった。
「菱川ルミ子」とは私の知る彼女のフルネームで、つまりシングルマザーだった時の名前だ。
 私は自分の目を疑い、自分の思い違いと思った。知っていた情報がはじめから誤っていたのか。ルミ先生は再婚したんじゃなかったのか。
 位牌の名前はたぶん、生前の故人か、その家族の意思に添って決めるのだろうけれど、「××家」という彼女の夫の姓の斎場で、位牌は「菱川」になっている事は、弔事に詳しくない私にも妙な様子だった。
 子どもは翼クンで、翼クンの父親が喪主でも、彼らは彼女の家族ではないのかもしれない。
 私は急に不安になった。遺族席の彼らが、ルミ先生と良好な関係を築いていたように思えなくて、焼香を済ませて遺族の前に立っても彼らを間近で正視できず、無言で頭を下げるだけで席に戻った。
 たとえルミ先生が再婚していなくても、故人と親しい間柄なら他人が葬式を出す事もあるだろう。
 そういや夫婦も元は他人か、などと席についた私は楽観できそうな材料を見つけて動揺する自分を鎮めた。
 だが遠くから翼クンと喪主を眺めると、彼らはやはりルミ先生の肉親には違いないと思う。翼クンの色白の幼い顔には彼女の面影があって、翼クンとその横の喪主の男性は、頭の形がそっくりだった。
 翼クンは最後の弔問客の焼香が終わるのを待たずに元いた椅子に戻った。椅子に座って、紺のブレザーの小さな上半身を退屈そうに揺らした。子どもの体に大人用の椅子は大き過ぎて、翼クンは床につかない両足をぶらぶらさせている。
「体って不思議でしょ」
 私の右足を引き出してルミ先生はそういった。
 彼女はルミ先生だった。「菱川ルミ子」ではなく、「××ルミ子」でもなく、ドリームホールのルミ先生で、私を最初に「今日ちゃん」と呼んだ人だ。
「今日ちゃん」
 と、小さな声がして、声のほうを見たら松岡さんがいた。
 松岡さんは、毎週金曜にドリームホールでパーティを開く社交ダンスサークルのメンバーだった。ショートボブの髪を柔らかい栗色に染めた小柄な女性で、ルミ先生と同じように私を妹のように可愛がってくれた人だ。
「今日ちゃん」
 突然声をかけられたと私は感じたけれど、松岡さんは少し前から私のそばにいて、何度も呼んでいたのかもしれない。
「今日ちゃん、今日ちゃん、今日ちゃん」
 松岡さんは私の肩に顔を落として泣き崩れた。
 彼女の向こうに小島さんがいた。
 小島さんは松岡さんの参加する社交ダンスサークルの代表者だ。細身で背が高く、白髪の頭をいつもきれいに整えている。仕立てのいいダブルの喪服を着て遺影と向き合うように姿勢正しく座っていた。横顔に落胆と疲労がにじみ出て、ダンスフロアで見るより年老いて見えた。
 斎場に松岡さんの涙と声が波紋を描くように伝染して他の弔問客も手で顔を覆ったり肩を震わせたりした。
 松岡さんが泣きだしたのをきっかけに、人々が一斉にかなしみを表した感じだった。
 みんな、今まで泣けなかったらしい。
 ルミ先生の死にどう触れたらいいのかわからず、まともにかなしめなくて、それまで抑えていたか、隠していたかしたみんなの感情が堰を切ったように流れ、あふれ出した。
 やっとかなしめる状態になったんだと私は思った。
 それでも周囲の嗚咽に馴染めず他の人と同じように私は泣けなかった。かなしかったし、泣きたかったのに、タイミングを逃して泣き損ねた感じだ。
 僧侶が退場した。喪主が、弔問客の一人一人に挨拶しにまわった。
 小島さんは座席の真ん中の通路に立ちルミ先生の遺影をぼう然と眺めた。
 弔問客は一様に口数少なく、喪主や遺族に手短に挨拶を済ませている。挨拶を最低限にするのがこの場には相応しいと心得た感じで、さっき一斉に泣き出したみたいに、こういう時はみんな不思議なくらいにやる事が同じになった。
 私と松岡さんのところにも喪主の男性がやってきて、今日はありがとうございました、と、深々と頭を下げた。
 私と松岡さんは無言のまま同じくらいの深さのお辞儀をした。
 小島さんがそばに来て、彼に何か言葉をかけた。ガランとした席の間を翼君がスキップするみたいに歩いている。
 私と松岡さんは仲の良い姉妹のように寄り添って斎場を後にした。
 小島さんが素早く先導してエレベータホールへ進んだ。
「笠野君は、今日はお仕事だって聞いたわ」
 と、松岡さんはいった。
「南港のイベントで、一日立ち会っているみたいです」
 私がそう答えると、エレベータのドアが開いた。
 その日の昼、携帯を見ると笠野の着信があったので、私は彼に電話をかけた。
 笠野は電話に出ると、陽気に喋った。
「平日の昼間やのに、親子連れ多いで。小学生くらいの子どもも団体で来とったわ。あれ、課外学習かな」
 南港のアウトレットモールで東北地方のアンテナショップのPRイベントがあった。笠野はメインステージのマグロの解体ショーを撮影した後、控室で観光協会の職員が用意した赤身の漬けのどんぶりを食べたという。
「生々しい肉やな。マグロは魚っていうより肉やな。ぶった斬られたマグロの頭がごっついねん。男が二人がかりで持ち上げてな。ヒトの生首みたいやけど、歓声わいとったで。子どもも大喜びや」
 電話の向こうから、イベント会場の喧噪が聞こえる。笠野の話しぶりは、賑やかな雰囲気に合わせたように弾んでいたが、どこか自棄になった調子でもある。
「丸々太ったマグロの体を一個一個に解体していったら、食べものになるねんな。刀みたいな包丁で裂いてメリメリ剥がしていくねん。食べものって、生き物の死体やな」
 それは前に読んだ事のある首切り役人を主人公にした時代小説の一場面のようだった、と、笠野はいった。

(つづく)
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