じゅうろく

文字数 2,540文字

 クラスに着くと、真っ先に善行が「おはよう」と挨拶をしてきたので、笑顔で挨拶を返した。
「昨日は久しぶりに楽しい一日だったよ」
 善行は参考書を閉じて私の方を向いた。楽しかった次の日も朝から参考書を開いて勉強している善行に感心させられる。
「次はポーカーとか競馬とかもやってみよう!あれも意外と頭使うんだよ」
 私が善行に提案すると、彼は「へえ、おもしろそう」と興味を持っていた。何がおもしろいかどうかを熱弁していると、教室の前の扉がガラッと開いた。すると、夏実と春海がいつものように楽しそうに話をしながら入ってきた。その光景を今までは何ら疑うことがなかったが、胸が締め付けられるような感覚が襲った。彼女らが席を着くと、春海が善行に目配せをして軽く一礼した。善行も言葉は発してこそいないが「おはよう」の口の動きをさせた。ほんの一瞬の出来事であったが、その後2人は何も無かったかのように授業の準備を始めた。
 
 チャイムが鳴ると、佐々木先生が勢いよく教室に入ってきた。「ごうれーい」と言いながら教卓に教科書を置いた。
「起立、礼、着席」
 善行がいつものように号令をかけて授業が始まった。
「よーし、今日は教科書128ページだ」
 ハキハキとした指示に、私たちはテキパキと教科書を机の上に広げた。そして佐々木先生は教科書を読み上げながら重要な箇所を黒板に書いていった。
「桶狭間の戦いは今川義元と織田信長の戦いだったんだな。みんな名前は聞いたことあるだろう。織田信長が全国制覇の第一歩となる戦がこの桶狭間だったんだ。1560年・・・ちょっと思い浮かばないが、いちごーろくぜろ桶狭間で覚えてくれ」
 いつも語呂を考えて覚えやすくする佐々木先生だが、こればっかりは思いつかなかったようだ。
「せんせーい。無理に語呂を作ろうとしなくてもいいんですよ。と言うか全然作れてないし」
 佳澄の一言で教室中に笑いが起こった。
「そうだな。すまなかった」
 佐々木先生がおどけてみせたが、教室の1点を見つめて顔をしかめた。一歩一歩、その場所に近づいていって立ち止まった。起きた笑いは収まり、クラス中の視線は1人の生徒に集まった。佑太郎が机に頬杖をついて眠そうにしている。
「どうした、先生の授業は退屈か?」
 クラス中に緊張の音が走り、佑太郎が口を開いた。
「ああ、つまんないっす」
 毅然とする佑太郎に先生が詰め寄った。
「先生の授業の何がつまんねえんだ」
 いつも沸騰した水に近い佐々木先生が、零度の氷のような口調で放った。
「歴史の年号を語呂で覚えやすくしてるようだけど、俺には何にも響かないね。みんなと違ってテストや受験なんざあ、俺には興味は無いし」
「じゃあ、どうすれば興味を持つんだ」
 佐々木先生が詰め寄ると、佑太郎が負けじと対抗した。
「歴史は、それが西暦何年に起きたのかなんて俺にとってはどうでもいい。その時の人物がどんな思いで、どんな背景で事を起こしたのかが気になるんだよ」
 佑太郎の言葉は、平穏な空気を掻き乱す、まるでぬるま湯にドライアイスが突き刺さったように衝撃だった。緊迫する空気、固まる先生。凍り付いた教室で、佐々木先生の次の一言に、クラス中の注目が集まる。佐々木先生は的を射られたような表情をしていたが、このまま言い負かされていたら教師としての威厳が失われるのを恐れたのか、佑太郎に言い返した。
「だからと言って、先生が話している前で眠そうな顔をするのは失礼だろうが」
「ふっ、俺の言ったことが正しいと認めたみたいだな。だったらいちいち論点をすり替えて反論するんじゃねーよ」
 佑太郎も相当頭にきたのか、席を立って先生に詰め寄った。ドライアイスどころか、液体窒素のような空気が私たちの体を突き刺さる。この戦いの行方をジッと見つめている人がいれば、反対に目を背け、唇をグッと噛みしめて机の上の教科書を見ている人もいる。
「なんだと?」
 先生が今にも殴り掛かろうとしたその時、一人の生徒が立ち上がった。
「先生、落ち着いてください!」
 声の主は春海だった。その一言だけで、佑太郎に集まった視線を自分一人のものにした。
「私は佐々木先生の授業が好きです。でも、佑太郎の言う通り、歴史の授業は・・・なんていうか背景を学ぶことに意義があると思うんです。桶狭間の戦いだって、信長が数千人の兵力で何万人の今川義元を破った戦いなんですよね?なぜこんな不利な状況で戦に勝利することができたのか、そういったことを教えてもらった方がおもしろいんです。そういった意味では、佑太郎の言うことも間違ってはいないと思います」
 春海は勇気を出して言葉を挟んだことにより、先生はリズムを狂わされてしまったようだ。春海に対して「そうだな」と言い、佑太郎に対する怒りを自分自身で沈めた。その後、少し気持ちが落ちたようだが、いつもの調子で授業を進めようとしていた。こういったことがあっても仕事はきちんとこなさなければならないのだから、大人って大変だと痛感した。佑太郎も大人しくなり、何もなかったかのように授業が終わった。
 チャイムが鳴った直後、佐々木先生はそそくさと教室を出て行った。それを見た後に、佑太郎が春海のもとに歩み寄った。
「さっきはありがとな。でもどうして俺の肩を持った?」
「別に肩を持ったわけじゃないよ。私もずっと思っていたことだし」
 春海は照れを誤魔化すように、カーディガンを肩に羽織り始めた。
「・・・俺ら、信長軍かもな」
「え?」
「俺らたった2人で、教師という強大な力に打ち勝った。まるで桶狭間の信長ってところか」
「うん・・・」
 春海は恥ずかしそうに机の上の教科書をペラペラとめくっている。
 次の授業の始まりを待たずに、佑太郎はカバンを持ってどこかに行ってしまった。恐らく先程の一件で気分を悪くして家に帰ってしまったのだろう。気ままな佑太郎に、私たちは呆気に取られていた。バサッと落ちた教科書を拾う夏実の姿が見えた。その手はこころなしか震えているように見えたが、恐らく気のせいだろう。
 佑太郎が帰ったこともあり、以降の授業は驚くほど静寂に包まれた。最後の授業で先生がチョークを置くと、終業のチャイムが鳴った。ホームルームの時間となり、大澤先生が入ってきた。
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