第6章・帰還

文字数 16,612文字

「奥さま、大丈夫でいらっしゃいますか」
 慌てたようなミルドの声に、ジョスははっとした。
 鴨の羽を毟りながら、ぼんやりとしてしまったようだった。既に、膝に乗せた鴨は丸裸だ。綿毛は枕用に取っておくようにと、ミルドには言っていたのに、自分が何という有様なのだろうか。
「ええ、平気よ」
 そう答えながらも、ジョスの頭からはあの女――ヒュルガの事が離れなかった。
 普通ならば、戦士階級の未亡人の女が、自ら愛人である事を明らかにすることはないだろう。あの女が、どういうつもりで自分にそれを告白したのか、ジョスは戸惑っていた。
「後はいたします。奥さまは旦那さまのお見送りでお疲れでしょうから」
 そう、心が。
 ミルドの言葉に、そう答えたい自分がいる事に、ジョスは愕いた。
「鴨の処理の仕方は憶えたわね。あと、料理方法も」
「以前に奥さまが教えてくださったように、いたします」
 ジョスはミルドに任せる事にした。そして、羽毛まみれの前掛けを外すと、重い足取りで寝室に向かった。
 寝台に横になると、様々な思いが去来した。
 スヴェルトの帰還まで独り寝をしなくてはならない寝台は、あの巨漢の為に造られているので、一人では広すぎた。
 自分は一体、今まで何を見てきたのだろうか、と思うと、虚しさが込み上げてきた。スヴェルトの衣服から時折、香る女の匂いは、酌婦のものだろうと思っていた。だが、そうではなかったのだ。よくよく考えて見れば、戦士の館に女がいるはずがないのだ。そして、奴隷ならば、あのような香りはしないだろう。
 なのに、スヴェルトに女の存在を疑いもしなかった。
 兄のイルガスと同じ年齢なのだから、まだまだ男盛りと言えよう。それならば、女性関係が皆無なはずがない。
 望まれずに輿入れしてきた。
 名ばかりの妻。
 知らず、涙がこぼれた。
 自分もこの結婚を望まなかったように、スヴェルトもそうだったのだ。態度には見せないが、スヴェルトは自分を望んではいなかったのだ。
 少なくとも、兄は自分がスヴェルトを長く待っていた事を知っていたはずだ。自分の結婚の話になった時に、それを父に知らせなかったとは思えない。故に、父も知っていただろう。母も、当然ながら、知っていた。
 だから、この婚姻をまとめたのだろう。
 だが、スヴェルトは、あの時の子供の事など、とっくに忘れてしまっているのだ。それは、仕方のない事かもしれない。
 ジョスは鯱の牙を握り締めた。
 相手があの時の青年だと分った時、この人に満足して貰える妻になろうと誓った。北海随一との呼び名も高いこの戦士の名を辱めないように、誇りを持って貰えるようになりたい、と。
 だが、現実は違う。
 ジョスはこの部族では、根っからの反逆児だった。年長の女性に逆らい、自分のやり方を通してきた。
 それでもスヴェルトが何も言わないのは、心の広さもあるだろう。自分が海狼の娘だ、という事も関係しているのかもしれない。
 関心がないのかも、しれない。
 それが、最も恐ろしい事だった。
 だが、スヴェルトは偽りの言葉を口にしたり、行動を取れる人ではない。それは、暫くの暮らしで直ぐに分った。
 北海の戦士らしく、直情的で荒々しいところはあるが、奸計や虚偽、不正は嫌う人だった。だから、あの、時折見せる優しさも、ジョスの大好きな笑い声や笑顔も、本物だ。ジョスの料理に舌鼓を打ち、新しい服に照れたような表情を浮かべるのも、そうだ。性格も、真っ直ぐな人だ。いや、むしろ、兄などに較べると、良い意味で単純に思える事もある。
 それでも、ジョスは、満足しては貰えなかったのだ。
 それは、妻としては恥ずべき事だ。
 男心を繋ぎ止めておくには、母親や姉妹では出来ない事で満足をさせなくてはならない、と若い娘や女戦士の間でも密やかに語られていた。
 それが何であるかを、ジョスはようやく、知った。
 ヒュルガは、それをスヴェルトに与える事が出来るのだ。
 口惜しかった。
 自分の魅力のなさを思い知らされた。スヴェルトも、結局は北海の男なのだ。ヒュルガのような豊満な肉体を誇るような女性の方が良いのだろう。
 ――わたしの夫は年寄りだったし、子も係累もいなかったから、財産は全てわたしが継いだわ。だから、スヴェルトの財はいらないのよ。それで、結婚はしなかっただけ。あの人も面倒臭がったしね。でも、婚約が決まった、と聞いた時には、きちんと約束しておくべきだったと思ったわ。何しろ、もう長い関係ですもの。女が欲しい時には、スヴェルトはわたしのところへ来るわ。だから、奥方さまにもお話ししておこうと思いましたの。無理に、あの人の寝所の相手をなさらなくても、大丈夫ですわよ。
 妻としての地位はジョスに。
 心と身体はヒュルガに。
 そう言いたかったのか。
 耳を塞ぎたかった。
 逃げ出したかった。
 だが、そのような事をすれば、負けを認めた事になる。それだけは、嫌だった。唯論、スヴェルトを分け合うのも。
 ずっと、憧れてきた人なのだ。
 男女の事を知らなくとも、ジョスの心はいつでも、名も知らないあの青年と共にあった。いつか、一緒になって、両親のように生きたい、というのが夢だった。
 だが、スヴェルトの求めたのは、ジョスではなかった。
 遠征前日のあの時、もしかしたら自分は愛されているのではないかと思った。それも、思い上がりだったようだ。結局のところ、スヴェルトはあの夜をヒュルガと過ごしたのだ。良人としての優しさはあっても、そこに愛情はなかったのだ。
 あの時、スヴェルトが自分を抱こうとしたのは、子供をもうける為だったのかもしれない。
 ジョスは最近、珍しく訪れたタマラに言われたところだった。
 石女(うまずめ)ではないか、と。遠征の帰還までに子が出来ていないと分った時には、スヴェルトに側女を持たせろ、と。
 それを言い出すのは、妻の役目だとも言われた。
 嫌だった。
 スヴェルトからその話が出たとしても、嫌だった。
 ヒュルガの存在も、本当は許せない。
 女戦士としてのジョスが、頭をもたげて来た。


 何日経っても、スヴェルトの不在には慣れなかった。
 あの巨体の存在感だけではない。ジョスの心には大きな穴が開いたようだった。
 冬支度も、あらかた終えてしまった。後は、織りためた生地から服に仕立てるばかりだった。ミルドとドルスの分は、スヴェルトが戻って来た時に着る為の服を縫いながら、ミルドに教えた。
 何をしても、虚しく感じられた。
 それは、スヴェルトの不在だけではない。ヒュルガの存在も大きかった。
 もし、あの女の事を知らなければ、こんな気持ちにはならなかっただろうと思った。島では側女を持つ者はいない。だからこそ、余計に、対処の仕方が分らなかった。
 これから、ヒュルガと顔を合わせる事があっても、どのように接すれば良いのかも分らない。
 スヴェルトが帰って来ても、どうすれば良いのだろうか。
 何も気にしていないという顔をすれば良い、と叔母達なら言うだろう。あなたなど、目じゃない、と言う顔で無視をすれば良い、と。
 確かに、スヴェルトの妻は自分だ。だが、身も心もあの女に取られるのは我慢ならなかった。族長の娘である自分を、スヴェルトは離縁出来ないだろう。ダヴァルも、さすがのタマラも、それは避けたいだろう。スヴェルトは何も言わないのだから。故に、ヒュルガがジョスの地位を脅かす事はない。まだ子が産める、と豪語していても、ヒュルガの子は庶子でしかない。一生、日陰の存在だ。ジョスに子が出来なければ。スヴェルトが認めても、その死による相続権を持つに過ぎない。それとも、子が出来れば、スヴェルトは自分を捨ててヒュルガとの生活を選ぶのだろうか――
 ジョスは、スヴェルトが飲んだくれて帰って来ようと、酔い潰れて担ぎ込まれようとも、気にはならなかった。無事に戻って来てくれさえすれば、それでよかった。ジョスにとっては、それが大事だった。ヒュルガと共寝をしても、スヴェルトは必ず戻って来た。それが、大切な事なのかもしれない。
 スヴェルトが安心出来る場所、戻りたいと思える場所を作る事に、取り敢えずは自分は専念しよう。最初から、上手くゆくとは思ってはいなかった。それが、少し延びたと考えよう、と。
 始めは気まずい思いをしながら、互いに背を向けるように眠っていたではないか。それが今では、いつしかスヴェルトの腕がジョスに回されている程に、互いの存在にも慣れたではないか。ジョスも、高鼾で眠るスヴェルトの胸に寄り添う事もある。そんな時には、スヴェルトは無意識でもジョスの身を抱く。
 ヒュルガと間違えている訳ではない、と思いたかった。体格が、余りにも違う。豊かな女らしいヒュルガと、両親に似て痩せて、しかも女戦士として鍛えてきたジョスとでは、余りにも違いすぎる。自分に情が湧いていてくれれば良い、とジョスは思った。
 義姉や兄に側女を勧められて、スヴェルトは断るだろうか。
 ジョスとの関係を、どうするのだろうか。ヒュルガの事は。
 例え、後継ぎの為だけでも構わない。男子が一人いれば、ダヴァルもタマラも納得するだろう。その後は、分らない。
 本音は、やはり、愛して欲しい。
 ジョスは、遠い海へと思いを馳せた。
 だから、無事に帰って来て欲しい。

    ※    ※    ※

 拠点となる廃墟では、最初の掠奪での饗宴が開かれていた。
 久し振りに大暴れして、男達は興奮を抑えきれないでいる。
 初陣の者に遠征とはどういうものかを教える意味もあって、最初の掠奪地は防御の固い領主直轄の沿岸に船団全体で攻め入る。それ以降は哨戒船を出し、護りの手薄な村を襲う。たまたま、大きな獲物が見付かれば、また、全船で向かう。
 雨露をしのぐだけの天幕から、スヴェルトは杯を手に、部下達の騒ぎを見ていた。向かいのヨルドも機嫌が良い。最初の地にしては、犠牲もなく実入りが良かった。怪我人は仕方のない事だ。
 この廃墟は、スヴェルトの気に入りだった。初めての遠征で、この地で熊を仕留めたという事もあるのかもしれない。これより北には、めぼしい土地はない。北海と似たような気候なのだ。そして、眼下に海を見下ろす事の出来るこの場所は、船団の全ての船を浜に上げる事が出来る上に、深い森がどこまでも続き、安全だった。それでも、歩哨はきちんと置くのがスヴェルトのやり方だった。
「団長、いい女がいますが、如何です」
 部下の一人が、攫ってきた若い女の髪を摑み、スヴェルトに差し出すように立たせた。
 確かに、いい女だった。だが、食指も動かず、興味もなかった。
「俺はいい、お前の好きにしろ」と、付け加えた。「ああ、余り乱暴に扱うなよ。価値が下がる」
 男は恐縮したように女を引っ張って行った。
 前回なら、部下から差し出された女を断る事はなかっただろう。
 スヴェルトの胸はすっきりしないもので一杯だった。
「まだ、遠征は始まったばかりだというのに、元気な奴らだ」
 ヨルドが苦笑交じりに言った。
「お前はいいのか」
 スヴェルトは言った。
「団長の酒のお供をしますよ。一人酒は楽しくもないでしょうから」
「ふん」
 スヴェルトはちびりちびりと酒を口にした。いつものように鯨飲する気にはなれなかった。
 今回の遠征は、今までとは違う。
 スヴェルトの頭からは、ジョスの顔が消えなかった。
 女に乱暴はしない、と約束はした。だが、そのような気持ちにすらならなかった。気分でもなかった。ヨルドの言うように、まだ、遠征は始まったばかりだからかもしれない。
 無事に帰って来てくれ、など、言われた事もなかった。
 戦いを避けよ、という意味ではないだろう。それは、北海の戦士として、最も恥ずべき行為だ。敵を見て戦わずして敗走すれば、その者は血祭りに上げられて吊されるという、戦士としては最も不名誉な死を与えられる。それを知らぬジョスではなかろう。ましてや、この自分に対して。
 言葉通り、生きて帰れば良いのだ。
 戦い抜き、生き残れば良いのだ。怪我をしても、帰るまでに治れば、気付かれる事はないだろう。
 そう、気付かれる事は。
「しかし、団長も落ち着かれましたな」ヨルドが言った。「やはり、結婚は違うでしょう」
「そう見えるか」
「ええ、以前なら、目の前に差し出された御馳走を断るなど、有り得ませんでしたからね」
「お前も、嫁を貰って落ち着いたのか」
 むっとしてスヴェルトは言った。ヨルドは若い頃から、スヴェルトの鎮め役だ。だからこそ、副官に取り立てた。青い眼に薄い茶色の髪をした男前だが、笑い方がどうもだらしなく見える。
「さあて、どうでしょうね」ヨルドは笑った。「まあ、お楽しみは、まだ先にもありますしね」
 この男は、妻子がいるとは言え、独り身の頃と余り変わりはない。自分の楽しみたい時に楽しむ。そういう男だ。他の男達と違って、決してがっついたりはしない。だから、信頼も出来る。人望も厚い。
 家庭も波風ない様子だった。物静かな妻に二人の男子。結構な事だ。だが、結婚後にも女奴隷と関係を持った事があるのも、スヴェルトは知っていた。
「団長も、そうなんじゃありませんか。(おか)のしがらみとおさらばして、暫くは自由を満喫したいでしょう」
「お前にとっては、そんなものか」
「女房や子供が嫌いな訳じゃありませんがね」
 ヨルドは声を上げて笑った。「それでも、この自由には代え難い」
「そんな事を言っているが、女房の肌恋しさに、女に手を付けるんじゃないのか」
 スヴェルトは揶揄った。こういう会話が出来るのも、気心の知れたヨルドだからだ。
「その言葉、そっくりお返ししますぞ、団長」にやっとヨルドは笑った。「貴方はまだ、ヒュルガと手を切ってはおられんでしょう。まあ、確かにいい女だが、尻軽だ。あの女に慣れた貴方が、いつまで据え膳を食わずにいられるか、見物(みもの)ですな」
 据え膳。
 それは、ジョスの事だとスヴェルトは思った。他の女ではない。部下の差し出す女でもない。この男は何かを知っているのか、と思わず勘ぐったが、そんなはずはないと思い直した。それなら、もっと直截的に言うのが、ヨルドだ。
 スヴェルトは空になった杯を、遠征に初めて参加する青年に差し出した。
 直ぐに、新しい酒が注がれる。
「ま、奥方様に惚れていらっしゃる貴方じゃあ、他の女など目にも入りませんかな」
 次のヨルドの言葉に、スヴェルトは思わず杯を落としそうになった。
「早く、ヒュルガとは手を切るべきですぞ、ばれる前に」

    ※    ※    ※

 見張り台の者が知らせをもたらすや、集落は湧いた。
 遂に、遠征の船団が戻って来たのだ。
 報せを、まだ幼さの残る少年の見習い戦士から聞いた時、ジョスはスヴェルトの相続した耕作地からの貢納を確認しているところだった。穀物や保存処理を施して樽に詰められた肉だ。あの大食漢にかかっては、どのくらい保つのか、見当も付かなかった。昨年の分は族長家へ自分の食い扶持として納めた、とスヴェルトから聞いてはいたが、それを分けて欲しいとは、言えなかったのだ。
「旦那さまがお帰りになったわ」
 ミルドにジョスは言った。「きちんと片付いているかしら。ご馳走は作れるかしら。お迎えに上がるのに、この格好でおかしくはないかしら」
 ジョスの慌てぶりに、貢納品を運んで来た男もドルスも、目を丸くしていたが、それにさえ気付かなかった。
「大丈夫ですわ、奥さま。旦那さまがお出かけになった時と何も、変わってはおりませんし、お料理の材料も、いつも充分にご用意なさっておいでではないですか。それに、その色はよくお似合いですし」
 ミルドは笑顔で答えた。
「じゃあ、浜まで、行って来ますから」
 ジョスはそう言うと、後はドルスに任せて小走りに浜へ向かった。
 無事なのだろうか。怪我はないのだろうか。
 心配な事が頭を駆け巡る。
 いいや、生きながらえて戻って来てくれたのなら、それでいい。生命があれば、それでいい。
 浜までの距離が、これ程遠く感じられた事はなかった。
 帰還を待つ人々が、既に大勢集まっていた。族長のダヴァル一家の姿もあった。
 船団が見えた、という声があがった。間を置かずに、ジョスにも帆柱が見えた。
 スヴェルトの竜頭船の帆が、見えた。
 ジョスは船の到着を見守っていた。族長家から使いのない以上、その側に行く事はないだろうと思った。
 やがて、船は帆を畳み、漕ぎ出した。唯論、船団長のスヴェルトの船が先頭だ。
 迎え太鼓が盛大に打ち鳴らされた。
 そして、ジョスは、竜頭船の舳先にスヴェルトの姿を認めた。ジョスの作った羊革の上着を着ている。その前は留めず、下にあの緋色の胴着が見えていた。出港時のように、腕組みをして、ただ、前を見据えている。
 櫂では進めぬ浅瀬に来ると、綱が投げられ、スヴェルトの船の船首に括り付けられた。それでも、スヴェルトは微動だにしない。他の船も、浅瀬で待機している。
 奴隷達が、船を浜に引き上げて行く。
 半分ほど引き上げられたところで、スヴェルトが動き、ジョスの視界から消えた。
 次に姿を現した時には下船しヨルドを伴っていた。そして、族長の前に歩み寄り、跪いた。人々は静まり返り、スヴェルトの声が響いた。
「只今、帰還致しました」
「御苦労、良く、戻った」
 ダヴァルはスヴェルトを立たせると、抱擁した。
 それが合図のように、ヨルドが船団に向かって大きく手を振った。船が、動き出した。
「奥方さま」後ろから優しげな女の声がして、ジョスは振り向いた。ヨルドの妻だった。「お迎えにいらっしゃらないのですか」
 四歳くらいの子供の手を引き、下の子を抱いた女の顔は輝いていた。見送りの際には会釈を交わしただけであったが、こうして見ると、赤みを帯びた金色の髪に青い眼で、美しいというよりは可愛らしいと思える人だった。
「この人ですもの」ジョスは微笑んだ。「あなたもご一緒しましょう、上の子は、わたしが抱いて行きますから」
「めっそうもございません」女は首を振った。「船団長の奥方さまに、そのような――」
 ジョスは最後まで言わせず、子供を抱き上げた。ヨルドと同じ髪の色をしていた。顔立ちも、成長すれば似てくるのだろう。
「お父上のところに行きましょう。少し、我慢できるわね」
 子供は最初、愕いたような顔をしていたが、直ぐににっこりと笑って頷いた。
 人波を掻き分けるのは容易ではなかった。誰もが動こうとしなかったからだ。無理矢理、その中を進んだ。
 ようやく前に出ると、ジョスは子供を下ろした。
 まだ、スヴェルトは族長と何事かを話している。ヨルドも、船の上陸指揮に余念がないようだった。
「もう少し、待たなくてはだめなようね」
「ええ、でも、無事で何よりですわ」
 ヨルドの妻はそう言ってから、はっとしたようにジョスを見た。
「そうね、何事もなく戻って来てくれて、よかったわ」
 ジョスは微笑んだ。想いは同じだ。
 肩の力が、ヨルドの妻から抜けて行くのが分った。この島では、そういう事は言ってはいけないのだろう。そして、この女性はヨルドの事を愛しているのだろう。ヨルドがどうなのかは、分らない。だが、出航の日に見た家族の姿は、理想的に見えた。
「奥方さま、船団長のお話しが終わったようですわ」ヨルドの妻は言った。「お早く」
「あなたのお名前は、何とおっしゃるの」
「フレーダ、と申します」
「ありがとう、フレーダ」
 ジョスはスヴェルトに目を向けた。群衆の中に、誰かを探しているような素振りだった。それが自分なのか、それともヒュルガなのか、ジョスには確信が持てなかった。
 だが、ジョスと目が合うと、スヴェルトの顔に大きな笑みが広がった。
 ジョスは、精一杯の自制心を持って、走り出さぬようにスヴェルトに近付いた。
 まるで、昨日出航したかのような姿だった。髪も髭も整えられ、衣服も傷んではいない。季節だけが、変わってしまったかのような錯覚に陥りそうだった。
「お帰りなさいませ」
 ジョスは両手を胸に当て、膝を沈めた。涙が溢れて来そうだった。
「ああ、息災だったか」
「はい」
 ジョスは顔を上げた。変わらぬ笑顔がそこにはあった。戦士から、ジョスの大好きな人へと、その表情は変わっていた。
「何を泣く事がある。無事に帰ったというのに」
 不審げに首を傾げ、スヴェルトは言った。
「嬉しいだけです」
 自制心もそこまでだった。ジョスは、スヴェルトの首に腕を回した。
「夢ではないのですね。本当に、お帰りになったのですね」
「当然だろう、約束したからな」
 スヴェルトは屈んでジョスの身体に腕を回し、耳許で言った。そして、軽々と腕に抱き上げた。そのような事は初めてだったので、ジョスは愕いた。
「さあ、戦利品を見ろ。遠征は大成功だ。交易島で色々と揃える事も出来たしな」
 ジョスが見ていると、縄で繋がれた人々が引き立てられて行くところだった。
「あれは…」
「うん。今回、島で使う奴隷だな」
 スヴェルトは興味がないようだった。歓喜に沸く浜とは対照的に、誰もが表情をなくし、足取りも重かった。ジョスは、その中に一組の子供を見付けた。
「あの子供達もそうなのですか」
「そうだな」
「両方、引き取れますか」
「それは出来るが…」スヴェルトは戸惑ったような表情を浮かべた。「あれがいいのか」
「仕事を教えるには、小さな内からの方が宜しいですから」
「では、そのように手配しよう」
 今ひとつ、納得はいかないようだった。だが、ジョスは自分の我儘な頼みを受け入れてくれた事が嬉しかった。
「ありがとうございます」
 そう言って、思わずスヴェルトの頬に自分の頬をすり寄せた。
「おい、ジョス」スヴェルトは笑った。やはり、良い声だった。「お前は本当に、不思議な女だな」
 そう言うと、スヴェルトは一度強く、ジョスを抱き締めた。そして、砂地に下ろした。
「積荷の降ろしと、分配とがある。

、帰っているが良い」
「はい、お待ちしております」
 スヴェルトは目を細めた。優しい顔だ、とジョスは思った。


 いつまで待っても、スヴェルトは戻らなかった。
 館が賑やかなので、饗宴が催されている事は確かだった。そういう時には使いが来る事になっていたのだが、何の音沙汰もなかった。船団の帰還の興奮で忘れているのだろうかとジョスは思った。
 ミルドは先に休ませた。
 いつ果てるともなく続く宴会の終焉まで、付き合わせるのは可哀想だった。
 スヴェルトの長櫃は、夕方に届いていた。その中を見ると、酷い有様だった。だが、男ならば仕方がないのかもしれない。父も無頓着だったからだ。遠征の後、長櫃を開けて溜息をつく母を、どれだけ見てきただろう。そういう意味では、二人は似ているのかもしれない。その点、兄は几帳面だったが、そちらの方が変わっているだろうか。
 検めるのは、明日でも良いだろうとジョスは思った。
 どのように戦って来たのかは、その内、耳にする事だろう。スヴェルト自身の口からそれが聞けるとは思わなかった。北の島の男達も、自分達の戦いを口にする事はない。それは、解放された人々が語るのみだった。
 物思いに耽りながら、ジョスはスヴェルトの下着に刺繍をした。見えないものだが、それでも、無為に時間を過ごすよりは良かった。
 一息、入れようかと思った時、荒々しく扉が開いた。
 スヴェルトだ。
 ジョスは立ち上がった。
 どんなに酔っていても、そのような扉の開け方はしなかったものなのに。
 足音も高く、スヴェルトが食堂に姿を現した。その姿を見て、ジョスは息を呑んだ。
 怒っている。
 唯の一度も、ジョスには向けられる事のなかった怒りだった。
「なぜ、来なかった」
 低い声でスヴェルトは言った。だが、ジョスには全く意味が分らなかった。
「なぜ、来なかったのか、と訊いている。俺に恥をかかせたかったのか」
「いったい、何をおっしゃっているのでしょうか」
 震える声でジョスは言った。この人の機嫌を損ねるような事を、自分は何かしたのだろうかと、考えを巡らせた。
「義姉上は、何度もお前を呼びにやらせたと仰言っている。だが、お前は行くつもりがない、と言ったそうだな」
 ジョスの頭は混乱した。
「わたしは、ずっと家におりました。でも、誰も来ませんでした」
 スヴェルトの表情は変わらない。
「信じてください」
 ジョスは言った。嘘をついているのは、タマラだ。だが、それをスヴェルトが信じてくれるかは分らなかった。
 スヴェルトの拳が壁を殴った。厚い板は割れはしなかったが、家全体が揺れたのではないかと思った。
 ジョスは身体を硬くした。何を怒っているのかさえ、分からなかった。
「遠征からの帰還した時の宴席には、船団の主だった者は妻帯するのが慣わしだ。ヨルドの細君もいた。なのに、お前はいなかった」
 溜息と共に、スヴェルトの力が抜けて行くのが分った。そして、怒りも。
 浜で別れる時、スヴェルトの言った「取り敢えず」の意味は、そういう事だったのだとジョスは思った。
「済まなかった。お前を疑って、悪かった。合点がいった」
 そう言うと、スヴェルトはジョスに近付いた。「よりによって、お前を疑うとはな。済まなかった」
 ジョスも、身体の力を抜いた。腕力では、決して適うまい。大柄な上に酔っているので俊敏性には欠けるだろう。隙を見て、長剣か小太刀を奪うしかないのだろうかと、本気で思ったくらいだった。
「本当に、悪かった」
 スヴェルトはジョスを抱き締めた。体重がかかって、少し重たかったが、その力に動けなかった。
「お前は、何も、悪くない」
 そう小声で言うと、スヴェルトはジョスに唇付けた。心臓が、跳ね上がった。
 そして、やにわにジョスを抱き上げた。
「俺は約束を二つとも守った。褒美を、貰わねばな」
 そう、スヴェルトは言った。

    ※    ※    ※

 それより暫く前、スヴェルトはヒュルガの寝床にいた。
 どうしても、確かめたい事があった。
 そして、答えが出た。
「どうなさったの、ぼんやりとなさって」
 ヒュルガが、衝立の向こうから出て来た。身には一糸もまとってはいなかったが、最早、それはスヴェルトには何の意味も持たなかった。
「お前とは、これで終わりだ」
 スヴェルトは身を起こし、衣服を身に着け始めた。
 一瞬、ヒュルガは何の事か分らぬようだった。
「今日の土産の他に、今まで世話になった分を明日、持って来させよう。それで、終わりだ」
「どういうこと」
 ヒュルガの声は震えていた。「わたしとあなたは、上手くやってきたじゃない。あなたを満足させるのは、わたししかいないと、いつも言っていたのに」
「俺の望む女ではなかった、というだけだ」
 スヴェルトは掛け布をヒュルガに投げ、その裸身を目から覆い隠した。
「あなたの望む女」
 ヒュルガは吐き捨てるように言った。「あなたの奥方が、そうだと言うの」
 スヴェルトは肩を竦めた。
「あんな貧弱な女に、あなたは満足できて。あの女では、あなたを満足させることなんて、できはしないわ。分っているでしょう」
「お前は、今、何をしていた」
 問いには答えず、スヴェルトは冷ややかに言った。「俺の胤を洗い流していただろう。俺とお前は、所詮はそういう関係だ。それに、他に男がいることも知っているしな。不自由はないだろう」
「あなたが子を欲しがっているなんて、知らなかったわ」
 ヒュルガはスヴェルトを睨み付けた。
「俺の気持ちではない、お前の気持ちだ。お前は、それを望まなかっただろう」
 この女は、そういう女だという事はずっと知っていた。大体が、初めて関係を持ったのも、亭主が遠征で留守の間の事だった。だから、スヴェルトはヒュルガを自分だけの情婦にするという考えはなかった。ましてや、妻になど。例え十代でも信用出来ない女を囲う程、のめり込んでいた訳ではない。
「俺達の間にあった物は、何だ」
「それは――」
 言い淀むヒュルガに、スヴェルトは一瞥をくれた。
「俺達の間にあったのは、ただ、情欲だけだ。それ以外には、なかった」
「わたしがあなたを愛していないとでも言うの」
「そうではないのか」スヴェルトは長剣を吊した。「でなけりゃ、お前の亭主が死んだ時に、そういう事を切り出していただろう。だが、お前は、気楽な未亡人生活を選んだ」
「あなた、後悔するわ」ヒュルガの声は怒りに満ちていた。「わたしを捨てて、あの女を選ぶなら、後悔するわ」
「それはないな」
 スヴェルトは部屋を出て行こうとした。
「俺が今夜、ここに来たのは、確かめたかっただけだ。お前を抱いて、どう思うのか。俺とお前とは何だったのかをな」
「なんですって」
「答えは出た。だから、これきりだ」
 そうして、スヴェルトは振り返る事なく、ヒュルガの元を去った。


 そう、答えは出たのだ。
 スヴェルトは思った。
 確かに、宴にジョスが姿を見せない事で恥をかいたのは、事実だ。そして、その事に怒り心頭に来ていたのも。ヒュルガの許は帰還したらどのみち、訪う事にしていた。人生の半分にもあたる惰性の関係だったが、それを断ち切るには、それなりの理由がなくては出来そうになかった。
 だから、賭けた。
 そして、ジョスに軍配が上がった。
 もう二度と、あの女も誘っては来るまい。
 それでも、家に戻る間に、恥をかかされたという怒りがふつふつと湧き上がって来た。酒のせいもあるだろう。
 今、自分の腕の中で半分、微睡んでいるジョスを見やり、やはり、自分の選択は正しかったのだと思った。小さくなった暖炉の火に照らされたジョスの顔は、綺麗だと思った。
 確かに、ヒュルガや他の女達とは較べ物にならないくらいに貧弱な身体付きだ。胸も豊かではないし、抱き心地も違う。柔らかな感触の肉体ではなかった。
 それでも、良かった。ジョスの全てを手に入れたかった。
 だが、スヴェルトはずっと、ジョスを捉え損ねていた。やはり、人魚のようだった。素肌を重ね、脚を絡ませていてさえ、まだ、するりと逃げられてしまうのではないかと思う。
 自分の胸に顔を埋めているジョスの乱れ髪を梳いた。
 うっすらと、ジョスが目を開けた。
「起こしたか」
「いいえ」
 ジョスは再び、スヴェルトの胸に顔をすり寄せた。そして、そっとスヴェルトの左腕に触れた。
「ずいぶんと、大きな怪我をなさったのですね。治ってよかったです」
 気付かれない、と思っていた。だが、案外とジョスは目ざとかった。
「傷跡は大きいが、深くはなかったからな」
 その答えに、ジョスは溜息をついた。
 この女は、手柄話や土産よりも、まずはこの身を心配してくれる。要求もしない。与えるばかりの女だった。そんな女は、スヴェルトは初めてだった。
「交易島でな、お前の櫛と飾り留めを購って来た」自分の気持ちの整理が付かず、スヴェルトは慌てて言った。「唯論、俺の個人の財からな」
 掠奪品や、そう言った物との交換品ではジョスは喜ばないだろうと、スヴェルトは思ったのだ。
「ありがとうございます」ジョスは言った。「あなたからの贈り物は、嬉しいです」
 そう言えば、後朝の指輪もジョスは片時も外さない。今も、指に嵌まっている。
 他の女達はどうだっただろうか。
 スヴェルトの名に魅かれ、共寝を自慢する。遠征の前には、何かをねだる。帰った後も、当然のように分配品と引き換えに肉体を与える。北海の女とは、そういうものだと思っていた。
 全ては、取り引きだった。
 だが、ジョスは違う。無事を祈ってくれた。帰りを、喜んでくれた。
 何の見返りもなく。
 女に乱暴をしない、というのは、同じ女として心優しいジョスには耐えられなかったからだろう。あのヨルドにしてからが、遠征半ばに女に手を出した。スヴェルトは飲んだくれた振りをして、いつもそれを避けて来た。
 自分が最も求めるのはジョスだ。いつでも、自分だけを見つめてくれるジョスだ。
 それが、分った。
「お前は、俺と一緒になって良かったと思うか」
 その言葉に、ジョスははっきりと目醒めたようだった。
「あなたとでなければ、誰とでしたら、そう思われるのでしょうか」
 今も、ジョスの首にはあの鯱の牙が下がっている。
「俺のような戦馬鹿に、お前は過ぎた女だ。お前はまるで、人魚のように捉えどころがない」
 くすくすと、ジョスが笑った。
「言い得て妙ですわね。わたしの家系には、海神の娘の血が流れていると言われておりますから」
「お前の母君が、そう呼ばれているのだろう」
「それだけでは、ありませんわ」
 ジョスは語った。
「かつて、わたしたちの先祖が最初にあの島に辿り着いた時、島は荒れ果て、魚もあまり採れませんでした。そのままでは冬が来ると皆、死んでしまうと気付いた最初の族長は、海神に祈ったそうです。民がこの島で、未来永劫、無事に生きながらえることができるのなら、この生命を捧げましょう、と。哀れに思った海神は、自分の子供たちに諮りました。すると、紫の目の娘が進み出て、自分があの族長に嫁ぎましょうと言ったのです。海神の眷属ともなれば、海神の民としてあの人間たちは、海からの恵みを得ることができるでしょう、と。最愛の娘の言葉にためらう海神に、娘は、自分はもう、あの族長を愛しているのだから心配はない、と言ったそうです。そして、人魚であったその娘は、神から人になり、族長の前に姿を現しました。族長は、たちまち海神の娘に恋をして、そして、今のわたしたちに繋がるのです。だから、わたしの中には、その人魚の血が流れているのです」
 自分達の島の物語と、何と違っている事だろう。
「では、何故(なにゆえ)、母君は…」
「紫の目をしていて、海を渡って来たからです。母の父も、幼い母を海神の娘、と呼んでいたそうですし」
「紫の目は、魔女だ」
 スヴェルトは眉をしかめた。
「あなたがたにとっては、そうなのでしょうね」
 ジョスは目を伏せた。「そして、わたしは魔女の娘」
「そういう事ではない」
 スヴェルトは慌てた。
「あなたは、はやり、優しい方」
 ジョスは微笑んだ。この微笑みの為ならば、何でもしようという気になる。
 そう、今までの女達には、自分から何かをしてやろうと思った事はなかった。向こうからの要求に応える事はあってもだ。
「ジョス、もうすぐ冬が来る」
 スヴェルトはジョスをぐいと抱き寄せた。
「春になったら、この家を出よう。そして、村の外れにある俺達の為の館で暮らそう。奴隷を増やせば、手狭になるだろう」
 ずっと、頭にあった事だ。
「ああ、しかし、族長集会の後でも良いかもしれん。父君達に近い方が、お前も何かと良かろう」
「わたしは、どちらでも構いません。あなたのよろしいように。ここも、もう、わたしにとっては家に違いはありませんもの。でも、集落の外れでは、戦士の館は遠くなります」
 スヴェルトは、ジョスの髪を撫でた。
「気にするな。大した事ではない。だが、ここにいる間は、何かと我慢も多かろう。俺はお前を護りたい」
 今回のような事態は避けたかった。ジョスは自分の怒りに怯え、傷付いただろうから。そうでなくて、どうしてずっと、自分の首に腕を回して泣いていたと言うのか。苦しいのか、と問えば、首を振るだけだった、ジョス。
「それに、子が出来れば、ここでは育てられまい。仮にも船団長であるこの俺の子を、ここで産むなど、とんでもない事だ」
 ジョスは顔を上げてスヴェルトを見た。信じられない、という顔だった。
 スヴェルトは、決して義姉の思い通りにさせる気はなかった。それに、ジョスの子ならば、何とかなるのではないか、と思った。

    ※    ※    ※

 いつものようにジョスは起き出すと、ゆっくりと身支度を整えた。
 昨夜のスヴェルトは恐ろしかった。今まで、父以外のどのような男も恐ろしい、とは思った事はなかった。だが、あの時は本当に、殺されるのではないかと思った。
 だが、その後は優しかった。
 それでも、その肌から女の香りがする事に気付いた時には、どうしようもなく涙が流れた。
 あの女の許へ行って、そして帰って来たのだ。ヒュルガを抱いた、その同じ腕で、今度はジョスを抱いた。屈辱的だった。哀しかった。如何に髪を逆立てる程の怒りを抱いていようと、自分の許へ、先に帰って欲しかった。ここはスヴェルトの家なのだ。機嫌を損じたのならば、まず、ここでそれをぶつけて欲しかった。それから出て行くならまだ、分かりもした。
 しかし、スヴェルトは、帰還後の最初の相手にヒュルガを選んだ。
 浜辺では、あれ程に優しかったスヴェルトがジョスに(いだ)いている感情は、結局は、慣れ親しんだ同居人としてのものでしかなかったのか。それならば、何故、身体を重ねたのだろうか。
 愛されているのでは、と勘違いをしてしまう。
 スヴェルトの中には、そのような気持ちはないのだろう。良人としての義務を果たしたに過ぎないのだろう。
 その証拠に、今までは口にした事のない、子の事に触れた。
 スヴェルトは、ジョスがタマラに言われた言葉を知っているとは思えなかった。だが、子が出来なければ、ジョスは島へ帰る事になるのかもしれない。タマラの言葉には、それを匂わせるところがあった。
 今日はスヴェルトは家にいる。荒事を成し遂げて来た者達には、休息が必要だった。
 それでも、ジョスはいつものように朝食の準備をした。ミルドとドルスにも食事を摂らせた。自分はスヴェルトと卓を共にするつもりだった。
 長櫃を開けるには、寝室で動き回らなくてはならない。それではスヴェルトの睡眠を邪魔してしまうかもしれないと、ジョスは仕事を探そうと扉を開けた。
 すると、ヨルドの妻――フレーダの姿が見えた。子供は連れてはいない。
「奥方さま」
 フレーダは、ジョスの姿を認めると、小走りにやって来た。
「おはよう、どうかなさったの」
 自分に用事があるとは思わなかったジョスは、少し愕きながらも言った。
「ああ、ご無事でいらっしゃったのですね」
 フレーダは、その場にへたり込んでしまった。ジョスは慌てた。
「どうなさったの。大丈夫ですか。療法師を呼びましょうか」
「いいえ、それには及びませんわ」
 フレーダはゆっくりと立ち上がった。「昨夜、スヴェルトさまから、何もされなかったのですね」
「何も、とは」
「大変、不機嫌でいらしたので、もしや、奥方さまに暴力をふるわれたのではないかと」
 その声は震えていた。
「大丈夫よ。安心して。あの方は、どのような身分であっても、女性には手を上げない方だと兄が保証してくれています。まあ、家の土台は少し、ずれたかもしれないけれど」
 その時、ジョスは、フレーダの顔が少し腫れている事に気付いた。
「あなた、まさか、ヨルドどのに」
 はっとしたように、フレーダは頬に手を当てた。やはり、ヨルドに殴られたのだろう。
「どうして」
「――昨夜の宴会で、奥方さまのお姿は見えませんでしたので、もしかしたら、ご存じではないのかと思いまして、お呼びしようとしましたの。そうしましたら、タマラさまに止められて、その必要はない、と。そのことを家でヨルドに話しましたら、余計なことに首を突っ込むものではない、と叱られまして」
 ジョスは腹が立った。タマラだけでなく、ヨルドにも。
「心配してくださって、ありがとう」
 ジョスはフレーダを抱擁した。「わたしのせいで、痛かったでしょう」
「ヨルドは家長ですから」仕方がない、と言った様子に、ますますジョスはヨルドへの怒りを掻き立てられた。「当然です」
 この部族の女達は、そうやって耐えているのだろうか。女に手を上げる男は、ジョスの島では最低だった。捕まえて、髪も髭も剃り落としてやった事もある。女からの訴えがあれば、族長が出る事もあるくらいだ。逆もまた、しかりだが、大抵は男から女への暴力が多い。北海の法では、一度殴れば即、離婚も有り得るのに、フレーダはなぜ、我慢をしているのだろうか。
「お気をつけください、奥方さま、あなたは、族長の奥方さまを敵に回してしまわれたようですわ」
「わたしのことは、大丈夫。それよりも、ここにいることを気づかれたら、あなたはまた、ヨルドどのから叱責を受けるかもしれないわ。さあ、もう戻って。ありがとう、フレーダ、あなたは本当に、優しい人ね」
 フレーダは、一礼すると戻って行った。
 中に戻ると、スヴェルトが大きな伸びをして食卓に着くところだった。
「何だ、今のはヨルドの女房ではではないのか」
「ええ、昨日の事でいらしてくださったのです」スヴェルトは、全く興味なさそうだった。「あの方、ヨルドどのに殴られていらっしゃいました」
「何だと」
 今度は、気を引いたようだった。「あの男が、細君を殴った、だと」
「昨夜の件で、余計な事に首を突っ込むな、と言われたそうです」
 スヴェルトは椅子の背に凭れ、難しい顔で髭を撫でた。
「どのような理由があろうと、女房を殴るのは感心できん。だが、他家の事情に口を出す訳にもいかんしな」
 ここには、そのような法はないのだ。
「とりあえずは、朝餉にいたしましょう」
 ジョスは言った。
「ああ、ずっと、お前の料理が恋しかった」
 スヴェルトは笑った。
「遠征の不味い飯を、早く忘れたい」
  
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